「絵でみる十字軍物語」より
塩野七生さんによる、十字軍物語の序章といえる著書に掲載された、一枚の写真。
無残にも、誰かによって叩き壊されたのか、あちらこちら傷だらけの像。それでも残っているだけでも良かった、と思う。ここまで第一次から第五次十字軍まで。完全なる無血というものはなかった。それを外交手腕で目的を果たしたのだから、褒められて然るべきなのに。『十字軍の歴史』の挿絵が一枚も描かれていない。
この後、登場することになる第七次、第八次十字軍は、コテンパンに負けた。しかも、2度も指揮を執ったフランス王、ルイ自身も、全軍までもが一人残らず捕虜にまでなったというのに、彼の死後は聖人として祀られているのとは、余りにも対称的。
南の島シチリア
当時のシチリアは、アラブ人とキリスト教徒が共生していた、夢の楽園だった。フリードリッヒは3歳で父を、4歳で母を亡くし、一人っ子だったので、この年齢で母方のノルマン・シチリアを相続、ノルマンの王であり、赤ひげ皇帝の直系だったので、神聖ローマ帝国の「控えの間入り」、そして 未来の十字軍率いる「イェルサレム王」だった。
1220年、26歳で皇帝就任するも、なかなか遠征へ行こうとしない。彼の教育は独学型だったため、イスラム文明が今なお残り、周囲で飛び交うアラビア語もマスターした。更には古典を読むため、ラテン語、ギリシア語も学んだ。中世という時代は、特に聖職者にとっては、ギリシア・ローマ帝国はキリスト教の敵である。自らの好奇心の赴くままに学んだことが、今の時代になって、ようやく叫ばれるようになった“異文化共生”という感覚を身に付けたのだろうなぁ。
二度の破門
皇帝にはなったが、なかなか遠征へ行かず、法王にとっては、「けしからん!」こと、実際にはとても良い事を次々と国内でやっていく。
❶ルチェラを中近東出身者のための移住区とした。宗教もイスラムのままでいることを認めた。
❷1224年、30歳になる頃、ナポリ大学を創設。そこでは古代ローマ法を学べた、つまり法にのっとって考え行動する、政教分離な人材を育てたかったのかも。
❸サレルノ医学校再興 医学を学びたい人は、宗教も民族も問わない、とした。
破門されたまま、フリードリッヒは1228年6月遂に出発。
あーだ、こーだ、と法王に対し、出発を引き延ばしたお陰で、その間も平和は維持された。
アッコン到着
初めて見る若き皇帝に、住民たちは歓声を上げた。しかし、皇帝の到着と同時に、法王からの「破門した皇帝には従わないこと」という勅命も届き、アッコンのキリスト教徒たちは動揺した。
3つある騎士団も、法王につくか、皇帝につくか? ドイツ人のみで結成されたチュートン騎士団は勿論のこと、テンプル騎士団、病院騎士団すべて皇帝につく。法王には、「今の所、という条件付きで皇帝に従います」と苦しい言い訳。(;^_^A
交渉
アル・カミ―ルが交渉人に選んだのは、ファラデン。彼と同年代のフリードリッヒは通訳無しで向かい合う。これにはファデランも、かなり驚いたらしい。中近東は初上陸の皇帝が彼らの言葉を話すのだから。好印象だったことは間違いない。二人はチェスをしながら、常に親しげな雰囲気で交渉が進むのが常だったらしい。
ファデランが持ち帰る話を聴いたアル・カミ―ルとフリードリッヒは文を交換する。時には詩を書き送ったらしい。
ある時、フリードリッヒはファデランに西洋式の儀式にのっとって、騎士に叙任したことがあった。少年の頃を思い出し、
「お前も騎士にされちゃったか!」と談笑したかもしれない、とは塩野さんの想像。(#^^#)
講和締結
1228年、実際には一度も合わなかった二人だが、フリードリッヒとアル・カミ―ルの間に講和が成立した。
ただ、第一級資料なのに、この講和の原文は残っていないらしい。キリスト教側は、「破門した者による十字軍は認めなかった」から。 イスラム側は、21世紀になった今、「イスラムの屈辱」となっているらしい。残念すぎる解釈!!!
いずれにせよ、項目・一、としてよい点は、「イスラム側は、イェルサレムをキリスト側に譲り渡す。ただし、東側の非武装の3分の1はイスラム地区として残す」
🉂 イェルサレムは「イスラム地区」を除いた全市はキリスト側に譲渡されるが、その周辺一帯は、イスラム側として残る。
3,4,と続き、5は、双方が保管している捕虜を釈放する。
最後に、この講和の有効期限は、10年とする。
1239年2月までは平和が続くことになり、更新の可能性もあった。
平和の接吻
1230年9月。「仲直りセレモニー」は60歳の法王グレゴリウスと36歳のフリードリッヒが、互いに肩を抱いて、接吻することで終わった。波紋は解かれたのだった。
フリードリッヒは、その後も、交渉相手だったフェラディンに手紙を送り続けている。それらはアラビア語で書かれ、アル・カミ―ルに通じることを見通して、であった。
親しい間柄の友人に書いた手紙としか思えない内容だったという。有効期限が切れた後も、共生は続いていたのだった。
それが破れるのは、1248年になってから。
フランス王ルイ9世率いる第七次十字軍がエジプトへ向けて出港する。だがわずか2年後に彼は捕虜となる。この知らせはフリードリッヒにも届いていただろう。それから4か月が過ぎる頃、フリードリッヒはこの世を去った。1250年12月13日、56歳を迎える二週間前だった。