日々のあれこれ

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十字軍物語 2⃣ 後半 ~寛大だったイスラム側~

2021-08-10 23:52:42 | 読書

寛大だったイスラム側

 それまで事あるごとに小競り合いをしていたイスラム側も、ヌラディンがダマスカスを制圧したことで、イスラム全域の支配者となったのは、1154年。日本では、平治の乱の頃(1159年)のことだった。

 ヌラディンは、支配下にあったシリアで起こった1156年の地震で崩壊した建物を再建することを優先し、人々の暮らしを援助するため、救済に走り回る。兵力不足の十字軍側も地震に助けられたことになる。

 1162年、人望があり民から慕われた十字軍の王、ポードワン三世の死去を知り、「今がチャンス」と進言する部下もいたが、

 「フランクの王(西ヨーロッパからやってくる西洋人は主にフランス人だったので、イスラム側は、こう呼んでいた)の死を嘆き悲しむ人々を見よ。弱った隙を見て攻め込むようなことはしない」

 

 1169年、ヌラディンの甥、サラディンは将軍シルクと共にエジプト制圧。ヌラディン死去後、若い息子があとを継いだが、ダマスカスの実質的な支配は彼が行った。

 結果的には叔父の後を継いだ甥のサラディンも又、教養もあればバランス感覚もあり、自己をコントロールできる男だった。

 1185年、ライ病で死期を悟りながらも統治に努めた若き王、ポードワン四世死去。

 1186年、サラディン、イラクの重要都市モス―ルを支配下に置き、イスラム世界の統合に成功

 

 さて。一旦、イスラム世界が統合されれば、サラディンも十字軍の新王ルジニャンも、衝突は避けたい、という点は一致していた。第二次十字軍が失敗に終わり、また、この頃になると、イタリア半島の海洋国家が(4都市)いわゆるエコノミック・アニマルであり、海港都市で中東の絨毯などを買い付けていた。

「自分達が作る絨毯等、オリエントの品々は、ヨーロッパで売れる!」

と、イスラム商人も商売に乗り出す。イタリアの商人は、先に書いたように自ら運営する「病院」に医者を置き医療も施していたため、イスラムにとっても「信頼できる相手」だった。商売のためには言葉の習得も必要で、イタリア商人たちは、現地の言語も覚えたらしい。中東生まれの諸侯フランク人も、2世、3世となると、遠い西欧の修道僧に、「殺せ!殺せ!と言われてもねぇ。目も前にいるんだから」となる。ある程度は言葉も学び、通訳なしでOKな人もいた。

 イスラム側の記録によると、「フランク人に招かれて、食事を一緒にした」という日記も存在する。

 人的交流、物的交流(経済)による「平和を享受」する時間も、あるにはあったのだ‼ それを破ったのは... 

 すでに手元に📚がないため、名前は忘れたが、(年号は手元にあるⅢ巻末付録でチェックできるが)イェルサレム王の右腕で、テンプル騎士団とも関係があった十字軍の男だった。最初は、イスラムの巡礼者たちが通る道を襲い、貴金属を奪っていたが、次第に盗賊仲間も増え、無視できない存在となる。

「休戦協定」を守るよう、サラディンは幾度も抗議しているが無視。それどころか、海へ出て海賊まがいのことまでやり始めた。

 

1187年 遂にサラディン立つ!十字軍(イタリア商人、のちに聖ヨハネ騎士団)が建設した城壁、要塞は頑丈なため、ハッテンの平原で激突。王は捕虜になる。(1189年に開放)

アッコンを中心とした海港都市を支配下に置く。

イェルサレムは88年ぶりに、イスラムへ戻る。

 

 さてさて。遥々西ヨーロッパからやってきたフランク人達が、イェルサレムを「解放」したあと、何をしたか、覚えていらっしゃいます…よね? 「神がそれを望んでおられる」 一人残らず殺戮。

 88年後、今度は逆の立場となった訳です。では、イスラムのサラディンは、イェルサレム内に住むキリスト教徒たちをどうしたか?

 十字軍の王の配下にいたイベリンは、サラディン宛てに信書を送り、「妻子を助けるため、1日だけ入城を許して欲しい」と。 負けた側の人間が堂々とこのような要求をしてきたことに驚きつつもサラディンは、許可を与えたのですね。「用を済ませたら、さっさと退城するように」と。

 陥落したイェルサレムに入城したイベリンは、そこで怯え震えるキリスト教住民達を目の当たりにし、彼らを放置出来ず、再びサラディンに手紙を書く。

「男と男の約束をしたが、それを破ることを許して欲しい」

サラディンから返書は直ちに届く。なにせ、同じ城内にいたのだから。サラディンと対面したイベリンは、言った。

「イェルサレムにいるキリスト教住民の運命は、殺されるか奴隷として売り飛ばされるか、だろうが、自分は彼らを助けたい。男は○○ 女は○○ 子供は○○(通貨が分からない)で買い取りたい。法王から支援金が届くので、それを彼らの買い取りに使うつもりでいる。足りない分は、自分個人の資産から出す」

しかし、それでもまだ足りない。この話をサラディンと共に聴いていた彼の弟は感動し、足りない分は自分が出すから」とまで申し出たという。

結局、サラディンによって、「老人全員のキリスト教徒の釈放代は無料にする」ということになり、イェルサレムにいたキリスト教徒たちは、全員、殺されず、奴隷にもならずにイェルサレムを出ていくことができた。

そればかりか、イベリンと妻には「通行許可証」まで発行され、更には道中を行くキリスト教徒たちを襲ったりしないこと!とイスラム全域に言い渡された。

一部、狂信的イスラムは、これには反発し、全員殺すか奴隷として売り飛ばすべきだと主張したが、サラディンは彼らを無視した。

 

 十字軍によって教会に変えられたモスクは、元通り、モスクになり、十字架は外されたが、キリスト教徒の巡礼は認めた。道中の安全も保障する、としている。ヨハネ騎士団も、当然、在留が認められた。

 

 こうしてイェルサレムは、遥々遠く、西欧から十字軍がやってくる「以前の状態」へと再び戻り、平和が訪れたのだった。 めでたし、めでたし。

 

 ...

 ...

とはいかないのが、実に嘆かわしい。

諦めが悪いフランク人は、第三次十字軍を結成し、再び 東へと旅立つのだった…

ああ、嘆かわしい。嘆かわしい。嘆かわしい。

 

寛容でイスラムの英雄といえるサラディンは、現在のイスラム世界では、少数派のクルド人。「ジハード」生みの親である、彼の「聖戦」と現在の過激派組織の「ジハード」とは、似ても似つかぬものとなっているではないですか。

このことも嘆かわしい...。

 

多神教の日本に生まれて良かったし、日本に伝わったキリスト教は、これら負の歴史は運良くすべて そぎ落とされたキリスト教なのも良かった。しかも、多神教の日本の中では、どれも数ある宗教の中の一つ。宗教で喧嘩するどころか、新年にはお寺も神社も参拝し、クリスマスも盆(Halloween)も正月も全部祝っちゃう。結婚式も神道とキリスト教の結婚みたい~ 何もかもがごちゃ混ぜで... これがいいんです。

Comments (8)
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