日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

安奈 甲斐バンド

2021-08-16 18:57:32 | Electone & Piano

安奈 甲斐バンド

板谷こういんさんとコラボ🎸🎹

Yokiさんが大ファンという甲斐バンドの曲だそうで、板谷こういんさんにお声を掛けて頂き、『安奈』のコラボという運びとなりました。\(^o^)/

甲斐バンド、バンド名は耳にしたことがあるものの、👂 実際に曲を聴くのは生まれて初めてでした! なので、私には難しかったのですが、何とか前奏とサビと間奏を弾かせて頂きました。 こういんさんのお力で、まとめて頂き、動画編集も含めて大変お世話になりました。

余談ですが、クリスマスの曲ということで、ツリー🎄だけは、私が挿入しました。(≧▽≦)

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十字軍物語 3⃣ ヴェネツィア共和国と第四次十字軍 

2021-08-16 18:42:13 | 読書

 リチャードとサラディンのその後

 

 リチャードを見送ったサラディンは、講和を結んだことで安心したのか、半年後にあの世へ旅立った。このことを後でしったソールスベリー司教は、「あと少し留まったなら奪還も...」と残念がるが、リチャードは言った。

 「いや、もし、そうなれば、サラディンも死ぬに死にきれず、更に長生きしただろう」と。

 帰国後のリチャードは、捕らわれの身となり、塔に幽閉され、”行方不明”となった。オーストリア公レオポルドの部下の一人によって。赤ひげ皇帝溺死のあとを任されたレオポルドは、自軍の旗を降ろすよう、リチャードから言われ、怨念に燃えていた。どのように?は省略するが、居場所が”判明”し、赤ひげの息子、皇帝ハインリッヒも、理由もなくイギリス王を幽閉し続けることもできない。1194年、諸々あってリチャード遂にロンドン到着。弟のジョンはひざまづき、許しを請う。リチャード許す。フランス王フィリップの思惑通りにはいかず。(兄弟で争って欲しかった。自分の直轄領土拡大のため)

英仏戦争 リチャードVSフィリップ勃発 リチャードはここでも全戦全勝。彼が留守の間に奪われていた領土のほとんどを取り返す。しかし...。

リモージュ地方のシャリューの地で、いまだフィリップの側にあった城を攻めていた時、一本の矢が右肩と胸の間に命中。1199年4月6日、41歳7か月の生涯だった。(塩野七生:著『十字軍物語 3⃣』191ページまで、要約)

 

 法王インノケンティウス三世

 日本の世界史の教科書にも、ローマ法王の持つ力を最大限に発揮した、と書かれているらしい、秀才法王のインノケンティウス三世

 「法王は🌞太陽、皇帝は月」

この力関係が、第五次十字軍で問題になるのだが...

若輩だった聖フランチェスコを支援し、(のちに彼は第五次十字軍で、スルタン アル・カミ―ルと対面‼

 

 ヴェネツィア共和国の元首ダンドロ

 エンリコ・ダンドロが元首に選出されたのは、インノケンティウスが法王になる6年前の1192年。リチャードとサラディンの講和が成立した年だった。君主制でなく、共和制のヴェネツィア共和国では、20代から30代いっぱいを海外との通商に送り出される。単にビジネスだけでなはい。多民族、しかもしばしば異教徒との交易のやり方を学ぶと同時に航海術も自然と身に付く。ヴェネツィア共和国は、世界で初めて今で言う、領事館、大使館を海外に置いた国で、外交が何より大事。そのための情報ネットワークをいくつも持っていた。

「まず、ヴェネツィア人。次にキリスト教徒アーメン

異教徒とも通商、密約も交わしていたこと、第四次十字軍では、同じキリスト教徒国家であるビサンチン帝国の首都、コンスタンティノープルを攻めたこと、これらが現代も一部のカトリック教徒や十字軍ファン、或はクリスチャンの歴史家から特に嫌われる理由だと思うのだけれど...

 法王は🌞にしろ、まず、(キリスト教徒である前に)ヴェネツィア人、にしろ、互いに信じる事が違う、という点は、歴史の解釈が違ってくる主な理由でしょうね。

 話がズレたが、ヴェネツィアの元首は、このように経験豊かで異教徒を理解しており、洞察力があるリアリスト。しかも国会にあたる元老院で選出される。十字軍に参加か不参加か?も君主ではないので、一人で決定できない。国民にゆだねることになる。しかも、政教分離。現代の民主主義国家に最も近かったのかもしれない。

  

 この時期のヴェネツィア共和国の問題は、リチャードがビザとジェノバの交易商人の船団を活用し、ヴェネツィアはこの2国より劣勢だったこと。

 エジプトとは以前から、経済的に友好的な関係を築いてきた。エジプトとの通商条約も更新を重ねる。リチャード&サラディンの講和がつづく中近東で、目立たないよう浸透を再開した。その結果、1201年に、アラディールとの間で結んだ条約には、公表されなかった一項が入っていた。

「十字軍が遠征することになった場合でも、ヴェネツィア共和国は、エジプトを目標とした軍事行動には参加しない」(206ページ)

 

 スルタン・アラディール

 兄のサラディンがこの世を去った1193年、彼はすでに50歳に達していた。甥たちの間で争いがあったが、それらを終息させたあと、イスラム世界の実力者ナンバーワンになった彼は、ヴェネツィア共和国との間に、「不可侵」の一項をしのばせた通商条約を結んだのだった。

 

 第四次十字軍の主役は、彼ら3人ということになる。

 

 フランスの諸侯たち

 第四次十字軍の話が持ち上がり、彼らが頼ったのは、ヴェネツィア共和国の船と海路と優秀な船乗りだった。諸侯たちの代表6名は、結論を出した。

1.第四次十字軍の遠征の目的地は、エジプトのカイロとすること。

2.遠征には海路でいく。

3.十字軍の輸送は、ヴェネツィア共和国に一任する。

 

第三次の時は、今回の輸送の十分の1だった。今回のような大軍の輸送となると、ヴェネツィア共和国しかいない、ということで意見は一致。かれら6人は、元首ダンドロを訪ねる。

 

しかし、コマッタのはヴェネツィア共和国。密約のことは、勿論、フランスの諸侯たちは知らない。エジプト遠征の十字軍に、加担することは、勿論出来ない立場にいたのだから。

 

結論からいうと、ヴェネツィア共和国は参戦することを決定。翌年の1202年6月24日に出航、それまでに50隻のガレー船と、それに必要な乗組員、戦闘員6千人を国を挙げて準備&投資した。元首自ら率いて参加する。

 

集結地、ヴェネツィア共和国で

「おお、なんという無念だろう。他の地へ行ってしまった騎士たちのことを思うと、キリスト教徒はこの船で異教徒を完全に叩きのめすことが出来ただろうに。それが、ここにいるのは、この艦隊で運べる3分の1でしかない!」

ヴェネツィア共和国は、契約で決まっていた義務を完全に果たしたにもかかわらず、守らなかったのは、フランスの騎士たちの方だった。騎士の多くは他の港から出発していたのだから... 4回の分割払いも、最初の2回を済ませただけ。ヴェネツィア共和国は、ただ、静かに支払われるのを待っているだけ。6月24日に出航するどころの話ではなくなっていた。

1202年10月8日、出航。11月、ザーラ攻略。3日後にザーラ降伏。

 慌てたフランスの諸侯は、ローマ法王へ釈明の書を送る。インノケンティウス法王は、フランスの騎士には理解を示し、ヴェネツィア共和国政府を破門とした。いよいと次は、異教徒を攻めるのだと、はりきるフランスの騎士たちだったが...

 

ビサンチンの息子

 皇子アレクシスは、十字軍の首脳たちを前にして、涙ながらに訴えた。彼の父は皇帝であったのに、弟に位を奪われたのみならず、両目をえぐり取られ、牢に入れられた。息子も牢に入れられていたが、若かったので脱出に成功、アルプスを越え、逃げてきたのだった。

「ビサンチン帝国首都を攻撃し、正当な王位継承者の自分を助けて欲しい」と。

成功すれば、20万マルクを支払うこと。ギリシア正教徒をカトリックと統合させること。

一同は声も出なかった。20万マルクあれば、ヴェネツィア共和国への借金も返せる上に、支払いで心細くなっていた懐も...

 

行先変更

 良心的に思い悩むフランス人の間では、目的地をコンスタンティノープルに変えることで生じた意見の対立が、険悪な様相まで発展。しかし、結局は、大勢がコンスタンティノープル攻撃に向かうことを決定した。

 行先変更の知らせを受けた法王は、またもや激怒した。

しかし... 自分の許で、東西のキリスト教が一つに統合されることに甘美な想いでもあった。そこでビサンチン帝国の首都の攻撃は認めた。

70歳を超えていた元首ダンドロは常に戦前に立ち、軍を指揮をし、そして戦死。

 ヴェネツィア共和国はその後、地中海の女王と呼ばれるようになる。

キリスト教徒が同じくキリスト教国家を攻めたのが第四次十字軍ということで、20世紀の歴史家からは酷評されているようだが... 当時の一般の人々は法王や狂信者以外、誰もヴェネツィア共和国を責めなかった。『絵でみる十字軍物語』でも、5枚の絵が捧げられている。第六次十字軍の絵は、(無血の十字軍)一枚も無いにもかかわらず...

 

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十字軍物語 3⃣ 第3次十字軍;講和へ向けて

2021-08-16 00:02:14 | 読書

 キリスト教側から見れば、第3次十字軍はイェルサレム奪還は実現しなかったのだから、成功したとはいえない、という史実なのかもしれませんが、私はそうは思いません。

 第ニ次十字軍:無血開城👍 元々イスラム教徒の土地だったのだから、”元に戻った” この時点ですでに、キリスト教徒の巡礼に関しては安心・安全が保障されている。(詳しくは過去記事を参照してね)

 第三次十字軍:イェルサレムは引き続きイスラム側に属すとする;元々彼らの土地だから、現状維持は当然です! 違いますか?

 

 「我々二人の間で講和しよう」とうリチャードを助ける形で、サラディンは講和を決断。この日、大守(エミル)の一人は、言った。

 「急いでいるのはあのフランクの王の方で、時間は我々の味方だ」

また、ある者は、

 「フランク王に去ってもらうのは良いが、そのために講和まで結ぶ必要はない休戦で充分だ」と言った。

サラディンは、それらの声を手で押して、✋いった。

 「わたしが死にでもしたら、誰がこのイスラム軍をまとめて行くのか」

サラディン、このとき54歳。リチャードは35歳。人生の残された「時間」は、必ずしもサラディンの味方ではなかった。

サラディンは、ここが大切なポイントなのですが、容易に破ることが出来る休戦よりも、双方ともに結束度が高い講和を結ぶ利点を述べる。

興奮していた大守たちも、これまでのリチャートの戦い方を思い出すしかなかった。彼ら自身が獅子心王と呼んだのだから。

そこで彼らも、「講和を結ぶことに同意した」のだ。

リチャードとの交渉には、これまで通り、サラディンの弟、アラディ-ルが行くと決める。

 

 8月4日には、早速、12歳の息子を連れたアラディールがリチャードの許を訪れている。リチャードの方も、いかなる戦闘行為も強く禁じた。(だから安心して12歳の息子を連れて行けたのね)

 交渉が続いたある日、リチャードは少年にひざまづくよう命じた。少年は素直に従う。その前に立ったリチャードは、腰から剣を引き抜いた。

少年は一瞬、目をつむったが、すぐ目を開き、臆することなくリチャードを見上げた。リチャードはそのまま剣を少年の肩に降ろして言った。

 「騎士に叙す!」

それをイベリンが直ちにアラビア語に訳した。少年の顔に嬉しそうな笑いが広がった。

イスラム教徒の少年に騎士の叙任! 一神教的にはアベコベでも、クリスチャンでないのに教会で結婚式を挙げ、葬式は仏教の日本人には理解できる。

少年はリチャードから与えられた剣をその日、一日中抱えて離さなかった。父親のアラディールは微笑しながら、そんな息子を見ていただけだったという。

 そして、この12歳の少年こそ、これより37年後に始まる第六次十字軍で、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世との間に別名、「無血の十字軍」と呼ばれることになる講和を結んだ人なのだ。(環境と親たちの教育はとても大事ですね!)

...というわけで、少年の名を覚えておこうではないですか。

そのときのスルタンの名が、アル・カミ―ル天才排出した14~16世紀イタリア ルネサンスと時代錯誤の法王&修道士

注:過去に、上記の記事(中央辺り)にて、フリードリッヒとアル・カミ―ルについても少し触れております。

 

最後に二人の間で決められた講和の内容について~

講和の第一条:聖都 イエルサレムは、イスラム側に属することを認める。ただし、イスラム側はここを訪れるキリスト教徒の巡礼たちの安全と自由を保障する。

第二条:ティロスからヤッファまでとその周辺一帯の地が、十字軍側に属することを認める。(アッコン、ハイファ、カエサリア、アルスーフ、ヤッファ、いずれも地中海に面した海洋都市。)

これにキプロスも加わる。

第三条:これら十字軍側と認められた地域では、どこでもイスラム教徒の自由な行き来を認める。同時に経済交流を目的とするキリスト教徒のイスラム領内での自由な往来と活動も完全に自由。講和は陸のみならず、海上にも及ぶ。そのため、講和はヴェネツィア共和国などのイタリア海洋都市国家にとっては、更なる市場の拡大を意味していた。

賠償金とか身代金の話は双方ともの口から出ず、お互いの捕虜たちも殆どが無償で釈放された。

 

ちなみにウエストミンスター議事堂の脇に立つリチャード像を制作したのは、イタリア人のカルロ・マロケッティ。19世紀後半のヨーロッパでは、相当に名高い彫刻家だったらしい。

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