令和元年6月13日(木)旧海軍司令部壕で慰霊祭
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6月13日の慰霊祭に献花をされる関係者の皆様 宇栄原小学校の皆さん
太平洋戦争末期の沖縄戦で住民への配慮を求める電文を中央へ送った日本海軍の大田実司令官ら幹部が自決してから74年となった6月13日、沖縄県豊見城市の旧司令部壕で慰霊祭が営まれました。
県外からの遺族30人を含むおよそ120人が出席。この中で、千葉県出身大田司令官の遺族が祭壇にキクの花を供え、平和への思いを新たにしました。
大田司令官は1945年6月6日、米軍の猛攻下で海軍次官へ「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電。1週間後、司令部壕で将校らと命を絶った。
当日はOCVB平良会長による追悼のことばのほか、公園に隣接する宇栄原小学校の皆さんによる群読・合唱により、平和への祈りに包まれた一日となりました。
千葉県出身大田司令官の四男で現在、横浜市在住の大田豊さん(74)は、孫やひ孫と共に参列。
「父に会ったことはないが、沖縄の人たちの真摯な態度に感動して電文を打ったのではないか。平和が続くよう努めなければいけない」と思いをはせた。
(以上はHPより転載させて頂きました)
下記の
は平成18年11月23日~25日 千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して の折に撮影した写真です。
海軍慰霊塔 大田中将自決の部屋(平成18年慰霊の折に撮影。現在は撮影不可)
司令官室の壁面には 「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」と大田中将の歌が鮮やかに残されていました。
昭和20年6月6日、決別電報と辞世の句を打電。
同日夜、沖縄県民の献身的な戦い振りを述べ、後世にわたる国の配慮を訴えた世界史上不朽の 電文 「沖縄県民斯く戦へり」 を打電。
6月13日幕僚6人とともに自決、54歳の仁愛と波乱に満ちた生涯を終える。
辞 世 身はたとへ沖縄の辺に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は、平成18年には撮影出来ましたが、現在は近くまで行かれず、撮影も不可と聞いております。
平成18年追悼式参列の折りに、バスガイドさんが「千葉県の方に足を向けて眠れません。」とお話下さいましたことが思い出されます。
千葉県民の一人としても大切なお方を偲んで参りたく考えております。