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山崎豊子の大河小説 「大地の子」 放映のご紹介

2021年08月09日 17時38分34秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

8月9日2件目のご紹介もブログの先輩(比企の丘)様より転載させて頂きました。
この度も
「大地の子」を詳しくご紹介頂きました比企の丘)様に感謝を申し上げます。
本当に悲しく、つらく涙があふれ、映像が霞んではっきり見えなくなることもあります。
戦争を知らない戦後生まれの国民が多くなっております現在ですが、悲劇は真実です。
今後再び戦争の惨禍に見舞われることがありませんように心から祈念して紹介させて頂きました。

きょう8月9日はソ連対日参戦の日・・・「大地の子」の悲劇がはじまった

8月9日・・・今から76年前の1945年8月9日未明、150万人の兵力で満州国(現在の中国東北部)にソ連軍が進攻(侵攻ともいう)した日です。
一般的には「ソ連対日参戦」といいます(防衛省では「対ソ防衛戦」という)。
これに対して関東軍の兵力は80万人、新京大連のラインまで南下して迎撃戦をとるという作戦であったといわれます。
進攻を察知して南に逃げたという説もあります・・・哀れをとどめたのは奥地に取り残された開拓民、老人・女・子ども(成人はほとんど現地応召)。軍の庇護を受けられず徒歩で南に逃避行が始まり、数々の悲劇が起きます。

この悲劇を描いた山崎豊子の大河小説「大地の子」(文藝春秋1991初版)はベストセラーになり・・・中国残留孤児・・・の存在を知らしめました。
1996年に「大地の子」は日中共同制作でテレビドラマ化・・・いまNHK BSプレミアムで再放映されています。
現在、第1回から5回まで放映終了・・・きょう8月9日(月曜)、NHK BSプレミアム午後9時~11時、第6~7回が放映・・・必見。
                                                                      
                                                                                        祖父、母とも別れ・・・妹とも別れの時が・・・
                                     逃避行中の満蒙開拓団とともにソ連軍の襲撃を受け、全滅の中から奇跡的に生き残る。
 
★日ソ中立条約破棄の謎とヤルタ会談・・・第二次世界大戦末期、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄してすでにTKO状態の日本に対して対日参戦します。そのわけは・・・1945年2月ウクライナのクリミア半島ヤルタで連合国の米・英・ソの三国首脳がドイツの降伏後の戦後処理を決め、併せて米・ソ首脳間(ルーズベルト・スターリン)でドイツ降伏90日後にソ連が対日参戦する秘密協定を結びます・・・千島・樺太の処遇つきのオイシイ話・・・という事になっています。世に言うヤルタ会談です。米ソ首脳の駆引きのように思えます。戦争というものは条約なんて糞喰らえなんです。
5月7日ドイツ降伏文書調印、5月8日降伏文書批准調印(ソ連時間9日)。ソ連軍はヨーロッパからソ満国境に兵力を着々と移動します。3ヶ月後が待ち遠しかったでしょうね。
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2021年(令和3年)8月9日 長崎平和祈念式典

2021年08月09日 17時15分54秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)


                    以上式典会場の映像はNHK放映より頂きました
 
以下のご紹介はブログの先輩(比企の丘)様より転載させて頂きました

8月9日・・・「2021ナガサキ原爆忌」・・・黙祷・・・米軍カメラマンの撮った「焼き場に立つ少年」
いまから76年前の1945年8月9日11時02分・・・長崎市松山町9番地上空500m。

米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・

     ・・・黙祷・・・

長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「広島・長崎の被曝の現況写真」の中の一枚・・・「焼き場に立つ少年」です。

                                                  

 

カメラマンの名前はジョー・オダネル(1922~2007年)
米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は
禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、心に傷を負い、軍の許可なく私品の
カメラで被曝の現状写真約300枚を秘かに撮影、帰国。秘密裡に持ち帰った写真はトランクの中に封印、44年後の1989年、67歳の時、トランクの
中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・

原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を
開催し続けました。

 
★↑の写真と↓の文章は6月3日NHK BS1で放映された「焼き場に立つ小年」より。

焼き場に立つ少年」・・・
焼き場に10歳ぐらいの男の子がやってきた。小さな体はやせ細りボロボロの服を着てハダシだった。
少年の背中には、幼いお男の子がくくりつけられていた。係員は背中の幼児を下し、足下の燃えさかる二火の上に乗せた。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
わたしは彼から目をそらすことはできなかった。
わたしは彼から目をそらすことはできなかった。
少年は気をつけの姿勢で、じっと前を見つづけた。
急に彼は回れ右をすると、背筋をピント張り まっすぐに前を見てまま歩み去った。
もううしろを振り向かないまま。
コメント (2)
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