さいとうギャラリーではときどき、プロ写真家による高水準の個展がひらかれる。
どういう事情があるのだろうと思っていたら、元「コマーシャル・フォト」編集長で、退職後は札幌に住んでフリーで活動している吉岡達夫さんが企画しているのだった。
今回の菅原一剛写真展も吉岡さんの企画。菅原さんは、北海道の出身ではないが、父親が北大出身とあって、知り合いがこちらにたくさんいるそうだ。
糸井重里の超有名サイト「ほぼ日」でワークショップをおこなうなど、多方面で活躍している写真家だ。
さすがプロというべき、クオリティの高いプリントが並んでいて感服させられるが、中でも目を引くのは、湿板写真という古い技法で撮影された木漏れ日の写真だろう。
吉岡さんは、大阪芸大で学んでいた時代、日本の映画撮影の第一人者である宮川一夫氏に学んだ。のちに沖縄で映画の撮影監督を務めた際、宮川氏が担当した「羅生門」(黒澤明監督)のなかで京マチ子が寝転ぶシーンを思い出して、木漏れ日にカメラを向けたという。
ところが、教わったとおりに写したにもかかわらず、思ったとおりに撮れない。いろいろ調べるうちに、むかしにくらべるとフィルムの光を感じる範囲が狭まっているということがわかったという。フィルム製造会社にすれば、人間が感知する光の範囲がくわしくわかってきたので、それに合わせて不要な範囲をカットしたということになるのだろうが、じつは、人間があたたかみのような感じを得るのは、そのカットされた範囲によるというのだ。吉岡さんは、そのころ、たまたま湿板写真に出合い、とりくみはじめたという。
筆者はその話を聞いて、オーディオのことを思い出した。かの分野でもいろいろ研究が進んで、CDでは20ヘルツ以下や20000ヘルツ以上といった、本来人間には聞き取れないはずの周波数はカットされているのだが、そういう超低音や超高音を切り捨てると、音の厚みが微妙に失われるらしいのだ。なんだかおなじような話だなあ、と思う。
話をもどすと、湿板写真は、19世紀半ばに発明されて、日本にはごく初期に伝来した技法で、ガラス板に映像を定着させる。銀をたくさん使うから粒子は細かい。ただ、感度はごく低いから、そのままではプリントは困難なのだが、最新のインクジェットプリンタを使うことにより、プリントにこぎつけた。
「じぶんは古い技法にこだわっているわけではない。ただ、それを、最新の技術で生かせたのはおもしろいと思う」
というような意味のことを菅原さんも話していた。
見ていると、古いテクノロジーで制作された作品なのに、いまの技術では出せない光のやわらかな感じが出ているというのは、どういうことなんだろうと、あらためて不思議に思う。
「そして、こういう光のところに、ああいうお年寄りが住んでいた、というのがいいんですよね」
沖縄の、存在感ある老人の全身像が4枚ほど、展示されていた。
個展では、湿板だけでなく、4×5や8×10で撮られたモノクロ写真も。
上の画像は、ヴェネツィアのサンマルコ広場の壁に迫った連作。
ほかに、ヌードや、滝、アフリカの平原、奈良の山などが、静謐(せいひつ)な画面におさめられている。
写真をやる人は必見。
07年8月21日(火)-26日(日)10:30-18:30(最終日-17:30)
さいとうギャラリー(中央区南1西3、ラ・ガレリア5階 地図B)
□サイト
人間の目の「ラティチュード」って、バカにできないと、つくづく思いますし、また、感度などの面ではいちじるしく進歩してきた写真でも、粒子や、まばゆさの表現では、むしろ昔の方がよかったこともあるように思えます。そこらへんも、オーディオと似ているかもしれません。
ピンホール写真もそうですが、デジタル化が進んできてオーディオと同じように段々と再現する光の幅が狭まっているような感じがします。
生の光を再現する菅原さんとの話が楽しかったです。
いくら機械による観測で、人間の感知するのはここからここまでだ、といわれても、それをはみだす感覚の領域と言うのがあるものなのだと思います。