2016年春の「新川の河口に橋があったのか。」という記事で小樽内橋について書いたが、まさか2年後に現地を訪れることができるとは思わなかった。
この橋の由来については、その記事、あるいはサイト「花畔・網」、ブログ「第六の絶滅」の該当ページがくわしい。
要するに、ここには江戸末期の1858年から橋が架けられていたが、たびたび洪水で流出し、1980年代には、真ん中が鋼製で、両端が木製という構造になっていた。
85年(?)に右岸の木造部分が老朽化のため崩落し、現在に至るまで通行止めが続いている。
徒歩ならなんとか橋まで上れるので、上ってみる。
(「立ち入り禁止」などの表示は見当たらなかった。そもそも人の通行がほとんどない場所)
舗装もされているので、両端が健在なら車も通れそうだ。しかし幅が狭いので、橋上ですれ違うのは無理だろう。
欄干の下には、カニの屍骸や貝殻がいくつも落ちていた。
ここまで水位が上昇したとは思えない。鳥が、餌のうち食べられない部分を、捨てていくのだろうか。
橋上から新川の河口が見える。
手前は橋の欄干。さびが進んでいる。
橋を管理する小樽市の調査によると、橋脚のさびは、危険なほどまでに進行しているという記事が、北海道新聞の小樽後志版に載っていた。
橋の向こう側(右岸側)には、小樽内という集落があったが、1970年代ごろに皆が去って消滅したという。
したがって、橋の通行を再開してほしいという要望もないらしい。
仮に橋が通れたとしても、すでに西の大浜側(小樽市側)には道路らしい道路もないのだ。
市としては、2017年度にも解体撤去に着手するということだったが、今回見た限りでは、何らかの工事に取り掛かっているという形跡はないようだ。
この近くにも澁谷俊彦さんの「河口」展参加作品が設置されている。
この橋の由来については、その記事、あるいはサイト「花畔・網」、ブログ「第六の絶滅」の該当ページがくわしい。
要するに、ここには江戸末期の1858年から橋が架けられていたが、たびたび洪水で流出し、1980年代には、真ん中が鋼製で、両端が木製という構造になっていた。
85年(?)に右岸の木造部分が老朽化のため崩落し、現在に至るまで通行止めが続いている。
徒歩ならなんとか橋まで上れるので、上ってみる。
(「立ち入り禁止」などの表示は見当たらなかった。そもそも人の通行がほとんどない場所)
舗装もされているので、両端が健在なら車も通れそうだ。しかし幅が狭いので、橋上ですれ違うのは無理だろう。
欄干の下には、カニの屍骸や貝殻がいくつも落ちていた。
ここまで水位が上昇したとは思えない。鳥が、餌のうち食べられない部分を、捨てていくのだろうか。
橋上から新川の河口が見える。
手前は橋の欄干。さびが進んでいる。
橋を管理する小樽市の調査によると、橋脚のさびは、危険なほどまでに進行しているという記事が、北海道新聞の小樽後志版に載っていた。
橋の向こう側(右岸側)には、小樽内という集落があったが、1970年代ごろに皆が去って消滅したという。
したがって、橋の通行を再開してほしいという要望もないらしい。
仮に橋が通れたとしても、すでに西の大浜側(小樽市側)には道路らしい道路もないのだ。
市としては、2017年度にも解体撤去に着手するということだったが、今回見た限りでは、何らかの工事に取り掛かっているという形跡はないようだ。
この近くにも澁谷俊彦さんの「河口」展参加作品が設置されている。
1987年に私は小学校1年生で木製部分も含めて、遠足で、渡った記憶があります。近隣の、前田北小学校の、低学年の遠足でした。
自分もアートがらみでなければ、まず足を向けなかったと思います。
そして、札幌生まれ・育ちとはいえ、大通や豊平区住まいが長かったので、前田北小がこのへんに遠足に来るということ自体、すごく興味深く感じました。