2日も前に見た、しかも終わってしまった展覧会のことを書くのはどうも気がのらないけれど、順番に書いていこう。まず、市立小樽美術館の本間聖丈展。
札幌駅を朝9時32分に出る快速列車に乗る予定だったけれど、澄川駅へ向かうバスが遅れたため、地下鉄を大通駅で下りて、北1西4のバス停から小樽行きのバスに乗る。
本間聖丈さんは、ずいぶん画業の幅の広い人だと思った。
北海道の自然を幻想的にとらえた「森へおいでよ」があり、アイヌ民族をモティーフにした「蝦夷錦」があり、漁民の網はずしを描いた「北の漁場」がある。
インドに材を得た「ブッタガヤ暮色」があり、都会的センスのあふれる「オタルマリーナ」があり、ファンタジックな「オタルの夜」がある。
さらに、津軽のイタコに迫った絵、水墨画、小樽の歴史をマンガふうに描いた「懐古小樽」などなど。
といって、器用にそつなくこなしているという印象ではなく、どれも一生懸命にとりくんでいる感じだ。
まさに、小樽の日本画を代表する人物であったように思った。
作品集をめくる。
年譜を見ると、とくに国鉄を退職した後の60、70代は、年に7-10の展覧会をこなしている上、教室を5つも持っていたとかで、めざましい活躍ぶりだ。
自筆文献の再録もある。若いころ、岩橋英遠に、上京を勧められた話を読むと、うまく言えないのだが
「ああ、人生だなあ」
と嘆息を漏らしてしまう。
本間さんにとって、上京するのと小樽に残るのと、どちらが幸せだったんだろうか。
札幌駅を朝9時32分に出る快速列車に乗る予定だったけれど、澄川駅へ向かうバスが遅れたため、地下鉄を大通駅で下りて、北1西4のバス停から小樽行きのバスに乗る。
本間聖丈さんは、ずいぶん画業の幅の広い人だと思った。
北海道の自然を幻想的にとらえた「森へおいでよ」があり、アイヌ民族をモティーフにした「蝦夷錦」があり、漁民の網はずしを描いた「北の漁場」がある。
インドに材を得た「ブッタガヤ暮色」があり、都会的センスのあふれる「オタルマリーナ」があり、ファンタジックな「オタルの夜」がある。
さらに、津軽のイタコに迫った絵、水墨画、小樽の歴史をマンガふうに描いた「懐古小樽」などなど。
といって、器用にそつなくこなしているという印象ではなく、どれも一生懸命にとりくんでいる感じだ。
まさに、小樽の日本画を代表する人物であったように思った。
作品集をめくる。
年譜を見ると、とくに国鉄を退職した後の60、70代は、年に7-10の展覧会をこなしている上、教室を5つも持っていたとかで、めざましい活躍ぶりだ。
自筆文献の再録もある。若いころ、岩橋英遠に、上京を勧められた話を読むと、うまく言えないのだが
「ああ、人生だなあ」
と嘆息を漏らしてしまう。
本間さんにとって、上京するのと小樽に残るのと、どちらが幸せだったんだろうか。
「オタルマリーナ」はたしかに都会的で、異色作です。作者にとっては、マストの林立でできる線の繰り返しなど、造形的な興味が勝ったのではないかと推察します。
しかし、「あのとき」に上京する事の選択をされたとしてもやがて北海道を足ががかりに仕事をしたと思います。
本間さんの画風の変化は昭和後期から末期、平成元年から5年、同6年から16年までで大雑把に区分できるような気がします。
平成5,6年頃から晩年の画風は身辺の印象を主題にしたように思えます。ちょうど度重なる病をえた時期とも符合しますし平成6,7年の「森へおいでよ」のあたりにアジアから転じて小樽という風土に惹かれるものがあった様な気がするのです。画集の初めの図版が昭和48年の「廃車」。作業を一服する男の眼差しに「お前はどこを見ている?」という印象を受け、その晩年に連なる画風がひょっするとこのスタートの問いかけを常に気に掛けていたのかも知れません。
異色だと思うのは、平成6年の「オタルマリーナ」。この絵は作者名を伏せれば、本間聖丈さんの作品と言うことが難しいくらいだと私は思います。