25日、仕事はやすみ。
1週間のつかれがたまってほとんど寝ていた。
26日、雨。
ギャラリーどらーる、三岸好太郎美術館、アーティストギャラリーに寄った後、会社で仕事。
小樽版を組む。
原稿がちょうどいい間隔で着てくれたのでたすかった。
帰宅20時。
写真は、あー夕鉄バスに乗りたい、の図です。
(追記。今週は、札幌学院大の写真展に行き損ねた。反省)
1週間のつかれがたまってほとんど寝ていた。
26日、雨。
ギャラリーどらーる、三岸好太郎美術館、アーティストギャラリーに寄った後、会社で仕事。
小樽版を組む。
原稿がちょうどいい間隔で着てくれたのでたすかった。
帰宅20時。
写真は、あー夕鉄バスに乗りたい、の図です。
(追記。今週は、札幌学院大の写真展に行き損ねた。反省)
写真家の浅野さんのブログでも指摘されているように、山本さなえさんのモノクロームの「バンクーバー」シリーズが群を抜いていて、とても素晴らしい表現世界でありました。
それは何と言ったらいいのか、昨年の北大の安房さんの「ロンドン」シリーズのクラシックなたたずまいの作風とはまったく違っていて、光の粒子と闇の粒子がハレーションを起こし、それらが烈しくぶつかりあい、それらがいちじるしく拮抗しあっているような、さらには都市の光景の光と影があくまでも渾然一体となって溶け合ってしまっているような、うまく言えないが、確実に「2.11以後の世界」の人間の無意識を喚起させる強烈な空気感を漂わせていて、圧倒される。
この人の作品は写真の現在の可能性を強引に引き出しているように感じる。
「2.11以後の世界」との関係性をこのように鋭く切り裂いていることに私は同感する。
多分、この絶対的な世界崩壊の感覚はこの世代の写真家にとって共通の無意識の前提になっているのだと思う。
足立君の風景写真・静物写真の根底にあるものも、多分、同じ性質のものであって、世界への受動的感受性がいったい何に対して感応し共鳴しているのか、その点での自覚的な強度こそが写真表現の作品の強度を決定しているようにおもえてならない。
私は鈴木涼子的方向性よりか、こちらの方向性が気になるのだが。
先週は、見なくてもいいものはたくさん見たので、後悔しきりです。