西洋美術に関心のある人は読んだ方が良い本。
1.ユダヤ人と美術
「ユダヤ人と美術」というテーマ設定が、これまでありそうでなかった。
ユダヤ人美術家を紹介しつつも、ただ評伝を並べるだけではなく、もっと根源的なところから論述を進めていることに感銘を受けた。文章は平易で、読みやすい。
言うまでもなくユダヤ人は、マルクスやフロイト、アインシュタイン、ウィトゲンシュタインなど、西洋近代の「知」で巨大な地位を占め、ロスチャイルドやロックフェラーなどの大富豪やメンデルスゾーン、マーラーといった音楽家、トロツキーらの革命家など、近代西洋史に刻まれる有名人は枚挙にいとまがない。
その一方で、オシフィエンチム(ドイツ名はアウシュヴィッツ)にみられるような大弾圧を幾度も受けてきた人びとでもある。
そんななかでユダヤ人美術家は、他の分野にくらべると、有名人が世に出てくるのが意外と遅いのだという。
なぜか。
聖書の「モーセの十誡」に「偶像を作ってはならない」という項目があるためだ。
厳格なユダヤ教徒は、脳裏に具体的なイメージを結ぶことすら忌避するという。いわんや、絵を描くなどは、とんでもないということのようだ。
しかし、近代化の進展にともない、伝統的なユダヤ人社会から、各国の社会に同化する人も出てくる。
イディッシュ語や、こまごまとした信仰上のきまりごとを捨てて、西洋社会のなかに入っていくのである。
ただ、その同化の度合いは、フランス人と結婚してユダヤ人社会に背を向けたピサロや、イディッシュ語や故郷を最期まで忘れなかったシャガールなど、さまざまであった。
戦後の米国画壇を席巻した抽象表現主義の画家たちのうちでも、ロスコには宗教的な画題がおもてに出てこないのに対し、ニューマンの絵には、ヘブライ語の影響を感じさせ、信仰とかかわりがあるような題をもつ作品が多いという。
2.この本の特徴
この「ユダヤ人と近代美術」は、いま名前を挙げたピサロ、シャガール、ロスコ、ニューマンといった有名な画家のほか、ドイツで初のユダヤ人画家や、ウィーンで芸術家を支えたユダヤ系パトロン・画商なども含めて紹介している。
先に述べた通り、たんに通時的、国別に芸術家や関係者を紹介しているのではない。
とりわけ、終章では、この著者の学問的誠実さに心打たれた。
そもそも、ユダヤ人の芸術家を列挙すること自体、たとえ善意で作ったリストであっても、将来は反ユダヤ主義に悪用されないという保証はない。
実際、ユダヤ貴族の家系を調べた本はナチの参考資料となっている。これを基にガス室へ送られた人がいるかもしれないのだ。
ホロコーストを経験した欧州では、ユダヤ系の芸術家を研究テーマにすることに対する重苦しい雰囲気が残っているという。
さらに、著者は言う。
たとえ「世界美術史」「西洋美術史」であっても、国家の存在は見え隠れしている。
その理屈で言うと「ユダヤ美術史」というものは、ないことになる。少なくても、イスラエル建国以前は、ない。
ユダヤ人はナショナリズムに走ることができない。
そのぶん、国を越えた普遍性を目指して必死に学ぼうとする。
そのことが、ユダヤ人を「どこにも属さない人びと」とさせて、かえって弾圧と迫害を招くこともあるのだ。
3.国家と美術
そういうことを踏まえると、夭折の天才「マウリツィ・ゴットリープは1856年、当時のガリツィア、現在のウクライナ西部の小都市ドロホビッチに生まれた」(65~66ページ)のあとにある「いずれにせよ、国や言語が安定しない地域出身のユダヤ人だったといってよいだろう」(67ページ)というくだりは、なんともいえないリアリティーをただよわせてくる。彼は、ヘブライ語、イディッシュ語、ドイツ語を知り、ポーランドも学んでいる(ウクライナ語はさほど重視されていなかった)。
「国や言語が安定していない地域」などというものを、日本人は、想像できるだろうか。自分の身に引き合わせて、考えることができるだろうか。
話は少し変わる。
若い頃、吉本隆明の「共同幻想論」を読んで、さっぱり理解できなかったのだが、いまにして思えば、それは文章それ自体の難解さもさることながら、吉本が前提していた「日本人の国家観」ゆえではないか。
日本人は、世界の民族の中でも、日本の領域や民族を自明のものとみなして、疑いもしないという、前提である(もちろん、それが擬制であるというのが、吉本の議論であろう)。
しかし、それはほんとうに自明だと思われているのか。
少なくても、沖縄と北海道では、自明ではないのではないか。
わたしたち北海道人は、150年前まで、いま住んでいる土地には他民族が暮らしていたことを知っている。
根室の沖合の島は、ついこないだからロシアに占領されていることも知っている。
ここでは、国境も民族も、ちっとも「自明」ではない。
いうなれば「国や言語が安定していない地域」なのだ。
4.「北海道画」は可能か?
先に、美術史とは、各国の美術史であるというテーゼを記した。
では「北海道の美術史」というのは、国家の美術史が虚構であるのとは異なる意味で、虚構なのだろうか。
著者の圀府寺司さんが「ユダヤ人と近代美術」を書き得たように、北海道の美術史を書くことが可能となる視座が、存在するのではないだろうか。
つまり、ユダヤがそうであるように、ナショナルなものにとらわれない普遍性が、北海道にはあり得るのではないだろうか。
このまま論を進めていくとどんどん本から離れていくので、このへんで終わりにする。
あまり難しい話を抜きにしても、ふわふわした非政治的な画家と思われそうなシャガールが、実は20世紀のユダヤ人がたどった悲劇的な運命と密接なかかわりを持っていた、実に20世紀的な芸術家であったことを知っただけでも、大きな収穫だった。これは、圀府寺さんがヘブライ語文献の解読という、西洋の学者もあまり取り組んでいない領域にもいどんだ収穫であろう。
光文社新書から。
1180円+税。新書版としては高いが、オールカラーなので納得できる。
1.ユダヤ人と美術
「ユダヤ人と美術」というテーマ設定が、これまでありそうでなかった。
ユダヤ人美術家を紹介しつつも、ただ評伝を並べるだけではなく、もっと根源的なところから論述を進めていることに感銘を受けた。文章は平易で、読みやすい。
言うまでもなくユダヤ人は、マルクスやフロイト、アインシュタイン、ウィトゲンシュタインなど、西洋近代の「知」で巨大な地位を占め、ロスチャイルドやロックフェラーなどの大富豪やメンデルスゾーン、マーラーといった音楽家、トロツキーらの革命家など、近代西洋史に刻まれる有名人は枚挙にいとまがない。
その一方で、オシフィエンチム(ドイツ名はアウシュヴィッツ)にみられるような大弾圧を幾度も受けてきた人びとでもある。
そんななかでユダヤ人美術家は、他の分野にくらべると、有名人が世に出てくるのが意外と遅いのだという。
なぜか。
聖書の「モーセの十誡」に「偶像を作ってはならない」という項目があるためだ。
厳格なユダヤ教徒は、脳裏に具体的なイメージを結ぶことすら忌避するという。いわんや、絵を描くなどは、とんでもないということのようだ。
しかし、近代化の進展にともない、伝統的なユダヤ人社会から、各国の社会に同化する人も出てくる。
イディッシュ語や、こまごまとした信仰上のきまりごとを捨てて、西洋社会のなかに入っていくのである。
ただ、その同化の度合いは、フランス人と結婚してユダヤ人社会に背を向けたピサロや、イディッシュ語や故郷を最期まで忘れなかったシャガールなど、さまざまであった。
戦後の米国画壇を席巻した抽象表現主義の画家たちのうちでも、ロスコには宗教的な画題がおもてに出てこないのに対し、ニューマンの絵には、ヘブライ語の影響を感じさせ、信仰とかかわりがあるような題をもつ作品が多いという。
2.この本の特徴
この「ユダヤ人と近代美術」は、いま名前を挙げたピサロ、シャガール、ロスコ、ニューマンといった有名な画家のほか、ドイツで初のユダヤ人画家や、ウィーンで芸術家を支えたユダヤ系パトロン・画商なども含めて紹介している。
先に述べた通り、たんに通時的、国別に芸術家や関係者を紹介しているのではない。
とりわけ、終章では、この著者の学問的誠実さに心打たれた。
そもそも、ユダヤ人の芸術家を列挙すること自体、たとえ善意で作ったリストであっても、将来は反ユダヤ主義に悪用されないという保証はない。
実際、ユダヤ貴族の家系を調べた本はナチの参考資料となっている。これを基にガス室へ送られた人がいるかもしれないのだ。
ホロコーストを経験した欧州では、ユダヤ系の芸術家を研究テーマにすることに対する重苦しい雰囲気が残っているという。
さらに、著者は言う。
歴史同様、多くの「美術史」の「作者」は国家である。(中略)イタリア美術史も、ロシア美術史も、フランス美術史も、アメリカ美術史も、その事実上の作者は国家である。(306~307ページ)
たとえ「世界美術史」「西洋美術史」であっても、国家の存在は見え隠れしている。
その理屈で言うと「ユダヤ美術史」というものは、ないことになる。少なくても、イスラエル建国以前は、ない。
ユダヤ人はナショナリズムに走ることができない。
そのぶん、国を越えた普遍性を目指して必死に学ぼうとする。
そのことが、ユダヤ人を「どこにも属さない人びと」とさせて、かえって弾圧と迫害を招くこともあるのだ。
3.国家と美術
そういうことを踏まえると、夭折の天才「マウリツィ・ゴットリープは1856年、当時のガリツィア、現在のウクライナ西部の小都市ドロホビッチに生まれた」(65~66ページ)のあとにある「いずれにせよ、国や言語が安定しない地域出身のユダヤ人だったといってよいだろう」(67ページ)というくだりは、なんともいえないリアリティーをただよわせてくる。彼は、ヘブライ語、イディッシュ語、ドイツ語を知り、ポーランドも学んでいる(ウクライナ語はさほど重視されていなかった)。
「国や言語が安定していない地域」などというものを、日本人は、想像できるだろうか。自分の身に引き合わせて、考えることができるだろうか。
話は少し変わる。
若い頃、吉本隆明の「共同幻想論」を読んで、さっぱり理解できなかったのだが、いまにして思えば、それは文章それ自体の難解さもさることながら、吉本が前提していた「日本人の国家観」ゆえではないか。
日本人は、世界の民族の中でも、日本の領域や民族を自明のものとみなして、疑いもしないという、前提である(もちろん、それが擬制であるというのが、吉本の議論であろう)。
しかし、それはほんとうに自明だと思われているのか。
少なくても、沖縄と北海道では、自明ではないのではないか。
わたしたち北海道人は、150年前まで、いま住んでいる土地には他民族が暮らしていたことを知っている。
根室の沖合の島は、ついこないだからロシアに占領されていることも知っている。
ここでは、国境も民族も、ちっとも「自明」ではない。
いうなれば「国や言語が安定していない地域」なのだ。
4.「北海道画」は可能か?
先に、美術史とは、各国の美術史であるというテーゼを記した。
では「北海道の美術史」というのは、国家の美術史が虚構であるのとは異なる意味で、虚構なのだろうか。
著者の圀府寺司さんが「ユダヤ人と近代美術」を書き得たように、北海道の美術史を書くことが可能となる視座が、存在するのではないだろうか。
つまり、ユダヤがそうであるように、ナショナルなものにとらわれない普遍性が、北海道にはあり得るのではないだろうか。
このまま論を進めていくとどんどん本から離れていくので、このへんで終わりにする。
あまり難しい話を抜きにしても、ふわふわした非政治的な画家と思われそうなシャガールが、実は20世紀のユダヤ人がたどった悲劇的な運命と密接なかかわりを持っていた、実に20世紀的な芸術家であったことを知っただけでも、大きな収穫だった。これは、圀府寺さんがヘブライ語文献の解読という、西洋の学者もあまり取り組んでいない領域にもいどんだ収穫であろう。
光文社新書から。
1180円+税。新書版としては高いが、オールカラーなので納得できる。