毎年行われている、temporary space での企画展。
吉増剛造さんは1960年代から活動を続ける詩人で、近年は活動の場を美術にも広げている。昨年、東京の国立近代美術館で個展が企画され、今年は札幌国際芸術祭への参加も決定している(会場は北大の総合博物館)。
詩についていえば、当初から長編詩への志向が強くあったと思う。1990年代以降、ルビやタイポグラフィの活用で、印刷技術の極限を試すかのような作品が多くなった。
テンポラリースペースからはeメールで次のような文章が来ていた。
会場に行ってみると、入り口をふさぐように、低い台の上に、詩行らしきものが書かれた紙が4枚置かれていた。一般的な横長の原稿用紙ではなく、むしろ縦長に近い形状。
文字がおそろしく小さい上に、その上から絵の具がぶちまけられ、さらに白い絵の具の飛まつが散っていて、ほとんど判読できない。
会場の中央の床上には、低い円錐形の砂山が鎮座していた。
そして中央と、左手の壁には、上記のピットインでのライブ映像が流されている。
なお、この会場は、はしごで上った中二階にも作品が展示されることがよくあるが、今回は映写機が設置されているだけで、作品はないようだ。
結界のように台が置かれている上に、すでに会場内で2人がいすに腰掛けて映像を見ているので、入りづらかった。
絵の具で覆われた原稿を見ていると、疑問の念がわきあがってくるのを抑えることができない。
吉増剛造氏にとって「詩人」という肩書は何なのだろう。あるいは「詩」という媒体についてどう思っているのだろう。
すぐれた現代のアーティストは、表現手段に対してラジカルな問題意識を抱くことが多い。ジョン・ケージにせよ森山大道にせよジャンリュック・ゴダールにせよ、音楽や写真や映画そのものを根底から批判し否定しているように見える。しかし、いずれも、否定のままにとどまらず、住み慣れた土地にもどるように、それぞれの媒体へと戻っていく。
ジョン・ケージが4分33秒の後も沈黙を続けていればすでに音楽家ではないだろうし、カメラをテレビ画面などに向け続けた森山大道が再び街路に出てシャッターを押すことがないままだったらもう写真家とは呼べないだろう。どんなに根源的な問いを自作につきつけても、写真そのものは、最後の最後のところで、うたがったりしないのではないだろうか。
だとしたら、せっかく言葉をつむぎ、搾り出した原稿の紙を、ほとんど読めなくして提示するというのは、吉増氏は言葉を信じていないのだろうか。
こんなことを考える筆者が、保守的なのだろうか。
アートの目線の人はきっとあまりショックを受けないのだろうけど、筆者はことばを使う人間の目線で見るので、正直言って、こういうふうにことばをないがしろにしてほしくないと感じた。ほかの人ならいざ知らず、吉増氏は「詩人」なのだから。
2017年5月16日(火)~28日(日)午前11時~午後7時、月曜休み
テンポラリースペース(札幌市北区北16西5)
■吉増剛造展 怪物君(2013)
■詩の黄金の庭 吉増剛造展 (2008)
■詩の黄金の庭 吉増剛造展と「石狩シーツ」 (2008)
・地下鉄南北線「北18条駅」から約450メートル、徒歩6分
・中央バス「北18条西5丁目」から約310メートル、徒歩4分
吉増剛造さんは1960年代から活動を続ける詩人で、近年は活動の場を美術にも広げている。昨年、東京の国立近代美術館で個展が企画され、今年は札幌国際芸術祭への参加も決定している(会場は北大の総合博物館)。
詩についていえば、当初から長編詩への志向が強くあったと思う。1990年代以降、ルビやタイポグラフィの活用で、印刷技術の極限を試すかのような作品が多くなった。
テンポラリースペースからはeメールで次のような文章が来ていた。
前回「怪物君 歌垣」前々回「水機ヲル日」に続き花人村上仁美さん、
そして2回目「ノート君」以降常連の映像作家鈴木余位さんの参加を
今回も得て、ひとつの集大成のようにここでの展開が試みられます。
(中略)
今回鈴木余位さんは、昨年末の新宿ピットインでの吉増・大友良英
競演の映像をメインに映像で会場構成を、村上仁美さんは自宅・石狩河口
実家釧路近郷の湿原の石を素材に空間構成し参加します。
会場に行ってみると、入り口をふさぐように、低い台の上に、詩行らしきものが書かれた紙が4枚置かれていた。一般的な横長の原稿用紙ではなく、むしろ縦長に近い形状。
文字がおそろしく小さい上に、その上から絵の具がぶちまけられ、さらに白い絵の具の飛まつが散っていて、ほとんど判読できない。
会場の中央の床上には、低い円錐形の砂山が鎮座していた。
そして中央と、左手の壁には、上記のピットインでのライブ映像が流されている。
なお、この会場は、はしごで上った中二階にも作品が展示されることがよくあるが、今回は映写機が設置されているだけで、作品はないようだ。
結界のように台が置かれている上に、すでに会場内で2人がいすに腰掛けて映像を見ているので、入りづらかった。
絵の具で覆われた原稿を見ていると、疑問の念がわきあがってくるのを抑えることができない。
吉増剛造氏にとって「詩人」という肩書は何なのだろう。あるいは「詩」という媒体についてどう思っているのだろう。
すぐれた現代のアーティストは、表現手段に対してラジカルな問題意識を抱くことが多い。ジョン・ケージにせよ森山大道にせよジャンリュック・ゴダールにせよ、音楽や写真や映画そのものを根底から批判し否定しているように見える。しかし、いずれも、否定のままにとどまらず、住み慣れた土地にもどるように、それぞれの媒体へと戻っていく。
ジョン・ケージが4分33秒の後も沈黙を続けていればすでに音楽家ではないだろうし、カメラをテレビ画面などに向け続けた森山大道が再び街路に出てシャッターを押すことがないままだったらもう写真家とは呼べないだろう。どんなに根源的な問いを自作につきつけても、写真そのものは、最後の最後のところで、うたがったりしないのではないだろうか。
だとしたら、せっかく言葉をつむぎ、搾り出した原稿の紙を、ほとんど読めなくして提示するというのは、吉増氏は言葉を信じていないのだろうか。
こんなことを考える筆者が、保守的なのだろうか。
アートの目線の人はきっとあまりショックを受けないのだろうけど、筆者はことばを使う人間の目線で見るので、正直言って、こういうふうにことばをないがしろにしてほしくないと感じた。ほかの人ならいざ知らず、吉増氏は「詩人」なのだから。
2017年5月16日(火)~28日(日)午前11時~午後7時、月曜休み
テンポラリースペース(札幌市北区北16西5)
■吉増剛造展 怪物君(2013)
■詩の黄金の庭 吉増剛造展 (2008)
■詩の黄金の庭 吉増剛造展と「石狩シーツ」 (2008)
・地下鉄南北線「北18条駅」から約450メートル、徒歩6分
・中央バス「北18条西5丁目」から約310メートル、徒歩4分