まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

ペリー来航の日・・。

2008年07月14日 | 歴史
 今日も暑い一日になった。今から・・・暑い暑いというてても仕方がないが・・・しかしのかかし・・なんで・・こんなに暑いん??

 さて・・・、今日は・・・あの・・ペリーが上陸した記念日なんですと・・。

 1853(嘉永6)年、アメリカの四隻の黒船艦隊が江戸湾の浦賀沖に現れ、ペリー提督が久里浜に上陸して・・・、将軍への親書を手渡した日なんですと・・・。

 その・・・蒸気船をお茶の銘柄・「上喜撰」にかけて・・・「太平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜もねられず」などと・・狂歌に詠まれるほど、江戸の街は大混乱となった大事件・・・。

 

 幕府は、翌年のペリー再来に備えて品川沖に6基の砲台(台場)を作ったりしたが・・・、翌年に再来航したペリーとの間で「日米和親条約」が結ばれ、日本の鎖国が終った・・・というもの。

 

 幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの来航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことを目的とすることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。

 続いて同じく香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談する為に四日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは三日なら待とうと答え、さらに親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。

 

 このとき第十二代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、六月六日(同年7月11日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったため、嘉永六年六月九日(1853年7月14日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守がペリーと会見した。それが・・・今日という日にあたるらしい・・。

 ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰った。

 それからわずか十日後の六月二十二日(同年7月27日)に将軍家慶は死去すると、十三代将軍に家定が就いたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。そこで彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を聞こうとしたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった外様大名はよろこんだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、幕府の権威を下げるものであった。

 NHKの大河ドラマ、篤姫のお話もこのあたりだな・・・。

じゃぁ、また。

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