かつてはどこにでもあって、それが何の不思議でもなかったもので今やほとんど姿を消したもののひとつに灰皿がある。たばこ、あるいは喫煙そのものは違法ではないが(いまのところ)、健康上の問題から来る禁煙運動によって、今や喫煙できる場所を見つけるのは大変なことだ。さらに、喫煙者に向けられる目にも極めて厳しいものがある。
かつては嗜好品として社会的に認知されており、さらにファッションとしてももてはやされたことを考えるとここ2-30年の動きは実に劇的だ。禁煙運動は同時に灰皿の撤去につながっている。いまや、ホテルは全館禁煙が当たり前だし、したがって灰皿などは置かれていないところが多い。かつてはどこに行っても、灰皿があり、そこにはホテルやレストランの名前が誇らしげに彫り込まれていたことを考えると実に感慨深いものがある。ただ、今でも欧米の映画の中で喫煙のシーンが多くみられるのは不思議と言えば不思議だ。もっとも正義のヒーローなどは煙草を吸わない。むしろ悪役(として描かれているとき)は喫煙しているようだ。たとえば、(時代設定は古いが)テレビ映画「ダウントン・アビー」で、召使・従者のトーマス・バローと伯爵夫人付の侍女サラ・オブライエンのふたりが幾度となく謀議を巡らす時には二人が吸う煙草がその象徴的な仲立ちをしているように。
自分の学生時代、大多数の男子学生は煙草を吸っていた。学生たちが入りびたる近所の喫茶店はもうもうとした煙草の煙で充満していたし、そのころは「紫煙」などと言う洒落た言葉もそんな不健康な習慣を美化していたようだった。そんな光景は、今の学生にはたぶん信じがたいことだろう。なにしろ今ではたばこの煙は「毒煙」扱いだから。
自分も学生時代は何度か煙草を吸ったことがある。しかし、体が受け付けないというのか、いつの間にかすっかりやめてしまった。むしろ、煙が苦手なほうで、立て続けに何本も吸うような友人にとって時々苦情を言う自分は「煙たい存在だった」ように思う。思い出したのだが、そのころ、刑事訴訟法の教授が小部屋での講義中(ゼミ、と言われた少人数の授業)の最中いつもパイプをくゆらせていて、その匂いと煙でこちらの思考が中断されるどころか、脳細胞が破壊されるのではないかと心配になったことがあった。しかしその教授はまさに博覧強記、記憶力・理解力・文章力どれをとっても並外れたものを持っていたから煙草の煙が脳細胞を破壊するということはなかったのだろう、あるいは彼の脳細胞が煙なんかにはびくともしない強靭なものだったに違いない。さほど大きくもない部屋で、その教授の顔が煙の向こうでぼやけてしまっていたのを覚えている。今こんな教授がいたら間違いなく健康被害で訴えられているだろう。
もともと煙草は吸わないので自分の部屋に喫煙用の灰皿は置いていないのだが、記念品や贈り物として受け取った灰皿のいくつかは本棚の中にある。そのひとつが、自分が最初に働いていた、明治時代に建てられた厳めしいビルが建て替えになり、そのビルの床に使われていた、多分どこか外国から輸入したものであろう大理石を、ただ捨ててしてしまうのは忍びない、と言うことで花瓶台と灰皿にして希望者に安く頒布したもの。
もう40年以上も前のことで、この大理石の灰皿は一度も使われたことはない(自分の部屋にずっとあったのだから間違いない)。滑り止めに裏に張られた緑色のフェルト地もきれいなままだ。ここだけは時間が止まっているようにも思う。この灰皿も当時は沢山の吸い殻の受け皿となることが運命づけられていたはずだが。そしてこの灰皿があの建物のどこの部分だったのかは知る由もない。ただ、この灰皿、煙草を置くための溝が切られていない。と言うことは初めから実用的ではなかったのかもしれない~。