楽園
2013-06-20 | 日記
子供の頃、まだ小学校に上がる前の話である。
兄と一緒に兄の友達の家に遊びに行った。
そこで遊んでいるうちに喉が渇き、僕はその家の冷蔵庫からコーヒー牛乳を勝手に出して飲んだ。
それが見つかり、友達は許してくれたが兄には「ずうずうしい」と言われ親には「そんな事をしてはいけません」と言われた。
だがその時には何故それがいけないのかが分からなかった。
その時の自分を弁護するわけではないが、友達の家とか自分の家とかに関係なく、そこにある物をいただいただけなのに「それはいけません」と言う。
「じゃあ、誰か知らない人が来てあなたの家の物を勝手に取って行ったらイヤでしょう?」
それは大人の理論である。
当時の子供の(僕だけかもしれないが)理論では、仲の良い友達の家の食べ物は自分の物、逆に自分の家の物は友達の物なのだった。
さすがに大きくなるにつれ、他所の家の物を勝手に食べたりしなくなったが、僕の心の奥にはそういうところが今でもある。
特に食べ物に関しては、自分の物は人の物、人の物は自分の物なのだ。
家で取れる野菜や卵、これらはどんどん人にあげてしまう。
自分の物というより、大地からの授かり物であり、それはみんなで分かち合う物という感覚か。
頂き物もたくさんある。僕は全く遠慮なくありがたくいただく。
物をいただくと悪いとか申し訳ないと思う人がたまにいるが、それは無償の愛というものを知らないのでそうなる。
知っていれば「すみません」ではなく「ありがとう」という言葉になるはずだ。
我が家を訪れてくれた客人には腹いっぱい食わして飲ます。
遠慮をすると追い出す、と言うのが我が家のルールでもある。
もう十何年も前になるがタヒチに行った。
タヒチというのはロマンチックな所で、海に沈む夕日にやしの木のシルエットなんて、それだけでムード満点というような場所なのだ。
そこに何が悲しいのか、むさくるしい野郎2人で行った。
まあその時は昔の友達がタヒチに住んでいたので、そこの家に遊びに行ったわけだ。
そこで聞いた話が忘れられない。
タヒチというのは、木の実は豊富だし海の幸もいくらでも採れる。
気候は温暖で裸で生活ができる。
誰も働かなくても食っていけるし生活にも困らない、そういう場所なのだ。
人々の頭に貯蓄とか預金とか雇用とか定年とかそういう概念はなく、基本は日雇いで仕事をしてお金が入るとパーっと人に気前よくおごって全て使ってしまう。
仕事をしない時には人におごってもらう。
飲み食いは、その場でお金を持っている人が払う。
そういうライフスタイルで長い事やってきたそうな。
そこに中華系の人々がやってきた。
どうなったか?
中華系の人は資本主義の概念があるので、きっちりと貯金とか貯蓄とかをする。
おごられる事はあるだろうが、現地の人のように全て人におごってしまう、ということはしない。
そうなるとおごる人はバカバカしい、と思うようになる。当たり前だ。
こうやって楽園タヒチにも資本主義の概念がはびこっていった、というわけだ。
ここで言いたいのは、中華系の人を責めているわけではない。
ひょっとすると聞き間違いで、別の人達かもしれないがそれは何系だろうとあまり意味はない。
概念というものが根本的に違う人ということで、それを責めてもしかたがない。しゃあないやん。
君の立場で言えば君は正しい、のだから。
ただ自分の中では、貯蓄とかいう概念がなくあればあるだけ人におごってしまうタヒチ人に共感する所があったのだ。
それは遠いところで感じる魂の原点のような感覚か。
また話は脱線するが、親戚の叔父さんはニュージーランドが好きで一人で何回も何回もここに来ていた。
その叔父さんが以前こう言っていた。
「占い師に診てもらったらよ、『あなたのルーツは南の方にあります』だとよ。ひょっとしたら俺達の先祖は南太平洋から来ているのかもしれないぞ。お前だって南に来るとホッとするだろ?」
その時はふーんと聞き流したのだが、実際に僕は南に住んでしまった。
まあ南もここまで下がれば裸で暮らせる常夏の楽園ではなく、装備をしっかりしないと凍え死んでしまうような場所だが、南は南である。
タヒチでは先に友達が帰り、その後一人で島めぐりをした。
物価が高かったので離れ小島へ行く船も豪華な観光用ではなく、地元の人が使う貨物船に乗った。
日本人がこの船に乗るのは初めてだってらしく、わざわざ僕を見に来る人もいた。
何のプランも立てずに離れ小島に行ったのだが、その船で出会った兄弟と仲良くなり、その家に招かれた。
そのまま僕はその家に転がり込み1週間ほど滞在した。
家族と同じように朝昼晩とご飯を食べ、昼はその辺の海で泳ぎ、夜は子供の部屋で寝たのだが、滞在費を払えと言われた事はなかった。
それでも何かしなきゃあなと思い、島に唯一ある店でパンとかコーヒーとかをどっさり買って家に持っていったら、それが当たり前という感じで母親は食料を棚にしまった。
誤解が無いように言うが、その時の母親の態度は「家にタダで泊めさせているのだからこれぐらい当たり前」なのではなく「お金を持っている人が食料を買うのは当たり前」というような、話で聞いた通りの感じだった。
こういったことは強制なのではなく心の奥から湧き出て起こす行動なのだ。
食料を差し入れする前も後も、家族の僕に対する態度の変化は全くなかった。
『持っている人が出す』この考えに生まれて初めて僕は触れた。
最近読んだ本でマヤ文明やアステカ文明のことについて書いてあった。
そこでは[Give & Take]なのではなく[Give & Give]だったそうな。
Give & Takeの考えとは、『私がこれだけ払いましたよ、あなたもどれだけ払いなさい。同じ分だけ払いましたね。では同じ分だけ取りましょう』もしくは『私はあなたの倍、払いました。なので持っていくものもあなたの2倍です。』簡単に言うとこうだ。
Give & Giveは違う。『私はこれだけさしあげます。そしてこれとこれが必要なのでもらっていきます。』もしくは『私はこれだけ差し上げます。だけど今は必要なものはないので何も要りません。」あるいは『私は差し上げる物がありません。でもこれが必要なのでもらっていきます』こんなことも許される。
「お前は何も払っていないじゃないか。それで必要な物を持っていくだと。ずうずうしいにもほどがある。」
なんてケチくさいことは言わない。
全ての人が必要な分はあり、奪い合うをすることなく、各自が必要な分だけ持っていく。
そして必要でない分も持っていく欲張りはいない。
「そんな事を言うのなら誰も働かなくなる」と言う人がいたら、それは自分の心の裏返しである。
労働というものを本当はイヤだけど仕方なくやっているという考えの人はそう思うかもしれない。
その社会では仕事は、強制されることなく自分ができることをやる。
興味深いことに、そこでは何もしないでブラブラしている人もいたそうな。
どのような社会でも2割は真面目な人、6割は普通の人、そしてあとの2割は不真面目なと言ってはなんだが何もしない人、こういうような構成になっているらしい。
これは動物や昆虫の世界でも同じで、働きアリというのは全てが働いているのではない。
2割ぐらいは何もしないアリがいる。
ひょっとすると人間には分からないけど、周りを応援しているのかもしれない。
ためしにそのブラブラしているのをそのグループから排除すると、いままで働いていたアリの2割ぐらいがブラブラ組に入る。
排除しておいたブラブラ組をグループに戻すとちゃんと働き出して、全体の2割ぐらいがブラブラする。
人間でも同じこと、というのをアステカやマヤの人達は知っていて、ブラブラ組を受け入れる社会を作っていた。
「働かざる者、食うべからず」ではなく「いいじゃん、働きたくなかったらその気になるまでブラブラしていなよ」
というノリだったのだな。
それにブラブラ組の中には子供や老人もいただろう。
身体障害者もいたかもしれない。
身体障害者がいるグループは、全体が思いやりのある優しいグループになる、というのは定説だ。
音楽家や芸術家なんてものも、人間以外から見ればブラブラ組だろうが社会には必要だ。
そういう色々な人が自分のペースで生活をしていくというのが認められるような社会、それがマヤ文明やアステカ文明、それに日本でも縄文時代はそういう社会だった。
そういう文明はテレビも電話もインターネットも無かったが(もっと高度なものがあったかもしれないが)、通勤ラッシュも残業もストレスも無かった。
これこそが僕が夢見ている、お金のない国だ。
地球上でもそういう社会は作れるのである。
「でもね・・・、そうは言っても・・・」という言葉には
「うるせー、デモもストもあるか!できると言ったらできるんだよ」と言いたい。
「そんな事言っても、この世界では・・・」
「あなたは現実を見ていない」
「理想論だ」
「それはいいと思うけど・・・」
もうそんな言葉はうんざりだ。
今の世の中でそれができないのは、経済というものが『全ての人に富を分配した時にどうしても足りなくなる』という事が基盤になっている。
これが理由の一つである。あくまで一つであって全てではない。
さらにそれを追及するとロスチャイルドとかフリーメーソンとかイルミナティとかボロボロ出てくるがそれだけではない。
そうやって『悪いのはあいつだ』と言って人を責め続ける心がある限り、この社会は変わらない。
反戦運動をやっていても戦争はなくならないし、原発に反対しても原発はなくならない。
その心の奥を覗くと、そこには『恐れ』があるからだ。
『恐れ』が原動力にある限り全てうまく行かない。
そして支配者はその『怖れ』を巧みに利用する。
支配されている人は、それに気がつかない。気がついても気がつかないふりをする。
怖れを持つということは恥ずかしいことであり、勇敢では無い、という男性的な意見もあるだろう。
スピリチュアル系で女性が多いというのはそこにも一理あるかもしれない。
男にしろ女にしろその『怖れ』から目を背けていては何も始まらない。
それは自分で見つめなくてはならない。
このあたりはエゴと同じである。
まだ悩む人はマシだ。
そこから逃げる人は無関心へと進む。
愛と一番かけ離れた状態が無関心である。
「そんなの、自分には関係ないもんね」「どこかの誰かがやるでしょう」「俺は知らないよ」
残念な事に、今の地球上の大多数の人がこうである。
なので今の社会がある。
今、見えている世界とは全人類が選んだ結果だ。
そして希望としては気がつき始めている人もかなりの数、生まれてきている。
ではこれからどうすればいいのか?
簡単なこと。
愛である。
「またそれですか?」という声が聞こえてくるが、それが唯一の原則なので仕方がない。
愛に基づく行動は全て上手く行く。怖れとは反対だ。
一番簡単で一番シンプルなことは、一番複雑で一番難しい。
そして人間が考えた事は良くも悪くも全て現実化される。
これからの世界ががどうなるかは、全て僕たちの思考の先にある。
楽園になると思えば楽園になる。
僕はそう思っている。
さて、あなたはどうですか?
兄と一緒に兄の友達の家に遊びに行った。
そこで遊んでいるうちに喉が渇き、僕はその家の冷蔵庫からコーヒー牛乳を勝手に出して飲んだ。
それが見つかり、友達は許してくれたが兄には「ずうずうしい」と言われ親には「そんな事をしてはいけません」と言われた。
だがその時には何故それがいけないのかが分からなかった。
その時の自分を弁護するわけではないが、友達の家とか自分の家とかに関係なく、そこにある物をいただいただけなのに「それはいけません」と言う。
「じゃあ、誰か知らない人が来てあなたの家の物を勝手に取って行ったらイヤでしょう?」
それは大人の理論である。
当時の子供の(僕だけかもしれないが)理論では、仲の良い友達の家の食べ物は自分の物、逆に自分の家の物は友達の物なのだった。
さすがに大きくなるにつれ、他所の家の物を勝手に食べたりしなくなったが、僕の心の奥にはそういうところが今でもある。
特に食べ物に関しては、自分の物は人の物、人の物は自分の物なのだ。
家で取れる野菜や卵、これらはどんどん人にあげてしまう。
自分の物というより、大地からの授かり物であり、それはみんなで分かち合う物という感覚か。
頂き物もたくさんある。僕は全く遠慮なくありがたくいただく。
物をいただくと悪いとか申し訳ないと思う人がたまにいるが、それは無償の愛というものを知らないのでそうなる。
知っていれば「すみません」ではなく「ありがとう」という言葉になるはずだ。
我が家を訪れてくれた客人には腹いっぱい食わして飲ます。
遠慮をすると追い出す、と言うのが我が家のルールでもある。
もう十何年も前になるがタヒチに行った。
タヒチというのはロマンチックな所で、海に沈む夕日にやしの木のシルエットなんて、それだけでムード満点というような場所なのだ。
そこに何が悲しいのか、むさくるしい野郎2人で行った。
まあその時は昔の友達がタヒチに住んでいたので、そこの家に遊びに行ったわけだ。
そこで聞いた話が忘れられない。
タヒチというのは、木の実は豊富だし海の幸もいくらでも採れる。
気候は温暖で裸で生活ができる。
誰も働かなくても食っていけるし生活にも困らない、そういう場所なのだ。
人々の頭に貯蓄とか預金とか雇用とか定年とかそういう概念はなく、基本は日雇いで仕事をしてお金が入るとパーっと人に気前よくおごって全て使ってしまう。
仕事をしない時には人におごってもらう。
飲み食いは、その場でお金を持っている人が払う。
そういうライフスタイルで長い事やってきたそうな。
そこに中華系の人々がやってきた。
どうなったか?
中華系の人は資本主義の概念があるので、きっちりと貯金とか貯蓄とかをする。
おごられる事はあるだろうが、現地の人のように全て人におごってしまう、ということはしない。
そうなるとおごる人はバカバカしい、と思うようになる。当たり前だ。
こうやって楽園タヒチにも資本主義の概念がはびこっていった、というわけだ。
ここで言いたいのは、中華系の人を責めているわけではない。
ひょっとすると聞き間違いで、別の人達かもしれないがそれは何系だろうとあまり意味はない。
概念というものが根本的に違う人ということで、それを責めてもしかたがない。しゃあないやん。
君の立場で言えば君は正しい、のだから。
ただ自分の中では、貯蓄とかいう概念がなくあればあるだけ人におごってしまうタヒチ人に共感する所があったのだ。
それは遠いところで感じる魂の原点のような感覚か。
また話は脱線するが、親戚の叔父さんはニュージーランドが好きで一人で何回も何回もここに来ていた。
その叔父さんが以前こう言っていた。
「占い師に診てもらったらよ、『あなたのルーツは南の方にあります』だとよ。ひょっとしたら俺達の先祖は南太平洋から来ているのかもしれないぞ。お前だって南に来るとホッとするだろ?」
その時はふーんと聞き流したのだが、実際に僕は南に住んでしまった。
まあ南もここまで下がれば裸で暮らせる常夏の楽園ではなく、装備をしっかりしないと凍え死んでしまうような場所だが、南は南である。
タヒチでは先に友達が帰り、その後一人で島めぐりをした。
物価が高かったので離れ小島へ行く船も豪華な観光用ではなく、地元の人が使う貨物船に乗った。
日本人がこの船に乗るのは初めてだってらしく、わざわざ僕を見に来る人もいた。
何のプランも立てずに離れ小島に行ったのだが、その船で出会った兄弟と仲良くなり、その家に招かれた。
そのまま僕はその家に転がり込み1週間ほど滞在した。
家族と同じように朝昼晩とご飯を食べ、昼はその辺の海で泳ぎ、夜は子供の部屋で寝たのだが、滞在費を払えと言われた事はなかった。
それでも何かしなきゃあなと思い、島に唯一ある店でパンとかコーヒーとかをどっさり買って家に持っていったら、それが当たり前という感じで母親は食料を棚にしまった。
誤解が無いように言うが、その時の母親の態度は「家にタダで泊めさせているのだからこれぐらい当たり前」なのではなく「お金を持っている人が食料を買うのは当たり前」というような、話で聞いた通りの感じだった。
こういったことは強制なのではなく心の奥から湧き出て起こす行動なのだ。
食料を差し入れする前も後も、家族の僕に対する態度の変化は全くなかった。
『持っている人が出す』この考えに生まれて初めて僕は触れた。
最近読んだ本でマヤ文明やアステカ文明のことについて書いてあった。
そこでは[Give & Take]なのではなく[Give & Give]だったそうな。
Give & Takeの考えとは、『私がこれだけ払いましたよ、あなたもどれだけ払いなさい。同じ分だけ払いましたね。では同じ分だけ取りましょう』もしくは『私はあなたの倍、払いました。なので持っていくものもあなたの2倍です。』簡単に言うとこうだ。
Give & Giveは違う。『私はこれだけさしあげます。そしてこれとこれが必要なのでもらっていきます。』もしくは『私はこれだけ差し上げます。だけど今は必要なものはないので何も要りません。」あるいは『私は差し上げる物がありません。でもこれが必要なのでもらっていきます』こんなことも許される。
「お前は何も払っていないじゃないか。それで必要な物を持っていくだと。ずうずうしいにもほどがある。」
なんてケチくさいことは言わない。
全ての人が必要な分はあり、奪い合うをすることなく、各自が必要な分だけ持っていく。
そして必要でない分も持っていく欲張りはいない。
「そんな事を言うのなら誰も働かなくなる」と言う人がいたら、それは自分の心の裏返しである。
労働というものを本当はイヤだけど仕方なくやっているという考えの人はそう思うかもしれない。
その社会では仕事は、強制されることなく自分ができることをやる。
興味深いことに、そこでは何もしないでブラブラしている人もいたそうな。
どのような社会でも2割は真面目な人、6割は普通の人、そしてあとの2割は不真面目なと言ってはなんだが何もしない人、こういうような構成になっているらしい。
これは動物や昆虫の世界でも同じで、働きアリというのは全てが働いているのではない。
2割ぐらいは何もしないアリがいる。
ひょっとすると人間には分からないけど、周りを応援しているのかもしれない。
ためしにそのブラブラしているのをそのグループから排除すると、いままで働いていたアリの2割ぐらいがブラブラ組に入る。
排除しておいたブラブラ組をグループに戻すとちゃんと働き出して、全体の2割ぐらいがブラブラする。
人間でも同じこと、というのをアステカやマヤの人達は知っていて、ブラブラ組を受け入れる社会を作っていた。
「働かざる者、食うべからず」ではなく「いいじゃん、働きたくなかったらその気になるまでブラブラしていなよ」
というノリだったのだな。
それにブラブラ組の中には子供や老人もいただろう。
身体障害者もいたかもしれない。
身体障害者がいるグループは、全体が思いやりのある優しいグループになる、というのは定説だ。
音楽家や芸術家なんてものも、人間以外から見ればブラブラ組だろうが社会には必要だ。
そういう色々な人が自分のペースで生活をしていくというのが認められるような社会、それがマヤ文明やアステカ文明、それに日本でも縄文時代はそういう社会だった。
そういう文明はテレビも電話もインターネットも無かったが(もっと高度なものがあったかもしれないが)、通勤ラッシュも残業もストレスも無かった。
これこそが僕が夢見ている、お金のない国だ。
地球上でもそういう社会は作れるのである。
「でもね・・・、そうは言っても・・・」という言葉には
「うるせー、デモもストもあるか!できると言ったらできるんだよ」と言いたい。
「そんな事言っても、この世界では・・・」
「あなたは現実を見ていない」
「理想論だ」
「それはいいと思うけど・・・」
もうそんな言葉はうんざりだ。
今の世の中でそれができないのは、経済というものが『全ての人に富を分配した時にどうしても足りなくなる』という事が基盤になっている。
これが理由の一つである。あくまで一つであって全てではない。
さらにそれを追及するとロスチャイルドとかフリーメーソンとかイルミナティとかボロボロ出てくるがそれだけではない。
そうやって『悪いのはあいつだ』と言って人を責め続ける心がある限り、この社会は変わらない。
反戦運動をやっていても戦争はなくならないし、原発に反対しても原発はなくならない。
その心の奥を覗くと、そこには『恐れ』があるからだ。
『恐れ』が原動力にある限り全てうまく行かない。
そして支配者はその『怖れ』を巧みに利用する。
支配されている人は、それに気がつかない。気がついても気がつかないふりをする。
怖れを持つということは恥ずかしいことであり、勇敢では無い、という男性的な意見もあるだろう。
スピリチュアル系で女性が多いというのはそこにも一理あるかもしれない。
男にしろ女にしろその『怖れ』から目を背けていては何も始まらない。
それは自分で見つめなくてはならない。
このあたりはエゴと同じである。
まだ悩む人はマシだ。
そこから逃げる人は無関心へと進む。
愛と一番かけ離れた状態が無関心である。
「そんなの、自分には関係ないもんね」「どこかの誰かがやるでしょう」「俺は知らないよ」
残念な事に、今の地球上の大多数の人がこうである。
なので今の社会がある。
今、見えている世界とは全人類が選んだ結果だ。
そして希望としては気がつき始めている人もかなりの数、生まれてきている。
ではこれからどうすればいいのか?
簡単なこと。
愛である。
「またそれですか?」という声が聞こえてくるが、それが唯一の原則なので仕方がない。
愛に基づく行動は全て上手く行く。怖れとは反対だ。
一番簡単で一番シンプルなことは、一番複雑で一番難しい。
そして人間が考えた事は良くも悪くも全て現実化される。
これからの世界ががどうなるかは、全て僕たちの思考の先にある。
楽園になると思えば楽園になる。
僕はそう思っている。
さて、あなたはどうですか?