波長
2013-06-02 | 日記
波長というものがある。
全ての物、空気でも水でも光でも物質でも生き物でも波によって構成されている。
その波の長さを波長という。
波長には高いものもあれば低いものもあり、形もまちまちである。
波長の動きのことを波動と言い、あの宇宙戦艦ヤマトにも波動砲がついている。
世の中の動きは全て波動であり、人間から見た良いも悪いも波動のことなのである。
波動には面白い性質がある。
同調と言って、ある周波数の波を弱いエネルギーでも発信すると離れた所でもそれを受信することができる。
ラジオ、テレビ、無線通信、携帯電話、こういったものはその性質を利用している。
人間も同じこと。
よく『馬が合う』とか『息が合う』などと言うが、これは同調していることなのだ。
そして同調している物は引き寄せあう、引き寄せの法則もある。
ポジティブな人にはポジティブな人が、ネガティブな人にはネガティブな人がやってくる。
人間は自分自身が一番見えにくいものなので、周りの人を見て自分自身を見る。
他人は自分を映す鏡なのだ。
音楽をやっていて分かるのだが、技術的に優れて音楽の志向が似た人でもセッションが気持ちよくない時がある。
これは馬が合わないのであり、無理にやっていてもダメだろう。
逆に馬が合う人とは、アドリブで適当にやったりして途中でつっかえたりしても楽しいセッションとなる。
これがバンドとなれば、いろいろな人が入るのでそれが顕著に現れる。
波というものは常に動いているものなので、どんなに息の合ったバンドでも解散する。
ストーンズのように何十年も同じメンバーでやっているのは、これまたスゴイと思う。
では馬が合わない人とはどうすればいいか。
必要以上つき合わないだけ。
シンプルだ。
大切なのは相手を否定しない。
その人にはその人のやり方がある。
人は人、自分は自分なのだ。
「君の立場で言えば君は正しい、僕の立場で言えば僕は正しい」とボブデュランも言っている。
例え相手がどんなに間違ったように見えても、それを責めては同じ穴のムジナになるだけだ。
人として間違った行動をすれば、それはブーメランの法則によって自分に還ってくる。
僕はひどいニュースなどを見ると腹が立つより、その犯人という人が可哀そうになってくる。
だって、それは自分に還ってくるから。
個人だけの話ではない、国家もそうだ。
中国もアメリカも今まで散々な事をやってきて(今もまだやってるけど)、これから大変だろうなあ、可哀そうに、と思う。
でもそれは自分達のツケなので、自分達で支払わなければならない。
可哀そうだが仕方がない。
僕はテレビを一切見ない。
情報はネットで仕入れる。
ネットのいい所は情報をこちらで選べるということだろう。
ここでも波長の合う合わない、というものはある。
もっともらしいことを書いてあっても『なんとなく違うなあ』と思うものはあるし、逆に『そうじゃそうじゃ、おまん良く言った』と拍手喝采を送る時もある。
友人は別にして見ず知らずの人のブログで好きなのは In Deep
これと同じ人が書いている 宇宙の中の地球と太陽系の記録
そして天下泰平。
一般のニュースは見ないが、このブログは毎日見る。
こういったネット上の情報は真実もあれば嘘八百もある。
もちろん洗脳目的のものもあるし、人を利用しようと作為的にうまーくカモフラージュされたものもある。
どれを選ぶかは自分の判断と責任であり、『ここでこう言っていたから信じたのに』という言い訳は通用しない。
ネットにはとんでもない話もたくさん出てくるが、何を見ても聞いても『まあ、そんな事もあるかもね』と話半分ぐらいで聞くぐらいで良いのではないかと思う。
どんな情報でも100%で信じてしまったら、新興宗教にはまる人と同じ事だ。
そして「そんな事は絶対無い、インチキだ」と全否定してもいけないと思う。
あくまで話半分。
なので僕の『あおしろみどりくろ』も話半分で読んでもらって結構。
ある日、この二つのブログと僕の考えが同調した。
富士山と世界遺産のお話である。
天下泰平の『富士山と世界遺産と真実の歴史』
そして同じ日のIn Deepの記事『富士山はもう日本を守らない』
僕は富士山を見て育った。
僕の部屋の窓からは常に富士山が見えていたし、そこにあって当たり前の存在だった。
その山が世界遺産になるらしい。
ここらで自分の意見をはっきり言おう。
僕は世界遺産というものがきらいである。
「世界遺産は素晴らしい。人類が作り上げた遺産を残すように活動することが何故悪い?」
という人はこれ以上読まないように。
世界遺産になっている場所や建造物などはそれはそれで素晴らしいものだ。
僕が働いている場所も世界遺産だし、マチュピチュやイースター島など、今までにそういう場所へも行った。
ただ世界遺産というブランドに踊らされる風潮、それを変にありがたがる中身の無い人達、それをあおるマスコミ、そしてブランドを利用した利権と金にむらがる亡者達。
こういったことがきらいなのだ。
以前、キウィの仕事仲間が言っていた。
「世界遺産なんてものは、どこかの誰かが線を引いて決めたものだ。そんな物ができるはるか以前からここの自然はある。世界遺産だからありがたがるなんてのはおかしい。」
全く同感である。
こんな毒を吐くと、正義の塊の優等生みたいな人はこう言う。
「でも放っておいたら、それは壊されたり環境破壊なんかで傷ついたり失われてしまうかもしれないでしょ。だからこうやってガイドラインを決めてみんなで守っていかなきゃ」
正論だな。正論すぎて虫唾が走るぜ。
そんなことで失われるなら、それまでのもの。
そこに執着があるからそうなる。
なくなったら?しゃあないやん。
素晴らしいものを作り上げ、その大切さが分からずに滅んでいく。
愚かな人間がやることならば、しゃあないやん。
世界遺産だから、国立公園だから大切にするのではない。
どんな場所でもゴミは捨てない。落ちていれば拾う。
どんな場所でも無意味な殺生をしない。
これが原点である。
ちなみに僕は「国立公園だから・・・」という言い方もきらいである。
世界遺産になった時から人が押し寄せ荒らされてしまった、という話はよく聞く。
特に日本人は物事の芯をつかむのが苦手である。なので世界的な権威に弱い。
さらにマスコミがそれに輪をかけてあおる。
以前見たプログラムでは司会の人が『世界遺産に認定されることがどんなに素晴らしいことであり、どんなに名誉であるか』ということを延々と話していて、僕は途中でイヤになって消してしまった。
テレビを見る層というのは何も考えずテレビの言う事を鵜呑みにするので、「そうか世界遺産ってのはすごいんだな」と思う。
それまでは見向きもしなかったものでも「じゃあ世界遺産なんだから見に行くか」という流れになるだろう。
そうなると旅行会社は『世界遺産を巡るツアー』なんてものも企画するだろう。
今回はついつい毒を吐いてしまったが、ガイドの仕事の時にはこういう話はしない。
『世界遺産を巡る旅』みたいなサブタイトルが付いたツアーでこんな話をしようものなら、添乗員は怒ってクレームになるだろうし、お客さんだって良い思いはしないだろう。
真実を突きつけられると人間は傷つくのだ。
なので僕のガイドの時の話し方は、この国の自然の素晴らしさを語るけれど、世界遺産だからすごいというようなことは言わない。
ぼくだって多少の社会性は身に付けている。
過去に余計な事を言ってクレームをもらった事もある。口は災いの元だ。
まあふだんこういうことを考えて生きている時に、この二つのブログが同じ日に同調したわけだ。
「そんなの偶然じゃん?」という人はそう思えばいい。
僕にとって全ては必然であり、偶然はない。
僕はこのブログの人達は知らないし、これから出会わないかもしれないけれど心の奥で繋がる何かを感じるのだ。
同じ街にいて挨拶ぐらいは交わすが何のつながりも感じない人もいる。
別の場所にいようが、心の奥で繋がっている友人もたくさんいる。
最近ではネットやFBのおかげで友人達がどういうことをやっているか、どういうものを見ているか、どういう美味い物を食べたのか知ることができる。
その喜びは自分の喜びだ。
同時に僕の喜びも彼らの喜びである。
幸せのバイブレーションは時間や空間を越えて伝わる。
全て同調、自分がどういう波長を発信するかで決まる。
つまるところは自分の心の奥にカギがあるということだ。
全ての物、空気でも水でも光でも物質でも生き物でも波によって構成されている。
その波の長さを波長という。
波長には高いものもあれば低いものもあり、形もまちまちである。
波長の動きのことを波動と言い、あの宇宙戦艦ヤマトにも波動砲がついている。
世の中の動きは全て波動であり、人間から見た良いも悪いも波動のことなのである。
波動には面白い性質がある。
同調と言って、ある周波数の波を弱いエネルギーでも発信すると離れた所でもそれを受信することができる。
ラジオ、テレビ、無線通信、携帯電話、こういったものはその性質を利用している。
人間も同じこと。
よく『馬が合う』とか『息が合う』などと言うが、これは同調していることなのだ。
そして同調している物は引き寄せあう、引き寄せの法則もある。
ポジティブな人にはポジティブな人が、ネガティブな人にはネガティブな人がやってくる。
人間は自分自身が一番見えにくいものなので、周りの人を見て自分自身を見る。
他人は自分を映す鏡なのだ。
音楽をやっていて分かるのだが、技術的に優れて音楽の志向が似た人でもセッションが気持ちよくない時がある。
これは馬が合わないのであり、無理にやっていてもダメだろう。
逆に馬が合う人とは、アドリブで適当にやったりして途中でつっかえたりしても楽しいセッションとなる。
これがバンドとなれば、いろいろな人が入るのでそれが顕著に現れる。
波というものは常に動いているものなので、どんなに息の合ったバンドでも解散する。
ストーンズのように何十年も同じメンバーでやっているのは、これまたスゴイと思う。
では馬が合わない人とはどうすればいいか。
必要以上つき合わないだけ。
シンプルだ。
大切なのは相手を否定しない。
その人にはその人のやり方がある。
人は人、自分は自分なのだ。
「君の立場で言えば君は正しい、僕の立場で言えば僕は正しい」とボブデュランも言っている。
例え相手がどんなに間違ったように見えても、それを責めては同じ穴のムジナになるだけだ。
人として間違った行動をすれば、それはブーメランの法則によって自分に還ってくる。
僕はひどいニュースなどを見ると腹が立つより、その犯人という人が可哀そうになってくる。
だって、それは自分に還ってくるから。
個人だけの話ではない、国家もそうだ。
中国もアメリカも今まで散々な事をやってきて(今もまだやってるけど)、これから大変だろうなあ、可哀そうに、と思う。
でもそれは自分達のツケなので、自分達で支払わなければならない。
可哀そうだが仕方がない。
僕はテレビを一切見ない。
情報はネットで仕入れる。
ネットのいい所は情報をこちらで選べるということだろう。
ここでも波長の合う合わない、というものはある。
もっともらしいことを書いてあっても『なんとなく違うなあ』と思うものはあるし、逆に『そうじゃそうじゃ、おまん良く言った』と拍手喝采を送る時もある。
友人は別にして見ず知らずの人のブログで好きなのは In Deep
これと同じ人が書いている 宇宙の中の地球と太陽系の記録
そして天下泰平。
一般のニュースは見ないが、このブログは毎日見る。
こういったネット上の情報は真実もあれば嘘八百もある。
もちろん洗脳目的のものもあるし、人を利用しようと作為的にうまーくカモフラージュされたものもある。
どれを選ぶかは自分の判断と責任であり、『ここでこう言っていたから信じたのに』という言い訳は通用しない。
ネットにはとんでもない話もたくさん出てくるが、何を見ても聞いても『まあ、そんな事もあるかもね』と話半分ぐらいで聞くぐらいで良いのではないかと思う。
どんな情報でも100%で信じてしまったら、新興宗教にはまる人と同じ事だ。
そして「そんな事は絶対無い、インチキだ」と全否定してもいけないと思う。
あくまで話半分。
なので僕の『あおしろみどりくろ』も話半分で読んでもらって結構。
ある日、この二つのブログと僕の考えが同調した。
富士山と世界遺産のお話である。
天下泰平の『富士山と世界遺産と真実の歴史』
そして同じ日のIn Deepの記事『富士山はもう日本を守らない』
僕は富士山を見て育った。
僕の部屋の窓からは常に富士山が見えていたし、そこにあって当たり前の存在だった。
その山が世界遺産になるらしい。
ここらで自分の意見をはっきり言おう。
僕は世界遺産というものがきらいである。
「世界遺産は素晴らしい。人類が作り上げた遺産を残すように活動することが何故悪い?」
という人はこれ以上読まないように。
世界遺産になっている場所や建造物などはそれはそれで素晴らしいものだ。
僕が働いている場所も世界遺産だし、マチュピチュやイースター島など、今までにそういう場所へも行った。
ただ世界遺産というブランドに踊らされる風潮、それを変にありがたがる中身の無い人達、それをあおるマスコミ、そしてブランドを利用した利権と金にむらがる亡者達。
こういったことがきらいなのだ。
以前、キウィの仕事仲間が言っていた。
「世界遺産なんてものは、どこかの誰かが線を引いて決めたものだ。そんな物ができるはるか以前からここの自然はある。世界遺産だからありがたがるなんてのはおかしい。」
全く同感である。
こんな毒を吐くと、正義の塊の優等生みたいな人はこう言う。
「でも放っておいたら、それは壊されたり環境破壊なんかで傷ついたり失われてしまうかもしれないでしょ。だからこうやってガイドラインを決めてみんなで守っていかなきゃ」
正論だな。正論すぎて虫唾が走るぜ。
そんなことで失われるなら、それまでのもの。
そこに執着があるからそうなる。
なくなったら?しゃあないやん。
素晴らしいものを作り上げ、その大切さが分からずに滅んでいく。
愚かな人間がやることならば、しゃあないやん。
世界遺産だから、国立公園だから大切にするのではない。
どんな場所でもゴミは捨てない。落ちていれば拾う。
どんな場所でも無意味な殺生をしない。
これが原点である。
ちなみに僕は「国立公園だから・・・」という言い方もきらいである。
世界遺産になった時から人が押し寄せ荒らされてしまった、という話はよく聞く。
特に日本人は物事の芯をつかむのが苦手である。なので世界的な権威に弱い。
さらにマスコミがそれに輪をかけてあおる。
以前見たプログラムでは司会の人が『世界遺産に認定されることがどんなに素晴らしいことであり、どんなに名誉であるか』ということを延々と話していて、僕は途中でイヤになって消してしまった。
テレビを見る層というのは何も考えずテレビの言う事を鵜呑みにするので、「そうか世界遺産ってのはすごいんだな」と思う。
それまでは見向きもしなかったものでも「じゃあ世界遺産なんだから見に行くか」という流れになるだろう。
そうなると旅行会社は『世界遺産を巡るツアー』なんてものも企画するだろう。
今回はついつい毒を吐いてしまったが、ガイドの仕事の時にはこういう話はしない。
『世界遺産を巡る旅』みたいなサブタイトルが付いたツアーでこんな話をしようものなら、添乗員は怒ってクレームになるだろうし、お客さんだって良い思いはしないだろう。
真実を突きつけられると人間は傷つくのだ。
なので僕のガイドの時の話し方は、この国の自然の素晴らしさを語るけれど、世界遺産だからすごいというようなことは言わない。
ぼくだって多少の社会性は身に付けている。
過去に余計な事を言ってクレームをもらった事もある。口は災いの元だ。
まあふだんこういうことを考えて生きている時に、この二つのブログが同じ日に同調したわけだ。
「そんなの偶然じゃん?」という人はそう思えばいい。
僕にとって全ては必然であり、偶然はない。
僕はこのブログの人達は知らないし、これから出会わないかもしれないけれど心の奥で繋がる何かを感じるのだ。
同じ街にいて挨拶ぐらいは交わすが何のつながりも感じない人もいる。
別の場所にいようが、心の奥で繋がっている友人もたくさんいる。
最近ではネットやFBのおかげで友人達がどういうことをやっているか、どういうものを見ているか、どういう美味い物を食べたのか知ることができる。
その喜びは自分の喜びだ。
同時に僕の喜びも彼らの喜びである。
幸せのバイブレーションは時間や空間を越えて伝わる。
全て同調、自分がどういう波長を発信するかで決まる。
つまるところは自分の心の奥にカギがあるということだ。