あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

犬の靴

2013-06-26 | 日記
犬のココが前足をいつまでもいつまでも舐めている。
なんだろう、と思って見てみると肉球がベロリとはげあがって血がにじんでいた。
散歩の時にココは嬉しくて自転車をグイグイ引っ張るのだが、どうやらそれでやってしまったらしい。
そういえば、今日はココがちょっと遅かったなあ、と思い出した。
人間ならばここが痛い、と言うが犬はじっと耐えてペロペロと舐めるのみ。
けな気で可哀そうである。
「獣医に連れて行かなきゃ」と騒ぐ娘を抑えて応急処置。
我が家には特効薬のマヌカ蜂蜜がある。
薬として使う蜂蜜なので純度の高い(値段も高い)ヤツなのだ。
僕がやけどをした時も、口内炎もこれで治した。
この蜂蜜には抗菌作用もあり、今ではお医者さんもこれを薬として処方する。
蜂蜜をガーゼに塗り傷口に当て包帯を巻く。
だてに昔スキーパトロールをしていたわけではない。
娘は明日獣医に連れて行く、と言っているが獣医に行っても何ができるわけでなし。
抗生物質を飲ますぐらいか。
というわけでしばらく様子を見ることにした。

応急処置の基本は傷口の保護である。
これはガーゼと包帯で終了。
いやがって取らないように娘の古い靴下をその上に履かせた。
そしてその後、どうするか考えた。
これでそのまま歩けば、すぐにボロボロになる。
人間で言えば足の裏の皮がはがれたようなものだ。
人間は靴をはく。
靴を履かせたら傷口の保護にもなるな。
赤ちゃん用の靴で自分で作れないかな、と思ったが人間の足と犬の足は構造が違う。
散歩なんかしたらすぐに脱げてしまうだろう。
こういう時はネットである。
今まで犬用の靴なんて考えもしなかったが、検索をしたら出るわ出るわ。
サンダルからスニーカーからブーツまで。
中には滑りにくいビブラムソールの靴なんてものもある。
いやはや、自分が知らないだけでこういう世界もあるんだなあ。
と言うのも、犬に服を着させる人がいるのも知っているが、自分ではそういうことをやらないと思っていたからだ。
だが今回は違う。
見た目の為のおしゃれではなく、足を保護するための物である。
いろいろと調べると、災害現場でも救助犬の足を保護するために靴を履かせる事があるそうな。もっともだ。
僕も町でココと散歩をしている時にガラス瓶が割れて散乱しているような場所で、足を切らないかなと思ったこともあった。
買ってもいいかな。
心にピンと来た。
そうなったら、やっぱりいいヤツ。
あのビブラムソールのヤツだろう。
ケガをしている前足だけだから二つでいいな。四つは必要ない。
でも、ついでに靴下も買っちゃえ。
あーあ、バカな飼い主だな。
毎度あり、ちーん。
翌日、荷物が届いた
便利な世の中になったものだ。



数日間、雨が降り続いた事もあるがココは家でおとなしくしていた。
傷口を舐めると治りが遅くなる、と聞いたことがあるので舐めないようにエリザベスカラーという首の周りにつける物も作ろうとした。
そこでふと疑問に思った。
本当に舐めると治りが遅くなるのかな?
治りが遅いから舐めるんじゃないのか?
舐めるから治りが遅くなる、という事は証明できないよな。
同じ固体で同時に実験できないんだし。
野生動物は舐めて治すよな。
傷を舐めるのは動物の本能だよな。
その本能を止めさせてしまうのはどうか?
次から次へと疑問が湧き上がる。
そこで再びネット登場。
色々調べてみた。
一番多い話は「舐めさせない方が良い」ということだがどうもピンと来ない。
そのうちにもっともらしく「それが元で別の病気になる可能性も」などという話もでてくる。
だがどうも心に響かない。
あたりさわりのない言葉が並び、本質から外れているような気がする。
よくよく考えてみればネット上の情報なんてのは、このブログも含め便所の落書きだ。
誰が書いているか分からない落書きで本質うんぬんなんて言う方がどうにかしているのか、と思ったらスッと入るページが見つかった。

動物が傷口を舐める科学的理由

この人がどんな人かは全然知らないが、一字一句最後の一行まで同意である。
自分が漠然と考えていたことを他人が文字にするとこうなるのだな。
これで治療の方針は決まった。
舐めたいのならば舐めさす。
さらに舐めている時に、マヌカハニーを患部に塗ってあげる。
舐めて不味い薬より美味しい蜂蜜の方が喜ぶだろう。抗菌作用もあるみたいだし。
それでひどくなるのならばその時に考えよう。
そしてこの行動の結果は全て自分の責任として受け入れよう、と決意した。
あのブログでこう書いてあったから、という言い訳は通用しない。
便所の落書きを読み、それを選んだのは自分である。
そして全ての行動の責任は自分にある。



似たような話がもう一つある。
犬を飼い始めてまもなくの頃である。
犬に何を与えるか、という話になった。
鶏の骨は喉にささり危険だからあげてはいけない、という話をどこかで聞いた。
そこでまた、おかしいなあ、と思ったのだ。
子供の頃、我が家では鶏の丸焼きなどをやると、においを嗅ぎつけて近所の犬が来て骨を喜んでバリバリ食べていたのを思い出した。
あれはいけないことだったのかなあ。
こちらも調べるとすぐに出てくる。
ほとんどの意見は問題なし。
さらに見ると、それはペットフード会社が作った話だ、という僕が好きな陰謀論まで出てきた。
ただしそれが元で死ぬこともあるようだが、犬の窒息死の1割が鶏の骨、1割が豚の骨、残り8割がおもちゃなんだと。
ここでも方針が決まった。
バリバリ骨を食わそう。
1割の危険を恐れて好物の鶏の骨をあげないのは可哀そうだ。
もしそれが原因で死ぬのなら、それはそういう運命だとあきらめてもらおう。
これは犬に限らず、全ての危険は排除する考えに反対する僕の想いだ。
「危ないからやめなさい」「なにかあったらどうするの」そういう言葉に対しては「くそったれ」であり、死を含む全ての結末を自分の責任として受け入れる覚悟なのである。
人間だろうが動物だろうが必ず死はやってくる。
その死を怖れるあまり、生きている今という時を犠牲にしていないだろうか。
今さえよければいいという考えではない。
これからやってくるかもしれない全ての物事を受け入れる覚悟で、今何をすべきか考え行動する。
これも愛なのだ。



ココの傷はみるみる良くなり、靴が要らなくなるのも時間の問題だ。
動物が持っている自然治癒力とはすごいものだ。
もちろん人間だって持っている。
先ずは自分の治癒力ありき、それを助けるための医療だと僕は思う。
平たく言えば、治るヤツは放っておいても治るし、治らないヤツは何をしても治らない。
ついでに言えば、バカは死ななきゃ治らないのだ。
生老病死、この言葉に全て詰まっている通り。
そしてそこから目を背けないこと。
それが今を生きるということだ。

コメント (2)
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