「自分にできることをやりなさい。」
僕が人によく言う言葉である。
自分自身にもこの言葉を投げかけているのだが、最近読んだ本ではこの言葉を堀下げていた。
『自分ができる事をやる』と『自分のためにできる事をやる』は違うんだと。
なるほどね。
前者の行為は世のため人のためにであるが、後者は自分のために。
結局自分中心のエゴから抜け出せないというわけだ。
この世で人が克服しなくてはならないものに『エゴ』というものがある。
『自分さえ良ければいい』という考えである。
父はことあるごとに「自分さえ良ければいいと思うな」と言っていた。
子供の頃からそうやって育てられたことに今は感謝である。
『自分さえ良ければいい』という想いは『自分の家族さえよければいい』というものへ繋がる。
そして『自分の家族と友達さえよければいい』へと変り『自分の所属する社会や組織や会社さえよければいい』へ繋がる。
そしてそれが大きくなれば『自分の国さえ良ければいい』となり戦争へ発展する。
大国のエゴというものも個人のエゴから始まっているのだ。
自分もしくは自分が所属する家族や社会とそれ以外。
そういう線を引いてその内と外に分ける考え。
その輪が大きくなったり小さくなったりするが、輪の大小に限らず常に自分が中心というのが中華思想なのではないか。
日本は輪でなく和だな。
今はちょっと違うけど。
自分にできることをやる、ということは徹底的に自分自身を見つめることから始まる。
自分を知らずして、行動はできない。
これからの世で必要不可欠なことは、自分の内側と向き合う内向にある。
それも生半可なものではなく、自分が目を背けたくなる自分自身のイヤな所を見なくてはいけない。
それをなくしての前進はない。
そこから目を背けていれば、ズバリそれを突きつけられたときに、正当化や言い訳、逆切れ、無視や無関心を装った逃げへ走る。
よくある逃げが他人との比較だ。
他人を見ている限り、自分は見えない。
見るのは他人ではなく、自分自身だ。
そうやって心の奥のドロドロしたもの、イヤなものに光を当てる。
楽な作業ではない。
できることならそのまま放っておいて、このまま蓋をかぶせておきたい。
だがその殻を割るのは自分でなければならない。
光を当てた途端にエゴは消滅する。
エゴとしては消滅したくないために、他人を引き合いにだしたり、そこに関心を向けさせないようなもの(エンターテイメントなど)を用意する。
目を覚ませ。
自分自身を見て、その上で『自分にできること』をやるのだ。
そのうちに『自分にしかできないもの』が見えてくるはずだ。
他人を気にするな。
惑わされるな。
答は全て自分の心にある。
その答こそ、人を支配しようとしている者が怖れるもの。
即ち『愛』である。
愛が全て。
愛とは自分の心である。
愛とは喜びである。
愛とは自分も他人もないワンネスである。
愛とはゴミ拾いである。
愛とは全宇宙である。
愛とはSEXである。
愛とは神である。
愛とは空である。
愛とは無である。
愛とは旨い料理である。
愛とは宇宙人である。
愛とは庭の野菜である。
愛とは人との繋がりである。
愛とは心である。
愛が全て。
僕が人によく言う言葉である。
自分自身にもこの言葉を投げかけているのだが、最近読んだ本ではこの言葉を堀下げていた。
『自分ができる事をやる』と『自分のためにできる事をやる』は違うんだと。
なるほどね。
前者の行為は世のため人のためにであるが、後者は自分のために。
結局自分中心のエゴから抜け出せないというわけだ。
この世で人が克服しなくてはならないものに『エゴ』というものがある。
『自分さえ良ければいい』という考えである。
父はことあるごとに「自分さえ良ければいいと思うな」と言っていた。
子供の頃からそうやって育てられたことに今は感謝である。
『自分さえ良ければいい』という想いは『自分の家族さえよければいい』というものへ繋がる。
そして『自分の家族と友達さえよければいい』へと変り『自分の所属する社会や組織や会社さえよければいい』へ繋がる。
そしてそれが大きくなれば『自分の国さえ良ければいい』となり戦争へ発展する。
大国のエゴというものも個人のエゴから始まっているのだ。
自分もしくは自分が所属する家族や社会とそれ以外。
そういう線を引いてその内と外に分ける考え。
その輪が大きくなったり小さくなったりするが、輪の大小に限らず常に自分が中心というのが中華思想なのではないか。
日本は輪でなく和だな。
今はちょっと違うけど。
自分にできることをやる、ということは徹底的に自分自身を見つめることから始まる。
自分を知らずして、行動はできない。
これからの世で必要不可欠なことは、自分の内側と向き合う内向にある。
それも生半可なものではなく、自分が目を背けたくなる自分自身のイヤな所を見なくてはいけない。
それをなくしての前進はない。
そこから目を背けていれば、ズバリそれを突きつけられたときに、正当化や言い訳、逆切れ、無視や無関心を装った逃げへ走る。
よくある逃げが他人との比較だ。
他人を見ている限り、自分は見えない。
見るのは他人ではなく、自分自身だ。
そうやって心の奥のドロドロしたもの、イヤなものに光を当てる。
楽な作業ではない。
できることならそのまま放っておいて、このまま蓋をかぶせておきたい。
だがその殻を割るのは自分でなければならない。
光を当てた途端にエゴは消滅する。
エゴとしては消滅したくないために、他人を引き合いにだしたり、そこに関心を向けさせないようなもの(エンターテイメントなど)を用意する。
目を覚ませ。
自分自身を見て、その上で『自分にできること』をやるのだ。
そのうちに『自分にしかできないもの』が見えてくるはずだ。
他人を気にするな。
惑わされるな。
答は全て自分の心にある。
その答こそ、人を支配しようとしている者が怖れるもの。
即ち『愛』である。
愛が全て。
愛とは自分の心である。
愛とは喜びである。
愛とは自分も他人もないワンネスである。
愛とはゴミ拾いである。
愛とは全宇宙である。
愛とはSEXである。
愛とは神である。
愛とは空である。
愛とは無である。
愛とは旨い料理である。
愛とは宇宙人である。
愛とは庭の野菜である。
愛とは人との繋がりである。
愛とは心である。
愛が全て。