常識
2013-06-09 | 日記
「そんなの常識じゃん。当たり前だろ。」
と言われた事が誰にでもあるだろう。
「いや、本当にそうなのか?」
「そうだよ。常識なんだから」
はい、以上それまで。会話終了。
そこから先はない。
その常識とは一体何か?誰が言い始めたのか、定かでないまま僕達は常識というものに縛られている。
まずその常識というものは時代背景によっても変わる。
極端な例では、中世では大地を中心に空が回る天動説が常識だった。
地動説を唱えるガリレオなど非常識もいいところ。
とんでもない大馬鹿者だった。
「この大地が回るなんて、そんな事は絶対にない」
誰もがそう考えていた。それが常識だからだ。
近いところでは、僕が子供の頃に少年野球をやっていた。
当時は努力、根性、忍耐というような巨人の星みたいな話が常識であり、練習中に水を飲むことは許されなかった。
それが当時の常識だったのだ。
この常識という物、時代でも変われば社会でも変わる。
当然ながらどこかの誰かが作り上げた話、意図的に操作された話が常識となる場合もある。
人間は猿から進化した。常識である。
でも僕は言いたい。
「それは本当ですか?」
こうなってくると今の科学の根底まで疑ってしまい、どこからどこまで信じていいか分からなくなってしまう。
でも『分からない』という答もありなのではないか。
分からなくても考えて行動するという事が大切なのではないかと。
子供の頃ずーっと思っていた、『何故、自分は生まれてきたんだろう』という問いと同じ。
答は出ない。出ないが、だからといって捨ててしまうことなく考え続ける。
これと同じように常識を疑い、わからないままに生きていく。
それが人間なのではないか。
さてこの常識、どれにも共通することだが常識をくつがえすことは『絶対ない』のである
この「絶対にない」そういう考えが危ない。
人と話したりして「そんな事は絶対にない」と言う人とはそこまでの関係で、心の奥底でつながる事は無いだろう。
それは真実というものを覆い隠している常識に囚われているからだ。
歴史というものもそうである。
娘の歴史の教科書をパラパラ眺めていて思ったね。
「これって本当かなあ」
僕は子供の頃から歴史が好きではなかった。
学校の先生との相性が悪かったということもあったが、なんとなく好きではなかった。
その理由が今分かるような気がする。
歴史とは勝者の理論である。
敗者の声は抹殺される。
幕末の話だって、ほとんどは明治になって政府で活躍した人の話だ。
そりゃ幕末の志士はヒーローさ。
徳川幕府は悪で明治維新は善という勧善懲悪の筋書きで、アメリカのハリウッド映画と同じだ。
でもその裏で動いていたアメリカとかイギリスの動きはほとんど出てこない。
ひょっとしたら幕末の志士達も利用されていたのかもしれない。
近代史のページになっても、戦争は悲惨なものです、というのを強調して日本が悪かったという話ばかりだ。
こうやってWGIP(War Guilt Information Program)は今も続いている。
僕だってこういう裏事情は小林よしのりの『戦争論』を読んで初めて知った。
その本を全て鵜呑みにするわけではないが、そこから自分なりに出した答は、『日本も悪いところがあったが、それを言うなら欧米だって、他のアジアの国だって全て悪かった。同時に全て正しい。問題は悪とか善ではなく、その裏には歴史に出てこない真実というものがある』というものだ。
その上で言う。
今ある歴史は捏造されたものである。
そしてほとんどの人にとってはそれが常識である。
僕は世間一般の常識というものに囚われないように心がけている。
でも人に言われたりブログで人の話を読むまで、知らず知らずのうちに常識に囚われていることもある。
そんな時は深く省みて、自分を正すのだ。
世間一般の常識に囚われないので、どんな突拍子もないことを言われても話半分で「まあそんなこともあるかもね」である。
「私は実は宇宙人で、地球を救うためにやってきました」「まあそんなこともあるかもね」
「日本の震災は人工地震だって」「まあそんなこともあるかもね」
「牛乳は実は体に悪いんだって」「まあそんなこともあるかもね」
「地球の中は実は空洞で、そこには地底人が住んでいるのです」「まあそんなこともあるかもね」
「太陽の裏側には地球とそっくりな星があり、向こうはこちら側の存在を知っているけど、こちら側からは全く知られていないのです」「まあそんなこともあるかもね」
「ムー大陸とアトランティス大陸は本当にあって、魔法と科学で戦争をして滅亡した」「まあそんなこともあるかもね」
「昆虫は地球上の生物を増やすために宇宙からやってきた」「まあそんなこともあるかもね」
「この先ポールシフトが起こり北と南と西と東が逆になる」「まあそんなこともあるかもね」
「明日、世界は破滅します」「まあそんなこともあるかもね」
「月には本当にウサギが住んでいるのです」「まあそんなこともあるかもね」
こうなってくると何が正しくて何が間違っているか、訳が分からなくなる。
バカボンパパが言う。「それでいいのだ」
正しい、間違っている、という概念さえもこの先では存在しない。
全ては正しく、同時に全ては間違っている。
自分が知っていることとは、自分は何も知らないということである。
そうして分からないまま、今日という日を生きていくのだ。
と言われた事が誰にでもあるだろう。
「いや、本当にそうなのか?」
「そうだよ。常識なんだから」
はい、以上それまで。会話終了。
そこから先はない。
その常識とは一体何か?誰が言い始めたのか、定かでないまま僕達は常識というものに縛られている。
まずその常識というものは時代背景によっても変わる。
極端な例では、中世では大地を中心に空が回る天動説が常識だった。
地動説を唱えるガリレオなど非常識もいいところ。
とんでもない大馬鹿者だった。
「この大地が回るなんて、そんな事は絶対にない」
誰もがそう考えていた。それが常識だからだ。
近いところでは、僕が子供の頃に少年野球をやっていた。
当時は努力、根性、忍耐というような巨人の星みたいな話が常識であり、練習中に水を飲むことは許されなかった。
それが当時の常識だったのだ。
この常識という物、時代でも変われば社会でも変わる。
当然ながらどこかの誰かが作り上げた話、意図的に操作された話が常識となる場合もある。
人間は猿から進化した。常識である。
でも僕は言いたい。
「それは本当ですか?」
こうなってくると今の科学の根底まで疑ってしまい、どこからどこまで信じていいか分からなくなってしまう。
でも『分からない』という答もありなのではないか。
分からなくても考えて行動するという事が大切なのではないかと。
子供の頃ずーっと思っていた、『何故、自分は生まれてきたんだろう』という問いと同じ。
答は出ない。出ないが、だからといって捨ててしまうことなく考え続ける。
これと同じように常識を疑い、わからないままに生きていく。
それが人間なのではないか。
さてこの常識、どれにも共通することだが常識をくつがえすことは『絶対ない』のである
この「絶対にない」そういう考えが危ない。
人と話したりして「そんな事は絶対にない」と言う人とはそこまでの関係で、心の奥底でつながる事は無いだろう。
それは真実というものを覆い隠している常識に囚われているからだ。
歴史というものもそうである。
娘の歴史の教科書をパラパラ眺めていて思ったね。
「これって本当かなあ」
僕は子供の頃から歴史が好きではなかった。
学校の先生との相性が悪かったということもあったが、なんとなく好きではなかった。
その理由が今分かるような気がする。
歴史とは勝者の理論である。
敗者の声は抹殺される。
幕末の話だって、ほとんどは明治になって政府で活躍した人の話だ。
そりゃ幕末の志士はヒーローさ。
徳川幕府は悪で明治維新は善という勧善懲悪の筋書きで、アメリカのハリウッド映画と同じだ。
でもその裏で動いていたアメリカとかイギリスの動きはほとんど出てこない。
ひょっとしたら幕末の志士達も利用されていたのかもしれない。
近代史のページになっても、戦争は悲惨なものです、というのを強調して日本が悪かったという話ばかりだ。
こうやってWGIP(War Guilt Information Program)は今も続いている。
僕だってこういう裏事情は小林よしのりの『戦争論』を読んで初めて知った。
その本を全て鵜呑みにするわけではないが、そこから自分なりに出した答は、『日本も悪いところがあったが、それを言うなら欧米だって、他のアジアの国だって全て悪かった。同時に全て正しい。問題は悪とか善ではなく、その裏には歴史に出てこない真実というものがある』というものだ。
その上で言う。
今ある歴史は捏造されたものである。
そしてほとんどの人にとってはそれが常識である。
僕は世間一般の常識というものに囚われないように心がけている。
でも人に言われたりブログで人の話を読むまで、知らず知らずのうちに常識に囚われていることもある。
そんな時は深く省みて、自分を正すのだ。
世間一般の常識に囚われないので、どんな突拍子もないことを言われても話半分で「まあそんなこともあるかもね」である。
「私は実は宇宙人で、地球を救うためにやってきました」「まあそんなこともあるかもね」
「日本の震災は人工地震だって」「まあそんなこともあるかもね」
「牛乳は実は体に悪いんだって」「まあそんなこともあるかもね」
「地球の中は実は空洞で、そこには地底人が住んでいるのです」「まあそんなこともあるかもね」
「太陽の裏側には地球とそっくりな星があり、向こうはこちら側の存在を知っているけど、こちら側からは全く知られていないのです」「まあそんなこともあるかもね」
「ムー大陸とアトランティス大陸は本当にあって、魔法と科学で戦争をして滅亡した」「まあそんなこともあるかもね」
「昆虫は地球上の生物を増やすために宇宙からやってきた」「まあそんなこともあるかもね」
「この先ポールシフトが起こり北と南と西と東が逆になる」「まあそんなこともあるかもね」
「明日、世界は破滅します」「まあそんなこともあるかもね」
「月には本当にウサギが住んでいるのです」「まあそんなこともあるかもね」
こうなってくると何が正しくて何が間違っているか、訳が分からなくなる。
バカボンパパが言う。「それでいいのだ」
正しい、間違っている、という概念さえもこの先では存在しない。
全ては正しく、同時に全ては間違っている。
自分が知っていることとは、自分は何も知らないということである。
そうして分からないまま、今日という日を生きていくのだ。