新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
というわけで2023年である。
今は元旦、見事に晴れ上がり、風もなく穏やかな朝。
大晦日は友達が家に来て飲めや食えやで酔いつぶれて寝てしまい、ちょっとだけ酒が残っている薄ぼんやりした状態でこれを書いている。
この場で発表するが、去年まで働いていた葡萄畑をクリスマスで辞め、大晦日までツアーがありそのツアーを無事終えた。
葡萄畑の仕事を辞めた理由はロックじゃないから。
それ以上はここでは書かない。
辞める日まできっちりと葡萄と向き合う仕事をして、そのままツアーの仕事に突入した。
来年の事を話すと鬼が笑う、という言葉を理由に先の事は考えず、その瞬間ごとに自分がやるべき事に集中してきた。
ツアーはおおむね天気にも恵まれ、お客さんとも良い関係が築けた。
雨で予定が変わった時には、なんとなく立ち寄った町で年に一度の競馬が開催されており、お客さんも生まれて初めて馬券を買うという貴重な体験をした。
こういう番狂わせというか、ハプニングというか、予定外の出来事を楽しめるかどうかは、その人の人生観や生き様によって変わる。
予定から外れることを不快に感じる人はいるだろうし、それはその人の選択なのであーだこーだ言う気は一切ない。
自分はそういったハプニングは大好きで、これぞ人生の醍醐味と考えてしまう。
とにもかくにもツアーは順調でお客さんにも満足してもらい、自分なりに良い仕事ができた。
そして年が明けた。
2022年の大晦日までばっちりと仕事が入っていて、その後は何も決まっていない、というのも何か示唆しているような気がする。
なんとなく白紙の状態、ニュートラルな状態に自分を置いてみたかった。
そうすることにより次に進む道が開けてくる、というのは今までにいくらでもあった。
何かしらの目標を持ってそれに向かって進むというのは良いことであろう。
だが全ての人にそれが当てはまるわけでもない。
ニュートラルな状態に自分を置く恐れから、無理やり方向を決めて進もうとしても根底に恐れという感情がある限り上手く行かないような気がするのだ。
激動の時は続いており、社会はすごいスピードで変化をしている。
歴史を学んで大切だと思ったことは、状況を認識することの大切さ。
だが状況認識という行為はとんでもなく難しいことでもある。
黒船が来たと言って騒いでいた時に、その後の明治維新をどれだけの人が予測できたであろう。
今の状況もそれと大して変りはしない。
そんな時だからこそ、心を鎮め自分の内側と繋がるのだ。
そして状況を見極めつつ、瞬間ごとに自分がやるべきことをやる。
アフガニスタンで亡くなった中村哲先生の座右の銘でもある『一隅を照らす』というのはそういうことなのだろうと僕は解釈する。
この先に自分がどういう状況に置かれるのか、同時に社会がどう変わっていくのか。
何も分からないし、分からないから面白いとも言える。
一つ言えることは、自分は何も心配はしていないし恐れてもいない。
かと言ってこのまま全てが上手くいくとも思っていない。
今後も数々の問題は発生し続けることだろうし、血も流れるし、多くの命が失われる事だろう。
だがそういった事を乗り越え人類は進み、新しい世界が開けていく事を信じる。
具体的な事柄は何一つ分からないが、面白い事が起きるような予感は常に感じる。
しかしまあ何だろうねこの根拠のない自信は。
それこそ根拠がないので誰にも説明はできない、けれど直感を信じる先にある明るい光が見えるのだ。
そして自分が想像する事とは懸け離れたところからやってくる自分が進むべき道。
最近はそんなことだらけで、自分があんなことになるのかなこんなのとになるのかな、と考えてみてもそれをあざ笑うかのごとく目の前に別の道が現れる。
例えてみると、自分が目標に向かって歩いていたら急に大雨が降り出し目の前にとても渡れないような川ができ、同時にその川の下をくぐるようなトンネルが口を開き、そこを進んでいったら異世界にたどり着いてしまった。
そんな具合だろうか。
このワクワク感は年を重ねるごとに大きくなりそのスピードは加速している。
洗濯機の中でかき回されているような社会は、状況を見据えるのは非常に困難であるというのは先にも書いた。
そのためにも一度立ち止まって、周りを見回してみようと思う。
きっと今まで見えていなかった物が見えるようになる気がする。
そんなことを元日の朝に思いついた。
この年が皆様にとって良い年でありますように。
2023年 元旦
北村 聖
本年もよろしくお願い致します。
というわけで2023年である。
今は元旦、見事に晴れ上がり、風もなく穏やかな朝。
大晦日は友達が家に来て飲めや食えやで酔いつぶれて寝てしまい、ちょっとだけ酒が残っている薄ぼんやりした状態でこれを書いている。
この場で発表するが、去年まで働いていた葡萄畑をクリスマスで辞め、大晦日までツアーがありそのツアーを無事終えた。
葡萄畑の仕事を辞めた理由はロックじゃないから。
それ以上はここでは書かない。
辞める日まできっちりと葡萄と向き合う仕事をして、そのままツアーの仕事に突入した。
来年の事を話すと鬼が笑う、という言葉を理由に先の事は考えず、その瞬間ごとに自分がやるべき事に集中してきた。
ツアーはおおむね天気にも恵まれ、お客さんとも良い関係が築けた。
雨で予定が変わった時には、なんとなく立ち寄った町で年に一度の競馬が開催されており、お客さんも生まれて初めて馬券を買うという貴重な体験をした。
こういう番狂わせというか、ハプニングというか、予定外の出来事を楽しめるかどうかは、その人の人生観や生き様によって変わる。
予定から外れることを不快に感じる人はいるだろうし、それはその人の選択なのであーだこーだ言う気は一切ない。
自分はそういったハプニングは大好きで、これぞ人生の醍醐味と考えてしまう。
とにもかくにもツアーは順調でお客さんにも満足してもらい、自分なりに良い仕事ができた。
そして年が明けた。
2022年の大晦日までばっちりと仕事が入っていて、その後は何も決まっていない、というのも何か示唆しているような気がする。
なんとなく白紙の状態、ニュートラルな状態に自分を置いてみたかった。
そうすることにより次に進む道が開けてくる、というのは今までにいくらでもあった。
何かしらの目標を持ってそれに向かって進むというのは良いことであろう。
だが全ての人にそれが当てはまるわけでもない。
ニュートラルな状態に自分を置く恐れから、無理やり方向を決めて進もうとしても根底に恐れという感情がある限り上手く行かないような気がするのだ。
激動の時は続いており、社会はすごいスピードで変化をしている。
歴史を学んで大切だと思ったことは、状況を認識することの大切さ。
だが状況認識という行為はとんでもなく難しいことでもある。
黒船が来たと言って騒いでいた時に、その後の明治維新をどれだけの人が予測できたであろう。
今の状況もそれと大して変りはしない。
そんな時だからこそ、心を鎮め自分の内側と繋がるのだ。
そして状況を見極めつつ、瞬間ごとに自分がやるべきことをやる。
アフガニスタンで亡くなった中村哲先生の座右の銘でもある『一隅を照らす』というのはそういうことなのだろうと僕は解釈する。
この先に自分がどういう状況に置かれるのか、同時に社会がどう変わっていくのか。
何も分からないし、分からないから面白いとも言える。
一つ言えることは、自分は何も心配はしていないし恐れてもいない。
かと言ってこのまま全てが上手くいくとも思っていない。
今後も数々の問題は発生し続けることだろうし、血も流れるし、多くの命が失われる事だろう。
だがそういった事を乗り越え人類は進み、新しい世界が開けていく事を信じる。
具体的な事柄は何一つ分からないが、面白い事が起きるような予感は常に感じる。
しかしまあ何だろうねこの根拠のない自信は。
それこそ根拠がないので誰にも説明はできない、けれど直感を信じる先にある明るい光が見えるのだ。
そして自分が想像する事とは懸け離れたところからやってくる自分が進むべき道。
最近はそんなことだらけで、自分があんなことになるのかなこんなのとになるのかな、と考えてみてもそれをあざ笑うかのごとく目の前に別の道が現れる。
例えてみると、自分が目標に向かって歩いていたら急に大雨が降り出し目の前にとても渡れないような川ができ、同時にその川の下をくぐるようなトンネルが口を開き、そこを進んでいったら異世界にたどり着いてしまった。
そんな具合だろうか。
このワクワク感は年を重ねるごとに大きくなりそのスピードは加速している。
洗濯機の中でかき回されているような社会は、状況を見据えるのは非常に困難であるというのは先にも書いた。
そのためにも一度立ち止まって、周りを見回してみようと思う。
きっと今まで見えていなかった物が見えるようになる気がする。
そんなことを元日の朝に思いついた。
この年が皆様にとって良い年でありますように。
2023年 元旦
北村 聖
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