ニュージーランド南島では秋が深まってきた。
秋とは深まるものなのだ。日本語は美しい。
4月も半ばにさしかかると紅葉の時期だ。
日本では紅葉だが、こちらでは同じ『こうよう』でも黄葉である。
ポプラや柳などがまっ黄色に染まる。
人が住んでいる街では葉っぱが赤くなる木も植えていて色とりどりの紅葉が見られるが、郊外ではほとんどの場所で黄色一色である。
これはこれで美しく、ボクはこの時期の景色が好きだ。
クライストチャーチから南下していくコースでは南に下るにつれ黄色が鮮やかに映える。
昼と夜の温度差の関係なのだろうか。
地域によっての変化を感じ取れるとドライブをしていても楽しい。
今回のツアーではTwizelという、だだっ広い荒野の中にポツリとある小さな町に泊まった。
町自体たいした見所があるわけではないが、ここも何気に生えている木々が黄葉をしている。
翌朝、ボクは朝日が昇る時間に合わせ散歩に出た。
人間には体内時計というものがある。
この体内時計と実際の時計ではズレがある。
実際の時間では25時間ぐらいあるとちょうどいいそうな。
だが1日は24時間である。
このズレをどうすればいいか?
答は太陽にある。
お日様の光というのはそのズレを調整してくれる役割がある。
特に日の出からの1時間と日の入りまでの1時間はその作用が強いと言う。
朝日と夕日、この時間帯はボクが一番好きな時である。
普段の生活でも、よくこの時間の太陽に手を合わせて拝む。
なるほどな。この話を聞いて妙に納得した。
ボクは早寝早起きである。
太陽の昇る数時間前に起きて、太陽が沈んだ数時間後に寝る。
ボクの生活のリズムは太陽に深く関係している。
なので日が長い夏などは、太陽に付き合って遊びすぎて疲れてしまうことがよくある。
ともあれ、日の出と日の入りの話は妙に説得力があり、自分の背中を押してくれるような心地良さがあった。
東の空が白からオレンジへと変わり黄金の太陽が彼方の山から顔を出してきた。
山に囲まれた場所では日の光が当たるのは、日が昇ってかなりの時間が経ってからということもあるが、平野ではかなり低い位置から日が昇る。
この瞬間の太陽は美しく、そして荘厳である。
自然と手を合わさり、頭はやや下がり、目は閉じる。
太陽を神とする宗教が生まれるのが分かる。
池からは水蒸気が上がり、水辺の木々の黄色に日の光が差し黄金色に輝く。
1日のうちの一番美しい瞬間だと思う。
この瞬間この場所に自分の身を置けること。これがツアーの醍醐味だ。
そしてこういうことを感じる幸せは常に自分の中にある。
日が昇るに連れ黄金色は薄くなり、普段の秋の一日が始まった。
いつものことながら自然が作り出す色というものは一瞬のものだ。
消えてなくなってしまうはかないもの、だからこそその瞬間の中に喜びがある。
今日も良い1日になりそうだ。
秋晴れの空を見上げて、ボクは再び太陽に手を合わせた。
ツアーは進む。
リンディス峠を越えるとセントラルオタゴ、オタゴ中央部である。
殺伐とした山にポプラが点在し、水辺には柳が並ぶ。
ここもこの時期が一番美しい。
色とりどりの派手さはないが、シンプルな美しさがある。
オータム・ゴールド。黄金の秋とは以前働いていた会社がこの時期限定でやっていたツアーの名称だ。
金で栄えたこの地域と黄金色の黄葉をかけあわせた名前だ。
日本のゴールデンウィークに合わせツアーを組むわけだが、5月に入ると木々は葉を落とし枯葉ツアーとなってしまう。
ガイド同士でも「あの辺りにはまだ葉っぱが残っていた」などと言い合いながら仕事をしたこともあった。
クィーンズタウン近郊の湖、レイク・ヘイズもこの時が一番美しく、絵葉書にもなっている。
風がないと水面に景色が映る。何百回も見た景色だがこの季節はやっぱり綺麗だ。
そしてアロータウン。
アロータウンはちょうどオータム・フェスティバルの真っ最中。
マーケットの出店も出てるし、クラッシックカーのパレードもある。
クラッシックカーに乗る人は老人が多いのだが、こういう人たちは皆生き生きした顔をしている。
古い車はメンテナンスも大変だろう。
便利さだけを追求する世の中で、古い物を大切に使い続ける心。
最も古い車などはホイールが木製、きっと当時は一つ一つ手作りだったのだろう。
骨董品の部類に入って博物館に飾ってあってもおかしくないほどの代物だ。
他人から見れば苦労と映るかもしれないが、本人がそれを楽しみと感じてしまえば全て丸く収まってしまう。
根底には機械に対する愛がある。
機械だって博物館の片隅で埃をかぶっているより、こうやってたまに動かしてもらって晴れ舞台で活躍したほうが嬉しいだろう。
生き生きとした顔の老人は老後の不安を感じさせず、いくつになってもその時の自分にできることで人生を楽しむという夢を人々に与える。
これで雨が降ろうものならピカピカにみがいた愛車もせっかくの一張羅も台無しだが、愛にあふれる人達の集まりでは天気も味方してくれて無風快晴。言う事なしだ。
アロータウンの紅葉は、赤黄緑が混ざる紅葉でこれもまた綺麗である。
色とりどりの木々に囲まれた山あいの小さな町に、古い車のエンジン音が響く。
これもまた風情があってよろしい。
街から出ればそこは再び黄葉の世界だ。
ポプラ並木を西日が照らす。黄色が映える時間だ。
ボクは日本の秋、特に夕暮れ時が好きではなかった。
西に沈む真っ赤な夕日、そしてカラスの声とお寺の鐘の音、葉を落とした柿の木に真っ赤な柿がぶら下がってる景色、物悲しくて涙が出そうだ。
いかにも日本というような情緒あふれる時なのだが、子供のころからこの時期は嫌いだった。
楽しかった夏休みが終わってしまうような寂しさ。そして学校が始まるというのに宿題を全くやっていないような憂鬱感。
ボクの場合はそこに繋がる。
ともあれ日本の秋というのは物悲しく、とことん寂しく、情緒にあふれ、そしてこの上も無く美しい。
ニュージーランドの秋はそこまでウェットではない。
ニュージーランド人のようにドライで明るく、あっけらかんと太陽は西に沈む。
夕日があまり赤くならないというのも一つの理由だろう。
太陽は黄金色の輝きを失わないまま、ストンと山の向こうに落ちてしまう。
情緒を感じる間もない早業である。
木々は急速に色を失い、日が沈んだ後の山の稜線がくっきりと浮かび上がり、星が瞬きはじめる。
日本的な物悲しさは一切ない。あたりまえだ、ここは日本ではない。
だがここの秋を見ながら、日本の秋を思い浮かべてしまうのは自分が年を重ねてきた証拠か。
ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの。
嗚呼やっぱりボクは日本人のやうだ。
秋とは深まるものなのだ。日本語は美しい。
4月も半ばにさしかかると紅葉の時期だ。
日本では紅葉だが、こちらでは同じ『こうよう』でも黄葉である。
ポプラや柳などがまっ黄色に染まる。
人が住んでいる街では葉っぱが赤くなる木も植えていて色とりどりの紅葉が見られるが、郊外ではほとんどの場所で黄色一色である。
これはこれで美しく、ボクはこの時期の景色が好きだ。
クライストチャーチから南下していくコースでは南に下るにつれ黄色が鮮やかに映える。
昼と夜の温度差の関係なのだろうか。
地域によっての変化を感じ取れるとドライブをしていても楽しい。
今回のツアーではTwizelという、だだっ広い荒野の中にポツリとある小さな町に泊まった。
町自体たいした見所があるわけではないが、ここも何気に生えている木々が黄葉をしている。
翌朝、ボクは朝日が昇る時間に合わせ散歩に出た。
人間には体内時計というものがある。
この体内時計と実際の時計ではズレがある。
実際の時間では25時間ぐらいあるとちょうどいいそうな。
だが1日は24時間である。
このズレをどうすればいいか?
答は太陽にある。
お日様の光というのはそのズレを調整してくれる役割がある。
特に日の出からの1時間と日の入りまでの1時間はその作用が強いと言う。
朝日と夕日、この時間帯はボクが一番好きな時である。
普段の生活でも、よくこの時間の太陽に手を合わせて拝む。
なるほどな。この話を聞いて妙に納得した。
ボクは早寝早起きである。
太陽の昇る数時間前に起きて、太陽が沈んだ数時間後に寝る。
ボクの生活のリズムは太陽に深く関係している。
なので日が長い夏などは、太陽に付き合って遊びすぎて疲れてしまうことがよくある。
ともあれ、日の出と日の入りの話は妙に説得力があり、自分の背中を押してくれるような心地良さがあった。
東の空が白からオレンジへと変わり黄金の太陽が彼方の山から顔を出してきた。
山に囲まれた場所では日の光が当たるのは、日が昇ってかなりの時間が経ってからということもあるが、平野ではかなり低い位置から日が昇る。
この瞬間の太陽は美しく、そして荘厳である。
自然と手を合わさり、頭はやや下がり、目は閉じる。
太陽を神とする宗教が生まれるのが分かる。
池からは水蒸気が上がり、水辺の木々の黄色に日の光が差し黄金色に輝く。
1日のうちの一番美しい瞬間だと思う。
この瞬間この場所に自分の身を置けること。これがツアーの醍醐味だ。
そしてこういうことを感じる幸せは常に自分の中にある。
日が昇るに連れ黄金色は薄くなり、普段の秋の一日が始まった。
いつものことながら自然が作り出す色というものは一瞬のものだ。
消えてなくなってしまうはかないもの、だからこそその瞬間の中に喜びがある。
今日も良い1日になりそうだ。
秋晴れの空を見上げて、ボクは再び太陽に手を合わせた。
ツアーは進む。
リンディス峠を越えるとセントラルオタゴ、オタゴ中央部である。
殺伐とした山にポプラが点在し、水辺には柳が並ぶ。
ここもこの時期が一番美しい。
色とりどりの派手さはないが、シンプルな美しさがある。
オータム・ゴールド。黄金の秋とは以前働いていた会社がこの時期限定でやっていたツアーの名称だ。
金で栄えたこの地域と黄金色の黄葉をかけあわせた名前だ。
日本のゴールデンウィークに合わせツアーを組むわけだが、5月に入ると木々は葉を落とし枯葉ツアーとなってしまう。
ガイド同士でも「あの辺りにはまだ葉っぱが残っていた」などと言い合いながら仕事をしたこともあった。
クィーンズタウン近郊の湖、レイク・ヘイズもこの時が一番美しく、絵葉書にもなっている。
風がないと水面に景色が映る。何百回も見た景色だがこの季節はやっぱり綺麗だ。
そしてアロータウン。
アロータウンはちょうどオータム・フェスティバルの真っ最中。
マーケットの出店も出てるし、クラッシックカーのパレードもある。
クラッシックカーに乗る人は老人が多いのだが、こういう人たちは皆生き生きした顔をしている。
古い車はメンテナンスも大変だろう。
便利さだけを追求する世の中で、古い物を大切に使い続ける心。
最も古い車などはホイールが木製、きっと当時は一つ一つ手作りだったのだろう。
骨董品の部類に入って博物館に飾ってあってもおかしくないほどの代物だ。
他人から見れば苦労と映るかもしれないが、本人がそれを楽しみと感じてしまえば全て丸く収まってしまう。
根底には機械に対する愛がある。
機械だって博物館の片隅で埃をかぶっているより、こうやってたまに動かしてもらって晴れ舞台で活躍したほうが嬉しいだろう。
生き生きとした顔の老人は老後の不安を感じさせず、いくつになってもその時の自分にできることで人生を楽しむという夢を人々に与える。
これで雨が降ろうものならピカピカにみがいた愛車もせっかくの一張羅も台無しだが、愛にあふれる人達の集まりでは天気も味方してくれて無風快晴。言う事なしだ。
アロータウンの紅葉は、赤黄緑が混ざる紅葉でこれもまた綺麗である。
色とりどりの木々に囲まれた山あいの小さな町に、古い車のエンジン音が響く。
これもまた風情があってよろしい。
街から出ればそこは再び黄葉の世界だ。
ポプラ並木を西日が照らす。黄色が映える時間だ。
ボクは日本の秋、特に夕暮れ時が好きではなかった。
西に沈む真っ赤な夕日、そしてカラスの声とお寺の鐘の音、葉を落とした柿の木に真っ赤な柿がぶら下がってる景色、物悲しくて涙が出そうだ。
いかにも日本というような情緒あふれる時なのだが、子供のころからこの時期は嫌いだった。
楽しかった夏休みが終わってしまうような寂しさ。そして学校が始まるというのに宿題を全くやっていないような憂鬱感。
ボクの場合はそこに繋がる。
ともあれ日本の秋というのは物悲しく、とことん寂しく、情緒にあふれ、そしてこの上も無く美しい。
ニュージーランドの秋はそこまでウェットではない。
ニュージーランド人のようにドライで明るく、あっけらかんと太陽は西に沈む。
夕日があまり赤くならないというのも一つの理由だろう。
太陽は黄金色の輝きを失わないまま、ストンと山の向こうに落ちてしまう。
情緒を感じる間もない早業である。
木々は急速に色を失い、日が沈んだ後の山の稜線がくっきりと浮かび上がり、星が瞬きはじめる。
日本的な物悲しさは一切ない。あたりまえだ、ここは日本ではない。
だがここの秋を見ながら、日本の秋を思い浮かべてしまうのは自分が年を重ねてきた証拠か。
ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの。
嗚呼やっぱりボクは日本人のやうだ。
黄葉の時期は終わりました。
先日ミルフォードに行った時は雪景色でした。
綺麗な時も移りゆくものだからこそいいのですね。
これからは美しい雪山の季節です。
紅葉のアロータウン…いつか行ってみたいです。クラシックカーもアロータウンの雰囲気にぴったりですね!
秋のクイーンズタウンやワナカも良さそう!
ゴールデンウイークにあわせて秋のNZツアーがあったんですね~
ハワイはあっけらかーんと明るくきれいでいいんじゃないでしょうか。
ハワイに物悲しさはそれこそ似合わない。
やっぱりその土地の気候風土に関係あるんですね。
ボクが今まで感じた物悲しさでは、中央アジアの秋の夕暮れ時、どこからともなくビワみたいな弦楽器の悲しい音色が聞こえてきて、涙がでそうになりました。
日本の外からでないと見えないものもある。
日本人の感性でこの国を見ると楽しいねえ。
海外で生活をして、自分はやはり日本人なんだと再認識することが、海外での生活の面白みなのかもしれませんね。