素早くテントを張り、ビールを小川に浸す。コケの中をぐちゃぐちゃ歩きまわり薪を探す。
倒木はいくらでもあるが、どれもコケをびっしりと付け、湿っていて燃えにくそうだ。
小川を渡った所に、ブナが何本も倒れていてその枝を折り焚き火の場所に何回も運ぶ。ぐちゃぐちゃの靴を脱ぐ前にやることをやっとく。
トーマスが枯れ木の中で枝をバキバキ折りながら言った。
「いやあ、今日の焚き火はしぶそうだなあ」
「みーんな濡れてるねえ」
「この枝だってほとんど朽ちていますからねえ」
「シダの葉っぱを下に敷くといいみたいだよ」
「ナルホド、やってみましょう」
シダの古い葉をかき集め焚き火の跡地に敷き詰めるのはマオリの知恵だ。その上に比較的乾いている小枝を積み上げる。
火をつけると白い煙をもうもうと出し、チョロチョロと燃え始めた。メラメラというにはほど遠い。
さあ、やっと濡れたブーツから足を解放させられる。乾いた靴下を履き服を着替え、小川からキンキンに冷えているビールを出す。
焚き火は相変わらず心細い勢いで燃え、白い煙がぼくのテントを包む。
「あーあ、またテントが焚き火くさくなるなあ」
ボクはつぶやき、最初のビールを開けた。
「今日も又、間違いなく『大地に』だね」
「大地に」
自然の中でとことん遊ばせてもらった時、その日最初のビールの一口を地に捧げる。
『そんなのビールの無駄じゃん』と思う人には、そう思ってもらって結構。これは自分の心の中の話だ。
友が始めたこの儀式をボクらはやり続ける。もう何回これをやったのだろうか。
できれば毎日やりたいところだが、そうもいかないだろう。
煙くさいテントで一晩過ごしたあと、テントに余計な荷物を置きボクらは再び歩き始めた。
空は晴れているが谷間の中は日が差し込まず、全ての物が露で濡れている。
森を抜け、開けたところで地図を見て方向を確認。この辺になると地図上の点線も切れている。右手は垂直な岩の壁が続いているが、1カ所だけ『あそこなら、なんとか登れるかもしれないなあ』という切れ込みがある。そこを目指して進む。
オレンジマーカーは無く、歩きやすそうな所を探しながら歩く。足元は大小の岩が重なり不安定だ。
かなり大きな石でも不用意に体重を乗せるとグラリと動く。
そんな登りを1時間も続けると、やっとレイク・アデレードが見えてきた。湖の周りは岩の壁で囲まれ、容易に人を近づけさせない。
「あれがレイク・アデレードかあ。まだまだ遠いなあ」
13~15時間。納得。
今回はボク達にも時間は無く湖まで行くのは最初から諦めていたが、もし湖まで1日で、と考えていたら途中でイヤになっただろう。
湖に背を向けてさらに登る。
周りにはスノーベリー、日本でいう白玉草が白い実をつけポツリポツリと生える。この草は赤い実をつける種類もあるが白い実の方が美味しい。ほんのり甘いスノーベリーを食べながら黙々と登る。
一つのテラスで名もない小さな氷河の末端部を越える。
数年前にはこの氷河だってもっと長かったのだろう。
周りには運ばれてまもない土砂がたまり、以前の姿がありありと見える。
そして数年後にはどんどん短くなり、やがて消えてしまうのだろうか。
それとも再び大きな氷の流れとなり周りの岩を削りながら運ぶ時が来るのだろうか。
ある見方をすればこんな氷河など単なる氷の塊である。そこに命などなく、生き物として見るのはナンセンスだ。
果たして本当にそうか?氷河は生きていないのか?人間が氷河の命を感じ取れないだけではないのか?
ボクは目の前の氷河を見ながら消えいく者の寂しさを感じた。物言わぬ者の哀しみを感じた。
さらにボクたちは上り、大きな岩のとっかかりについた。
周りを見渡しても、これ以上登るならここしかないでしょうという場所だ。
ここから先は岩登りである。斜度は45度ぐらいだろうか。両手を岩につきながら登る。
一つのテラスで休憩。ここから先はさらにきつくなる。目指す稜線ははるか上だ。
「なあ、トーマス、上まで行くには時間がないんじゃないか?」
「僕もそう思ってたんです」
「オマエならこんな岩場どうってことないんだろうけど、オレはダメだな。時間をかければ行けるだろうけど、そんなことしてたら暗くなっちまうしなあ」
「そうですね。ここで引き返しましょう」
「悪いな、足をひっぱっちゃって」
「まあ、いいじゃないですか。ここまでだって」
そうは言ってくれるが、ヤツ一人だったら稜線まで行って帰って来られるだろう。
下りは怖かった。
岩は垂直ではないといえかなりの急勾配で、足を滑らせればそのままゴロゴロと転げ落ちるのは目に見えている。
どうしても腰がひける。今までにこれくらいの岩場は経験あるのだが、今日はなぜか怖いのだ。
「靴の底全部に体重をかけて歩きましょう」
「それは分かっているんだけど、なんか怖くてなあ」
「岩が濡れているからですよ。これが日が当たって乾いていればずいぶん違うんですよ」
ナルホド、考えてみれば濡れた岩場歩きの経験は少ない。天気が悪い時にきびしい山歩きはしないからだ。
急な所は岩に両手をついて下りる。トーマスが下からもっと右とか、左に足をかけてとか指示を出してくれる。
ガイドとはありがたいものだ。
「チクショー、こんな下り、雪がついてスキーを履いていればなんてことないのに」
「それは確実に下れる、という自信がそうさせるんですよ」
「確かにそうだ。今はすごく怖いもん」
「怖いと思う感覚は大切ですよ」
そんな怖い下りを終え、岩場の下に着いた。
「ふう、やれやれ。さて、どこか日の当たる場所で休もうかね」
「そうですね、ちょっと下ってあの大きな岩で休みましょう」
ボクらはゴロゴロした岩の重なる斜面を慎重に下った。
平らな岩の上で昼を食べる。
レイク・アデレードを見ながら時間をとる。
湖は蒼く、周囲は灰色の壁がそびえその上に澄んだ青空が広がる。
「なあ、トーマス、あいだみつおの言葉でな『幸せは自分の心が決める』ってのがあるんだよ。全くその通りだと思わないか?オレは今、幸せだ。それはオレの心が決める。この景色と、この空、それを楽しむこの時間。オレは今、この瞬間、自分が望むものが全てある。この為に生きているんだっていつも思うよ」
「全くねえ」
ボクは誰もいない谷間にさけんだ。
「ウオー、オレは幸せだぞー」
「ケーァ」
頭上でそれに答えるようにケアが鳴いた。
再びボクらは歩き始めた。
氷河に押され盛り上がった場所は、土があり歩きやすい。
しかしそこから外れくぼみの中へ入ると、大小の岩が不安定に重なりおまけにコケまでついてすべりやすく非常に歩きにくい。
しりもちをつくなんてざらにある。
こういう場所ではどちらかがケガをすれば、相手方はすごく大変な仕事を背負うことになる。
動けなくなった相棒を背負って下るのも、電話のつながる場所まで下りて救助を要請し又同じ道を上がってくるのも、どちらもやりたくない。
慎重に、慎重に。一歩一歩時間をかけながら下る。それでもしりもちをつく。
地をはうボク達を見下ろしながらケアが鳴く。
「ケーァ」
先ほどのケアがついてきているのだろう。鳥は飛べていいなあ。
ニュージーランドにオウムは3種類いる。
一つはカカポという世界一重い夜行性の飛べないオウム。これは絶滅寸前で手厚く保護されている。
もう一つはカカという飛べるオウム。大きさはケアと同じぐらいだが、こちらは森の中に住む。
そして高山オウムのケアである。
ケアは標高の高い所に住むオウムで、体長40cmぐらい。茶色っぽい緑色だが、羽根を広げて飛ぶときれいなオレンジが羽根の下に見える。
町では見ることはないが、スキー場の駐車場で車にいたずらをしているのをよく見る。特にゴムの部分が好きでワイパーのゴムなどをつつく。
知能は高く、チンパンジーよりも賢いとも言われる。実際にザックのファスナーを尖ったくちばしで器用に開け、中の手袋などを引っ張り出して持っていってしまう。
ボクも以前仕事をした時、ちょっと目を離したスキにお客さん用のビスケットを袋ごと持ち去られたことがある。
無人の山小屋で窓を開けておくと中に入り、これ以上荒らしようがない、というぐらいまで荒らす。ブロークンリバーではケアに荒らされた写真が見せしめのように壁に貼ってある。
ここはケアの住む場所、人間が注意する他ない。
スキー場にいるカラスぐらいの存在だが、南島の山岳地帯にだけ生息し、その数は5千ぐらいだ。
こんな誰も来ないような谷間なら人間が珍しいのだろう。ケーァケーァと鳴きながらついてくる。
ケアの鳴き声は人間にも真似しやすい。ボクは甲高い声で鳴いてみた。
「ケーァ」
「ケーァ」
ケアが応えた。
「ケーァ」
「ケーァ」
再び応える。
「ケーァケーァ」
「ケーァケーァ」
「ケーァ」
「ケーァ」
2回鳴けば2回応じ、1回鳴けば1回応える。オウム返しとはうまく言ったものだ。
しばらくそんなことを繰り返しながら下る。いい道連れができた心境だ。
ボクは試しに3回鳴いてみた。
「ケーァケーァケーァ」
ケアは応えてくれなかった。そう言えばケアが3回鳴くのを聞いたことがない。ヤツらにとっては2が限界なのか。それともヤツらは二進法なのかもしれない。
ケーァケーァと付いてきていたケアもボクらが谷間を下るとともに姿を消した。
キャンプ地まで下りテントを回収。日中陽があたらず露でびしょびしょのテントが重い。
荷物をたたんでいると、トーマスが何かを探している。
「何かなくした?」
「ええ、サングラスをなくしちゃったんです」
「そりゃ大変だ。よく探した?」
ボクらは2人でキャンプ地の周りを探したが見つからない。
「あーあ、高かったのになあ」
「オマエ、昨日まきを集める時にバキバキやってたじゃんか。あそこは見た?」
「ええ、さっき見たんですけどねえ」
「もう、このあたりには無いからあるとしたらあそこだよ。もう1回見て無かったらあきらめろよ」
すでに陽は落ち始めている。いつまでもここにいるわけにもいかない。
倒木のそばでゴソゴソやっていたトーマスが叫んだ。
「あったあ、ありましたよ」
ニコニコ顔で戻ってきたヤツが言った。
「何かねえ、あの木に向かう途中でここにあるって感じたんですよ」
「それはごく近い将来を感じたんだろ。サングラスがオマエを呼び寄せたのかもしれないぞ」
「そうかもな。大切にしよっと」
物に対する愛というものは存在する。
それは自分の心の反映でもある。
自分の気持ち次第で、道具というものはガラクタにも宝物にもなる。
キャンプ地を出てしばらく歩くとテントフラットだ。
狭い谷間の中の平場である。
来る時には水の流れをまたいだり、少しでも濡れないように乾いている所を歩いたが、帰りは目標に向かって真っ直ぐ湿地帯の中をぐちゃぐちゃと歩く。
鏡のような池を越え、幻想的なコケの世界を抜けると急な下りになる。
「ここはけっこうな下りだなあ、よく登ってきたねえ」
「本当ですね。来る時は一生懸命登っちゃったんですね」
ここを歩いたのは昨日なのだが、濃い時間を過ごしたせいか、ずいぶん前の事のように感じる。
道は急でシダが覆い被さり足元は見えない。濡れた石は滑りやすいので早くは歩けない。
そんな歩きを続けるとスリーワイヤーの橋に出た。ここまでくれば一安心である。
『BULL SHIT 15時間』の看板に頷きながら、森を抜けるとホリフォード・リバーの吊り橋が出てきた。
ゴールである。
トーマスがタッチと言い、車に手を当てる。ボクは友のこの儀式が好きだ。
グチャグチャのブーツを脱ぎ、車に置いてあったビールを開ける。そして大地に。
トラックを振り返ればリムが何も無かったように立っている。
ボクはビールを持ち上げ、リムに言った。
「やあ、無事帰って来ました。おかげでこうやってまたビールが飲めます。ありがとう」
薄暗くなった谷間で、リムは暖かく僕達を見下ろしていた。
倒木はいくらでもあるが、どれもコケをびっしりと付け、湿っていて燃えにくそうだ。
小川を渡った所に、ブナが何本も倒れていてその枝を折り焚き火の場所に何回も運ぶ。ぐちゃぐちゃの靴を脱ぐ前にやることをやっとく。
トーマスが枯れ木の中で枝をバキバキ折りながら言った。
「いやあ、今日の焚き火はしぶそうだなあ」
「みーんな濡れてるねえ」
「この枝だってほとんど朽ちていますからねえ」
「シダの葉っぱを下に敷くといいみたいだよ」
「ナルホド、やってみましょう」
シダの古い葉をかき集め焚き火の跡地に敷き詰めるのはマオリの知恵だ。その上に比較的乾いている小枝を積み上げる。
火をつけると白い煙をもうもうと出し、チョロチョロと燃え始めた。メラメラというにはほど遠い。
さあ、やっと濡れたブーツから足を解放させられる。乾いた靴下を履き服を着替え、小川からキンキンに冷えているビールを出す。
焚き火は相変わらず心細い勢いで燃え、白い煙がぼくのテントを包む。
「あーあ、またテントが焚き火くさくなるなあ」
ボクはつぶやき、最初のビールを開けた。
「今日も又、間違いなく『大地に』だね」
「大地に」
自然の中でとことん遊ばせてもらった時、その日最初のビールの一口を地に捧げる。
『そんなのビールの無駄じゃん』と思う人には、そう思ってもらって結構。これは自分の心の中の話だ。
友が始めたこの儀式をボクらはやり続ける。もう何回これをやったのだろうか。
できれば毎日やりたいところだが、そうもいかないだろう。
煙くさいテントで一晩過ごしたあと、テントに余計な荷物を置きボクらは再び歩き始めた。
空は晴れているが谷間の中は日が差し込まず、全ての物が露で濡れている。
森を抜け、開けたところで地図を見て方向を確認。この辺になると地図上の点線も切れている。右手は垂直な岩の壁が続いているが、1カ所だけ『あそこなら、なんとか登れるかもしれないなあ』という切れ込みがある。そこを目指して進む。
オレンジマーカーは無く、歩きやすそうな所を探しながら歩く。足元は大小の岩が重なり不安定だ。
かなり大きな石でも不用意に体重を乗せるとグラリと動く。
そんな登りを1時間も続けると、やっとレイク・アデレードが見えてきた。湖の周りは岩の壁で囲まれ、容易に人を近づけさせない。
「あれがレイク・アデレードかあ。まだまだ遠いなあ」
13~15時間。納得。
今回はボク達にも時間は無く湖まで行くのは最初から諦めていたが、もし湖まで1日で、と考えていたら途中でイヤになっただろう。
湖に背を向けてさらに登る。
周りにはスノーベリー、日本でいう白玉草が白い実をつけポツリポツリと生える。この草は赤い実をつける種類もあるが白い実の方が美味しい。ほんのり甘いスノーベリーを食べながら黙々と登る。
一つのテラスで名もない小さな氷河の末端部を越える。
数年前にはこの氷河だってもっと長かったのだろう。
周りには運ばれてまもない土砂がたまり、以前の姿がありありと見える。
そして数年後にはどんどん短くなり、やがて消えてしまうのだろうか。
それとも再び大きな氷の流れとなり周りの岩を削りながら運ぶ時が来るのだろうか。
ある見方をすればこんな氷河など単なる氷の塊である。そこに命などなく、生き物として見るのはナンセンスだ。
果たして本当にそうか?氷河は生きていないのか?人間が氷河の命を感じ取れないだけではないのか?
ボクは目の前の氷河を見ながら消えいく者の寂しさを感じた。物言わぬ者の哀しみを感じた。
さらにボクたちは上り、大きな岩のとっかかりについた。
周りを見渡しても、これ以上登るならここしかないでしょうという場所だ。
ここから先は岩登りである。斜度は45度ぐらいだろうか。両手を岩につきながら登る。
一つのテラスで休憩。ここから先はさらにきつくなる。目指す稜線ははるか上だ。
「なあ、トーマス、上まで行くには時間がないんじゃないか?」
「僕もそう思ってたんです」
「オマエならこんな岩場どうってことないんだろうけど、オレはダメだな。時間をかければ行けるだろうけど、そんなことしてたら暗くなっちまうしなあ」
「そうですね。ここで引き返しましょう」
「悪いな、足をひっぱっちゃって」
「まあ、いいじゃないですか。ここまでだって」
そうは言ってくれるが、ヤツ一人だったら稜線まで行って帰って来られるだろう。
下りは怖かった。
岩は垂直ではないといえかなりの急勾配で、足を滑らせればそのままゴロゴロと転げ落ちるのは目に見えている。
どうしても腰がひける。今までにこれくらいの岩場は経験あるのだが、今日はなぜか怖いのだ。
「靴の底全部に体重をかけて歩きましょう」
「それは分かっているんだけど、なんか怖くてなあ」
「岩が濡れているからですよ。これが日が当たって乾いていればずいぶん違うんですよ」
ナルホド、考えてみれば濡れた岩場歩きの経験は少ない。天気が悪い時にきびしい山歩きはしないからだ。
急な所は岩に両手をついて下りる。トーマスが下からもっと右とか、左に足をかけてとか指示を出してくれる。
ガイドとはありがたいものだ。
「チクショー、こんな下り、雪がついてスキーを履いていればなんてことないのに」
「それは確実に下れる、という自信がそうさせるんですよ」
「確かにそうだ。今はすごく怖いもん」
「怖いと思う感覚は大切ですよ」
そんな怖い下りを終え、岩場の下に着いた。
「ふう、やれやれ。さて、どこか日の当たる場所で休もうかね」
「そうですね、ちょっと下ってあの大きな岩で休みましょう」
ボクらはゴロゴロした岩の重なる斜面を慎重に下った。
平らな岩の上で昼を食べる。
レイク・アデレードを見ながら時間をとる。
湖は蒼く、周囲は灰色の壁がそびえその上に澄んだ青空が広がる。
「なあ、トーマス、あいだみつおの言葉でな『幸せは自分の心が決める』ってのがあるんだよ。全くその通りだと思わないか?オレは今、幸せだ。それはオレの心が決める。この景色と、この空、それを楽しむこの時間。オレは今、この瞬間、自分が望むものが全てある。この為に生きているんだっていつも思うよ」
「全くねえ」
ボクは誰もいない谷間にさけんだ。
「ウオー、オレは幸せだぞー」
「ケーァ」
頭上でそれに答えるようにケアが鳴いた。
再びボクらは歩き始めた。
氷河に押され盛り上がった場所は、土があり歩きやすい。
しかしそこから外れくぼみの中へ入ると、大小の岩が不安定に重なりおまけにコケまでついてすべりやすく非常に歩きにくい。
しりもちをつくなんてざらにある。
こういう場所ではどちらかがケガをすれば、相手方はすごく大変な仕事を背負うことになる。
動けなくなった相棒を背負って下るのも、電話のつながる場所まで下りて救助を要請し又同じ道を上がってくるのも、どちらもやりたくない。
慎重に、慎重に。一歩一歩時間をかけながら下る。それでもしりもちをつく。
地をはうボク達を見下ろしながらケアが鳴く。
「ケーァ」
先ほどのケアがついてきているのだろう。鳥は飛べていいなあ。
ニュージーランドにオウムは3種類いる。
一つはカカポという世界一重い夜行性の飛べないオウム。これは絶滅寸前で手厚く保護されている。
もう一つはカカという飛べるオウム。大きさはケアと同じぐらいだが、こちらは森の中に住む。
そして高山オウムのケアである。
ケアは標高の高い所に住むオウムで、体長40cmぐらい。茶色っぽい緑色だが、羽根を広げて飛ぶときれいなオレンジが羽根の下に見える。
町では見ることはないが、スキー場の駐車場で車にいたずらをしているのをよく見る。特にゴムの部分が好きでワイパーのゴムなどをつつく。
知能は高く、チンパンジーよりも賢いとも言われる。実際にザックのファスナーを尖ったくちばしで器用に開け、中の手袋などを引っ張り出して持っていってしまう。
ボクも以前仕事をした時、ちょっと目を離したスキにお客さん用のビスケットを袋ごと持ち去られたことがある。
無人の山小屋で窓を開けておくと中に入り、これ以上荒らしようがない、というぐらいまで荒らす。ブロークンリバーではケアに荒らされた写真が見せしめのように壁に貼ってある。
ここはケアの住む場所、人間が注意する他ない。
スキー場にいるカラスぐらいの存在だが、南島の山岳地帯にだけ生息し、その数は5千ぐらいだ。
こんな誰も来ないような谷間なら人間が珍しいのだろう。ケーァケーァと鳴きながらついてくる。
ケアの鳴き声は人間にも真似しやすい。ボクは甲高い声で鳴いてみた。
「ケーァ」
「ケーァ」
ケアが応えた。
「ケーァ」
「ケーァ」
再び応える。
「ケーァケーァ」
「ケーァケーァ」
「ケーァ」
「ケーァ」
2回鳴けば2回応じ、1回鳴けば1回応える。オウム返しとはうまく言ったものだ。
しばらくそんなことを繰り返しながら下る。いい道連れができた心境だ。
ボクは試しに3回鳴いてみた。
「ケーァケーァケーァ」
ケアは応えてくれなかった。そう言えばケアが3回鳴くのを聞いたことがない。ヤツらにとっては2が限界なのか。それともヤツらは二進法なのかもしれない。
ケーァケーァと付いてきていたケアもボクらが谷間を下るとともに姿を消した。
キャンプ地まで下りテントを回収。日中陽があたらず露でびしょびしょのテントが重い。
荷物をたたんでいると、トーマスが何かを探している。
「何かなくした?」
「ええ、サングラスをなくしちゃったんです」
「そりゃ大変だ。よく探した?」
ボクらは2人でキャンプ地の周りを探したが見つからない。
「あーあ、高かったのになあ」
「オマエ、昨日まきを集める時にバキバキやってたじゃんか。あそこは見た?」
「ええ、さっき見たんですけどねえ」
「もう、このあたりには無いからあるとしたらあそこだよ。もう1回見て無かったらあきらめろよ」
すでに陽は落ち始めている。いつまでもここにいるわけにもいかない。
倒木のそばでゴソゴソやっていたトーマスが叫んだ。
「あったあ、ありましたよ」
ニコニコ顔で戻ってきたヤツが言った。
「何かねえ、あの木に向かう途中でここにあるって感じたんですよ」
「それはごく近い将来を感じたんだろ。サングラスがオマエを呼び寄せたのかもしれないぞ」
「そうかもな。大切にしよっと」
物に対する愛というものは存在する。
それは自分の心の反映でもある。
自分の気持ち次第で、道具というものはガラクタにも宝物にもなる。
キャンプ地を出てしばらく歩くとテントフラットだ。
狭い谷間の中の平場である。
来る時には水の流れをまたいだり、少しでも濡れないように乾いている所を歩いたが、帰りは目標に向かって真っ直ぐ湿地帯の中をぐちゃぐちゃと歩く。
鏡のような池を越え、幻想的なコケの世界を抜けると急な下りになる。
「ここはけっこうな下りだなあ、よく登ってきたねえ」
「本当ですね。来る時は一生懸命登っちゃったんですね」
ここを歩いたのは昨日なのだが、濃い時間を過ごしたせいか、ずいぶん前の事のように感じる。
道は急でシダが覆い被さり足元は見えない。濡れた石は滑りやすいので早くは歩けない。
そんな歩きを続けるとスリーワイヤーの橋に出た。ここまでくれば一安心である。
『BULL SHIT 15時間』の看板に頷きながら、森を抜けるとホリフォード・リバーの吊り橋が出てきた。
ゴールである。
トーマスがタッチと言い、車に手を当てる。ボクは友のこの儀式が好きだ。
グチャグチャのブーツを脱ぎ、車に置いてあったビールを開ける。そして大地に。
トラックを振り返ればリムが何も無かったように立っている。
ボクはビールを持ち上げ、リムに言った。
「やあ、無事帰って来ました。おかげでこうやってまたビールが飲めます。ありがとう」
薄暗くなった谷間で、リムは暖かく僕達を見下ろしていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます