前回に続いて、明智光秀と木俣守勝が関わるお城。






神吉城は、兵庫県加古川市にあります。
最寄りの宝殿駅からゆっくりと登り坂を上がるようになっていて城攻めが行われたならば、攻める側は油断すると重心が背中に行くため、精神的に攻め難い城ではないかと感じられます。
築城は早く、赤松円心の子孫赤松範次によって南北朝時代には築城され、戦国時代には天守のような役割を果たす櫓もあったとされています。
織田信長の命で羽柴秀吉が播磨を平定していた頃、神吉城主神吉頼定は、三木城主別所治長の味方をしたため秀吉と戦うことになります(神吉合戦)。
秀吉の参謀(軍師)黒田官兵衛の養女が頼定に嫁いでいたとの説もあり、もしかすると秀吉にとって戦う必要のない城と考えていたのかもしれませんが、結果的には激しい戦いが行われることになります。


この時、織田信忠、明智光秀、佐久間信盛、荒木村重らが援軍として参戦したのです。
光秀の家臣として参戦した木俣守勝は一番槍の功を挙げて、光秀からの感状を受けています。
信盛が頼定の叔父神吉貞光を調略し、頼定を暗殺して神吉城は落城したのです。
天正6年(1578)7月16日のことでした。
現在、神吉城本丸跡地は、常楽寺が建っています。



奥に進むと神吉頼定の墓もあり、頼定がこの地をよく治めていたことが窺い知れます。
