彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

楠城訪問

2020年10月15日 | 史跡
楠城と書いて「くすじょう」と読みます。

てっきり「くすのきじょう」と読むと思っていたので、木俣氏の本流に関わるのではないか?と思い訪ねた場所です。
実際に多少なりとも関わってはいましたが…

楠城は南北朝時代の名将楠木正成の子孫の楠氏(くすのき・伊勢楠木氏)と、諏訪氏の傍流である楠氏(くす・伊勢諏訪氏)の二つの楠氏です。
しかも、両家が婚姻関係を結び、途中で城主を交代しています。

まずは伊勢諏訪氏の楠十郎(伊勢貞信)が室町時代初期に楠城を築城したとされていて、以降三代に渡り伊勢諏訪氏が城主を務めました。
この後、中島姓を称した二代城主中島貞益は京に住むようになり弟貞則が後を継ぎますか、貞則も兄と同じように京住まいをして伊勢に戻らなかったため、伊勢国司北畠満雅が貞則の城主の座を追い、貞則の養子になっていた伊勢楠木氏の楠正威を楠城主に任じ、以降は伊勢楠木氏が城主を務めるのです。

伊勢楠木氏は、刀匠との所縁が深く、のちに徳川家に祟ると言われる村正とも深い関わりがあります。
北朝に連なる天皇が続くため、一時期は楠木正成は朝敵とされていて川俣姓を称していましたが、織田信長や豊臣秀吉の祐筆を務めた楠木正虎(楠長譜)の努力により天皇の勅堪状を得て楠木姓の名誉が回復されます。
この時の楠城主は正虎の一族の楠木正忠でしたが、正忠は楠城主として永禄10年と11年の信長伊勢侵攻で滝川一益軍と戦い、敗れて信長に降伏したのです。

こうして、楠城は静かに歴史の中から消えたのでした。

今は本丸跡とされている場所に、大きな楠の木と石碑と案内板が残るだけです。




伊勢楠木氏で楠城主になった楠木正威の弟正重は刀匠村正の弟子で千子正重の銘を残す刀を打った人物でもあり伊勢楠木氏二代当主です。
また、正威の息子正資の子孫が木俣氏を名乗ることになります。
コメント
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