彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

一乗寺下り松訪問

2020年10月29日 | 史跡
若宮大社を出て、京都市街地を一気に突き抜けて左京区まで移動しました。
そして到着したのが、一乗寺下り松です。



平安時代から南北朝時代辺りまで一乗寺という寺院があったことからこの地名を残していると言われています。
ここに育っている松は、京と近江を結ぶ道の目印として利用されていたそうで、現在は四代目の松になるそうです。

そして、この場所は全国的にも有名な場所でもあります。
慶長9年(1604)、京にやってきた宮本武蔵は足利将軍家の剣術指南を務めていたこともある吉岡一門(吉岡憲法)に試合を望みます。
まずは当主吉岡清十郎と戦い勝利、怪我を負った清十郎は剣の道を捨てて家伝の染物業に専念したとも言われています(武蔵が怪我を負った説もあります)。
続いて清十郎の弟伝七郎が武蔵と戦い敗死します。

こうして名誉が地に落ちた吉岡一門は、清十郎の息子でまだ元服前の又七郎を大将に立てて、下り松を中心に数十人の門弟で武蔵一人を討とうとしたのです。
清十郎や伝七郎との闘いの時には遅れてきた武蔵は、一乗寺下り松には先に到着し松の上に身を潜めていて、又七郎が近くに来た時に頭上から一気に斬り捨てて、門弟が混乱した隙に手薄な場所から逃げ延びたと言われています。
嘘か真か、この時に両手にそれぞれ打刀と脇差を持って闘ったことが二刀流の目覚めという話もあります。
俗に「一乗寺下り松の決闘」と言われていますが、実は北野一条下り松(北野七本松付近)だったのではないか?との説もありますが、吉川英治さんの『宮本武蔵』で一気に一乗寺下り松が有名になったのでした。


また、ここは南北朝の騒乱で楠木正成が本陣を置き、北畠顕家との連携で足利尊氏を九州まで追う戦に関わる地でもあったのです。





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