月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

98.倒された龍、守られた龍(月刊「祭」2019.6月8号)

2019-06-10 19:26:55 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
俵藤太秀郷が勢多川(滋賀県大津市・琵琶湖から流れ出る唯一の川。)の橋を渡っていると、二十丈(60メートル)ほどもある、見るも恐ろしい大蛇が橋に伏していた。普通の人なら見ただけで卒倒してしまうほどの大蛇であったが、秀郷は何事もないかのようにその蛇を踏んづけて乗り越え、橋を渡って去っていってしまった。
 それから間もなく、小さな男が秀郷の前に現れた。その男が言うには、
 「私はこの橋の下に住んで2000年あまりになります(龍神です)。たくさんの人を見てきましたが、あなたほど勇敢なものは見たことがありません。私は、今の住処の場所を争ってきたものがいまして、その者にずっと悩まされています。で、勇敢なあなたにその敵を討ち取っていただきたいのです。」
 秀郷は即座に承諾し、その男を案内人に立て、今来た道を帰っていきました。
 勢多川の橋につき、川の中に入っていきました。なんと、その底には、美しい龍宮城が建っていたのです。
 そこで、飲み食いの接待をうけているうちに、深夜になりました。そんな時、敵の襲来だと周囲があわただしくなりました。
 秀郷は肌身離さず持っている大きな弓と、矢を三本用意して、敵の襲来を今か今かと待っていました。
 夜半を過ぎた頃、雨風は一通りすぎて、雷鳴が絶え間なく轟いています。
 しばらくすると、比良山のほうから二列に並んだ二、三千程の燃える松明を要した島のような物が龍宮に近づいてきました。それをよく見ると二列の松明は、全て左右の手に持ったものでした。
 なんとこれは、百足(ムカデ)の化け物のようです。
 秀郷は、一本目の矢を化け物の眉間に射かけますが、その矢は刺さりません。
 二本目の矢を同じところに寸分たがわず射たのですが、それでもその身を貫くことが出来ません。
 そして、三本目、最後の矢です。秀郷は唾を吐きかけ、また、同じところを射ました。
 唾を吐きかけた効果なのか、同じところを三度も射た効果なのかは分かりませんが、その矢は眉間を射抜き喉まで到達しました。化け物の手の松明の火は消え、その体が倒れるすさまじい音が大地に響き渡りました。
 近づいて、見るとその化け物の正体はやはりムカデでした。
 龍神は喜び、ムカデ退治のお礼として、いろいろな褒美を秀郷に与えました。
 太刀に巻絹、鎧。そして、頭を結った米俵と赤銅の突き鐘。
 その米俵は中を取っても取っても、米はつきませんでした。そこから藤原秀郷の別名を「俵藤太」と呼ぶようになりました。
 そして、鐘は三井寺に納められました。


俵藤太のムカデ退治の様子です。これは、平将門征伐とも関連があることを書きました。

この物語は、屋台の意匠としても好まれています。姫路市英賀神社の山崎屋台の欄干男柱などに使われています。

●倒された龍
下の写真は「三木の祭―屋台・獅子舞・写真集」(三木市観光協会)2002に掲載された、三木市岩壺神社大塚屋台の先代水引幕も俵藤太の「龍」退治となっています。ですが、藤太が退治したのは「ムカデ」で龍は藤太に守られています。
これは、源満仲が住居を定めるために放った矢が九頭龍に当たったという川西市多田神社の伝承を描いたものと思われます。

この龍は兄弟で住んでいて、もう1匹は逃げてしまったといいます。

●俵藤太に守られた龍
一方の藤太が守った龍はどんな龍でしょうか。
瀬田唐橋の雲住寺には下の写真の絵が張られていました。



跋難陀大龍王と書かれています。ウィ●ペディアによると、跋難陀龍王は難陀龍王と兄弟とされており、難陀龍王の像容は頭に九匹の龍を擁するそうです。となると先述の九頭龍の兄弟もまた、跋難陀と言えるかもしれません。

同じ龍が、あるところでは弓で倒された伝承を、あるところでは弓で守られた伝承をモチーフにするのも祭の面白さと言えます。



97.新居浜太鼓台-祭の名著紹介-(月刊「祭」2019.6月7号)

2019-06-09 13:32:24 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

●太鼓台の本格的な研究書
平成2年、太鼓台研究史に大きな一歩が刻まれます。編集、発行(新居浜市立図書館)「新居浜太鼓台」が発刊されました。非売品で兵庫県立図書館、吹田市立図書館には所蔵されています。

大きく写真編、研究編、資料編の3つに分かれています。

●写真編
・太鼓台一覧 川西地区8台、川東地区13台、上部地区9台、大生院地区2台
・太鼓台のある神社
・現在は運行していない自治会の太鼓台
・大島のだんじりなど
・新居浜市内太鼓台関係地図
・旧新居浜太鼓台
・写真で見る太鼓台の歴史
・各地の太鼓台
・各地の太鼓台写真地図
・明治の太鼓台と現在の太鼓台の比較
現在これだけのものが発刊されても大きな価値はありますが、発刊が凡そ30年前なので、今となってはわからなくなっていたかもしれない当時の様子がカラー写真で残っています(画像はコピーしたものなので白黒ですが、現物はカラーです)。


●研究編
・成願寺整「太鼓台のふるさと」
新聞記者として連載していた記事などをまとめたもの。全国の太鼓台を紹介しています。この記事を頼りに出かけたものです^_^ 屋台、だんじり、タイコなど様々な呼び名があるものを「太鼓台」と命名したのが著者だと聞きました。確かに、伝わりやすい名前です。
・尾﨑明男「新居浜太鼓台の周辺」
太鼓台の成り立ちや伝承までを調べています。学生時代の管理人に最も影響を与えた記事(論文)です。
貝塚の太鼓台の屋根の日本のふさ付き棒・マラが付いている様子は伊勢神宮外宮(吉野裕子氏の説によると北斗七星の象徴)の刺車紋に似ているといいます。

ほかにも屋台屋根内部に神の依り代となる籠が入っていることなど、太鼓台とは何なのかを膨大な事例から考えています。

●越智廉三「史料に見る新居浜太鼓台の歴史」
古文書に書かれた新居浜市内の祭礼についてつぶさに調査しています。江戸中期ころにおいてはだんじりやお船が隆盛しており、文政頃から神輿太鼓や太鼓の記述が見られることを紹介しています。また、嘉永二年(1849)の「餝物調べ」という記事についてまとめてあり、当時すでに水引幕で「龍宮海(りゅうぐうあま・あまのたまとり)」が使われていたことなどに言及しています。

●加地和夫「布団〆と飾幕」
新居浜太鼓台を特徴付ける豪華な刺繍について、四国や淡路の刺繍業者の歴史を紹介しています。多くが江戸末期から明治にかけての創業でした。そして市内の太鼓台の刺繍の題材を悉皆調査し、表にあらわしました。

●粂野徳義「新居浜「祭り太鼓」と「太鼓台」」
太鼓打としての寄稿。太鼓をいかに打つべきか、そうすることで、担ぎ手たちはどう変わるかを書いています。基本の打ち方の一つ、ドンドンドンは一二三と徐々に強く打つことでリズムが生まれると、三木のドンでドンとは少し違うようです。

●佐藤秀之「大島八幡宮秋季祭礼と夜宮」
大島の祭についての考察。古文献から大島の太鼓の形式を推定し、それが長崎のコッコデショと近いことがわかります。さらにコッコデショを担ぐ樺島町では伊予の舟衆からつたわったという伝承があり、大島では昔コッコデショを担いでいたという伝承もあることから、大島からコッコデショが伝わった可能性を指摘しています。


●資料編
・太鼓台あれこれ-太鼓台調査表より-
・『郷土研究』記載の太鼓台関係記事
・太鼓台関係史料
・太鼓台関係年表
先述の大島の太鼓の史料「(天保四年1833 大島中之町所蔵文書)太鼓入用帳」などが掲載されています。五色五段の布団であることがわかり、購入する色が上であるほど長いのが興味深いです。

95.魅せる彫刻師(月刊「祭」2019.6月5号)

2019-06-07 23:56:09 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●彫刻技術の復興、あるいは再認識
かつての高度経済成長に伴い、機械化がすすみ手づくりの良さは失われていき(忘れられ)つつありました。播州屋台においても電飾などはこのころに発展しますが、彫刻、大工、刺繍などに関しては、あまりかえりみられることはなかったようです。彫刻の人物が修理から帰ってくると石に変わっていても文句を言う人はいませんでした。
このような状況に警鐘を鳴らしたのが粕谷氏らの民間の研究者(未だにこの辺の研究は祭の些末な問題だなどと言う人もいて、プロはいません。)です。

インターネットの普及に伴い、祭関係者の間にも屋台製作技術への関心が高まり、それとともに、屋台製作技術を復旧(あるいは元々あったものを発揮)する業者が増えてきました。また、屋台・だんじり製作を志す若者も増えてきているように感じます。

●群雄割拠
業者を見る目が厳しくなり、なり手も増えてくると自然と業者の群雄割拠の時代となります。言い換えれば、買い手市場ともいえるでしょう。
かつては、技術がなくてもやっていけるじだいもあったのかもしれません。しかし、今となっては、優れた技術は「当たり前」であり、+αでその技術をどう魅せるかまでに神経を使っているような印象をうけます。
その典型的な例が彫刻だといえるでしょう。

●spirits of Japan さかい春の陣
そんな当たり前に腕がある彫刻師の一人である、前田暁彦氏(堺市出身)はご自身の会社木彫前田工房の10周年を記念して、大仙古墳の公園にて大きなイベントを今年の3月23、24日に開催しました。


そのイベントは、芸人さんの司会や市長さんらの挨拶などを含む盛大なものでした。
子どもの体験や、足場を組んで屋根の高さから見れるようにするなど、本物のだんじりの彫刻の技術を体験できるイベントでした。
キャッチコピーも「止まっているだんじり見たことありますか」と洗練されたコピーでした。池田市のチキンラーメンなど、地域のグルメも豊富で老若男女➕マニアが一日中楽しめるイベントとしても大成功といえるものでした。


●元々いい彫刻をいかに魅せるか
堺市大山公園でだんじりイベントで、彫刻師の前田暁彦氏の作品が展示されていました。



日本庭園という格好の舞台での展示です。


その中の家屋内で主だった展示がなされていました。黒い背景を用いるとより、彫刻のもつ立体感がわかりやすくなるようです。他社の写真集などでも使われているのを見たことがあります。



実はこの作品にもライトが当てられています。立体感を伝えるための工夫です。


●腕があり、イベント企画力もある製作業者
1 かつて、腕はないのに、イベント企画力や、営業力「のみ」で運営している業者が批判の対象となりました。
2 そこから、イベント企画力はなくとも腕のある業者に光が当たりました。
3 見る目が肥え、腕のある業者が増え、競争は、腕のある業者VS腕のある業者VS腕のある業者、、、となります。
4 結果、腕があり、イベント企画力もある業者さんが生まれてきているのが、現状のようです。







94.真庭市のだんじり(月刊「祭」2019.6月4号)

2019-06-07 04:34:29 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
岡山県真庭市のだんじりを紹介します。

主にだんじり祭は勝山地区(10月19.20)と久世地区(10月24-26)、落合地区(10月21)で行われます。上の写真は勝山地区の玉雲宮です。

●真庭市の秋祭
元禄期ころより祭の原型ができ、だんじりが運行しはじめたのは幕末ころからのようです。
落合地区を除くと、五社の合同祭典を行なっており、これは祭の原型ができたころからのもののようです。勝山、久世においては基本一神社に一だんじり、神輿となっています。
では、だんじりそのものを見ていきましょう。写真は勝山の図書館横で常時展示されてあるものです。

●だんじりと言う名の太鼓台
家屋型の屋根の太鼓台に見えますが、かつぎ棒が低い?



●現在はだんじり型に
現在は車輪をとりつけだんじりになっています。

方向転換が容易な仕掛けになっています。

ぶつけ合いにも適した形です。


これは、荷馬車を改造したものが原形といわれています。
このような形になったのは、勝山では明治期、久世では大正期です。
真庭は林業が盛んで、木材の運搬に馬車を使っていました。真庭のだんじりは産業が祭に与える影響の大きさを感じさせる資料といえるかもしれません。

太鼓台からだんじりへの変化は岡山県津山市でも見られます。

93.津山市のだんじり(月刊「祭」2019.6月3号)

2019-06-06 06:24:27 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
岡山県津山市の徳守神社のだんじりを紹介します。

徳守神社は天平期の創建と伝わり、天文期に火災にあったようです。その後、森氏が津山城創建に際し、鎮守の杜として慶長年間に現地に再興したそうです。

●徳守神社の秋祭
祭は上記の森氏の再興ののころから神輿の巡行があったそうです。さらに神輿は文化年間に新調されます。この時にはちょうどだんじりが作られ始めた頃と重なります。

●津山まつり同時期に市内ではだんじりが引かれる祭があるようです。

では、だんじりそのものを見ていきましょう。

●精巧な彫刻
文政から明治にかけての精巧な彫刻が見られます。



●だんじりと言う名の太鼓台
家屋型の屋根の太鼓台に見えます。


●戦後間も無くトラックをばらしたまのを台車としてとりつけました。ハンドルつきのだんじりになっています。赤丸がハンドルです。

足元はこんな感じです。

太鼓台からだんじりへの変化は岡山県真庭市でも見られます。それは後ほど紹介します。

91.改元と即位の祝賀(月刊「祭」2019.6)

2019-06-03 23:15:27 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

●改元に伴う屋台イベント
令和の改元に伴い、播州各地で屋台が特別に出されるイベントが催されます。
今年は平成天皇の生前退位による改元なので、改元を祝する祭がたくさん行われました。

●大正元年の新調
新小児科医のつぶやきというサイトによると、岩壺神社の滑原屋台、大宮八幡宮の新町屋台は大正元年に新調をしているようです。この年は7月に明治天皇の崩御があり、その翌年の即位礼に間に合わせるためだったのかもしれません?
明石町は出したそうですが、他の屋台はどうだったのでしょうか。
また、崩御の時は日本中が自粛ムードで夏目漱石はあまりに強い自粛ムードを批判したそうです。(参考https://bushoojapan.com/tomorrow/2017/07/30/102648)

●昭和天皇即位
即位礼は昭和3年に行われました。この時には三木では大工としては、淡路の・柏木福平、彫り師としては、井波彫刻師・川原啓秀、縫師としては、初代梶内刺繍、絹常などの今に名を残す屋台職人の手によって行われました。

写真はその当時に作られた屋台です。
2005年 三木市政50周年記念にて 与呂木屋台 見事な刺繍

 

安福田屋台 2005年

東這田屋台

高木屋台

●平成天皇即位と改元
・昭和天皇の体調不良による祭礼自粛
昭和63(1988)年、昭和天皇の体調が芳しくなく、播州においても秋祭りを自粛するところが多かったようです。管理人の大宮八幡宮も祭礼自粛を決定し10月になっても太鼓の練習の音が聞こえない辛い年となりました。

・昭和天皇崩御と平成改元
 翌昭和64(1989)年、昭和天皇が崩御され平成に年号が変わりました。天皇崩御による改元なので、この年に祝いの祭をしたという話は聞いていません。

・平成天皇即位
平成2(1992)年11月? 管理人の記憶では、もっと平成3年? の気がしますが、明石町屋台は担がれ、宮入をはたしました。

●令和改元の祝祭
 各地で祝祭が行われました。生前譲位なので、「祝」祭モード一色です。

 神戸市東灘区 令和改元前夜祭 次の5月1日は灘区、東灘区、芦屋、宝塚、西宮のだんじりが集まりました。
 

加古川市宗佐厄除八幡宮 国恩祭 万歳の幡が見えます。

 

他にも5月1日
福崎 屋台習合八千種小など 他にも市内各地で屋台が動いていた

 

姫路市 仁色屋台

姫路市 的形湊神社の改元祭

    

 

浜の宮天満宮の改元祭 行けず、写真なし

御津市 改元祭 屋台習合集合
 

 

5月2日
 明石市政100周年、明石築城400年を祝う祭です。明治2年城下屋台習合より150年
市内の30を超える屋台が習合しました。この改元の節目となるのも何かの縁かもしれません。

文政の改元と即位
 文政元年(1818)は、仁孝天王が先代天皇より譲位を受けたことにより改元されました。しかもその年のうちに即位礼をしてしまったとか。
 この文政元年は三木市の吉川町若宮神社にとっては、大きな転機の年となります。

 それが屋台の成立です。現在のこっているのはこの時の物であるということは断定できませんが、
 少なくとも太鼓には文政元年の記述が残っているので、当時のものが残っているのも珍しいですね。
 子の屋台が即位の礼に向けてのものだったのかどうかは分かりませんが、同じ年にできたのは興味深い話です。

    


●編集後記
・こんな令和は嫌だ。
命「令」には「和」やかに従わなければならない。
・こんな令和がいい。
出される法「令」と人の心とか人権とかが調「和」してる。


90.屋台の新調・改修での留意点私考(月刊「祭」2019.5月)

2019-05-01 02:45:09 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
令和改元
改元や新天皇の即位を機に屋台を改修したり、新調したりするところはかなりあります。そこで、屋台の新調、改修に気をつけたいことを書いていきます。

●屋台という形あるものの宿命
屋台には何らかの形があります。
形があるということは、いつかは傷むのはこの世のさだめであり、改修、新調が必要となります。どうせ、新調するのであれば、やはりいいものを残したい。少なくとも、笑われるようなものは残したくない。そう思うのが人情です。

●粕谷氏の活躍を契機に
播州屋台研究の第一人者はやはり粕谷宗関氏です。某市史においては、欄干の上に神輿屋根型屋台の屋根を乗せたものを指して重要文化財の神輿は素晴らしいと某学者が宣ったのを尻目に、膨大な踏査により屋台の大工、彫刻師、縫師、飾金具氏の系譜やその技術の高さについての研究成果を1980年後半頃より明らかにしてこられました。
そして、屋台の製作技術が失われつつあることに警鐘を鳴らし続けたこと、屋台芸術の見方を世に広めたことにより、多くの祭マニアを生み出しました。氏の著作や、インターネット技術の発達による後続のマニア(研究者)達の啓蒙により、屋台関係者の見る目も厳しくなり、それに伴い、20年前とくらべると優れた業者も増えてきたと感じます。


●重圧を感じる担当者
新調、改修担当者に託されるもの。それは、各世帯の大切で高額のお金です。もしかしたら、孫や妻、夫、親、子へのプレゼントにと思っていたお金だったり、たまに外食と思っていたお金だったりするかもしれません。でも、屋台の改修や新調と聞いたら、出してくれる。そのお金には色々な思いを託されて出してくれるものです。
その重みを感じてこそ担当者の資格があるものと思います。

●担当者にかかる重圧と周囲の理解
ただ、管理人が見てきた担当者は、その重圧で押しつぶされそうになっている方がほとんどでした。当然です。まともな人間なら上のようなお金を託されて、重圧を感じない人はいないでしょう。
個人差はありますが、真剣に頑張ろうとしている方ほど、気の毒なほど重圧を感じてしまう可能性は高くなります。仕事や家庭のある中でしていることです。意見を言う時も自分がその人に代わってできるのか考えて、伝え方を考えなければなりません。

●優良業者の選定
ここを間違えると取り返しのつかないことになります。それこそ上に書いたようなお金をドブに捨てるに等しいものになる可能性も生じてきます。
逆にここをクリアすると、工芸品としてはそこそこのものが出来上がることになります。

・ラファエロもダビンチも屋台は作れない
ここで気をつけたいのは、人間国宝であっても、屋台を作ったことのない人に頼むことにはかなりのリスクをはらむということです。ラファエロの彫刻やダビンチの絵も屋台には合いません。単体として優れた工芸であっても、屋台やだんじりに埋め込むと、ショボく見える例もあります。
「●●国宝」の触れ込みや、「ブランド」で見るのではなく、その作品が本当に合うのかを生で見る必要があります。

・プライドを捨てましょう
また、悲惨な例としてよくあるのが、屋台関係者間の権力争いが影響している例です。この類の話は、祭オタクの管理人にとっては悲しいかな、耳タコです。
某屋台のリーダー的存在だったAさんは優良なB業者と仲良くしており、改修などはBさんに頼んでいました。 優良業者に仕事を頼むので、当然その屋台は名屋台として名が知れ渡ります。
時がすぎ屋台のリーダーはCさんに代わりました。CさんはAさんと反目しており、Aさんと仲の良かった優良なB業者に頼むのはどうしても我慢がなりません。Cさんは、インターネットでDという業者をみつけました。よくよくみると「●●国宝」。「ここの作品は合わへん」というAさんたちの諌めも聞かず、というか、より頑なになったCさんはDに改修の仕事を頼んでしまいました。



●足を運ぶ
これが一番大変なことかもしれないし、担当者の話を聞くかぎりでは、最も楽しそうに話をされるところです。制作現場に足を運び、作って欲しいものを語り合いながら形にしていくという作業です。これをすることで、職人さんは、金額以上の仕事をして下さったという話は本当によく聞きます。

●全体像の把握
昨今は前述の粕谷氏や後続の研究者たちの活躍により、それぞれの工芸は優れたものができているように思います。あとは、その工芸をどう配置するかです。
つまり屋台のサイズの決定です。
これに関しては、好みの問題とも言えます。「伝統」を志向するのであれば、屋根は大きくしない方がいいでしょう。「現代」的な傾向としては、屋根部分が大型化しているように思います。
時々例外として、屋根を大きくしながらも印象は変わらないということもありますが、かなり稀な印象です。
パソコンを使い、数センチ単位で寸法を決め、見事なバランスの屋台を作りあげた某担当者の方の情熱と知識と知恵に驚かされたことがあります。

●編集後記
令和改元始めの投稿は文字のみの投稿になりました。
令和の時代が屋台や祭の黄金期になることを願って止みません。

89.屋台、祇園囃子の御旅(月刊「祭」2019.4)

2019-04-24 21:55:02 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

●北条節句祭

旧暦三月三日桃の節句に近いと思われる頃、今では四月の第一日曜日をふくむ土日に行われる加西市北条町住吉神社節句祭。
播州屋台の中でも、黒いそり屋根屋台と着物が桜に合う祭として知られています。

屋台だけでなく、西郷東郷に分かれた神輿の行幸鶏合わせや龍王舞が大きな特徴としてあげられます。

神輿の行幸

 
 

龍王舞

 
 
 

鶏合わせ 

 

●祇園囃子練
 さて、多様な行事を持つ北条節句祭の中でも、ひときわ目をひくのが屋台の祇園囃子練りです。
 御旅所から住吉神社までの約600mほどの道をゆっくりとした太鼓の枠打ちのリズムに合わせて、青年が屋台に棒乗りし横笛をふきます。一区切り演奏し終わると、二発の太鼓に合わせてヨーイヨイの掛け声をかけます。元々は担いで運行していましたが、声を合わせて担ぎあげるタイミングであるヨーイヨイがなかなか回ってこないので、非常に担ぎにくいことや、時間遅延の問題もあり、現在ではほとんどの屋台が台車での運行であったり、一部のみ担いでの運行となっています。
 ですが、御旅町のみはじめから最後まで、担いでの運行を続けております。そのこだわりは、1996年のミニコミ誌にも見て取ることができます。管理人も1998年に一度体験させていただいたことがあるのですが、しなりにくい角棒が肩に食い込み、交代の人もいない。非常にハードな行幸でした。
 御旅町はこの試みを20年を超えて続けてきました。時間の遅延の問題もあるので、他の屋台に迷惑をかけないように続ける試みは非常に苦労の多い物だったことが推察されます。他地域との祭との相互協力や、屋台の改修などを経て、御旅町の祇園囃子練りは今も進化していました。
 2014年のものと、2018年の様子を比べると、驚くほどの進化が見て取れます。

2014年御旅町祇園囃子練り
 

2019年御旅町祇園囃子練り
  時間はこの5年で半分ほどになりました。この間には改修が行なわれており、2019年に御旅町を担いだ友人曰く、脇棒がよくしなっていたとのことです。
 祇園囃子練りへの情熱を持ち続け、合理的な努力をしていった結果の見事な練りということができます。

●編集後記
四月になるとこの祭に来たくなります。
この2年間は正直なところ、職場での小さい出会い以外はいい新年度を迎えられていません。
でも北条節句祭を見ると、頑張ろうという気になれます。
屋台の祭の大変さ楽しさ難しさを分からぬまま、あれこれ祭を論じると空疎な戯言にしかならない。この祇園囃子練りを見て改めて実感しました。


87.鬼追いの12(月刊「祭」2019.2)

2019-02-03 17:24:43 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
今の季節は節分、鬼追いの季節です。
修正会、修二会と言われるように、年のはじめに悪いものを追い払うことを祈念して行われます。
その時に一年の月の数、十二という数を意識していると思われるものがあったので紹介します。

1 神戸市西区 性海寺(間違っているかもしれません)
小鬼の数が十二人やった。。はずです。





2神戸市長田区 長田神社






十二支の文字が書かれた餅を切ります。
切りそうで切らないを30分以上続けていました。







↑この写真の左下の二つの塊が餅です。

3奈良県斑鳩町法隆寺西円堂







リンク先は鬼追い前の読経の様子です。木の枝に紙を挟んだものを12本持って円堂の中をまわっていました。

●薬師如来と十二
藤原貴美子氏が「鬼を迎え祀る人々」で指摘しているように、鬼の儀式は多くが薬師堂で行われたり、薬師堂で着替えられたりします。上にあげた例でも、長田神社は薬師堂で鬼の着替えが行われ、法隆寺西円堂のご本尊は峰薬師ともよばれる薬師如来です。
薬師如来はその脇周りに十二神将と呼ばれる武神を従えることがあります。その十二神将の頭冠には、それぞれ十二支の動物が見られます。一年の幸せを願う鬼追い。その月の数十二ははずせないものといえそうです。

●編集後記●
今回は文短め、写真多めです。
今日(2/3)、法隆寺の鬼追いでした。
鬼が出るまでの待ち時間で書きあげました。
最近は祭関係のお仕事の話をいただくこともあり、思うように勉強ははかどりませんが、韓国語、くずし字読みはなんとかものにしたいものです。









86.屋台、だんじり、太鼓台のインターネット上の重要資料とその課題(月刊「祭」2019.1)

2018-12-27 14:59:37 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

屋台、鉾などの祭が世界遺産になったそうです。
これを機に屋台、鉾の文化を再び研究する機運が高まっているように感じています。
これまであまり「研究がなされていない」ということが、とくに京都祇園祭以外の祭では言われがちですが、はたしてそうでしょうか。少なくとも、播州では粕谷氏が1980年代より研究を発表し始めています。播州においては東播磨はナメラコゾウ氏西播磨は四神会による研究が、さまざまな古屋台の復原は横山隆史氏が活発に行なっております。四国に目をやると太鼓台研究の大家尾関明氏が様々な調査、考察を実施しております。
そして、全国的にはいわねえ氏が、驚異的な精度と量で全国の祭礼を網羅しています。

●ウェブ発表の現状
こうして見ると、四神会の名田氏や尾関氏には優れた著作があるものの、優れた先行研究の多くがネット媒体での発表となっています。
ネット媒体での発表の利点と不利な点をまとめてみました。

利点① 手軽に発表できる。閲覧できる。
誰でも無料サーバを利用して、写真などを大量に掲載しつつ、発表できます。義務教育用の地域教材の開発が、昨今行われてきていますが、ナメラコゾウ氏や四神会、横山氏の活躍がなければ、大きく遅れていたと思われます。

利点② すぐに改変できる。
屋台の新調は日々至る所で行われており、最新の情報を掲載し共有できるのもネット掲載の利点です。いわねえ氏は、今も精力的に更新を行なっており、タイムリーな情報をみることができます。

不利点① サーバが閉じられる危険
これは、現在管理人が直面している問題です。本ブログの親ページ「祭と民俗の旅」もジオシティーズがウェブページを2019年3月に閉じることを宣言しています。なので、コピペで保存する作業が課せられています(ToT)私自身は無料ページを使っていますが、金払ってようがいよまいが、サーバの都合でいきなり閉じられてしまうという危険は常にあり、良ページはプリントアウトして保存しておく必要があるでしょう。

不利点② 評価されない
上記不利点①のウェブページの不安定制を元に、研究の成果として評価されないという難点があります。ですが、プリントアウトとして保存しておくことで、やはり立派な参考文献になりえます。本稿で紹介しているウェブページは、屋台、だんじり、太鼓台研究の先駆的な成果であることは事実です。これを評価できないというのは、評価する側の至らなさとも言えるかもしれません。

・編集後記
私にとって宗教や民俗学、歴史の研究で参考にし、憧れるのは大学や博物館勤務のプロの研究者でした。ですが、こと屋台だんじりに関しては、プロの方よりも在野の研究者の割合がずっと大きくなります。これらの成果に目を向けなければ、屋台、だんじりの研究は停滞、衰退、実態との乖離が著しくなるだけです。

本年亥年もよろしくお願いします。


とろサーモン久保田さんが、女性差別発言(彼の罪は、上沼氏を批判したことでなく、批判する際に差別的な表現をつかったこと。)を反省し、復活することをねがっています。