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月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

226.生業と祭と屋台-農業と祭礼日-月刊「祭」2019.11月10号)

2019-11-12 18:45:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●祭で祈られる生業の発展
 祭の大きな目的の一つとして、生業の発展があります。その中でも、農業の発展・「作物がよくとれる」ことを祈るのは、人間が物を食べて生きる生物である限り、続く行為になることでしょう。そのような、「農」と祭を見ていきましょう。
 
●歌われる「農」
三木市内の中で、旧の町方である明石町では、歌われることのない歌が、「今年やなあ、豊年年---」の歌です。地域や屋台によって少しずつ違いますが、農村部の屋台ほど歌われていることが多いようです。
 例えば、下の地域でも「豊年どし系」の歌が歌われています。

↑三木市八雲神社久留美屋台



↑三木市志染町御坂神社


↑三木市岩壺神社を出る若宮八幡神社宿原屋台
 
●農業と祭
三木市吉川町細田神社



↑祭が終わって片付けが始まっているときに行きました。大きな各村ののぼりの中に菊正宗ののぼりが多数ありました。酒米山田錦の産地で、日本酒とはきってもきれない関係にあるみたいです。
 聞くところによると、山田錦は普通の米より背が高く、台風などで傷みやすいので、育てるのに神経を使うそうです。
 
丹波篠山市佐々婆神社



↑見事な刺繍を擁する山車を見せていただきました。


↑ご自宅まで案内してくださり、地域の歴史や村の様子についてのお話を聞かせていだきました。そして、やはり、話にあがるのは、農業のことでした。ブランドの黒豆を見せていただきました。「丹波篠山黒枝豆販売の店」の札がかかっている店は、「おいしい」の目印です。

小野市久保木町住吉神社


 
 詳しくは、こちら。祭礼の日程も稲刈りとの兼ね合いで、10月体育の日の次の土日から、10月最後の土日に変更になりました。
 
●仕事と農業と祭礼日
 今回あげた屋台に携わるほとんどの方が、仕事を持ち、田や畑を切り盛りし、そして、優れた祭文化の担い手になっています。このような地域の祭に行くと、やはり田んぼや畑を切り盛りする苦労があることも話題に出ます。逆に仕事をして、田畑を切り盛りしていると、祭への参加が難しくなる話も聞きます。会社によっては、「祭と田んぼ(畑)」優先を認めてくれるところもあると聞きますが、やはり少数でしょう。
 祭礼日を固定ではなく、土日開催を批判する声もあります。ですが、専業農家が立ち行かない現代では、特に農村部での平日開催はかなり厳しい現状があるようです。
 
 
 
 
 













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215.小野市久保木町住吉神社秋祭概要(月刊「祭」2019.10月14号)

2019-11-01 15:53:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●「播州祭り行脚」で知った祭と屋台
 管理人は小野市久保木町住吉神社の屋台と祭を、「播州祭り行脚」で知りました。このサイトの功績については後に書きます。管理人は縁あって、この祭に関わる機会を賜りました。今回は久保木屋台をふくむ、住吉神社の祭の概要を紹介します。
 
●住吉神社概要と祭礼日
 所在地(兵庫県小野市久保木町978)
 祭礼日(十月最終土日)
 
 氏子は現在の久保木町(旧久保木村)全域に加え、加東市の古瀬と出水にも何件かずつあるそうです。現在の本殿は棟札により享保三年(1718)により造営されたことが知られており(小野市史編纂専門委員会『小野市史別巻』(小野市)平成8年)、また、菅田の住吉神を勧請したことによって創始されたとも伝わっています。祭のために久保木の中を東から春井、東、宮ノ下上、宮ノ下下、西の五組の日参講と呼ばれる組織に分けて年番制で祭を担当していましたが、近年宮ノ下の上と下が合併し四年に一回の当番制で祭を担当しているそうです。 


 
 祭礼日は、10年くらい前は体育の日の次の土日でしたが、稲刈りの都合で十月の最終土日に近年変更になりました。
 
 
●祭の準備と屋台・神輿
 管理人が挨拶に伺った1日目の正午のときは下の写真のようにすでに屋台が組み上がっておりました。
 屋台は近年修理がなされました。彫刻師が花岡富蔵たる人物によるもので、刺繍は絹常製のものと思われ、水引幕にはカタカナで「ヤシロ」の銘が縫い付けられています。この銘の入った物は現在のところこの一枚しか知られていません。
大正初期に神輿と屋台をほぼ同時期に購入したそうです。
 
 
●神輿の渡御

 ↑1日目の午後五時頃から神輿に祭神を移す神事が行なわれました。
 今年は神輿の修理に際してのお祓いが祭が始まる一時間前に行なわれました。管理人も参列の機会を賜り写真は撮れませんでした。写真は、五時からの神事の様子です。
 
 
↑ビデオカメラで撮影していましたが、暗闇の中の渡御で映像の画質は最悪でした(ToT
 白い○に少し神輿の屋根が写っています。屋台が神輿を先導していました。
 
 


 
↑山上の八幡神社が御旅所になっており、そこで神輿は一晩を過ごします。
 住吉神社は東條川の近くの平地にあり、川から山への御旅と言えるでしょう。また、住吉四神は上筒男、中筒男、底筒男と神宮皇后を表します。八幡神は応神天皇、神功皇后の御子神です。神仏のお渡りは西と東、親と子、夫と妻などの対になる施設の行き来が多く見られます。このお渡りも親と子、川と山の対になる施設のお渡り式であると言えます。もしかしたら、来年も山から東條川に注ぐ水が適度であるようにという祈りを込めているのかもしれません。

↑屋台は住吉神社の収蔵庫に戻り、明日、八幡神社にお迎えにあがります。
 
●獅子の門つけ
 獅子は夜12時に神事を行なったあと、門つけを氏子域全家庭をしていきます。元々は当番の日参講がしていましたが、20年ほど前から消防団が一手に引き受けています。
  門つけは日参講の春井の決まった家から始めるのがならわしとなっています。門つけをされる家が祝儀を出し、獅子側はお札を渡し獅子舞を舞います。途中村の中の稲荷社にも舞を奉納していました。久保木の中の東側から西側に向かうという順路になります。
↑演目は玄関の中で行う鈴と御幣を持った「コウジンバラ」と、それよりは動きが大きく必ずしも玄関の中で行われない剣をもった「ツルギ」の一人舞が一セットのようで、見た限りでは全ての舞で行っていました。ツルギの方は動きが上の画像は「ツルギ」の場面で、後の人は補佐をしながら笛を吹いています。補佐役が笛を吹かない姫路市の英賀神社のものとは少し違います。
 そして、この一セットの一人舞のあと、家庭やご祝儀などによって「ランギョク」とよばれるものか、「ヤシマ」と呼ばれる二人舞の獅子が舞われます。「ランギョク」の方は横への回転が伴う激しい舞で、ときおり拍手がおこっていました。

 住吉神社近くの公民館で朝の三時から四時ごろ休憩をとり、住吉神社の西側に門つけに再びいきます。出水の方へは車で出かけました。

↑出水を回る頃にはすっかり夜が明けています。
 
●還御

朝8時半ころ屋台は住吉神社を出発し、御旅所近くの老人ホームにやって来ました。出水から戻り、老人ホーム付近での門つけを終えた獅子が合流し、2匹の獅子が屋台の前で入所されている方々の前で舞を披露しました。

↑御旅所から獅子のお帰りの道中の辻で、祭の間たった一度だけ「ハナガカリ」が舞われました。


↑神輿が宮へ戻ると、神輿の祭神を宮に戻す前に最後の獅子が舞われます。演目は「コウジンバラ」と「ツルギ」のあとに「タニワタリ」。足の使い方が難しそうな演目でした。
 

↑やがて神輿からお宮さんに祭神が戻り、久保木の秋祭の神輿の渡御、還御は終わりました。
 
●屋台の再出発とお楽しみと片付け
↑神輿の祭神がお宮にお戻りになるのを確認した屋台は、久保木の村内を巡行します。忘れられつつあった伊勢音頭を復活させようと、かつての録音した音源に子どもたちが太鼓をあわせて巡行します。
 かつては、せまい道も担いでまわったとのことです。



↑子どもたちは、祭の太鼓と小学校で習った演目を披露してくれました。司会を久保木の歴史保存会の方がおこなっていました。村の人たちの暖かい拍手に、村全体で子どもを育てようという思いが感じられました。

↑最後は福引です。

↑その日のうちに片付けられます。

↑のぼりをゆっくり倒します。

↑修理した屋台を埃から守るカーテン。
 
久保木住吉神社の秋祭の構成
 祭は、以下のように構成されていました。
一日目
①神社から御旅所までの行幸
②獅子の門つけ-夜通し-
二日目
③御旅所から神社までの還御
④屋台巡行、太鼓披露、福引などの楽しみの時間
 
 日参構から消防団に獅子の担い手が変わったり、新しく組み込まれた太鼓演奏を新しい組織である歴史保存会が主催したりと祭を担う組織が再編成されている過程が見られました。
 また、神輿の御渡りには親と子、川と山の対の関係が見られるのも興味深い点でした。
 そして、少ない件数でなんとかしてここまでの規模の大きい祭を保存しようとする努力に頭が下がりました。
 
最後に
 忙しい中、見学にご協力くださった氏子の皆様方に深く感謝申し上げます。
 
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210.奉祝令和-即位礼に合わせた三木の祭-(月刊「祭」2019.10月9号)

2019-10-29 06:36:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

 10月22日の令和天皇即位式典にあわせた、お祝いの祭礼が三木市内では各地で行われました。今回はその祭りを通して、分かったことをレポートします。

 
●三木市内の祝典概要
各神社の屋台の動きは下のようなものでした。
大宮八幡宮 
・明石町
 宮入、滑原屋台との練り合わせ
・新町 
 大宮八幡宮石段下まで巡行、差し上げ。
 滑原屋台と合流して写真撮影
・末広、下町、栄町、高木
 大宮八幡宮石段下まで巡行、宮参りの後、四台一斉差し上げ。
 旧三木鉄道三木駅前で練り合わせ
・大村
 屋台巡行。
 獅子舞用の面などをイオンで展示、獅子舞披露。
・平田
 出したか出していないかを把握していません。
・城山
 屋台飾り付け、展示。
 
岩壺神社
 何台かが氏地巡航したと聞きましたが、正確には把握していません。
・滑原 
 新町と合流写真撮影。
 大宮八幡宮参道側まで巡行。
 明石町屋台と練り合わせ、写真撮影。
 
別所地区
・東這田、花尻、石野、興治の屋台と、高木の子ども屋台が石野の御酒神社に宮入。
 


 
●屋台の識別基準は屋根
 末廣屋台の旧布団締め復活
 あれ?見慣れない屋台がある。。
 神社に並んだ四台の屋台を見てそう思いました。
 令和の奉祝祭典ではいくつかの特別仕様が見られました。目を引いたのは、末広屋台です。
 その日に限っては、いつもの玄武ではなく、かつての一本の布団締めに、末広を構成する四町の名前の入った白の布団じめもしつらえていました。
 

↑通常の末広屋台

↑令和奉祝の時の末広屋台。
 旧屋台の布団じめです。
 
 我々は、屋台を認識する時は、屋根を基本にしていることに気づきました。
 
●「城元」四町 
 三木の町は岩壺神社の氏子域と大宮八幡宮の氏子域に分かれます。祭礼日はもともと同じでした。
 神輿は大宮八幡宮のものが高木の御旅所に行幸しています。今はまあ行われていませんが、岩壺神社のものは滑原の三木城跡の稲荷神社に行幸していました。そして、滑原町の稲荷神社の神輿も高木に行幸していたそうです。つまり、三木の城跡を、介して二つの祭は連動して行われていたとも言えます。
 岩壺神社の御旅所である滑原の城跡はもちろん長治公等別所氏のもので、そのすぐそばにある大宮八幡宮もまた、別所氏の氏神であったと伝わっています。現在の大宮八幡宮の祭は、長治公がご自害なされた後に赴任した領主の中川秀政が社殿を復興して始めたものと伝わっています。
 となると、城跡に行幸する岩壺神社の祭と、城の鎮守の社だった大宮八幡宮の祭が連動するのもうなずけます。また、滑原もナメラ筋と言われる霊の通り道に通じる町名は、御旅所町としての名にふさわしいものと言えます。三木の大宮八幡宮を含む「城元」といえるのは、滑原、大手、新町、明石町の四町だといえそうです。
 令和奉祝の祭典では、城元の滑原の大宮八幡宮宮入はかないませんでしたが、新町との写真撮影、明石町との練り合わせは意味のあるものでした。
 






 
●棒乗りと奉祝と彫刻 
明石町青年団長の棒乗り
 令和奉祝において、明石町屋台は通常祭礼時は禁止されている棒乗りを宮入りですることができました。といっても、棒のりしたのは管理人ではありません。棒のりするのは、もちろん明石町の青年団長です。他地域では、年配の方がそれをする地域もありますが、別所長治公という青年君主の宮ではやはり、若い青年団長の棒のりがしっくりきます。
 ましてや明石町は、三木城の用材を明石に移す城移しの道が通る町です。そして、杣八幡神社という大宮八幡宮の元宮といえる宮があります。この杣八幡神社の「杣」は、かつてはきこりである杣人が住んでいたことに由来するとも言いますが、明石への移城の用材の元にある場所としての「杣」であるともいえます。この杣八幡を擁する明石町はまさしく三木城や別所長治公の魂を呼び寄せる屋台ともいえるのかもしれません。
 
 
令和天皇のお名前と明石町の欄間(狭間)彫刻

 今上天皇の即位は、明石町にとってもまた、特別な年にもなります。それは、明石町の欄間彫刻によるものです。明石町の欄間彫刻の一場面は「民のかまど」と呼ばれる場面です。
 八幡神・応神天皇の御子である仁徳天皇の治世、民衆は困窮を極め、飯を炊くかまどに火がともることもなくなりました。仁徳天皇は税を免除するという英断を下し、家々のかまどに煙が再び立ち込めるという場面です。仁徳天皇の善政に感謝した人々が米俵を持って、仁徳天皇のもとを訪れています。
 さて、今上天皇のお名前も徳仁(なるひと)と言って仁徳の文字を用いたものとなります。そして仁徳天皇の彫刻を擁する明石町屋台の青年団長は毎年、町民や担ぎに来る人たちのために、奮闘する若い人がなっています。その姿は、まさしく「仁徳」そのものであるし、かつての三木城主の姿を受け継いでいるともいえます。そういう意味では今上天皇の徳と仁をしっかり受け取っていると言えます。


 国政は残念ながら消費税をひきあげるなど仁徳、徳仁の真逆を行くものとなっていますが、それは天皇陛下への不敬につながるとも言えます。国政の中枢にいるみなさまが、我らが団長や仁徳天皇、長治公を見習うことを切に願い今号の筆を置きます。
 
 
編集後記
 今上天皇のことを、元号に天皇をつける形で表現していました。これは、諡号といって崩御された天皇への呼び方であることだというご教示をTさんより賜り、すぐに表現をあらためました。
  Tさん、いつも本当にありがとうございます。
 
 
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206.若い人が動かすタイコ(月刊「祭」2019.10月6号)

2019-10-20 01:33:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●若いモンにまかせとったらええ
 よく聞く言葉に、「若いモンにまかせとったらええ」という類の言葉があります。とはいうものの、管理人のようなおっさんも内心「まだまだいける」とか「若いモンには負けへん」とついつい思ってしまうものです。
 しかししかし。やっぱりよる年波には勝てないという現実を今年は感じることになった祭でした。若い人はこうなる前にくいのない祭をする戒め?として、若くない人は怪我の防止のため?に読んでください。
 
●石段
 今年は台風の影響で三木市の大宮八幡宮も、宮入りは一日だけでした。その鬱憤を晴らすが如く、石段は元気よく上り、元気よくおりることができました。
 管理人はほぼ担ぐこともなく、ゆらゆらと揺れる屋台とともに石段を上り下りする時間となりました。
 とはいうものの、元気に担ぐ力もちの担ぎ手や、石段をずり落ちないように棒を押しながらおりてくる青年団の助けになるのも、おっさんの務めと思っていました。屋台より少し下で、みんなを見守りながらおりている「つもり」でした。「いざとなったら、助けよう。」そんな熱い思いで、屋台を見上げながらおりていました。そんな時、管理人に声がかかりました。「◯◯さん、屋台が急に落ちてくるから危ないっすよ!」
 どうやら、少し下から見ると、管理人が一番危なっかしく見えていたそうです^_^; 自分の中では機敏に動いているつもりだったのですが、一番の不安要素だったみたいです(ToT




 
●太鼓


 一度だけ、現役の若い青年団にまじり、サイタサイタ(差し上げ)の太鼓を練習の時に打ちました。若いモンには負けんと、ドンドンドンデドンを力の限り、速く強く打ちました。
 あっという間に息切れ、こりゃ使いもんにならんと痛感した時さらに追い討ち。
 「な、お前らはよたたきすぎやねん。◯◯さん(管理人)みたいにゆっくりたたいたらええんや。」後輩の現役の太鼓打の彼は、入団間もない若者達にそう語りました(ToT)
 管理人自身では超高速で打ったつもりの太鼓はスローペースのお手本になったみたいです。。
 
●やっぱり若い人が主役
 綺麗事ではなく、祭の主役は誰かということを手厳しい現実として感じた祭となりました(^_^; 
 体がバリバリ動くのは束の間その間にしかできないことを若い人には目一杯楽しんで欲しいものです。我々おっさん組は、なんやかやのサポートが役割です^_^
 
 
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200.うっとこが一番(月刊「祭」2019.10月.1号)

2019-10-11 19:14:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

とうとう200本目。。

 月刊「祭」もとうとう200本目を数えました。100本目は気合を入れたくてまだ書いていませんが、零(れい)巻をふくめると、200本はあることになります。警報で屋台は出さなくなるかもしれませんが、この記念号を一応「祭」の前日に書きます。
 
●「祭」一文字が表すもの
 高校の古文では「祭」と書くと「葵祭」を表すと管理人は習いました。しかし、管理人にとって「祭」というのは、三木市大宮八幡宮秋季例大祭を意味します。それは、管理人にとって一番大きな意味を持つ祭だからです。
 そして、読者の皆さんの多くにも、「祭」の一文字で思い浮かべる一番大切な祭があることでしょう。管理人は祭を調べたり、考えたりする上での最も大きなアドバンテージは、「祭」の一文字で思い浮かべる祭が自分にあること、自分が最も大切にしている祭があることだと考えます。そうでないと、他の地域の祭への理解はどうしても上澄みの部分のみになってしまうでしょう。
 
●うっとこが一番
 方々で祭見聞をしていると、言葉の端々にうっとこ(うちのとこ)が一番という思いを感じます。もちろん管理人も同じです。明日から年で一番楽しみにしていた日が始まります=もう直ぐ終わります(ToT
 


 
 
 
 
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203.一台練り地域の祭一日目の朝(月刊「祭」2019.10月4号)

2019-10-08 10:03:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●胸が高鳴る一日目
 三木市内や播州、大阪、四国などの多くの屋台やだんじりが出される祭は、多くが二日間の祭りになっています。夜宮・昼宮と呼んだり、宵宮・本宮と呼んだらしています。この日を楽しみに一年を過ごし、祭を迎える日の朝は、わくわく胸が高鳴ったり、眠れなかったりして朝を迎えます。
 朝六時から太鼓が鳴るというのが、管理人在住の三木市大宮八幡宮明石町の祭の音風景となっています。ですが、祭の風景も、同じ三木市内でもかなり違うものになっています。特に、一つの神社に一つの屋台が宮入りする地域では、人数などの制限などによる苦労が見られました。
 今回は三木市別所町八雲神社と、同じく別所町熊野神社の朝の様子を見ました。
 
●八雲神社
(アクセス、祭礼日10月第1土曜とその翌日)
 
朝八時頃、自転車で訪れた時は花尻屋台の蔵は空いていませんでした。
 

↑十時頃台車運行がスタートしていました。

↑宮への坂を上ります。

↑100件に満たない戸数で若い人も減っていると聞きました。その中での若い人たちの頑張り。

↑令和改元にあわせての「御大典奉祝」

↑八岐大蛇の龍の刺繍。下からのアングルは、屋台刺繍ではあまり見られません。
 中の文化九年(1812)の鳴り太鼓は、管理人が知る限り三木市内では現役最古です。

↑全体の風景
 
●熊野神社
(アクセス、祭礼日10月第1土曜と翌日)
11時頃伺った時はご多忙の中、撮影の便宜を図ってくださったり、飲み物をいただいたりと、本当にお世話になりました。

↑かつての下町屋台を購入したものです。

↑見事な龍の水引幕

↑水引幕と同系統の作者でしょうか。


↑午前九時ころは、祭会場となる神社の草刈りをしていました。
 

次の10月27日は石野の御酒神社(アクセス)で「令和奉祝の集い」が行われます。
 
人口減少の中の祭
 人口が減る中で、担ぎ手を確保するために
大宮八幡宮や岩壺神社の祭礼日と日をずらしたり、担ぎ手のための飲み物などの準備や祭会場の準備をしていらっしゃいました。より楽しい祭りにしようと奮闘努力する姿に頭が下がります。
 
 
 
 
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194.屋台と小学校(月刊「祭」2019.9月21号)

2019-09-26 16:57:31 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
 

●学校への敬意と屋台
 明治時代に学制が敷かれて以来、「学校」と地域は切っても切れない関係となりました。それは祭も同様です。祭の日は、平日でも学校が休みになったり短縮授業になったりし、先生方は補導にも来られました。昨今では、学習指導要領の改変などで地域文化の重要性を学ぶ一環として地域毎の副読本で祭礼をとりあげることも増えました。
 祭関係者が通ったり通っていた小学校や中学校は、その神社の近くにあることがほとんどでした。個人的な経験では、祭りが盛んであったり、田舎な地域では学校や先生との距離が近く、敬意も持たれているように感じました。そのような中で、学校創立 百年や何十周年を祝して屋台が出された例がいくつかあります。
 
●2005年 加西市立冨田小学校 100周年
  高峯神社の屋台(畑西、畑東、窪田、西谷西、西谷東)住吉神社(谷、西上野、市村)などの屋台が参加しました。
      フォト蔵
      加西市教育委員会
 
●2009年 三木市立別所小学校 100周年
 大宮八幡宮高木屋台、熊野神社興治屋台、八雲神社花尻屋台、美坂神社東這田屋台、御酒神社石野屋台が「学校入り」しました。
 
 
 
 
 
 
 
●2013年 姫路市立八幡小学校 120周年
蒲田神社(西蒲田屋台)などが参加しました。
個人的には、祭礼日が同じ西蒲田屋台を見ることができたのがうれしかったです。
 
 
 
 
 
 
 
 
●2014年 姫路市立高浜小学校 120周年
 
中島天満宮の(野田、下野田)屋台などが参加しました。
 
 
 
 
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184.奇跡の楠(月刊「祭」2019.9月11号)

2019-09-13 04:13:34 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

 昨年は台風で泉州地域にも大きな被害が出ました。そのような中でも奇跡はあったようです。

 
●泉穴師神社(アクセス)
 ここで主に話題にするのは、泉大津市の泉穴師神社です。主な沿革は例によってうぃきべで●あで見てください。
 入り口です。主な祭神は、天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)と栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦神です。天神が地に降りてきて始めの神で天皇家の直属の祖先ということになります。
 
 



↓拝殿から撮ると、鳥居が二つあります。一つの拝殿に二つの門の神社は阪南市の波太神社にもありました


本殿をとると、これも波太神社と同じように中心部をあけて、その両横に神座へと通じる階段がみえます。この本殿が二つに分かれている形式は泉州によくあるのでしょうか。
 
↓こちらは以前にも掲載した波太神社の本殿です。


 
 
●なぜ楠が、、植えられているのか。
この記事の題名にある通り、この神社では楠の大木が何本かあり市の天然記念物にもなっています。ところで、なぜ大木まで育てる木に楠が選ばれたのでしょうか。
 下の写真は拝殿の中心から撮った写真です。本堂の中心全部に古い灯籠が安置されています。

↑上の灯籠は楠正成が河泉地域で挙兵するときに奉納されたものと伝わっています。   
 本殿中央という最も重要な位置を自身の寄進灯籠が配置される楠正成の苗字の木を大切に育てる文化が醸成されたのか、楠があったから楠公伝説ができたのかは分かりません。しかし、今の楠の重用は楠公伝説と関連していることは言えるでしょう。
 
 
●奇跡の楠
 そのような楠はあるものは樹齢数百年を超えると言います。その楠の一本も台風で倒されてしまいました。地元の方々は、台風の恐ろしさを忘れないための戒めとして自然災害遺産として保存することを決めました。そしてよく見ると、、、








 木は命を繋ぎとめ、再び枝葉をつけていました。自然の恐ろしさと共に、祭と共に生きる方々のたくましさを思い起こさせる遺産になったようです。




 
 
●祭のつながり
SNSなどでは、青年団員たちが近所の家を回って手伝いを申し出ていて頼もしさを感じたこと、自分たちの町を守るための活動をする祭関係者の存在がわかる書き込みが度々ありました。
 また、かの阪神淡路大震災でも、だんじり祭で培われた結束力が、避難所などでの生活や復興への活動でも大きな力を発揮したと言っていました。
 ベタな結論になりますが、祭の結束力の強さをかんじます。
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182.祭ヘイトな人はどんな人? (月刊「祭」2019.9月9号)

2019-09-11 20:23:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
今回は文章のみの記事です。

-祭ヘイトな人はどんな人?-

 祭の事故のニュースがあると、湧いて出てくる祭ヘイトな人たち。ヤフコメやツイッターなどで、書くのもおぞましい表現で、祭やそれにたずさわっている人たちを非難しています。
 どのような人たちが祭を非難しているのかを見てみました。
 ここでは、「携わっている人への誹謗、事故が起きたことを喜ぶ内容、祭自体の中止や嫌いなことを口汚く主張する内容」を書いている人は、他のニュースに対してどのようなコメントを書いているのかを調べてみました。
 
ヤフコメ 某事故のコメント(記憶が定かでないですが、おおよそこんなかんじでした)
祭ヘイトな書きこみ約10名
野球などの芸能など4名、5名
• 嫌韓、沖縄の基地反対運動へのヘイト書き込み4名か5名
 
某事件の記事のツイート
 祭ヘイト7名
  そのうち、
・嫌韓書き込み3名
・嫌韓報道記事のリツイートによる掲載1名 ・リベラル書き込み2名
・仮想通貨への勧誘記事
 
ツイッターで祭 事故で検索
 祭ヘイト2名
 ・共に嫌韓
 
 ・祭ヘイトな人の特徴
 意外とリベラルと呼ばれる立場の人の祭ヘイトの書き込みが少なく、ネトウヨ的な書き込みをする人に、祭ヘイトの書き込みが見られました。また、口調の汚さ、過激さは、リベラル書き込みしている人以上に、嫌韓的な書き込みをしている人の方にありました。
 年柄年中ヘイトスピーチに明け暮れているガチガチのネトウヨ、年中政治的な書き込みをしているリベラル派はこの類の事件への関心はあまり見られませんでした。
 そして、「ご冥福をお祈りします」とした上で運行方法の改善案を示す人には、「やや」リベラル的な書き込みを示す人が多く見られました。個人的にはそれは嫌やなという改善案が多かったように思います。
 
予想外の結果
 このような祭の事故に際して、ネトウヨと呼ばれる人は「神をまつるためにやっとるから死んでも本望だ」といった祭に肯定的な過激な書き込みをするものだと思っていました。が、それは見られなかったのも驚きです。
 
まとめ
①祭ヘイトする人は隣国ヘイトもすることが多い
②ガチガチのネトウヨ、ガチガチのリベラル共に祭の事故への書き込みはあまりしない
③ややリベラル派は「ご冥福をお祈り」して、改善案を示すが現実的でなさそう。
 
  
 
 
 
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174.ドラマ、映画化した屋台、だんじり、山鉾の祭(月刊「祭」2019.9月1号)

2019-09-02 23:22:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

 ドラマや映画のワンシーンで、祭のシーンはよく使われます。
 しかし、屋台・太鼓台や、だんじりを使うとなると、わざわざ地域の人にお願いしたり、逆に撮影を祭の日に合わせたりしなければならないのでしょう、ある程度数は限られてきます。どのような映画やドラマがとられたのかをここで、紹介します。

出演者の役柄が祭関係者でないもの
鴨川ホルモ-
 とある事件をきっかけに管理人は主演の山田孝之が好きではないのですが、この映画は面白かったです。
祇園祭のシーンが出てきます。

 

●NHKプレミアムドラマ 「歩く、歩く、歩く~四国 遍路道~

 2013年1月20日放送 
 主演の田中麗奈さん演じる遍路を行くOLさんが、愛媛県新居浜市一宮神社を訪れます。境内では庄内太鼓台など二台でてきます。ドラマ中の重要なシーンとなります。検索すると動画が見られるかもしれません。

出演者の役柄が祭関係者のもの

●水戸黄門第26部 第22話 網干の祭の鬼退治 1998年7月13日放送
 キャスト あらすじ
 グーグルで検索すると動画が見られるかもしれません。

神社は姫路市網干区魚吹八幡神社。出演した屋台は、宮田、坂上、坂出。出演者のチョーサの掛け声のアクセントが練り子と違っています。

管理人が聞いた話では、エキストラとして練り子(担ぎ手)たちはかつらをかぶったと聞きました。
 徳川光圀の存命期間である寛永五年~元禄十三年(1628~1701)は、現在のような屋台が魚吹八幡神社にあった可能性は低いと思われます。または、あったとしてももう少し簡素な物だったと思われます。
 しかし、三か村の迫力あるチョーサが作品の質を、ん百倍もあげたのは言うまでもありません。

●岸和田少年愚連隊シリーズ 
 今や大人気芸人となった千原ジュニアさんが主演の中場利一を演じる2本は、いずれも地車で主人公の心情を表そうとしています。この作品は原作・中場利一さんの自伝的小説を元にして映画化されています。中場さんは岸和田市の中之濱で生まれ育ち、地車関係者でもあります。「走らんかい」では木下舜二郎の名前が出てきます。

血煙純情編 1997年 
 5月か6月のラストシーンでは鈴木紗理奈さん演じるりょうこが「ちょっとだけ夏の

 

においがした」と言っているのに対して、利一は「また、祭りが来る」で締めくくります。サイトを見ると酷評も目立ちますが、祭をしている人にとっては、なんとなく気持ちがわかる感が出ているように思います。

 

エピソードファイナル STAND BY ME (紹介映像) 2001年

 

 紹介映像の回想シーンは昭和八年。今となってはロングタイプのパッチが主流の岸和田のだんじり祭りですが、ここでは短いパッチになっており、時代を感じます。

 「その祭にどんないわれがあったもんか、そんなことは実はよう知らん。ただわしら気づいたら生まれてて、ほんならそこにそうゆう祭があったという、それだけのことやった。」
という、利一のセリフで本編が始まります。

 

 

そして三木も

神さま、私の鉄道をまもって

〜三木の紅龍伝説〜

2020年5月24日 三木市文化会館公開予定

昨年の神戸電鉄三木駅の火災を機に、廃線が囁かれている神戸電鉄粟生線をなんとか存続させようと作られた映画です。

 主演ではありませんが下町の法被を着た幼き祭男が出演します。また、祭り当日も撮影が行われます。

 



 



 

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