月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

326.女性の参加度はどのくらい!?-祭を比べる難しさ-(月刊「祭」2020.2月4号)

2021-02-15 12:57:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●組織研究という祭研究の主流!?

 これを社会学というべきか、民俗学というべきか、はたまた別の呼び方があるのかは分かりませんが、屋台やだんじりの祭を研究でよくされているのが、組織の研究です。管理人もそれっぽいことをやろうとして、失敗しかけたことがありました。同様の失敗をしている人を見たことはありませんが、今後同じ失敗をするのをふせぐために、今回の記事をあげることにします。
 それが「祭を比べる」ということです。
 その難しさを、管理人が失敗しかけた女性の参加という視点から考えていきます。
 なお、この記事は女性の参加の可否を取り上げている物ではないということをはじめにおことわりしておきます。

●大阪、岸和田、尼崎の比較 

1.女性が綱元を曳く大阪市東成区比売許曽神社 東小橋(ひがしおばせ)だんじり

 

 地車本体のすぐ前の綱元はだんじりが、すぐそばにある危険な場所です。ここを女性が曳いています。

2.女性が綱元を曳かない岸和田だんじり祭

 

 

 一方、岸和田のだんじりの多くは映像のように、綱を女性が握ることはあっても、綱元は男性が務めています。

3.女性がだんじりに触れない尼崎の祭

 尼崎市貴船神社のだんじりは女性が地車に触れることはありません。

これらのことから、「大阪市比売許曽神社→岸和田→尼崎の順に女性の参加が進んでいる」と言いたくなります。しかし、安易にこの結論を出すことは出来ません。

 

●科学的検証の鉄則、比べる条件以外は揃える

 小学校五年生の時に習うのが、比べたい条件以外は条件を揃えるというのが実験の鉄則です。例えば、塩と砂糖の水への解けやすさを比べるときに、塩10gに水50g、砂糖1gに水100gで比べても正確には比べられないというものです。正確に比べるためには、塩と砂糖という物質を変える以外は、水、塩、砂糖の重さ、水温などすべての条件はそろえないといけません。

 祭を比べるときもいっしょです。例えば大阪、岸和田、尼崎のだんじりの動かし方はそれぞれ同じではありません。大阪は比較的おだやかで、岸和田はやりまわしをします。尼崎にいたっては、山合わせといって下の写真のようにだんじりをウイリーさせた状態でぶつけあいます。

 つまり危険なものほど、女性が参加していないというものがうかびあがってきます。危険な動かし方など、揃えられない条件も考えて、祭を比べるという視点が、祭の比較には必要になってきます。

●民俗学という体験の学問

 結局、女性の参加の度合いなどを比べるときに、だんじりの引き方などが分かっていないと議論が明後日の方向に行ってしまうことは明白です。民俗学が体験の学問やということをどっかで聞いたことがあります。その真偽はさておき、フィールドワークを重んじるのは、このような危険性などを体感的に理解する必要があるからでしょう。結局、担いでみんとわからん、引いてみんとわからんことがあるというシンプルな結論になってしまいました。

 

 

 

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319.祭用語をiPhoneで音声入力してみた(月刊「祭」2021.1月2号)

2021-01-08 08:45:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●必要不可欠となってしまったスマホ
 現代社会において、スマホは「あれば便利」というより、「なければすごく不便」な文明の利器となってきました。祭の中でも、青年団やおっさんグループでライングループを作っているところは多いと思います。
 さて、そんなスマホのハイテク機能!?の一つとして挙げられるのが、話したことが文字に変換される音声入力機能です。とはいっても、完璧ではありません。
 そこで、今回は祭用語を音声入力してみました。?は結果、Aは言おうとした言葉です。大きく隔たりがあるのは、管理人の滑舌の悪さか、機能の未発達さによるものかは定かではありません。
 
?森屋で屋台、鳥屋で野菜
A.反り屋根屋台

?うどん屋で屋台
A.布団屋根屋台
 
?神輿ありがたい、長田8大、まだ型8大

A.神輿屋根屋台、灘型屋台、灘型屋台

?あ星型8大

A.網干型屋台
 
?水引マーク
A.水引幕


?ゴーランだけ
A.高欄掛け
 
 天野正宣
A.海女の玉取り
 
?愛生家さあ
A.アヨイヤサー
「愛が生きる家さ」というのはあながち意味は間違いではないのかもしれません。


 
 
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317.さらば青春の光「五反田だんじり祭」のあかんとことええとこ(月刊「祭」2020.12月5号)

2020-12-20 19:57:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●五反田だんじり祭
 芸人、芸能人がユーチューブにたくさん手を出すことになった今年ですが、その中でも「成功」の部類に入るのがお笑いコンビ・さらば青春の光のチャンネルです。その中で初の企業案件として手がけたのが、五反田だんじり祭という映像です。
 題名のとおり、「だんじり」をテーマにしている映像なので、この映像の「功罪」と言うと大袈裟なので、いいとことあかんとこをネタバレになりますが、述べていきたいと思います。
 
●あかんとこ
祭がなくなった?
 まずは、今年はコロナ禍で「祭がなくなった」岸和田だんじり祭も「なくなった」と言っています。このブログの読者の方はもうお気づきだと思いますが、祭の中の屋台やだんじりの運行が出来ませんでしたが、神事は行われているので、祭自体がなくなったわけではありません。
 
ハズい
 法被を着て、外に出るのをハズいと言っています。
 とはいうものの、地元の人には負けますが、そこそこかっこいい仕上がりになっていました。そして、提案者の森田さんは、そこそこだんじり祭への造詣もあるように見えました。そして、それはあかんとこを超えるいい面も期待され、結果として管理人は映像を楽しんで見ることができました。
 
 
●ええとこ
マネする祭馬鹿が出てくるかも
 動画の中で、企業案件のオフィス机を二台の台車に乗せて固定するという簡単な方法でだんじりを作り上げます。これは簡単に出来るものなので、きっと真似する祭馬鹿が現れる事でしょう。
 その「アホなことしたた思い出」は祭文化の伝承につながることを大人になった祭馬鹿は知っています。アホなことする元ネタを提供した点では大いに評価できます。
 
大事なことを言っている
 森田さんのこの発言に注目です。
 堺市出身で東百舌高校出身(参考はこちら)で、きっと祭好きな友達が多いだろうことから、この発言が出たのだと思います。
 「単独ライブもなくなりました。オリンピックもなくなりました。でも、そんなもんは別になくなってもいいもんです。日本から本当になくなったらあかんもん、祭りです。」
 
 
というわけで、五反田だんじり祭の様子をご覧ください。
 
 
 
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312.明石市王子屋台の担ぎ棒収納(月刊「祭」2020.11月4号)

2020-11-30 21:47:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●市街地の屋台・だんじり倉問題
 都市としての発展は、屋台やだんじり を動かす祭にとっては必ずしもいい条件ばかりではありません。特に、屋台倉・収蔵庫の確保は地価が高騰しがちな都市では頭の痛い問題です。神戸市東灘区の本住吉神社などでは、神社に地車小屋をまとめて設置するなど様々な対策を取らざるを得ません。
 日本標準時の都市・明石市も、神戸大阪への公共交通機関でのアクセスも容易な兵庫県内でも有数の都市として発展してきました。その明石市の市街地に位置する屋台の一つが2014年に50年ぶりに復活した王子屋台です。その収蔵には目を見張る工夫が凝らされていました。
 
●高架下の屋台倉
 屋台倉は高架下にあります。しかし、決して十分な広さとは言えず、棒を外した状態でシャッター製の倉に本体を収納しています。では担ぎ棒はどうしているのでしょうか?





●担ぎ棒収納術
 言葉よりも写真を見る方が理解が早いでしょう。勿体つけますので、ずっと下を見てください😄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 4本の管の中に棒を一本ずつ収納しています。見事なアイディアでコンパクトに収納していました。


 
謝辞
 この記事を書くことができたのは、王子屋台の見学に誘ってくださった布団太鼓研究家のSさんと西宮市大市青年団のみなさん、そして王子屋台復活の中心となったFさんと関係者の皆さまのおかげです。あらためて感謝申し上げます。
 
 
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309.祭あるある・関係者バージョン(月刊「祭」2020.11月1号)

2020-11-15 15:56:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●もの足りないライブドアニュースのお祭りあるある
 ライブドアニュースにお祭りあるあるたる記事が出ています。かき氷の色で染まった舌を見せ合うなど、夜店での一幕など花火大会などの見物客主体の祭あるあるとなっています。屋台や地車に携わる人のあるあるがないと、月刊「祭」読者にとってはもの足りないものとかんじることでしょう。そこで、「祭あるある」関係者バージョンを書いてみました。
 
●次の祭まであと365日
 これは、曜日関係なく10月16日17日だったころ、祭りが終わると、「次の祭りまであと365日やー」と小学生の管理人も言っていました。そして、中学生のころも高校生のころも言っていました。。。そして、大人になっても言っていました😵
 子どもの脳みそから成長していません。。でもきっとこんな人たちで日本の祭はできています。
 
●屋台渋滞
 祭の日は屋台優先道路となります。渋滞があちこちにできていきます。去年の三木市細川町大日神社の祭では、いかついトラックのおっちゃんが、にこにこしながら屋台の横をゆっくりと通り過ぎました。もしかして、地元でも祭を、されている方だったのかもしれません。
 


 
●祭にやたら詳しいマニア
 おそらく一つの屋台や地車に一人から数人の割合で、祭に詳しいマニアがいます。一応管理人もこの部類です。
どこ行ってもいる人
 そのマニアはいろんな祭を見に行っているので、あの人どこ行ってもあるなーという人が結構います。
 
●飲み会のカラオケで、徳永英明「壊れかけのradio」、北島三郎の「祭」、美空ひばり「お祭りマンボ」
 「華やいだ祭のあと」の歌詞がある壊れかけのradioや、北島三郎の「祭」は年に一回はカラオケで聴く歌だという人は多いと思います。美空ひばりのお祭りマンボでは、「わっしょいわっしょいわっしょい」のところを「アヨイヤサー」とか「よーやさー」とか「そーりゃ」と自分たちの掛け声で歌っている人もいることでしょう。
 
 
 
●よけられない●●
 屋台や地車を引いたり担いだらするということは、みんなと同じ方向に進むということになります。その道中に茶色い野生の贈り物があった場合は。。。
 よけられずにふんでいくことに。。。
 管理人は子どもの頃、屋台の通り道に、おちている茶色い物体を見て同級生たちと、これみんなふみよるでーと言っていたことを思い出します。担ぎ手が踏んだあとけらけらわらっていました😵
 そして、交通整備用の棒をもって屋台の通り道に先行することになった三十代前半のころ、同級生たちと茶色い物体を見て、同じことを言っていました。。
 
●テレビの取材、レポーターの後でピース
 小学生の頃、レポーターの後でピースして怒られた経験のある人も多いことでしょう。管理人も小学生のころはそうでしたし、つい、数年前も同じことをして本気で怒られました😵
 
脳みそ小学生のまま
 やれ伝統だ、やれ町おこしだと言うようにもなりますが、結局、祭を楽しむ時は童心に帰るということで、今回の筆をおくことにします。


 
 
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305.小中高生、祭一日目の思い出(月刊「祭」10月2号)

2020-10-09 23:32:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
本当なら(ToT)祭の前日、そして一日目
 今日(2020.10.09)は本当なら、祭の前日でした。一年で一番明日が待ち遠しい日です。今年は残念ながら屋台の運行はなし。寂しい限りですが、思い出されるのは、今までの祭一日目のことです。そのエピソードを今回は紹介します(書き終わり2020.10.10)。
 
●管理人保育園の頃
昭和五十七年(1982)
 兵庫県三木市大宮八幡宮氏子圏内の明石町屋台五か町の一つ、大日町在住の管理人が通っていた羽場保育園。ここは元々明石町だったけど昭和二十九年に栄町となったところ。
 通っている子どもも栄町の子が多く、明石町の管理人は少し肩身が狭かったです。祭当日、なんと台車運行中の栄町屋台が保育園の門前まで来ました。しかも欄干には同じさくらんぼ組のK君が乗っています。K君は一躍ヒーロー、保育園の子どもたちの歓声に見送られ、堂々と去りゆく栄町屋台とK君。悔しいけどかっこいいと思ってしまいました。
 



↑「羽場保育園」の名前の元になった羽場月輪寺
 
た。
 
 
↑栄町屋台(1990年頃)
 
●小学生の頃
昭和五十九年-平成二年(1984-1990)
 
昭和六十一年(1986)?
 この年かどうかは定かではありません。
 この当時は祭はまだ、固定日の十月十六、十七の両日に行われていました。大宮八幡氏子域の子どもが最も多く通う三樹小学校は、十六日は2時間、十七日は1時間授業でした*(3時間、2時間かも知れません。ナメラ小僧氏、管理人[hol_my_ow]の本記事コメント欄参照)。
 そして、迎えたその年の十六日。なんと晴れた空の下、大雨警報が発令。発令したまま十時を過ぎると休校が決定。1分ごとに天気予報ダイヤルを回して、警報発令中を確認。そして、晴れて?、警報発令のまま10時をすぎました。歓声とともに法被を着て、明石町屋台のもとへ走りました😃
 
昭和六十二年(1987)
 管理人小学四年生の頃。祭の日は十六日2時間、十七日1時間の授業。そして、この二日間は宿題なし。しかし、その前日はしっかりあるのですが、、、後に某祭ブログのボンクラ管理人になるボンクラ小学四年生は、浮かれに浮かれて宿題も手につかず、見事に漢字ドリルの書取りをしないまま登校。出すもんしっかり出してから帰れという、教師としては至極真っ当、当時のボンクラ小学四年生から見れば鬼の借金取りのように見えた担任のO先生に、居残り宿題を命じられ半ベソかいて帰りました。
 
平成元年(1989)
 小学五年生、六年生の男子はおみこっさん(御神輿)を担ぐ年です。おみこっさんを担ぐ=屋台の近くに行くことができなくなります。しかもその年は四年に一回の「平田まわり」。
 「オミコッサンドイ、ヨーサンドイ(正確には(オミコッサンジョイ、チョーサンジョイ?)」の掛け声にも飽きてきます。そうなると「オミコッサンドイ、オッサンナンドイ」の掛け声があちこちであがります。
 それでも飽きてきて、いつの間にかリズミカルに「おっとこ、おっとこ」と無駄に男らしさをアピールする掛け声になっていました。
 神事が終わり法被に着替え、屋台のそばに寄れたのは宮出からでした。
 
 
●中高生の頃
平成二年(1990)-平成八年(1996)
 

↑管理人姉撮影か 1992年頃
 
平成四年(1992)
 おそらくこれも一日目のことだったと思います。中学生は今も明石町屋台を担ぐことはできません。当時から三木中学校でも祭で屋台を担がないようにとの指導がなされていました。
 この指導に従わないのは、専ら「ヤンキー」と呼ばれる類に入る生徒たちでした。担いでいる時の怪我もさることながら、その後の飲酒喫煙→けんかなどへの流れを心配してのことだと思われます。
 そして、他にも指導に従わない生徒たちが。比較的「大人しい」部類に入る大宮八幡宮氏子域の生徒、三樹小学校出身の生徒たちです。祭終わった次の日から、あと三百六十四日で祭やーと小学生みたいなことを恥ずかしげもなく言っている明石町の生徒達。。。
 中学三年生のころに、どなたかのはからいで、落としても安全な屋台の中棒中心近くを担がせていただくことに。末広橋近くにさしかかり屋台を落とした時に、「山田、●●、△△....」と、一緒に担ぐ同級生の名前を確認する女性の声が聞こえてきました。
 声の方を見ると、三木中学校の三年生の先生方。「あちゃー、バレた」と思ったのですが、先生方は何も言わずに去って行きました。後で特に咎められることもなく、無罪放免。いや、無罪放免というよりも、「この人たちは馬鹿だから仕方ない」と諦められたという方が正確かもしれません。。。
 
 
平成六年(1993)
 高校生になると晴れて屋台を担げるようになります。とはいうものの、初心者、同級生たちとらともに、屋台の本体近くを担いでいました。宮出で石段を降り、町に出て、再び石段下の屋台倉に戻るために、屋台は参道入り口の鳥居にさしかかります。鳥居をくぐるために肩から屋台を下ろし両手で胸に棒を寄せて低く担ぐ「手舁き」で屋台を担ぎます。そして鳥居をくぐり終わるや否や、昂った後の某祭ブログボンクラ管理人は、誰よりも先に「肩入れろー」と叫びました。
 バンッ。
 「誰が肩入れるんどい、(危ないやろっ)まだ手舁きやがいっ」
 すぐ側で、「棒乗り」をしていた青年団長にハタキ・打ち払いのビニール紐部分で頭をはたかれ、めちゃくちゃ怒られました😭
 鳥居をくぐったすぐは、両端に玉垣があり一気に肩に入れることで屋台を揺らすには危険をともないます。また、かつぎ棒が完全に鳥居をくぐりきらなければ、かつぎ手が鳥居に挟まれる危険もあります。
 次の日、頭をはたいた団長さんは、千円札をくれ、
「昨日はすまんかったな。来年から青年入るんやろ、これでなんか食い」
とおごってくれました。
 
平成七年(1995)
 高校三年生、部活も終わった後のボンクラ祭ブログ管理人は4人の同級生ともに、明石町青年団に入団。野球部で腕の力が強かったこともあり、技術はなくとも音が大きくなった彼は、運良く一日目の宮入の太鼓打ち4人のうちの1人になります(決して謙遜ではなく、後に同級生や後輩達にごぼう抜きされるので客観的な事実)。
 倉の中の練習ではあれだけ大きく聴こえた太鼓が、外ではポンポンポンペポンくらいにしか鳴りません。後の某祭ブログボンクラ管理人がポンポンポンペポンと打つ中、先輩が「◯◯サイタやー」と青年団二年先輩の◯◯君に差し上げの太鼓を打つように指令。某ボンクラ管理人は、慌てて太鼓を止めました。が、◯◯君もまだ太鼓を打つ準備はできていませんでした。一定のリズムで鳴っていた太鼓は壊れた機械のように突然止まりました。
 その途端、ドターン。屋台は見事に落ちました。担ぎ手は太鼓の音は聞いているようで聞いていない。聞いていないようで聞いている。その際たるものを実感させられました。この出来事から、青年団はじめの年に、屋台の宮入に太鼓を打たせることは一気に少なくなっていったように思います。
 
編集後記
 祭のない今年、一日目の思い出を本当は今までのものを全て書く予定でしたが、思いの外、よく考えりゃ当たり前ですが長くなったので、とりあえず高校生までのものを書いてみました。
 来年こそは祭ができることを祈って、今から宮参りに行ってきます。(令和二年十月十日、大宮八幡宮秋季例大祭の朝)
 
 
 
 
 
 
 
 
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300.「祭」という言葉が意味するもの(月刊「祭」2020.9月2号)

2020-09-14 23:36:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●タイコは動かへんけど、神事はする
 今年は新型コロナの流行をうけて、今年の祭は「神事は行う、屋台(タイコ、太鼓台)や地車の運行は中止」というところが多くある、というかほとんどのようです。
 神事が行われることを以て、「祭が中止になったのではなく、屋台、地車の運行が中止になっただけだ」という声がSNS上などで見られるようになりました。
 そこで、月刊「祭」300号記念号として、「祭」という言葉が意味するものを考えてみたいと思います。
 
●研究者による分類
神事と神賑(かみにぎわい)
 管理人が尊敬する篠笛奏者であり地車などの祭研究者でもある森田玲氏は、この名著で祭を「神事」と「神賑行事」の二局面に分けています。森田氏の講演によると、氏が見る限りでは「神賑」という漢字で「神賑(かみにぎわい)」と読んだのは、折口信夫という民俗学者が最初ではないかということでした。そして、森田氏は下のように神事と神賑を分類し、本来的には祭=神事と捉えて差し支えないとしています。  
  一方で一定以上人が参加する祭では神事だけでは理解が不十分だとしています。
 
  「神事」カミをまつる行為(カミ迎え、    
       カミ祀り、カミ送り)
祭〈
  「神賑(かみにぎわい)」神事に伴った
   (盛り込まれた)した集団的放楽行事
 
祭りと祭礼
 恥を忍んで言うと、管理人はこの区別をつい去年まで間逆の意味で理解していました😭
 編集・発行 香川県立ミュージアム『祭礼百態 -香川・瀬戸内の「風流」』令和元年で紹介されていた柳田国男の分類は下のようなものでした。
 柳田国男はカミ迎え、祭り、神人共食して、神を送る夜間を中心に行われた行事・「祭り」、昼間を中心に行われた「見物人」を喜ばせる趣向「風流」が出される「祭礼」に移行したとのことです。
 ざっくり言うと、森田氏の指摘した神事はここでは祭にあたり、神賑は祭礼にあたると言えるでしょう。
 
神事・祭と神賑・祭礼の区別
 多くの研究者は、「神事・祭」とそれに伴うお楽しみの部分「神賑・祭礼」を分けて考えています。もちろんそれは、研究者が好き勝手にこじつけたものではなくて、実際の祭やそれに携わる人の意識に触れて見出したものです。
 今回のコロナ禍においては、「神事・祭」のみ実施し、「神賑・祭礼」を中止したことで、その区別を実感した祭関係者の方も多いことでしょう。とはいえ、管理人自身も普段の生活では神事・祭と神賑・祭礼を区別して話したり、意思疎通したりしているわけではないと実感することも度々あります。
 
●神事と区別されずに語られる祭
 今回のコロナ禍において、屋台や地車が動かないことを以て、「今年の祭は中止や」とか、「今年は祭がでけへん」と言う人は多くいますし、管理人もその一人となる時もあります。学術的には間違えた言葉の使い方だろうし、仏教やら神道やらの考え方に照らし合わせても、必ずしも正しいとは言えない言葉の使い方かもしれません。
 しかし、子どもたちを含む多くの人にとっては、祭・神事と祭礼・神賑をひっくるめて祭と言っているのが実情とも言えます。例えば、普段の会話の中で、
Aさんが屋台を出さないことを指して、「今年まつり中止やから、」と言った時に
Bさんが「いや、違うで、神さんごとが行われるから、祭は中止ちゃうんやで」と指摘すると、話の腰をおったかたちになってしまいます。
Aさんは、「今年はひまやわー」とか「来年にむけてなんかすることないかなー」とかの本題に入ることができなくなってしまいます。
 スムーズなコミュニケーションをするためには、これらの分類を知っててもいちいち指摘しなかったり、分けて話さなかったりすることも多いなあると感じる今日この頃です。
 そこで、管理人が今までの経験から「祭」が意味する範囲を考えていきたいと思います。
 
●神社・仏閣を介さない祭
 管理人が三木以外の他地域の大学に通いだすと、神社・仏閣を介した祭になじみのない人と知り合うことになりました。自分が祭が好きだと話すと、屋台や地車の話ではなく、花火、夜店の話になることが多かったです。これは、いわゆる祭礼・神賑の範疇、あるいはさらに外側の域の話と言えるかもしれません。それどころか。から●●市民祭のような文化祭、◯◯タウンヨサコイ祭といったような神社仏閣を介さない祭を同列に話す人もいて違和感を覚えたこともありました。
 
 祭になじみのない人にとっての祭は、◯◯祭とつけば神仏なくとも即祭、露店即祭となる人が、多そうです。
 
●どこの神社・仏閣の祭が「祭」か
 高校の頃、古典の授業で、「祭とだけ書いてあれば、即、京都の葵祭を指す」と習いました。おそらく正確にいうと、平安期以降からの一定期間の都近辺の文献に限られるのでしょう。
 閑話休題、当時の管理人にとって「祭」とは間違いなく三木市大宮八幡宮秋季例大祭をさすものでした。これを強く感じたのが、京都祇園祭関係者の方が、祇園祭のことを「祭」といっていたことです。当たり前のことですが、それぞれ「祭」とだけ言われて思い浮かべるものは違うんやなということを感じました。
 祭の一文字で思い浮かべるのは、その人が最も深く関わっている祭だということに気づきました。
 
↑多くの観光客にとっては祇園祭、当事者にとっては祇園祭こそが「祭」
 
 
●一生の中での「祭」が意味するものの変化
屋台の近くにいることが祭
 管理人の子どもの頃のことを考えると祭・神事と祭礼・神賑の区別がついていない傾向はより顕著だったように思います。小学五年生の頃は昭和天皇が危篤だったことにより、屋台の運行はとりやめとなりました。そのことをもって、「今年は祭がでけへんかったー」とお互いに言い合ったものです。
 また、次の年はオミコッサン(御神輿)を担ぐ年齢だったので、屋台から離れてオミコッサンを担ぐ祭を過ごしました。当時の管理人にとって「祭」とは明石町の屋台について、ハタキを振りながらアヨイヤサーと叫ぶことでした。なので、オミコッサンをかついでそれがほとんどできなかった年は、「今年は祭がほとんどでけへんかった」と言った気がします。
 その真偽はさておき、当事の管理人にとっては屋台の近くにいること、屋台が出ることこそが即ち祭であったことに間違いはありません。また、周りの友達も似たような感覚だったと思います。
 つまり、祭の主役であるオミコッサンをかついでいるにもかかわらず、娯楽的要素が大きいとはいえないので、「祭がでけへんかった」という不満を当時の管理人や、おそらく周りの友達も持っていました。
 しかし、同時に「オミコッサンドイ、チョーサンドイ」のところを「オミコッサンドイ、オッサンナンドイ」と言ってふざけて怒られた思い出は祭の風景として残りました。
 
オミコッサンへの敬意
 管理人が青年団員の頃は、据えた屋台の中で太鼓を打っていると、神輿が通る時には強く太鼓を打って神さんを喜ばせろと先輩に言われてそうしたことがあります。
 また、おそらく青年団を引退して間も無くのことですが、オミコッサンの近くを屋台が通った時は屋台をオミコッサンの前で差し上げて神さんに見せるようになりました。この中で、オミコッサンが主役という感覚が、管理人や周りの仲間たちの共通認識として育ったように思います。
 
こんな祭もありやな
 そして、三年前の祭では、管理人は黒い背広を着てオミコッサンの前を歩く役になりました。となると、屋台から離れて過ごす祭となります。その時は青年団の同期、先輩、後輩、その父親たちと共に歩きました。夜の闇に控えめに光るオミコッサン、御旅所近くで迎えてくれた台車運行の高木屋台のゆっくりとした太鼓の風景は忘れられません。その時に一緒に歩いたみんなから出た言葉が「こんな祭もありやな」でした。
 小学生の時、オミコッサンを担ぐことによって屋台につきたくてもつけなかった残念な思いは、この時に100倍ほどの利子をつけて幸せな時間として帰ってきました。
 

↑オミコッサン(御神輿)を先導する高木屋台
 

↑高木屋台の後を行くオミコッサン(御神輿)
 
実は前日に祭が終わっている??
 祭に向けて、様々な準備や太鼓の練習を経て当日を迎えます。でも、何回もそれを繰り返していると楽しい日はあっという間に終わってしまうことも身に染みて経験していきます。そうなると、祭の前日にはこんな話をします。
 「もう今年の祭も終わりやな」
 


 
 
 
まとめ
それぞれの立場の人にとっての祭はおおよそこんな感じになりそうです。
①民俗学の分類での祭
神事
②祭に関心がない人の祭
◯◯祭とつくイベント、神事、屋台地車 (神賑)、露店のあるイベント
③屋台地車などが好きな子どもの祭
-屋台地車の近くにいること、運行に参加すること
④屋台地車などの関係者の祭(大人)
 ・自分が関わる祭の行事の全て
 ・祭の前日くらいまで、(始まってしまったら終わってる)
 
③④の共通点
 自らが熱い思いで参加する祭が「祭」。
 それ以外の祭りは「◯◯祭」、あるいは、「××の祭」
 


 
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299.三木の中の異文化-三木の祭の国際文化的出来事-(月刊「祭」2020.9月6号)

2020-09-01 23:48:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-

●管理人はダブル(昔でいうところのハーフ)です。
 この祭関係の能書きを好き放題垂れ流していますが、きっと管理人の専門は何かとかになる方もいるでしょう(社交辞令で気になると言いましょう)。そこで、一応修士号(どこかの都知事みたいな詐称とワイロとコネでえたものではありませんが、あまり持っているからと言って「めっちゃ賢い」証明にはなりません。)を持っている「国際文化学」というものの話をしていこうと思います。
 
 その前に、管理人の秘密を。実は私、ダブル(昔でいうところのハーフ)です。といっとも、日本と韓国、日本とアメリカといったように2つの国家を跨いでのダブル(ハーフ)ではありません。
 播州三木明石町(大日町)生まれの父と、播州三木宿原村生まれの母との間に生まれたダブル(ハーフ)です。同じ三木市内、同じ三木中学校区、共に布団屋根屋台分布域ですが、その習慣は少しずつ異なります。
 例えば、屋台を担ぐ時に歌う伊勢音頭(祇園囃子)は、明石町(大宮八幡宮)は太鼓を3回打って1回休みのリズムで打たれます。しかし、宿原屋台(若宮八幡宮)は明石町とは旋律は違い、歌詞も違うものがあり、リズムは時々太鼓が2回の時もありずっとゆっくりです。宿原屋台関係者の若いお兄さんに聞いたところ三木で一番ゆっくりで、それが良さだといっていました。明石町は旧の「町方」であり、田んぼはありません。宿原は旧の農村で現在も田んぼがあります。なので、農村の宿原には「今年ゃ豊年どし」の歌詞があるけど、町方の明石町にはありません。元々同じ10月16日17日の祭でしたが、願うことも少し違うようです。
 
↑明石町の伊勢音頭
 
↑宿原の伊勢音頭
 
 同じ三木市内で、共に三段布団屋根の屋台で、共に「八幡宮」の祭だけど、屋台の所作から願うことまでそれぞれの文化は異なっています。2つの「異文化」の間に生まれた子どもという意味では、管理人もまた「ダブル(ハーフ)」ということになります。
 管理人の場合は明石町と宿原でしたが、例えば同じ明石町五町内でも大日町の母と清水町の父で生まれた子でも、大日文化と清水文化は異なります。同じ大日町でも一組と二組では違うし、同じ大日町の四組でもあの家とこの家では、、、といったように、この世の中の人は、ナメック星人でもない限り2つの異文化の間に生まれた「ダブル(ハーフ)」だといえます。
 
●国際文化学の英訳と「とほうもなく広い日本」
 国際文化学の英訳には、Intercultural Studiesという言葉が当てられています。管理人は、International cultural Studiesだと思っていたのですが、違っていました。そして、このInterculturalという言葉を選んだことで国際文化学たるものが、多様性を帯びた学問になると言えます。その説明のために、Intercultural, Internationalをそれぞれ、「国際」以外の言葉で訳してみます。
 
International cultural studies
•••国家際文化学
 nationalが国家という行政単位を表すので国家単位での相互文化・文化際の学問となります。
 
Intercultural studies•••文化際学
 culturalだとあらゆる文化を指すことができます。つまり同一国家内であっても異文化があるという前提で考えることになります。国際という字をあてていますが、国(くに)を邑(むら・くに)に変えることも可能でしょう。
 
 international cultural studies・国家際文化学は、intercultural studies•国際文化学・邑際文化学・文化際学の一分野にすぎないということになります。
 このinter cultural studiesという見方をすることで、日本という同一国家の中でも多様な文化が存在するという認識のもとに考えることができます。管理人の同窓生の一人は、バイクで日本一周を旅して「途方もなくひろい日本」と表現しました。飛行機、車、スマホで狭くなったように見えてもこの日本の中には、多様な文化が入り混じっておりそれぞれが個性を持っています。その個性を見つめて、それがお互いにどう影響しあっているのかを学ぶのが国際文化学です。



国際文化学的から見る三木の祭
例1 屋台の大宮八幡宮への伝播
 三木の大宮八幡宮では19世紀前半までは、檀鶴(だんづる・だんじり?)で芸を宮に奉納するのが基本的な秋祭のかたちでした。しかし、明治維新前後より現在のような屋台(太鼓台)と神輿の祭がさかんになってきます。
 これは、それより前にすぐ横の岩壺神社地域、久留美では屋台が担がれていた影響によると思われます。同じ播磨の国美嚢郡内での国際文化的な出来事です。
 
例2 反り屋根屋台の生成と伝播
 播磨西部では神輿屋根屋台が広く分布し、播磨東部では三段平屋根布団屋台が分布していました。その中間地、おそらく高砂市域あたりに、神輿屋根、平屋根のあいの子として生まれたのが反り屋根屋台です。
 
 

↑三木市三坂神社の加佐東屋台、三段布団屋根型


↑姫路市英賀神社英賀西屋台、神輿屋根型

↑高砂市曽根天満宮中筋屋台、反り屋根型
 
①華やかな反り屋根屋台は人気があり新調時作り替え時に反り屋根屋台がつくられたこと
②その屋台文化の中心地である高砂市の曽根が頻繁に新調を繰り返して中古の譲渡、転売が頻繁に行われたこと
 こな2つの理由によって、反り屋根屋台は平屋根分布地域やもともと屋台がなかったと思われる地域に増えてきました。三木市内でも下町屋台、大手屋台、新町屋台が昭和期に、興治屋台、細川の御酒神社屋台などが平成に反り屋根屋台となりました。
 これは、高砂市域と他地域で起こった播磨国内での国際文化的現象です。
 
例3 バッチの流行
 三木市内三木地区の祭の衣装は昭和期から平成初期、中期にかけてはニッカポッカなどの作業ズボンが主流でした。平成はじめころに、喧嘩などの防止の観点から、大宮八幡宮などでまずはズボンの色が白などに統一されはじめました。
 そして、平成中期ころから、インターネットなどで各地域の祭の情報を気軽に目にできることが増えました。そこで目にしたのが岸和田など泉州の地車祭ではかれているバッチです。

↑岸和田市弥栄神社大小路地車 バッチをはくのがこの地域のスタンダード
 
 この頃から、三木市内でもバッチを岸和田まで買いにいったり、ネットで注文する人が増えはじめ、現在は多くの人がバッチを好んではいています。また、三木市内でもバッチを扱う業者が出て来ました。
 しかし、完全に岸和田と同じになったわけではありません。
①依然作業ズボンの人もいること 
②岸和田のような細い袖の法被でないこと ③地下足袋とバッチの色が違う人がいること 
 などにより、岸和田とは違った祭衣装文化が生まれています。
 代表的な播州の祭地域である姫路や高砂のような「マワシ」、北条節句祭の着物は、着衣に手間がかかることから選ばれなかったと管理人は考えています。
 これも近年の三木の祭衣装文化に起きた国際文化的現象と言えるでしょう。
 

↑三木市岩壺神社芝町屋台 近年ではバッチをはく人が増えているが、作業ズボンの人もいる。法被の形が岸和田と違っていたり、地下足袋が違う色になっているので、岸和田とはまた雰囲気が異なってくる。
 
 
例4 三木の屋台構造、担ぎ方の広がり
 一方、三木地区の祭は規模の大きさや、大宮八幡宮の石段登りなどの影響か、一つのブランドとして認識され、他地域の祭に影響を与えるようになりました。
 また、芝町に屋台刺繍を扱う業者ができたこともあり、三木の祭の影響をうけた屋台や担ぎ方か増えてきました。播磨町阿閉神社の本庄屋台はその業者が屋台制作を手がけ、三木の屋台のように長めでよくしなる棒をつけました。上の芝町屋台に雰囲気も似ています。

↑播磨町阿閉神社の屋台
 
 
 明石市の屋台や加古川市八幡神社(宗佐厄神)の宗佐屋台では同様によくしなる棒だけでなく、担ぎ方もアヨイヤサーの掛け声をかけるようになりました。
 その一方で、宗佐屋台は同じ神社の屋台が神輿屋根型屋台であり衣装もマワシをしており、その屋台の練り子(担ぎ手)が手伝うことで、独特の祭りの風景が生まれています。加古川市がもともと赤以外の屋根の色の反り屋根が分布していたことにより、宗佐屋台の屋根の色も三木の屋台と違って昨年は黒くなっていました。
 
 
 
 これも播磨国の中でおきた国際文化的な出来事と言えるでしょう。
 
 こうして見ると、三木の祭は色々な地域の「異文化」の影響を受けて、元々の文化は変容するけど、その異文化と全く同じにはならない独自の文化を作り上げていることが分かります。
 
 
編集後記 -母校から消えた国際文化学-
 母校の龍谷大学は国際文化学部がなくなり、国際学部という名前は似てるけど全く性質の異なると思われる学部に変わってしまいました。就職対策など背に腹変えられない事情があってのことでしょうが、非常に残念です。ナショナル・国家間同士で考えるだけでは、限界があることからできたのが、カルチュラル・文化間で考える学問・国際文化学だったのに、、、また舞い戻ってしまいそうに感じました。後輩(国際学部の学生をそうみなせば)、先生方、職員の皆さまの奮闘と、国際文化学部の復活を強く望みます。
 
 
 
 
 
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255.祭マニアのことはじめ!?大阪市杭全神社注連縄奉納(月刊「祭」2020.1月6号)

2020-01-28 19:38:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
一月三日の恒例行事
 毎年一月三日になると、大阪市の杭全神社に大阪府外からも大勢の祭マニアが集まります。杭全神社に奉納する九か町のだんじりのうち、当番の町が注連縄を神社に奉納します。その注連縄はだんじり によって運ばれます。
 今年は馬場町の当番でした。
 こちらでも書いた通り、注連縄を奉納した町がその年の夏の祭で、神輿を担ぎます。また、昨年は布団太鼓を担いでいます。夏・布団太鼓→新年・注連縄奉納→夏・神輿の順になります。
 特別な年を迎える馬場町、真冬でも屋根の上に乗っている若者は下は裸です😳 気合で寒さも吹っ飛ばしているようでした。見た目、現在41歳の管理人より10ほど上の方によると、その方が生まれた頃にはすでにだんじりによる注連縄奉納は行われていたそうです。
 

↑注連縄の奉納が終わった馬場町だんじり
 
 

↑昨年の杭全神社の夏祭。布団太鼓を担いだのは馬場町でした。
 
 
 
●新年のだんじりはじめ
 今年、祭で9年に一度の当番を迎える馬場町の方はもちろんのこと、大阪市内や各地のだんじり好き、祭好きにとってもこの注連縄奉納は特別なものになっています。
 管理人も、いつも写真をくださるF氏に誘っていただいてから、機会があるごとにこの祭を見学しています。それと同じく、新年の「初だんじり」とばかりに、各地のマニアや祭好きが集まってきていました。

↑見学者も年々増えているように思います。



 管理人もいろんな祭でよく会う方と新年の挨拶をしました。そして、休憩となるとあちこちで花咲く祭談議。こちらでは、馬場町だんじりの見事な彫刻について話し合っていました。一方反対側では、別の町の青年団の若い人たちが自町のこれからについて、熱い議論を交わしていました。
 杭全神社の注連縄奉納は、「自分たちの祭をどうするか」を見学する人たちに考える場を与えるという役割を、いつの間にか担うようになっているみたいです。


↑最後は後片付け。
テキパキと動く若い人達の姿が印象的でした。なんぼ能書きたれても、どっかの祭ブログ管理人みたいに、トロトロ動いているようではつかいもんになりません^_^;
 
 
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254.木場の亥の子-新しい祭と古い祭が与え合う影響(月刊「祭」2020.1月5号)

2020-01-20 13:27:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●松原八幡神社木場屋台
 勇壮な屋台の練り合わせや、激しい神輿のぶつけ合いで知られる「灘のけんか祭・松原八幡神社秋季例大祭」。その中でも木場屋台は、松原八幡神社の屋台の中でも最古であることが、18世紀の書物でも明記されている歴史ある屋台と言えます。そんな歴史ある屋台は思わぬ副産物を生んでいるようでした。
 


●明治はじめころまで夏祭にも??
 現在、木場の最も海側の地域である大木場には木庭神社が残っています。ここでは、七月(旧暦六月?)に夏越しの祭が行われます。1970年代?に発行された『姫路市史』によると、この時にも木場屋台は明治時代ごろまで出ていたといったようなことが、書かれていたのを管理人は読んだ気がします。
 
●屋台祭の文化⇄亥子
 旧暦十月亥の日などに行われる「亥子づき」などと呼ばれる藁などで大地を打つ風習は日本各地で見られるそうです。このような大地を打つ風習は、曽根天満宮に見られる竹割や灘型屋台とともに運行する「のぼり」が地面を打つ風習にも影響を与えているように見えます。もしかしたら、妻鹿屋台の胴突きもこの影響かもしれません。これらは、古い亥子づきの風習が屋台が出る秋祭に与えた影響と言えるでしょう。
 一方、新しい屋台の出る祭もまた、亥子づきに影響を与えています。それは、百の言葉よりも一枚の写真が説得力があります。下の写真は兵庫県立歴史博物館に残る木場の亥子です。屋台型ですね。博物館の解説によるこのような神輿のようなつくりものを亥子の日につくって練り歩く風習は、松原八幡神社と海を隔てた家島群島や、神社の付近に分布していたそうです。



 このようなものを作るのは木場では戦後から平成を待たずして途絶えたと聞きました。木庭神社には、その絵馬が残っています。当時の子どもたちにとっては、亥子は屋台練りの練習にもなっていたのかもしれません。








 
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