月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

313.担ぎ棒悲喜交交(ひきこもごも)(月刊「祭」2020.12月1号)

2020-12-03 08:42:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●祭を左右する棒
 屋台を愛でるだけならば、棒は関係ありません。しかし、我々は屋台を担いだり押したり引いたりすることで屋台を動かします。民俗学的には些末な問題だとのことですが、祭関係者にとっては死活問題なのが、担ぎ棒です。今回は担ぎ棒に関するエピソードを紹介したいとおもいます。
 
●三木スタイルの担ぎ棒
 
 明石市の屋台は、三木市のものより担ぎ棒が短いものが多く、上の映像のように落としやすいものになっています。逆に迫力ある激しい揺れが魅力とも言えるでしょう。
 一方、三木の屋台は大宮八幡宮を中心にアヨイヤサーのリズムで長い距離を担ぎます。しかもマイナーチェンジで屋台自体が大型化しているので、棒は長くなってきました。さらに、かつては斜めに持たれるように担いでいたのが、ここ20年で真っ直ぐに立つように意識づけられてきており、それに伴って前後先端の背の高い人も担げるような「しなり」のある棒が求められるようになってきました。
 
 
三木市大宮八幡宮の屋台の差し上下の様子。
棒が先端に行くほど細く削られている。
 
 
 
●明石町
明石町檜(ひのき)棒の時代
 2005年頃、屋台倉の改修にあわせて明石町屋台は担ぎ棒も替えることになりました。素材は高級木材の檜。太さは従来のものより2センチほど太いものでした。屋台倉を改修、そして棒も取り替えて新しい明石町は再出発!
 と思ったのですが、硬い檜では棒がしなりません。しかも、+2センチの太さがそれに拍車をかけます。そうなると背の高い人が背筋を伸ばして担ぐことができず、一度傾いたら再び上がることは困難になってしまいました。
 そこで2009年に担ぎ棒を削りました。先端部分が1センチか2センチほど直径が小さくなりました。それだけで、「しなり」が出て来て随分と担ぎやすくなったことを覚えています。
 
大改修に伴い棒も杉に
 結局2011年、刺繍、金具、欄干の大改修に伴って棒も杉製に戻しました。また、太さも2005年の失敗を繰り返さないよう、削ったあとの太さくらいにしました。改修の勢いと、物理的な担ぎやすさが相まって、近年は元気な明石町屋台になってきています。
 
 
 
 
下町
三木に生まれた播州最大級
 播州でも最大級の屋台として知られているのが、ゴンタ太鼓としても知られている下町屋台です。モンスターとも言える巨大な姿になったのは、2007年くらいだったでしょうか。石段ではげしく落とす姿が、大宮八幡宮の祭の名物となってきました。
 
た。
 
洗練された最大級
 とはいうものの、宮入や宮出に30分かかるので、様々な改善がなされます。その中で最も見事だったのが指揮系統。荒くれたちを的確かつわかりやすく堂々と指示する様子は目を見張るものがあります。教育関係者必見です。
 そして、今回の主題である棒。当初は横棒を一本増やして押し上げるという方法をとっていましたが、なかなかうまくいっていなかったようです。
 しかし、近年驚異的な速さで下町が宮の上に姿を表すようになりました。下町より先に宮入りする明石町屋台に着いている管理人は、ここ近年、「シモもう上がってきたんや」という声を毎年聞いています。聞くところによると、棒を細く削って随分担ぎやすくなったとのことです。
 

↑早く宮入するようになった下町(左端)は、明石町(右端)と一緒に担ぐことも多くなった。

 
●担ぎやすい屋台の秘密
 よく聞くのが、岩壺神社の滑原屋台の担ぎやすさです。棒がよくしなり、見た目の割には担ぎやすくなっています。
 さぞかし高級の杉を使っているのかと思いきや。。。
 間伐材を譲り受けたもの(お礼としてあくらかはお渡ししたそうです)を使っているそうです。この棒がよくしなり、担ぎ手に評判のいい棒になっています。「高ければいい」ということではないのが、担ぎ棒の奥深さになっています。


 
 
 
 

303.滋賀県大津市、大津祭の担ぎやたいと地車!?(月刊「祭」2020.9月5号)

2020-10-01 20:11:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●大津が世界に誇る曳山の祭の祭
 大津祭は豪華絢爛な曳山が出る祭として知られています。祇園祭山鉾の流れをくみつつも、三輪の車輪、締め太鼓だけでなく鋲太鼓も加わり軽快で迫力あるお囃子、山の上で行われる各山のからくりなど、大津祭独特の特徴を相備えています。
 しかし、大津祭もまた、はじめから豪華絢爛な曳山そろっていたわけではなく、祭の黎明期にはなんと地車」「やたい」があったとのことです。今回は大津祭の「地車」「やたい」について考えていきます。
 

↑大津市曳山展示館の西王母山のレプリカ
 
 

↑九十年代後半か、2000年代初頭のパンフレット
 
 
 
●大津祭はじめの曳山は地車?もともとは担ぎ屋台?? -西行桜狸山の変遷-
 
た。
 
 大津祭の曳山の中で先頭を行くのが、西行桜狸山です。この曳山が大津祭の曳山の中で一番古いと伝わっており、それを伝える最も古い文献が寛永十二年(1635)「牽山由来覚書」(大津市指定文化財、西行桜狸山保存会蔵)です。
 おおよその内容を編集発行・大津市歴史博物館『企画展 町人文化の華-大津祭』1996に書かれた書き下し文をもとに斜体字であげ、その下に興味深い点を指摘していきます。
 
①四宮(大津祭が行われる天孫神社の古称)の祭礼でしほ売治兵衛が狸の面を被り踊ると、見物人が集まり出した。
 はじめは祭に踊りを踊ったのがきっかけのようです。
 
②次の年も集まったのでさらに次の年は「竹からミの家躰(やたい)拵(こしら)へ、氏子の町かき歩申」ことになった。
「屋躰に木綿の幕をはり、鐘太鼓にてはやし」、治兵衛は、十年「狸の面を着て采をふり踊り氏子中担歩行」った。
 好評につき家躰(やたい)をつくり、踊り手をのせて担歩く、つまり曳き車でなくはじめは担ぐものだったようです。幕で飾ったりもしていますが、必ずしも太鼓台のようなものではなく、鐘もあったことがうかがえます。また鐘太鼓ではやしているけど、乗って演奏していたのかまでは分かりません。
 
③治兵衛は年を取り踊ることができなくなるも、代わりを務めることができるものがいなくて、元和八年(1622)より、狸をつくり糸で腹鼓を打つからくりをつくって「舁き」歩いた
 高齢により踊れなくなったのでカラクリに変わりますが、依然舁いていました。
 
④「今年(寛永十二年・1635)ゟ(より)地車を付子供衆ニ引せ」るようになって祭を賑わせるようになった。
 やがて、「地車」をつけたとありますが、「だんじり」と読むよりも地面を転がる車として理解し、「ちしゃ、ぢぐるま、ちくるま、ぢしゃ」などと読むといいでしょう。では、この地車はどのようなものだったのでしょうか。
 
大津祭の地車は現在の原型?
 さて、先ほどの「地車」が現在の大津祭の曳山の直の原型と言いたくなる基準でしたが、どうやらその可能性はひくそうです。江戸時代よりの記録が記された『四宮祭礼牽山永代伝記』にはこう書かれています(前掲書『企画展 町人文化の華-大津祭-』参照)。
 
寛永十二乙亥年(1635)ゟ(より)地車を付子供等に牽せ氏子町々を渡し来り候処、同(寛永)十五年戊寅年(1638) ゟ(より)三ツ車を付けて、丸太材木をかり、祇園会鉾形ちの山を建、梶取手木遣を雇ひ毎年神事に牽渡
 これを見ると地車をつけて子供(地元の青年団のようなものか)らに曳かせていたものから、三ッ車をつけた祇園会鉾形のものを木遣や梶取手を雇って祭にさんかするようになったことがわかります。
 
大津祭の「やたい」は踊り手を運ぶ移動式舞台、「地車」は踊り手やからくり人形を運ぶ車輪曳行式舞台を意味していることが分かります。ここまでは、おそらけ地元で曳行までできていたと思われます。
 その二年後、三ッ車をつけた「祇園会鉾形の山」を梶取手、木遣を雇った時に地元完結の祭から京都祇園会のような雇われ人も発生する曳山の祭が生まれたと言えそうです。
 
 
 
 

293.太鼓のつけ外しの移り変わり(月刊「祭」2020.7月3号)

2020-07-25 21:42:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●屋台の主要部分・太鼓
 屋台全体を意味する言葉ともなる太鼓。まさしく、屋台全体の核ともいえるのが、太鼓であるといえます。それを取り外すことによって祭が始まったり終わったりすることにもなります。今回は太鼓の取り外し風景の変遷を我らが明石町屋台の例を中心に見ていきます。
 
 
●太鼓は上から、下から道具を使わずに
 今でも三木市内の屋台は、太鼓を欄干の上から取り外しを行うところが残っています。岩壺神社のいくつか、そして志染の御坂神社旧の志染中屋台などです。志染中屋台は外すときに「打ってくれ、もひとっせ系」の口上をのべて、太鼓を打ってから最後に太鼓がはずされます。
 同じ御坂神社でももう一台の安福田屋台は屋台を横に傾けて下から外していました。いずれにせよもともとは、道具を使わずに太鼓を外していたのが伺えます。
 
 

↑志染・御坂神社で太鼓がはずされる旧志染中屋台

 

●つりあげてはずす

 管理人が明石町青年団に属している時は、屋台倉の梁にチェーンブロックをぶら下げて屋台全体を上げて下から太鼓を抜いていました。このやり方は2004年まで続きます。そして、2005年、屋台倉の改修を機に太鼓の取り外しにも大きな転換を迎えます。

↑チェーンブロックが吊された梁

 

↑吊されていたチェーンブロック


↑チェーンブロックで屋台を吊り上げて、下から太鼓の取り外しを行っていた。

↑横からみると
 
少しだけ違う方法
 同じチェーンブロックを使う方法でも、少し違う方法をとっているところもあるそうです。神戸市海(わたつみ)神社の塩屋屋台では、チェーンブロックを使わない反対側を人力で担ぎ上げて平行を保ちます。そうすることで、屋台に太鼓をぶつけず取り付けができるようになります。

↑塩屋屋台の場合。情報提供してくださった塩屋屋台のkさん、ありがとうございました。
 
 

 

●2005年の屋台倉改修

 屋台倉の改修に伴い、倉自体に太鼓を楽に取り付けができるシステムを作ることになりました。このシステムは、三木では末広屋台がさきがけて行っていました。


↑改修中の明石町屋台倉。屋台内を太鼓取り付け用の台車が倒れるように背を高くしました。
 
当時から普及しつつあった太鼓付け替えシステム
 今から紹介するシステムは、2005年当時には三木では、大宮八幡宮や岩壺神社の各屋台などに徐々に普及しはじめていたようです。
 
①まず、倉の屋台中心部(本体)が通る道にの床に穴を掘ります。太鼓+人が両サイドに2人は入れる程度の広さと深さが必要になります。
 
②その穴の両サイド外側を倒れる台車を作ります。

 

③使わない時は、木の板で穴を埋めています。写真上から2番目の板は取り外しができるための紐がとりつけられています。

 

④実際に取り付けを行う時は、下に人が入り、台車を潜らせて太鼓を下ろしたりあげたりします。

 

!太鼓取り付け用穴使用上の注意!

 穴に入る人はお腹の中のガスを溜めたまま入らないようにしましょう。うっかり、溜めたガスを穴の中で放出すると、相方への残酷なテロとなります。某ボンクラ祭ブログの管理人こそがテロリストという噂も!?


237.大阪市止止呂支比売命神社安立七丁目だんじりの取り付けられたものと失ったもの(月刊「祭」2019.12.1号)

2019-12-02 19:47:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
大阪市若松神社(止止呂支比売命神社・とどろきひめじんじゃ)安立(あんりゅう)七丁目御座船だんじり
 このだんじり は、江戸末期につくられたと思われる船だんじりです。若松神社(アクセスなど)は住吉神社の鬼門の守りだそうで、御座船の人型として二つの珠をもつ竹之内宿禰が乗っているところは、祇園山鉾のような山車に人形を乗せる文化の名残のようにも思えます。
 昭和30年頃まで運行していたそうですが、現在は大阪歴史博物館(アクセスなど)で展示されています。



 江戸時代のものとはいえ、一切形を変えずにここまできたとは思えません。そこで、どこがかわったのかを観察していきましょう。
 
●付け加えられたもの
 船の横には梃子棒がついています。接続部は鉄をねじりボルトのようなもので止められていました。少なくとも接続部は後から作られたと考えられますし、梃子棒が後から取り付けられたとも考えられそうです。





         ↑
上の写真底辺中心部にあとからつけられたような穴が空いています。ここに下の写真の後梃子が差し込まれていたようです。彫刻を避けることもなく中心に穴が開いており、周囲をやはり現代的な方法で体枠取りしてあるので、これも後に利便性を考えて取り付けられたと思われます。
 
●なくなったものもある??
 この状態だと後ろからは太鼓が丸見えになります。この後部の空間には何があるのでしょうか。そこで、同じ博物館の船の模型を観察してみました。後には方向を調節する舵が北前船の模型にはついています。たしかに、おなじように舵をつけていると梃子棒はつけられません。


 




●つけられたもの、外されたもの
 運行がスムーズにできる梃子棒が取り付けられ、一方で水の上では重要な役割をしながらも、陸では無用となった舵は梃子棒の取り付けとともに失われたものと思われます。
 
 

227.坊勢島恵美酒神社の差し上げ考(月刊「祭」2019.11.12号)

2019-11-13 20:34:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●坊勢の屋台
 今回は、坊勢島の屋台の差し上げについて考えます。
 坊勢島の祭りについては、こちら
 
姫路の浜手の屋台差し上げ
姫路の浜手の神輿屋根屋台の差し上げは、ざっくり分けると2つに分けられそうです。
灘型の差し上げ
 一つは、練り合わせを行う灘型屋台などどちらかと言えば東部に見られる差し上げです。ヨイヤッセ、ヨイヤッセなどの掛け声で、肩に乗せたまま「ガブ」ってから差し上げます。
 
網干型の差し上げ
一方西部に分布する網干型屋台の場合は、一回さした屋台を腕までおろして、また差し上げます。
 これらの荒技は、脇棒が長く比較的大人数で担げることで可能になっています。
 
 
●坊勢恵美酒神社屋台の差し上げ
 では、坊勢の屋台を見てみましょう。
 屋台は、灘型で脇棒が短く、差し上げの時の掛け声も少し早いですが灘型なものと言えます。しかし、決定的な違いが見られます。そこは、一度映像を見て下さい。
 
 
型の上の屋台を一度腕までおろしてから差し上げています。これを、短い脇棒でしているので、簡単そうに見えてなかなか難しいと思われます。映像では何回も回転しながらくりかけしているし、道中でも、花をいただくたびにしていました。網干と灘の差し上げの折衷型と呼んでしまうと簡単になってしまいますが、見事な練りであることには間違いありません。
 坊勢の屋台練り、見ものです。
 

220.姫路市家島の屋台の脇棒(月刊「祭」2019.11月5号)

2019-11-05 18:17:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
家島の屋台
 播磨灘に浮かぶ家島では11月2日、3日に屋台が出る祭が二つの神社(真浦神社、宮浦神社)で行われます。その屋台のとある特徴を見ていきます。その特徴について、真浦神社で問題提起をして、宮浦神社で考察します。
 
 
真浦神社(アクセス、祭礼日11月2.3日)
 二台とも小型の神輿屋根型屋台ですが、従来の神輿屋根型屋台より脇棒が長くなっています。



宮浦神社(アクセス、祭礼日11月2.3日)
 こちらの方は一見脇棒の短い仕様に見えますが、例えば大きめの屋台で知られる英賀神社の春日若倉の屋台よりも長い脇棒になっています。なぜこのようになっているのかは、本棒にありそうです。





 本棒の先端は鉄のカバーがついていました。聞いたところ、購入した際は屋台を収蔵する建物が小さく、本棒が入り切らず棒を切ったそうです。
 やがて大きな屋台蔵がたち、カバーをつけて本棒に鉄のカバーをつけて元の長さに戻したとのことです。そして、ここからは管理人の推測ですが、本棒が短くなった分、脇棒を伸ばして担ぎにくさを補ったものと思われます。


再び真浦神社の屋台について
 同じ島内の屋台は、本棒と脇棒が同じ長さだったのでそれと同様のものを購入か作るかしたものと管理人は考えます。
 
 

211.播州西部のだんじり、形態変化の早技(月刊「祭」2019.10月10号)

2019-10-30 21:29:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●播州のだんじり 
-奉納芸用舞台装置としとのだんじり-
 だんじり と言えば、岸和田のだんじりや昨今では大阪や東灘、奈良、河内などのものが知られるようになりました。播州は屋台の地域というイメージがありますが、播州のだんじりも必ずしも目立っているとは言えませんが、祭文化にはなくてはならないものになっています。
 例えば姫路市の魚吹八幡神社では、興濱というだんじりを出す地域が筆頭氏子になっています。新在家、余子浜というだんじりを出す地域も氏子内でも立場が強く、この三村が神輿を担ぐことになっています。

↑魚吹八幡神社の御旅所で神輿を待つだんじり

↑だんじりを持つ興濱が担ぐ神輿
 
 これらのだんじりは、岸和田などにみられるようにひいて楽しむだけでなく、その舞台を使って芸を神に奉納することに重きが置かれていると言えます。その中で、見事な変形を見せるだんじりがあったのでそれを紹介します。
 
●たつの市 富嶋神社
 西釜屋だんじり 
 このだんじりは、獅子を奉納するためのだんじりで、還御でははじめに旅立つ先導役も担っていました。
 下の動画は、獅子を奉納したあと曳行できるための形にだんじりが変形する過程です。見事なチームワークで変形しました。 
 
 
 
 先述の魚吹八幡神社では、朝日谷のだんじりが同様の変形をしており、新調前の旧だんじりもそのような型であったと思われます。

魚吹八幡神社朝日谷だんじりの奉納芸。
 

 このような変形型のだんじりの場合、芸の練習、変形や曳行の技術など身につけなければならない技術は多々あると見られるだんじりの運行です。必ずしも目立つとは言えませんが、見ていると興味深く、そしてその技術に驚きます。

*たつの市 富嶋神社(アクセス、祭礼日:体育の日の次の土日)
*姫路市 魚吹八幡神社(アクセス、祭礼日:10月21、22日)
 

209.丁(よろ)新調しても別格(月刊「祭」2019.10月8号)

2019-10-25 20:11:23 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
編集「前」記
 「丁(よろ)や!」
 管理人は名屋台があると思われる方へ全速力で走りました。しかし、おっさんの全速力、足はもたもた、ろくにあがっていません。
 ドッターン!
 見事に少しめくれあがったアスファルトにつまずき、両膝をすりむきました。
「屋台見たさに走ってこける」
 見ようとした屋台は丁(よろ)。その練り上手に魅了されるのは管理人だけではありません。場合によっては、歓声のみならず笑い声が聞こえてきます。小説家の村上龍は、「若き日のフランス代表のサッカー選手ジダンのプレーは凄すぎて観客が笑う」といったようなことを書いていましたが、それと同じ現象が丁(よろ)にはおきます。
 
 そんな丁(よろ)は別格だということで、月刊「祭」創刊号の記事として書きました。今回はなぜあのような見事な練りができるのかにほんの少しだけ触れてみたいと思います。


 
●中と外
 まずは下の映像の3分30秒あたりを見てください。新しい練り子(担ぎ手)が棒に加わり、中、外、中、外と手前の練り子(担ぎ手)が順番に声をかけています。これは何を意味するのでしょうか。その答えはずっと下に。 
 
 
 
 
 
 

↑上の写真は、声をかけたあとにチョーサ(差し上げ)する場所に屋台をかついで走るところです。よく見ると同じ棒を担いでいても、例えばで囲まれた人のすぐ前ので囲まれた人は、違うコースを走っています。よく見ると、他の人も交互に屋台の中側を走る人、外側を走る人が交互になっています。「中、外」の掛け声は誰がどちらを走るのかの確認だったようです。そうすることで、お互いに足をぶつけることなく走ることができます。
 見事なチョーサは緻密かつ臨機応変な変更が効くシステムでささえられていました。
 
 
 
 
 
 
 
●新調時の哲学
 さて、上の写真や映像は、全て今年(2019年)のものです。素木の屋根ということは、新調して間もないということです。
 気になるのは、新調することで、屋台が大きくなり担ぎにくくなったりするのではないかということです。屋台の新調で華やかに大きく派手になったけど、重すぎて屋台をよく落とすようになったところを管理人は幾度となく目の当たりにしてきました。
 しかし、そこも丁(よろ)は丁(よろ)でした。同じサイズ、同じ重さでの新調だそうです。今は素木なので漆や金具をつけていた旧屋台より軽くなっています。あくまで、丁(よろ)らしいチョーサができることを考えての新調になっていました。
 
 
 
 

205.濱の宮天満宮思いやり太鼓(月刊「祭」2019.10月5号)

2019-10-19 05:48:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●屋台の空中浮遊!?
-姫路名物台場差し-
濱の宮天満宮(アクセス、祭礼日10月8.9日)
 周りから見ると一見、屋台が宙に浮いているように見えます。しかし、実は練り子が泥台を差し上げているのです。これが、姫路名物というか市の指定民俗文化財となっている台場差しです。
 今回は須賀屋台を例にして、濱の宮天満宮のど迫力な技の裏の細やかな配慮を見ていきます。ひとまずはそのど迫力な技を管理人のど素人カメラワークでご覧ください。

↑須賀屋台の台場差し(映像へ)
 
 
 ●ど迫力の裏の思いやり
 今回の記事のテーマは「太鼓」なので、太鼓を見てみます。
 
平常時
↑平常時は、欄干から太鼓はほとんど見えません。では、台場差しの時の太鼓を欄干外から見てみましょう。画面をずっと下に
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 台場差し時
↑太鼓を上の方で固定しているのがわかります。
 
台場差しは、泥台を外と内から差し上げます。つまり、太鼓の下にも人がいることになります。そうなると、平常時のように太鼓を低く据え付けると、太鼓の下側は泥台あたりまで来ることになります。
 下の2枚の写真は台場差しの時とそれが終わった直後のものです。高低差が1m近くあるので、そのままの高さの場合、内側の人は太鼓が頭に直撃することになり、大怪我は免れません。そうならないために、太鼓を上にもちあげているのです。
 荒技で知られる台場差しは、細かな配慮によって成り立っていることを知りました。




 
 
 
 
 

199.撥(ばち)に見る大きい祭の影響(月刊「祭」2019.9月26号)

2019-10-01 07:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●祭の必需品
太鼓を打つために必要なのが、撥(ばち)です。姫路などの神輿屋根屋台分布地域ではブイと呼んでいるそうです。バイと呼んだりするところもあると聞きました。この記事では太鼓を打つための木の棒を原則「ばち」と書きます。
 
●ブイ・バイ
 姫路市を中心にブイ・バイと呼ばれるばちが好んで使われています。形は屋台によって少しずつ違いますが、①先端がかなり広がっている ②先端は角ばっているという2つの点は共通します。
 
 
 これは、リンク先の映像のように持ち場を4人全員で最初から最後まで打てるように、ばちを落とすように太鼓を打ちます。先端が重く、力を入れずに打ちますが、水引幕がたくし上げられており、ばちの先端に重心があり、角ばっているために太鼓の鏡面に接する面積が小さくなることが重なって、鏡面にかかる力が最大限に大きくなります。
 

姫路市松原八幡宮七ケ村ブイ、バイ型のばち
 
 
 
 
●三木にも広まるブイ、バチ型
と広まらない明石町
三木にもブイ、バチ型は広まってきています。知る限りでは、大宮八幡宮の末広屋台、下町屋台、岩壺神社の滑原屋台などです。
 しかし、 大宮八幡宮明石町ではバット型とも言える形のものが今も好まれています。ブイ、バイ型のものが初めて購入されましたが、現役の青年団員含め、比較的新しいものを受け入れやすい子どもたちも、ブイ、バイ型のものを使いたがりません。
依然として好んで使われるのは野球のバットを思わせるバチが好まれて使われています。
 同じ三木市内で同じ小学校区内、そのうち二台は同じ神社で「ほとんど」同じリズムを打つのに、なぜ、バチの好みは異なるのでしょうか。
 
●こだわりの違い
  末広、下町、滑原とも、比較的緩やかに打つブイ、バイ型のばちに変わっていますが、力強く太鼓を打ちます。それは、水引幕で太鼓打が全て隠されていることによるものと考えられます。一人づつ交代で打ち、水引幕で音が中にこもらないように、力強く打たなければなりません。より力強く打つことを重視するのであれば、ブイ、バイ型のばちを使うのも一つの手段として有効です。
 つまり、末広、下町、滑原は灘のけんか祭で使われているから盲目的にブイ、バイ型のばちを取り入れたわけではなく、合理的な選択として取り入れたのです。
 

↑水引幕の中で太鼓を一人ずつ打ちます。


 
 
 しかし、角のある少し重いブイ、バイ型のバチだと跳ね返る力も強く、音の調整が難しくなります。明石町の場合、ドンドン ドンデドン(右左右)のタイミングや強さの調整を細かいところまでこだわります。その微妙な調整は、太鼓を打った後に、バチをグッと握りバチがはね放題にならないようにして行います。そのために、太鼓を平面に近い状態で打て、反動が強くなりすぎないバット型のものが好まれていると思われます。
 

つまり、明石町のように微妙な音にこだわる場合の選択肢として、ブイ、バイ型がふさわしくなかったということで、盲目的に伝統にこだわったわけではありません。
 
●盲目的に大きい祭りの影響を受けているわけではありません。
  民俗学などの研究誌に屋台やだんじりがあつかわれるようになったのは、ここ最近の話です。その中でよく見られるのが、大きい祭の影響を受けて祭がかわっていっていると言う内容です。
 三木市内のバチがブイ、バイ型に変わっているのも灘のけんか祭という「大きい祭」の影響とも言えます。しかし、その変化を受け入れるのか受け入れないのかは、単に伝統か革新かの議論で行われるわけではありません。それまで培ってきた技術と照らし合わせて、変えることが有効なのかそうでないのかの検証がなされた上できまるのです。
 それを理解するには、今回の場合は太鼓の打ち方にたいする基本的な経験が必要になります。それらをすっ飛ばして屋台や、だんじりをあれやこれや言うと、何処か説得力に欠けたものになってしまいます。
 
編集後記
 太鼓の練習に熱を帯びてくる昨今です。自町の太鼓打の技術の高さに改めて感嘆しました。