●だんじりと布団太鼓の古い絵図
地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
今回は布団太鼓編です。なお比較のための現在の写真は特に指定がないものは大阪市杭全神社の布団太鼓のものです。
●本文
本文は斜体字で記述しました。この祭は上難波仁徳天皇社の旧暦六月二十一日(現行暦で7月半ば頃)の祭です。
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。
「神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。」
と太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが読むとわかります。
「注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
周礼という中国の文献に太鼓が雷声の発するを表しているとあるそうです。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るという様から、当時の人に布団太鼓が迫力ある催し物として好まれた様子が伺えます。
●屋根、狭間と担ぎ棒(今とは違う点)
今と違う点として、あげられるのが屋根です。白黒で見る限りでは、二色の屋根になっています。
また、屋根と水引幕の間に彫刻は無いようです。
次に担ぎ棒を見てみましょう。縦の棒は2本で、狭い路地を行けるようにはなっていますが、左右にふれるとバランスをくずしやすそうです。縦棒の間にも人がいることから、はしご型に棒が組まれているとおもわれます。
つまり、現在の大阪の主なはしご型の棒組みはこの頃のものの横棒が長くなったものと思われます。
欄干の下に人が担いでいるように見えますが、棒を担いでいるのか、欄干そのものをかついでいるのかはわかりません。
●地面につける?つけない?
屋台、太鼓台で子どもが太鼓打ちを務める場合、地面に彼ら自身の足をつけさせないようにする風習が、三田市、大阪市杭全神社、姫路市西部や太子町では見られます。
そのために、太鼓打ちは肩車をされて移動してないます。
この図会の太鼓打ちを見ると、一人は地面に足をつけ、一人は肩車をされています。この神社では、廃れつつあったのか、元々なかったのかのどちらかのようです。
↑肩車で運ばれる杭全神社の太鼓打ち
●わりとよくある?太鼓の提灯
上の図会を見ると、「太鼓」と書かれた提灯が二つ運ばれています。この風景は今の大阪でもよくみられます。杭全神社では、現在は収蔵庫に提灯がかけられています。
↑杭全神社の布団太鼓収蔵庫の提灯
天神祭の屋根のない催し太鼓も「太鼓」提灯を持ち歩いています。また「摂津名所図会」には、天神祭の催し太鼓も描かれており、船におそらく太鼓と書かれた提灯が二つ飾られています。
↑大阪天満宮の屋根のない催し太鼓の提灯