月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

191.丹後半島のだんじりと太鼓台(月刊「祭」2019.9月18号)

2019-09-22 14:28:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●祭どころ丹後半島

 丹後半島は浦島伝説や羽衣伝説、徐福伝説など異界に通じる伝説が多数残る地域です。そんな伝説が残るところには、信仰が残り、そしてその信仰はやがて多様な祭文化につながっていました。今回は丹後半島の「太鼓台」と「だんじり」を見ていきます。

●太鼓台 

京丹後市久美浜町太刀宮神社の太鼓台(アクセスウェブページ、祭礼日十月体育の日前の土日)

 久美浜一区の太鼓台は、黒い破風屋根のもので、棒は井の字に組まれ前部は泥台を担いだり、姫路市などの台場ねり状態で回るなど様々な所作をするようです。ユーチューブなどにも映像は出ています。



では、同じく京丹後市内伊根町の「太鼓台」を見てみましょう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
京丹後市伊根町宇良神社
(アクセスウェブページ、祭礼日8月最初の土日)
本庄上(ほんじょうあげ)太鼓台 2007年
岸和田の地車(だんじり)を思わせる形で、宮入では、走って急カーブするやり回しの要領で宮の前に「太鼓台」を据えます。

 

↓宮の前で太鼓の向きが変わり、太刀振りのための太鼓の演奏「台」になります。

 

 

籠神社(このじんじゃ)(アクセスウェブページ)

祭礼日4月24日

 

 

 

だんじり (参考サイト)

 そして、「だんじり」もあります。丹後市久美浜地区でいくつかの神社で祭礼が四月の第2土日に行われるそうです。写真は著作権のこともあるので掲載しませんが、イラストを書きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

これをみるかぎりでは、上の久美浜の太刀宮神社の「太鼓台」と形は共通します。



 

丹後半島の「太鼓台」は二種類あるようで、一つが担ぐもの、一つが岸和田の地車を簡易化小型化したもの。「だんじり」は担ぐものをさすようです。

 播州の人がイメージする太鼓台、だんじりとは少し違うかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

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180. 播磨国の西と摂津の東の太鼓(月刊「祭」2019.9月7号)

2019-09-10 10:31:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●遠く離れた地の共通点
 太鼓台や屋台の分布地域の離れたところに共通する文化が見られます。「カタツムリ、マイマイ、デンデンムシのように文化の中心地に新しい言葉が定着し、外側に古いものが同心円型に分布する、方言周圏論的な広がり方をしている」わけではなさそうです。
 必ずしも同心円状の文化の分布にならない理由としてあげられるのは、江戸期の瀬戸内海地域の海運業の発達や、今日のインターネットやSNSの発達が挙げられると考えられます。
 今回あげる二地域の共通点は、なにによるものかはわかりませんが、ただ似ているのを感じていただければと思います。
 
 
●網干型屋台の太鼓文化
 播州人には馴染みある分類ですが、神輿屋根屋台も大きく二種類に分かれます。一つが灘型(練り合わせ型・その中でも浜の宮型、恵美須宮型などに分類されます。)、もうひとつが網干型(チョーサ型)です。
 網干型は、かつぎ棒はしなりやすい杉でできており、前後の端は背の高い人が担げるようにできており、身長の違う人が担ぎやすくなります。
 チョーサと呼ばれる差し上げ(放り上げ)で一気に屋台を差し上げる(放り上げる)所作をします。太鼓打(乗り子)は子どもがつとめます。化粧を施した乗り子は祭期間中は地面に足をつけません。
 チョーサの基本リズムはドンドド ドンドドの繰り返しで締めはドンとなります。
 
 
・魚吹八幡神社() 毎年10月21.22日
冨島神社(アクセス) 毎年10月24.25か直前の土日
・春日神社(アクセス) 毎年10月8日
 
 
●大阪市平野区杭全神社の太鼓文化
  一方大阪市の杭全神社の太鼓台は布団屋根です。播州のチョーサが秋の祭であるのに対して、杭全神社は夏の祭で、担ぎ手は浴衣を着ています。
 しかし、太鼓打は子どもで化粧を施し、地面につけられることがなく、この点は播州のチョーサと共通しています。太鼓のリズムはドンドドを3回繰り返した後ドンで締めるリズムで練り歩きます。差し上げ時と練り歩きの時の違い、繰り返す回数の違いはありますが、ドンドドを繰り返しドンで締めるリズムも共通しています。
 
 

 

・杭全神社(アクセス)  夏祭7月11日〜14日
       太鼓、神輿11.14   だんじり12.13
 
●思わぬ遠いところで類似したリズム
 思わぬ遠いところでも類似したリズムや掛け声がこれからも見つかるかもしれません。
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178. 讃予地域太鼓台水引幕 香川県立ミュージアム 「祭礼百態」2(月刊「祭」2019.9月5号)

2019-09-06 09:50:14 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
-水引幕の変化-
教えてくれるのは乗り子衣装!?
↑上の写真の衣装は箱浦屋台の乗り子衣装です。獅子を回す時の衣装でもあるそうです。この衣装が、水引幕の変化を考えるヒントになりそうです。
 
マツオタ垂涎😻
祭礼百態 
-香川・瀬戸内の「風流」-
香川県立ミュージアム
 

 2019.8.23から9.7にかけて香川県中の祭を集めた展示が香川県立ミュージアムで行われました。名だたるプロの研究者+太鼓台研究の金字塔ともいえる尾崎明男氏、全国の屋台や太鼓台、だんじりの写真を撮って歩く川瀧健司氏らによる圧巻の展示でした。

 いざ、足を運ぶと顔見知りや、一目で分かる祭関係者の姿がチラホラ。ほとんどは図録を見ればいいのかもしれませんが、それではカバーしきれないところ、見向きもされないところ、でも噛めば味が出る(と思い込んでいるところ)を書いていきます。
 今回は水引幕の変化を見ていきます。
 
●四国の太鼓台刺繍
 四国の太鼓台刺繍は、分厚く重厚なものが早い時期から発展してきました。その刺繍のファンは、播州や大阪にも広がっています。
 四国の大きくて華やかな太鼓台は、愛媛県の新居浜市、香川県豊浜市、観音寺市などにひろがっています。
 
 
国立民族学博物館(アクセス)の新居浜市・元船木の旧太鼓台と水引幕に該当する上幕。上幕も4分割になっています。
 
●寸足らず??上河内太鼓台
  下の写真は、三豊市河内(こうち)神社(アクセス)の旧・上河内(かみこうち)太鼓台(所蔵は香川県立ミュージアム)です。
 




↑上の2枚の画像は、上河内太鼓台の水引幕です。四本柱の高さの半分ほどの縦の長さしかありません。他の見学者の方に聞くと、昔はこのようなものが多かったらしいです。また、本ブログでも紹介した「新居浜太鼓台」を見ても、昔の新居浜の太鼓台もこのような丈の短い水引幕だったことがわかります。
 
切断された龍? 箱浦屋台
 下の香川県三豊市詫間町惣社(アクセス)の箱浦屋台(詳しくはこちら)の水引幕の龍を見てください。尾の部分と顔の部分が波で不自然とも言える状態で隠されています。
 なぜこのような状態になっているのでしょうか。
  
 

↑龍の頭へと続く画像右側の部分が途切れてしまっています。
 

↑頭の部分から見ても、龍の後ろ部分が見えない状態です。

水引幕の「ワレ」の場所
 下の水引幕の端と端の「ワレ」部分は、下の画像右側の四本柱のあたりに合うようになっています。これは、多くの場合太鼓台後ろ側の四本柱にこの上の上河内太鼓台も四本柱に「ワレ」がきています。
↑箱浦屋台の水引幕「ワレ」は画面右の四本柱にあたります。
 
ワレは四本柱でない場合も
 だんじりですが、宇多津町の宇夫階神社(アクセス)の伊勢崎町だんじり(所蔵は香川県立ミュージアム)は中央にワレが来ています。
 


もし箱浦屋台の水引幕ワレを中央に合わせたら
 もしも、箱浦屋台の水引幕のワレを中央に合わせると、龍の体の見えない部分が中央に来ます。他の面も、刺繍が途切れていたり、立体感のほとんどない部分が中央に来ることになります。
 そうすることで、姫路の神輿屋根型屋台に見られるような紐でくくって上に上げる水引幕の「たくし上げ」ができます。そして、たくし上げた間から見えるのが、乗り子の華やかな衣装ということになります。
 
 



 
 ●水引幕の発展過程
 シンプルなたくし上げ
 ↓
 刺繍つきのたくし上げ(箱浦屋台)
 ↓
 丈の短いたくし上げないもの刺繍の切れ目はない(上河内太鼓台)
華やかで丈の長いもの
四分割の上幕(元船木太鼓台)
 
このような推移が四国でもあったと考えることができます。
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177. 香川県三豊市詫間町惣社箱浦屋台と台車 香川県立ミュージアム1「祭礼百態」(月刊「祭」2019.9月4号)

2019-09-05 19:14:23 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
マツオタ垂涎😻
祭礼百態 
-香川・瀬戸内の「風流」-
香川県立ミュージアム
 

 2019.8.23から9.7にかけて香川県中の祭を集めた展示が香川県立ミュージアムで行われました。名だたるプロの研究者+太鼓台研究の金字塔ともいえる尾崎明男氏、全国の屋台や太鼓台、だんじりの写真を撮って歩く川瀧健司氏らによる圧巻の展示でした。

 いざ、足を運ぶと顔見知りや、一目で分かる祭関係者の姿がチラホラ。ほとんどは図録を見ればいいのかもしれませんが、それではカバーしきれないところ、見向きもされないところ、でも噛めば味が出る(と思い込んでいるところ)を書いていきます。
 今回は香川県三豊市詫間町惣社(アクセス)の箱浦屋台について書いていきます。
 


 
●箱浦屋台概要
 箱浦屋台の概要を展示案内文におんぶに抱っこ状態で紹介します。
  まず香川県の多くがこのような太鼓台を「ちょうさ」などと呼ぶのに対して、ここでは屋台と呼んでいます。昭和30年代までは運行していたそうです。
 なんとこの屋台、他地域との部品交流がないとのことで、制作当時の姿が残っているということになります。また、刺繍以外は自地域でまかなっているとのこと。つまり、この地域の明治時代の太鼓台の姿を辿る資料だということらしいです。

↑屋根の上にある黒いくくり物・とんぼは新居浜や観音寺のものなどと違って細いです。
 
 

↑尖った牙の木鼻の獅子は珍しい気がします。その上の平たい板・平桁(ひらけた)が明治八年(1875)のものだそうです。
 
 

 
↑水引幕と金綱は明治二十九年(1896)


↑掛布団は明治十四年(1881) 酒呑童子
 人物が出ているのも珍しいです。
 

↑掛布団明治十四年(1881) 金太郎こと坂田金時


↑布団締めは明治四十一年(1908)
 昼提灯は明治三十八年(1905)
 
 
●箱浦屋台の台車
月刊「祭」と言えば台車ということで(播州と少し大阪版淡路版)、台車を見ましょう。



↑なんと全部木材の台車です。



↑軸にくさびを打って車輪をとめています。

↑車輪の内側に、泥台の足が入るように窪みがあります。
 

↑窪みは◯まるい形をしています。
 

↑屋台本体の泥台の足を見ると、丸く削られています。台車に合わせた改変の跡と思われます。
 
昭和三十年代に運行を停止したということは、村の人口の減少などがあったと思われます。停止前の数年は台車はなくてはならないものだったのではないでしょうか。これが近い時代の運行停止ならば、車輪にはに鉄やタイヤがつかわれたり、ボルトナットでとめられた台車ができていたことでしょう。
 古い時代の運行停止は屋台本体だけでなく、周辺の付属物も古いものが残ることをおしえてくれています。
 
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171.「だんじり」からやぐらへ(月刊「祭」2019.8月27号)

2019-08-29 11:45:51 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 ●泉州のもう一つの名物・やぐらとその特徴
 祭好きの人の多くが、「泉州」と言えば、多くの人が「だんじり」を思い浮かべるでしょう。しかし、もう一つの名物が泉州の特に、南部に分布しています。それが、やぐらです。今回はこの櫓がどのようにしてできていったのかを考えていきます。2019年8月25日新調の阪南市波太神社山中渓櫓を見てきました。
 
やぐら特徴
 やぐらの特徴としてあげられるのは、牛車や祇園祭の山鉾を思わせる大きな二つの車輪です。この車輪では、地面を擦って方向転換するやりまわしはできません。しかし、方向転換が容易で山道などのでこぼこした道や階段なども運行がしやすくなります。
 
 
 
 

 
●やぐらの源流
 「やぐらまつりドットコム」というサイトによると、今から270年前には波太神社の祭礼の形態が今と同様のものができていたという文献があるそうです。たしかに、波太神社は紀州との境目の山際の町であり、櫓のような大きな車輪でないと通りづらかったことが考えられます。とはいえ、突発的にこの車輪が用いられたわけではなく、そのもとになるものがその付近にあったことが考えられます。
 
・地車との類似
 やぐらを見てまず気づくのが、大屋根と小屋根に分かれて彫刻に趣向を凝らせた泉州や河内の地車との類似でしょう。しかし、大阪府内に分布している地車のほとんどは内ゴマで、やぐらのように外部に大きな車輪をつけているものは見られません。この車輪のもとはどのようになっているのでしょう。
 
 
・二輪の山車
 そこで、ひとまず二輪の山車はどのようなものが近隣に残っているのかを調べてみました。
 まず、目についたのが、森田玲「日本の祭と神賑-京都・摂河泉の祭具から読み解く祈りのかたち-」に掲載されていた三重県の石取祭の山車や、『守貞漫稿』に記された江戸の山王祭の山車です。しかし、やや遠方すぎる感はあります。
 

↑喜多川守貞「守貞漫稿」1837〜1867頃
 
 そこで、条件を妥協して大きな外側の「車輪」のものをさがすと、羽曳野市誉田神社のものが見つかりました。
 
・誉田神社の藤花車と車楽
  何回かこのブログでも掲載しましたが、「河内名所図会」には大型の車輪の車楽(だんじり)が掲載されています。ですがよく見ると三輪です。前輪の方にもてこを持っている人がいて、このてこで方向を変えていたとおもわれます。
 
 
 そして、誉田神社所有の藤花車と呼ばれる物が現在も残っています。舞台の裏の記述から天和二年(1682)から文久二年(1862)まで使用されていたことが分かるそうです。
 「河内名所図会」が享和元年(1801)で、下の写真の藤花車は文久二年(1862)であり、絵巻と同じものだということがわかります。一番目立つのは、車輪をとりつけた台木(1)ともいうべきものに、二本の棒(2)が車輪の前に出ており、それは台木の上に取り付けられています。方向転換が容易になったと思われます。
 

↑誉田八幡宮内の藤花車 
 大阪市立博物館「第121回特別展 南河内の文化財 平成5年3月1日〜4月11日」(大阪市立博物館)1993より転載後□と番号を振りました。
 
 
・やぐらの下部
 そこでもう一度櫓を見ると、車輪を取付けるための台木(1)が前に出てきており、上の藤花車の写真のように、そこに前にのびた2本の棒(2)がとりつけられています。管理人が考えるには、やぐらも三輪の時代があったのではないかということです。そこから激しく曳行する上で、前輪の必要がなくなったのだと考えています。その名残が台木ということがいえるでしょう。
 管理人の言う櫓が元々三輪だったという考えが違うにしても、泉南地域に分布するやぐらは、上部は彫刻をこらした二つ屋根の地車(だんじり)をもとにしています。そして、下部は藤花車とも呼ばれた車楽(だんじり)がやぐらのもとになったものだと思われます。
 


●編集後記
 このやぐらやだんじりを見に行くために、若き友人のD君がやぐらの入魂式の情報を調べて、誘ってくれ、町内の運転もしてくれました。そして、同じく若き友人のM君も本当に長距離、長時間、夜通しの運転をしてくれました。あらためてお礼します^_^

 
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163.獅子噛のない上地車?大阪市だんじり今昔-摂津名所図会より3-(月刊「祭」2019.8月19号)

2019-08-23 06:33:05 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 
●だんじりと布団太鼓の古い絵図  
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。 今回もだんじり編で、だんじり本体部分の拡大図で本体の様子を現在の大阪市内のだんじりと比較しながら見ていきます。
 
 
 
↑大阪市若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんしり
↑摂津名所図会のだんじり
 
 全体では、現在のものは当時のものより、やや小さめになっているようです。現在残っているだんじりで古い物は江戸末期のものや明治期のものがあることから、「摂津名所図会」が刊行されてから、間も無く小型化の流れがあったのかもしれません。
●彫刻と刺繍
 
↑大阪市杭全神社泥堂だんじり
 
 
 
↑大阪市若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんしり
 
 
 
◯1獅子噛
現在の上地車の象徴とも言える屋根の獅子噛は、この当時では見られません。また、他の彫刻もあまり絵では見られません。
 獅子噛は、弘化三年(1846)の杭全神社市だんじりには見られます。しかし、嘉永五年(1852)の大阪天満宮のだんじりには見られません。「摂津名所図会」の時代にはなく、19世紀中頃より次第に獅子噛は広まっていったようです。
 
 
↑嘉永五年(1852)大阪天満宮のだんじり。獅子噛はない。
 
 
 
◯2刺繍か彫り物か
 そして、水引幕は現在にも引き継がれていますが、
「摂津名所図会」の本文にも
 特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
と、「錦繍」とあるように縫い物が飾られていたことがわかります。現在のものは、水引幕は前部のみで、後部は彫刻になっています。四本柱にも見事な彫刻が彫られており、一方、絵を見ると、だんじりの後部にも水引幕があり、四本柱にも布がまかれています。
 
●前てこと綱元   
↑今福西之町だんじり
 

↑杭全神社野堂北だんじり
◯4(◯3は写真番号付け間違いによりなし)台木
 現在はの台木は、岸和田のものは長方形のままのものが多いですが、上だんじりは、雲?などの模様がついています。また、精巧な彫刻も彫られていますが、「摂津名所図会」のものは、正方形に近い形になっています。
 
◯5てこ
てこは、やや「摂津名所図会」のほうが細いでしょうか。おもしろいのは、現在のものはてこを持つ人が、棒の上まで体を出していますが、「摂津名所図会」のものは、体を屈ませており、むかって右側の人はてこを完全に泣いてしまっています。
 また、上の野堂北だんじりのてこは下の後部の写真のように、杭全神社のものなど、今のものはかなり短く、太くなったものもあります。急ブレーキで止まる時に紐を離したら、てこが落ちて止まるようになっています。
 細長いてこから、各地域の運行の仕方に合わせて進化していっているようです。
 
杭全神社野堂北だんじり後部のてこ
 
◯6綱元
綱元に穴が開いていて、そこから綱をつなげる構造になっているのは昔からのようです。管理人はこのしくみが一番新しいと考えていたので、新鮮な驚きでした。
 
 
 
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162.だんじりに◯◯◯?そして、だんじりとは何ぞや??-摂津名所図会から2-(月刊「祭」2019.8月18号)

2019-08-21 21:00:29 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 

●だんじりと布団太鼓の古い絵図

 
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
 今回はだんじり編です。まずは、だんじり本体部分の拡大図から囃子方の様子を見ていきます。
 
●だんじりに◯◯◯⁉︎ 鳴り物
 図会の絵を見ると、阪神、河州、泉州、播州の祭関係者は少しびっくりする鳴り物があります。?のところにあるのは。。。?




























?のところにあるのは三味線でした。他に、小さめの太鼓と鉦が、欄干の下側にありますが、内ゴマ・内側にある車輪のすぐそばなので、演奏しにくくはないのでしょうか。また、現在では花形となる大太鼓らしきものが見当たりませんが、見えない部分で演奏しているのかもしれません。
 次は本文と本体を見ていきます。
 
●誉田から始まった(車楽)?
ここの文章が分かりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?と思ったら
 
 
夏祭 車楽(だんじり)囃子 
 車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて今は尾州の津島祭ありて、船にて巡り囃し立つる也。又熱田祭にもあり其他諸州にあり大坂の車楽ハ数おほし(多し)。特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
 
車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて
とあり、河内の国の誉田(こんだ)祭(現・大阪市羽曳野市誉田八幡神社)より始まったとしています。

 
享和元年(1801)成立の「河内名所図会」でも、
誉田例祭(まつり)車楽(だんじり) 
誉田の車楽は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。これだんじりのはじまりなりとぞ
 
と書いてあり、この地域から「だんじり」が始まったという認識を当時の人が持っていたことがわかります。しかし、絵を見ると、河内の方は三輪で大津祭の山や、大阪府南部に分布する櫓(やぐら)を彷彿とさせます。しかし、現在の櫓(やぐら)よりも随分大型なものであったようです。
 では、車楽(だんじり)とは一体何を意味するのでしょうか?
 
●車楽(だんじり)とは?
ここの文章がわかりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?という方は下の本をお読みください。名著です。
誉田
車楽(だんじり)は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。
「摂津名所図会」や「河内名所図会」の作者である、秋里籬島は「だんじり」を「車楽」と書き、「誉田の車楽は、古風にして、他の囃子と違う」と書いています。
 つまり、秋里は車の形に言及しているのではなく、囃子に言及しているのです。
 「車楽」の字も、猿楽、能楽、神楽のように、芸能や音楽を表す楽が後についているので、車楽(だんじり)も車ではなく、車の上で演奏する音楽や芸能を意味していると思われます。
 
 「摂津名所図会」や「河内名所図会」とほぼ同時期にできた浜松歌国(1776〜1827)の「摂陽奇観」には
「河内国古市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にも出る。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞いたまふをまねびけるとぞ。(中略)およそ上代の遺風なるべし、これ車楽のはじまりと誉田の村民はいふなり」
 とあり、車楽は船の上で行われた芸能が起源だということが伝わっています。車楽という書いて「だんじり」と呼ぶ言葉は車両の上での芸能を意味していたようです。
 
 楽車
↑これだと、音楽や芸能をする車両を意味します。
 
車楽
↑これだと、車のうえで行う、音楽や芸能という意味です。
 
 
 
 
 
 
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161. カラフル屋根?バランス悪い?今も残る?幕末の布団太鼓-摂津名所図会より1-(月刊「祭」2019.8月17号)

2019-08-21 13:43:13 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●だんじりと布団太鼓の古い絵図  
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
 今回は布団太鼓編です。なお比較のための現在の写真は特に指定がないものは大阪市杭全神社の布団太鼓のものです。
 
 
 ●本文
本文は斜体字で記述しました。この祭は上難波仁徳天皇社の旧暦六月二十一日(現行暦で7月半ば頃)の祭です。
 
 
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。
 
「神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。」
と太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが読むとわかります。
 
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
周礼という中国の文献に太鼓が雷声の発するを表しているとあるそうです。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るという様から、当時の人に布団太鼓が迫力ある催し物として好まれた様子が伺えます。
 
 
●屋根、狭間と担ぎ棒(今とは違う点)
 今と違う点として、あげられるのが屋根です。白黒で見る限りでは、二色の屋根になっています。 
 また、屋根と水引幕の間に彫刻は無いようです。
 



次に担ぎ棒を見てみましょう。縦の棒は2本で、狭い路地を行けるようにはなっていますが、左右にふれるとバランスをくずしやすそうです。縦棒の間にも人がいることから、はしご型に棒が組まれているとおもわれます。
つまり、現在の大阪の主なはしご型の棒組みはこの頃のものの横棒が長くなったものと思われます。
欄干の下に人が担いでいるように見えますが、棒を担いでいるのか、欄干そのものをかついでいるのかはわかりません。




●地面につける?つけない?
屋台、太鼓台で子どもが太鼓打ちを務める場合、地面に彼ら自身の足をつけさせないようにする風習が、三田市、大阪市杭全神社、姫路市西部や太子町では見られます。
そのために、太鼓打ちは肩車をされて移動してないます。
この図会の太鼓打ちを見ると、一人は地面に足をつけ、一人は肩車をされています。この神社では、廃れつつあったのか、元々なかったのかのどちらかのようです。
 
 
 

↑肩車で運ばれる杭全神社の太鼓打ち
 


●わりとよくある?太鼓の提灯
上の図会を見ると、「太鼓」と書かれた提灯が二つ運ばれています。この風景は今の大阪でもよくみられます。杭全神社では、現在は収蔵庫に提灯がかけられています。
 
↑杭全神社の布団太鼓収蔵庫の提灯
 
天神祭の屋根のない催し太鼓も「太鼓」提灯を持ち歩いています。また「摂津名所図会」には、天神祭の催し太鼓も描かれており、船におそらく太鼓と書かれた提灯が二つ飾られています。
 

↑大阪天満宮の屋根のない催し太鼓の提灯
 
 


 
 
 




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146. 大阪(堺)と姫路の差し上げと太鼓打(月刊「祭」2019.7月27号)

2019-07-31 12:18:08 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

本記事では斜体字のカタカナは太鼓の音、平仮名は掛け声とします。そして、太鼓と掛け声がほぼ同時の場合は、スペースなし、ある場合は少しスペースを置いて記述しています。
●大阪市住之江区高崎神社南加賀屋太鼓台の差し上げ
ベーラベーラと差し上げの時の掛け声と太鼓台の形は堺のものです。
笛で普通の太鼓を止める
ドンドンドンドンドンドンドンドン やーせー
ドンドン やーせー
ドンドン よいやーまっかーそこじゃいな
ドンドンよーいや せー(ばちの両手をあげる)


画像クリックで映像へ


●姫路市湊神社福泊屋台
拍子木で普通の太鼓を止める
ドン ドン ドンやー しょい
ドン ドン ドンやー しょい
ドン ドン ドンよい やっさ
ドンよい やっさ
ドンよい やーせ
ドンよっそい ( シン・後方の太鼓打以外はブイさし・太鼓のバチをあげることをする)


画像クリックで映像へ


●差し上げの類似
笛や拍子木で太鼓を止め、差し上げの所作に入るところは共通しています。また、二回打って「やーせー」や、「やーしょー」などの掛け声をかけるところ、差し上げたらバチを差し上げるところも共通しています。

●太鼓を打つ子ども
大阪市でも太鼓を打つ子どもは、化粧をしたり、地面につけなかったりします。下の写真は杭全神社で映像にジャンプします。太鼓打の子どもを地面に足につけないように肩車をして運ぶ様子がうっています。上の南加賀屋は、自分たちで歩いていましたが、化粧をしていました。



姫路市では網干区など、ちょうさをする屋台の太鼓打は子どもで、化粧をし、地面に足をつけないようにしています。



●大阪と姫路の祭り文化類似点
このように、違いもたくさんある姫路と大阪の祭文化ですが、似ているところも見受けられました。たしかに、姫路を代表する彫刻師初代松本義廣も四天王寺に自作の仏像か天王像を奉納したと伝わっています。祭り文化も交流があったと考えられます。

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139. 馬(月刊「祭」2019.7月20号)

2019-07-24 20:25:15 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●太鼓台や屋台を支えるもの
屋台や太鼓台の祭は、実は担いでいる時間と同じくらいかそれ以上に休憩する時間は長いものです。
その時に支えてくれるものが必要になります。

上の写真は播州の姫路市や加西市など角棒分布地域でよく使われるつっかい棒の役割を果たすものです。呼び名は知りません。

●三木の「馬」

上の写真の赤丸の中の木の台でで、屋台が倒れるのを防いでいます。これを三木の人は「馬」と呼んでいます。

●大阪市生根神社の「馬」



上の写真は大阪市西成区生根神社の台額と呼ばれるものです。担がない間は、下の写真のようなものにのせるのですが、やはり「ウマ」と呼んでいました。

●なぜ三木でウマと呼ぶのか
ここからは、全くの憶測です。
なぜウマと呼ぶのかを考えます。
まず、三木の場合は「うってくれ、もひとっせ、よーさんどい」の掛け声で担ぎ上げます。これは大阪締め「うちましよ、もひとつ、いうぉーてさんど」を担ぎ上げの掛け声として使っているからだと思われます。
掛け声と共に、「ウマ」の呼称も伝播したと思われます!?

●妄言 生根神社ではなぜウマと呼ばれるのか
では大阪の生根神社ではなぜウマと呼ばれたのでしょうか?そのために、この台額がいつ出されるのかについて考えます。
台額は七月二十四日、二十五日に出されます。つまり、大阪の天神祭と同じ日に出されます。天神と言えば牛、牛と言えば馬ということでしょうか??
また、台額は提灯が目立ちますが、太鼓も付いています。太鼓には牛の皮があり、それに対する馬ということでしょうか?

●生根神社の台額保存会の皆様に多大なご厚情を賜りました。感謝申し上げます。
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