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月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

138. 神戸市東部三段布団太鼓(月刊「祭」2019.7月19号)

2019-07-22 21:27:36 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●太鼓台の名産地・神戸市南東部
神戸市南東部。ここでは東灘区から兵庫区あたりの神戸市内でも有数の繁華街が集中している地域をさすことにします。この地域に現在は布団太鼓はほとんどありません。
東灘区や灘区にはだんじりはありますが、布団太鼓は見られません。しかし、神戸市南東部には優れた布団太鼓文化が見られた時期はあったようです。時は幕末から明治くらいでしょうか。その名残を紹介します。

●明石市岩屋神社宮付屋台(参考:岩屋神社布団太鼓保存会「岩屋神社布団太鼓チラシ」平成28年)
 元々は灘区敏馬神社の氏子町の太鼓台です。昭和30年代に岩屋神社が購入しました。敏馬神社の記録等を見ていないので分からないのですが、サイズ的に江戸末期から明治期のものでしょうか。
 岩屋神社が購入した時に、水引幕や高覧掛などの刺繍物を加東郡の小紫商店(絹常)より購入したそうです。
 となると、それ以前は彫刻主体の太鼓台だったことが推測されます。また、天井の碁盤の目も現在の播州屋台より、随分大きいです。




●西宮市大市八幡神社現宮付き太鼓台(旧下大市太鼓台)
 明治時代に神戸市灘区の新在家より購入したことが墨書きより分かりました。さらに屋台天井碁盤板に天保五年(1834)の墨書きが見つかり、天保五年製作の作品であることが判明しました。そして、彫刻が中川藤助なる人物によりなされた物であることが分かりました。
 この太鼓台も彫刻主体で、碁盤の目は広くなっています。





●三木市御坂神社志染中屋台
 彫り師は、中川為助と考えられていましたが、刻まれた名前を見ると藤助、つまり、上記大市八幡神社のものと同一人物によるものと思われます。鳴り太鼓の制作が文政五年となっており、この頃に本体も作られたと考えるのが、中川藤助の活躍した年代からうかがえます。屋根の碁盤は広かったです。
 また、刺繍も播州や淡路の業者になるものが志染中が購入した時にはありましたが、この刺繍もまた、文政五年当初のものでなく、明治以降の物です。

 

●神戸市南東部三段布団太鼓台の特徴
 1彫刻主体の太鼓台です。
 2碁盤の目は広いです。
 3座布団すぐ下の布団台は黒い。
 などが挙げられるでしょうか。

 そして、「4三段布団屋根である」というのも興味深い点です。
 三段布団屋根は神戸市の東となりの西宮市にはありますが、さらに東となりの尼崎になると五段となります。
 1,2,3は大阪などの影響といえますし、4は播州の特徴です。このあたりが、西宮から灘区あたりが三段布団屋根の海岸部の東限りといえるでしょう。

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134. 大阪市のだんじりの方向転換(月刊「祭」2019.7月15号

2019-07-20 20:43:36 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●だんじりの原動力
だんじりは、人の力で動きます。「どうやって動かすのか」を分かったつもりになって民俗とやらを語っていた自分が恥ずかしくなりました。
だんじりは前後には車輪は回って動きますが、車軸で固定されているので左右の自由は効きません。そうなると方向転換をする必要が出てきます。以前、神戸市東灘区の方向転換について書きましたがそれとはどう違うのかも考えます。

●後ろで動かすだんじり
大阪市のだんじりの多くは後ろから押して、後ろで方向転換するだんじりのようです。後ろ側の両サイドで方向転換の指示を出しています。
それぞれ画像をクリックすると映像が見れます。


若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんじり




比売許曽神社のだんじり

●神戸市灘区や東灘区のだんじりはなぜ前後で方向を変えるのか
大阪市のだんじりは多くが後ろ側だけで方向転換しますが、神戸市東灘区や灘区のだんじりは前後を使って方向転換をしていました。この違いはどこから来るのでしょうか。
東灘区、灘区は外ゴマですので、より方向転換に困難が伴います。ですので、少し長めの棒を使って、前でも後ろでも方向転換の力を入れるようです。


一方大阪市のものは内ゴマでコマが中心に近いので、比較的回しやすいようです(といっても重労働ですが)。小回りが利くので、狭い街の道路を行くのに適しています。
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129. 神戸市東部地車外ゴマの理由(月刊「祭」2019.7月10号)

2019-07-14 19:01:15 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●外ゴマのリスク
神戸市灘区、東灘区には素晴らしい地車が多々あります。その中には大きいもの、小さいもの、自村で発注したものや他村から購入したもの様々あります。
例えば灘区の春日神社都賀地車は大阪から1996年に購入しました。しかしそのままでは使っていません。灘区や東灘区の村が他地域から購入した時に必ずと言っていいほど改変するのが、内側から外側へのコマの付け替えるのです。


現在の大阪市野堂北だんじり コマは内側についています。


外に取り付けられた灘区の地車

しかし、外ゴマの場合、曳行中にコマに足を踏まれる危険性がかなり増すので運行者はかなり気を使わないといけません。
ではなぜそこまで、外ゴマにこだわるのでしょうか

●祭の華の安定

この地域の地車祭の華は、若者たちの屋根の上でのパフォーマンスです。安全紐を腰に当てた状態で屋根の外にせりだすように体を傾けます。このような状態だと両サイドにかなりの重みがかかり、内ゴマだと地車が倒れかねません。なので、外側にコマをつけ地車を安定させているのです。
祭の仕方によって地車がかわるし、もしかしたらこの地域の地車が別の地域に売り出された時、そこの地域の祭りも少し変わるのかもしれません。


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125.山車の車輪七分割(月刊「祭」2019.7月6号)

2019-07-06 05:05:36 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●祇園祭、山鉾の車輪
 祇園祭の巨大な山車型山鉾を支えるのは四輪の車輪です。
 よくよく見ると、七つに分かれているのが分かります。
 円一周360度を7分割すると、 360°÷7=51.4285714....°
 1ピースの中心角は51.4285714....°となります。

 もし、8分割ならば、360÷8=45° 半分の、半分の、半分といった具合に分ければ、簡単に分けられるのになぜ、このような分け方になっているのでしょうか。
 8分割だと、下の図のように割れ目が上下に来るので、重心が割れ目にかかると分かりやすくなります。ですが、7分割の場合、割れ目のところに、接地面、あるいは山鉾本体のどちらかにに割れ目がかかっても、どちらかは割れ目はないので、強度は保てるそうです。
 

●過去との比較

 宝暦の絵(下の管理人模写の絵をクリックすると本物の頁にとびます。)を見ると8分割になっていますので、おそらくですが、山鉾の衣裳が豪華になり始めた文化文政のころあたりに、7分割になっていったのかもしれません。

 

 

 

 

●鹿沼市も 栃木県鹿沼市の彫刻屋台も7分割の車輪を使っているようです。鯱のボコ天氏が見せていただいた資料から分かりました。

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124.重い?重くない?青蓮院杉戸絵の祇園舁き山(月刊「祭」2019.7月5号)

2019-07-04 20:42:31 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●杉戸絵に描かれた祇園山鉾
祇園会の山鉾は屏風や本などに描かれてきました。そして、一年中祭り気分を味わいたいという思いがあったのかどうかは分かりませんが、修学院離宮では杉戸絵にも描かれています。
ただ、修学院離宮は宮内庁管轄の建物で手続きが事前申し込みが必要で、じつはまだ行ったことがありません。
しかし、杉戸絵の山鉾は他にも見ることができる場所があります。それが青蓮院です。青蓮院は祇園社の北の知恩院の北にあり、さらにその北には、少し前に記事で書いた祇園感神院新宮である粟田神社があります。いわば、祇園信仰圏ともいうべき京都東山三条四条間の寺院ですので、杉戸絵があるのもうなづけます。




●青蓮院の杉戸絵
調査済みの可能性が大ですか、青蓮院杉戸絵の制作年代を描かれた山鉾から考察してみました。
手がかりにしたのは長刀鉾の杉戸絵ですが、撮影禁止だったので撮影していません。
長刀鉾の形状は下の横山崋山が描いたものと類似点の多いものでした。

屋根を見ると鯱ができておらず、鯱ができたのが化政期だときいているので、それより以前、遅くとも1800年代前半となると思われます。

長刀鉾と山一基が撮影禁止場所にあります。
そして、霰天神山と白楽天山が撮影可能な廊下にあったので撮影しました。



●重い?重くない?
ここで、さてここで考えたいのは、山からどのような信仰をもっていたか?とかではありません。美術的にあれこれ言ったり、民俗学の主流となってるような話題もしません。表題にある通り、重いか重くないかです。

この絵を見る限りでは舁き棒にあたる部分がほとんどありません。しかも二本の棒同士の幅は本体幅よりも狭くなっています。
もし、これが本当の当時の長さならば凄く担ぎにくかっただろうと思われます。また、昔の人は力が強かったというのも、うなづけます。

こちらを見ると、8人で担いでいます。楽しそうに担いでいますが、高い位置に重い人形や作り物があるので、少しでも左右に傾くと、重く肩にのしかかっていたのではないでしょうか。

祭をする人の視点で昔の山を見ると新たな発見があるものですね

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<月刊「祭」2013.10月 第20号>嗚呼、わが町の台車事情

2013-08-15 01:01:50 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

 全世界約50人ほどの読者さまに支えられて、月刊「祭」も、はや20号を迎えました。
 20号が、祭月の10月号にあたるのも、また何かの縁かもしれません。
 なお、10月は祭とか祭とか祭で忙しいために、早めの刊行とさせていただきます。

●嗚呼、台車  嗚呼、嗚呼、台車  嗚呼、台車
 というわけで、今回は、皆さんが待ちに待った・・・・・・・・・台車特集です\(^o^)/
 たかが台車、されど台車。
 担い式太鼓台や御輿などの担ぐ祭に携る人にとって、これほど複雑な思いを抱くものはないでしょう。
 できることなら使いたくない。だけど、なかったら困る。
 だったら、見せ場の時ははずしましょうと、役目がない時は隅にやられてしまいます。
 また、台車をつけるつけないで、頭に血が上る光景を見た人、当事者だった人というのは、読者さまの中でもきっと多いことでしょう。

 時には憎しみの対象となってしまったり、ヘタレの同義語となることがありながらも、車の往来が多くなったり、人手不足に悩まされる現代の祭には、台車はなくてはならないものとなりました。
 大きな貢献をしてきた台車も、各地方の祭の形態や、太鼓台の形状やその地方の文化を反映しているようです。
 というわけで、大阪から少しづつ西側に、それぞれの台車事情を見ていくことにします。
 なお、あくまで、管見によるものなので、必ずしも正確な分布を述べているわけではありませんので、ご理解の上、読み進めていただきますようよろしくお願いいたします。

●大阪の台車 地車からの変化か 
 
  
1                                   2


3  (1~3)大阪市桜の宮神社の地車



 
4                                    5 (4、5)伊弉諾神宮  里 だんじり(元・高石市等乃伎神社 大園だんじり)

 -まずは地車を-
 大阪の台車を見る前に、ひとまず、地車を見てみます。
 大阪の地車は上だんじりと呼ばれる市内のものや、岸和田を中心に分布する下だんじりとよばれる府南部のものに関わらず、
 方向転換がしやすいように、車輪は台木とよばれる、木の内側についています。
 これは、上地車(1~3・大阪市内などを中心に分布)も下地車(4,5・岸和田市内などを中心に分布)もかわりません。

-大阪市内の枕太鼓と催太鼓、蒲団太鼓の台車- 6~10だんじり型台車(仮称) 11~16大型四輪(仮称) 
 
   
6                                    7


8 (6~8)大阪市阿部王子神社の枕太鼓 台車はだんじりとよく似た形態になっている。 

 
9                                    10(9-10)大阪市桜の宮神社 枕太鼓

 
11                                   12


13(11~13) 大阪市大阪天満宮の催太鼓

   
 14                   15              16(14~16) 大阪市杭全神社の蒲団太鼓


 そして、次は枕太鼓や催太鼓を見てみましょう。この二種類の太鼓は、行列の先駆けをつとめたり、太鼓の打ち手が頭巾を被り、形態も非常によくにているので、同じものを別の呼び方をしていると思われます。おそらく、大阪天満宮の催太鼓が他の地域に伝わり、枕のような筒状の蒲団をのせていることから、枕太鼓の名でも呼ばれるようになったのでしょう。
 閑話休題、写真6~8の阿部王子神社の枕太鼓の台車を見ると、大きな木製の車輪や、台木を思わせる太い木などは、だんじりを思わせます。
 写真9、10の桜の宮神社の枕太鼓も、阿部王子のものより、やや木製の車輪が小さくなっていますが、やはり台車を連想させます。
 
 さらに、大阪天満宮の催太鼓(写真11~13)は、さらに車輪が小さくなっており、上部を覆う板がつけられますが、写真では伝わりにくいのですが、播州のものと比べると非常に大きく、また、前後が大きく泥台からはみ出しています。むき出しになった木製の車輪はだんじりをおもわせます。
 大阪市杭全神社の蒲団太鼓(写真14~16)は、播州の蒲団屋台で使われているものに近くなります。ですが、泥台よりも幅が広い大きな台車は、大阪天満宮の催太鼓に近いのかもしれません。
 


●播州布団屋台(三段蒲団屋根)や淡路だんじり(五段蒲団屋根太鼓台)の四輪台車 小型四輪(仮称)
 
17                                  18 (17,18)明石市(魚住)住吉神社の中尾屋台 
 
19                                  20 (19、20)兵庫県三木市明石町屋台


21 淡路市伊弉諾神宮 大町上だんじり

 ここからは、別ウィンドウで、播州の神社別各屋台分布図 -二つの川上の反り屋根-の図を参照しながらでお願いします。
 播州の三段蒲団屋根屋台の分布地域になると、泥台の幅とほとんど代わらない小ぶりな台車が好まれて使われているようです(写真16~20)。また、大阪の枕太鼓や催太鼓の車輪が木製であるのに対し、多くが鉄製となっています。
 しかし、私のかなり曖昧な記憶によると、かなり大きな木製の車輪の台車が明石市(魚住)住吉神社で使われていた気もします。
 また、兵庫県三木市の明石町屋台は、昔は台車の車輪が外側についていたような気もするのですが、これもまた、自信はありません。
 そして、写真21の淡路市伊弉諾神宮の大町上だんじりのように、車輪がタイヤ式で外側につけられているものも、この神社では見られました。 


●二輪台車と改良型六輪台車 小型四輪(六輪)(仮称) 
 
22                                  23 (22,23) 三木市大日神社 細川中屋台

 
24                   25 (24,25)加西市北条町 住吉神社

 
26                   27 南あわじ市亀岡八幡宮 下町だんじり 

  
28                                   29

 中播磨から北播磨地域(曽根以外の神輿・三段蒲団折衷型反り屋根屋台分布地帯)、淡路島地域では、大きな車輪が2つついた台車やそれの発展形としての大きな車輪が中心に二つ、前後に小さなものが二つずつ計六つついた台車が見られます。このような形の台車だと、4つの台車にくらべて方向転換が容易にでき、少ない人数でも引くことができます。また、前後に激しくゆらすことができるので、担がなくても祭りの見せ場をつくることができます。
 写真22,23のように、多くの場合は大型のタイヤをつけることが多いようです。
 写真24、25は、前後に補助輪ともいえる4つの車輪がついていますが、これで、台車本体を地面にひきずることなく引き回せます。
 写真26、27のように、淡路島南部では、だんじり本体に台車を直接つけてしまっているものが数多く見られます。担ぎ棒も太く担ぐことをあきらめただんじりといえます。祭のメインを、だんじりの太鼓に合わせただんじり唄の奉納と、だんじりの曳き回しにおいているゆえの措置といえるでしょう。
 上記のように、二厘、および六輪の台車は、外側に車輪がついていました。ですが、写真28,29の三木市岩壺神社の東條町屋台は内側についています。車輪部は鉄製でありながら、大阪市の台車の真ん中部分を大きくしたような形態になっています。この傾向は、比較的新しいものと、記憶しています。
 三木市内においては、大宮八幡宮地域、別所地域、加佐などの西側は、四輪の台車が多いようです。
 一方の、岩壺神社などでは、二輪や六輪が多いようですが、吉川地域、細川地域などは確認しておりません。

●浜手の簡易型四輪台車と網干型屋台用の台車
-浜手の簡易型四輪(仮称)台車-

 
 
30                                   31(30、31 明石市大窪八幡宮 西大窪屋台)

 
32                                   33

 
34                    35 (32~35)姫路市松原八幡宮 木場屋台

 播州のいわゆる浜手-灘のけんか祭で有名な練り合わせ型神輿屋根屋台分布地域、曽根天満宮氏子地域などでは、台車は鉄製の車輪を組み合わせて作る、持ち運びの便利な台車がよく使われています。
 また、写真30、31のように明石市でもヨーヤサーの掛け声や、紙手とともに、台車も浜手のものが伝わってきているようです。
 そして、浜手では、写真32~35のように台車をコンパクトにして運ぶように出来ていました。  

●チョーサ型神輿屋根屋台分布地域の台車 網干型四輪(仮称)
          
36(姫路市魚吹八幡宮 坂上 旧屋台)    37(姫路市魚吹八幡宮 天満屋台の台車)

 一方、姫路市の魚吹八幡宮をはじめとする、チョーサ型屋台は、屋台を上下に激しく揺らすチョーサに対応するために、泥台の足は非常に短くなっています。それに対応して、台車の車輪を横につけるのではなく、下につけることで、他の台車よりも高くなっています。そうすることで、台車をつけたときも担ぎ棒の高さを、操作しやすい位置まであげることができます。

●一応のまとめ
 それぞれの台車の特徴をまとめてみました。
 どの形の台車がいつ頃できたかは分からないために、大阪のものが西側に伝わり、少し変わって、さらに西に伝わったとはいい切れません。
 ですが、形としては、西から東にかけて少しづつ形が変わっているということは言えそうです。
 また、小型三輪、簡易型四輪、網干型四輪は、小型四輪から枝分かれしたような形であるということもいえそうです。

 この記事掲載後に、姫路市魚吹八幡宮の祭礼に参加されている方より、台車の写真を頂きました。
 私が、述べたのは魚吹八幡宮など、網干の屋台の台車は、四輪、車高は高い、上部に板がはってあるということです。しかし、送っていただいた写真の台車は、車高は高そう?ですが、他の特徴はそれとは程遠い二輪の台車でした。
 このような例外や間違いは多々多々あると思いますので、それをご了承の上読んでいただくようお願いします。
 また、写真を送っていただいた方に篤く感謝申し上げます。

送っていただいた魚吹八幡宮 高田屋台の台車


編集後記:
 
今回は写真をかなり多く使いました。
 私自身、祭りを見に行っても、できるだけ担いでいるところを見ようとしていたので、写真を探すのに一苦労しました。
 月刊「祭」11月号も少し早めに出す予定、12月号は12月半ば頃に出すことになるかと思います。またのご愛顧をお願いします。

 

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<月刊「祭」2013.8月特別号 第18号>播州の神社別各屋台分布図 -二つの川上の反り屋根-

2013-06-18 20:32:30 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

  
三段蒲団屋根型屋台                      反り屋根型屋台
 
灘型神輿屋根型屋台          魚吹型神輿屋根型屋台

 今回は特別号です。
 その名は、播州の各屋台分布図です。
 ただ、屋台を一台ごと分布に表すとえらい目にあいますので、神社別の分布図にしました。
 ですので、その神社に宮入する屋台の中で、多数派の屋台をその神社の屋台としました。
 また、同一数ずつ宮入りする神社は、近隣の神社で有力なものをその神社の屋台としました。加古川に三社あったはずです。
 なお、反り屋根屋台は、神輿屋根折衷型といえる屋根中心部に山型のふくらみをもっていて、擬宝珠を思わせる綱の先端がそこに乗っているもののみを反り屋根屋台としました。 つまり、そうでないものは、屋根が反っていても三段蒲団屋根屋台としています。
 御輿屋根型屋台は、練り合わせ型屋台とチョーサ型屋台にわけました。

 さて、これらの図を見ると、反り屋根が有力な地域は、市川と、加古川の中上流域ということになります。
 反り屋根のメッカは、浜手の曽根天満宮ですが、おそらく、反り屋根が出来た当時の曽根周辺地域では、神輿屋根の文化がかなり浸透していたのでしょう。そこで、曽根の旧屋台の行き先や、反り屋根屋台を新調する神社が、曽根の東西の川の中上流になったのだと考えています。地図に表してみると私個人的には、面白い発見がありました。




編集後記
 
今回の図をつくるための、管理人の努力は微々たるものでした。
 それは、祭りマニア(マツ)の先輩方に教えて頂いたことや、ご自身の調査結果をまとめたサイトを参考にして作図したからです。
 昨今は、少しずつ屋台にも学問の光があたろうとしています。
 この図をつくるにあたり、真っ先に参考にしたのは、上記のもので、専門書などではありませんでした。
 「マツ」の力のすごさをあらためて思い知らされました。
  一方、この図をつくるきっかけとなったのは、私のつたない文章を真摯に査読してくださったプロの民俗学者の方々のおかげです。
 それぞれの立場でできることをするのが、屋台文化の理解につながるとあらためて感じました。

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<月刊「祭」 2013.3月>純き禰(子)御門よりの威き使者-大村屋台(三木市禰御門神社)

2013-03-03 19:17:38 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

 今回は、三木市禰御門神社の大村屋台を特集します。
 
●禰御門神社の祭がなければ大宮八幡宮の祭礼は成立しない?? 
 大宮八幡宮の氏子屋台は、宵宮、本宮両日ともに、大宮八幡宮に宮入します。それに対して、禰御門神社の氏子である大村屋台は、大宮八幡宮に宮入をするのは本宮のみとなっています。それは、禰御門神社での祭礼を大宮八幡宮の宵宮の日に行うからです。とはいえ、大村がまったく大宮八幡宮の祭礼に関係なく、ただ、石段上りのイベントだけを求めて大宮八幡宮にやってくるわけではないようです。
 まず、 江戸末期の「当社祭礼祭神事能桟敷絵図写」という文書を見ると、大宮八幡宮の祭礼時には、大村にも観能用のスペースが与えられています。
 また、「美嚢郡誌」には、次のような記述が残っています。

 「又曰ク 月ノ輪ノ郷ヨリ子ノ方二当タル故ニ子守神社ト称シ来リシニ、中古ヨリ禰御門ト書記セラルト」   
 (また言うには、月の輪の郷の子の方(北の方)に当たるから子守神社と呼んでいたが、いつのころからか禰御門と書かれるようになったという)

 月輪とは大宮八幡宮の神宮寺である月輪寺であり、大宮八幡宮の分身といえる寺院です。つまり、禰御門神社の名前は大宮八幡宮の位置を元にしたとも考えられ、二つの神社がつながっていることがわかります。
 また、大宮八幡宮の本殿の向く方向を見てみると、つまり、石段上から三木の町を見下ろしてみると、いきつくのは禰御門神社になります。ちなみに別所長治公の墓所である法界寺も禰御門神社のほうを向いています。
 「美嚢郡誌」にのこる言い伝えや、大宮八幡宮の本殿の向きなどを考えると、大村が禰御門神社での祭礼を滞りなく行うことで、大宮八幡宮の祭礼が成立するということができるのかもしれません。
 無事に禰御門神社の祭礼を終えて、大宮八幡宮に宮入する大村屋台は、まさしく、「純き子の御門よりの威き使者」といえるでしょう。





●大村屋台、命がけの宮入と宮出
 さて、大村屋台といえば、命がけの屋台の石段登り、下りを連想します。三木の大宮八幡宮は、84段の石段を屋台が宮入りすることで播州に知れ渡っています。その時になくてはならないのが命綱です。運動会の綱引きのような綱を屋台にくくりつけ、屋台を落としてしまっても、階段をずり落ちないように引き上げます。
 しかし、大村のみ、その命綱をつけないで宮入と宮出を行います。言い換えれば、屋台を落とせば即大惨事という命がけの宮入宮出が行われることになります。
 この宮入と宮出がどのようにして行われているのかをみていきます。

 ○大村屋台の大宮八幡宮での差し上げ
 まずは、大村屋台の差し上げ方法です。三木の多くの屋台が、太鼓の早打ちによる差し上げか、大阪締めによる一気差しを用いています。ですが、大村屋台はそのいずれも用いず、「ソラッサッシマショ」に合わせたタイコのドンドンデドンを三回ほど繰り返しながら差し上げます。また、大宮八幡宮への差し上げ時は、他の屋台が正面を向けるのに対し、禰御門神社の氏子である大村は横をむけて差し上げます。

 
 
 ○猥歌
 石段を行くときは他の屋台が行うような伊勢音頭と同じ節回しで、ここではその歌詞をかけないような猥歌を歌います。ただ、性は豊穣につながるので、信仰の範囲であるということもできるかもしれません^^; また、あえて下品とも言える歌を歌うことで、その見事な宮入とのギャップが生まれ、より味わい深いものになっているようにも感じられます。

 ○担ぎ手の配置方法と命がけの祭人
 多くの屋台の場合、一本の棒の片側のみを担ぎますが、大村は両側をかつぎます。つまり、他の屋台は一本の棒には、左肩でかつぐ人のみ、あるいは右肩で担ぐ人のみを配置します。ですが、大村の場合は右で担ぐ人、左で担ぐ人と交互に配置するため、多くの担ぎ手が一度に担ぐことができます。しかし、これも、決して落とさない大村だからこそできる技術であり、落とすことがある屋台でこれをすると、担ぎ手の逃げ場がなくなり非常に危険なものになります。
 そして、それだけでなく、宮入と宮出の時は泥台(屋台の担ぎ棒の下の土台部分)を何人かは担いでいるといいます。泥台を担ぐことで、屋台自体は安定し、担ぎ手は非常に助かります。しかも石段昇降時は石段の下から上に担ぎ上げることで、屋台が下に流れ落ちることを防ぐことができます。しかし、万が一屋台を落としたときに最も危険に晒される場所となります。
 このような危険を買って出る人の存在がいるからこその大村の宮入であり、ひいては大宮八幡宮の石段上りが市の無形民俗文化財に指定された大きな原動力になったと言えるでしょう。大宮八幡宮の子の御門からの使者の威厳は、純粋にお互いを思いやる心によって支えられています。



●編集後記
 今回は、三月に大村の友人が旅立つことになったので、最大限の敬意を込めて三木の大村屋台を特集しました。
 彼の言動はお世辞にも上品とは程遠いものでした。
 しかし、その裏に隠された優しさや熱い心意気は、まさしく大村の体現者といえるものでした。
 新天地においても、その優しさと心意気で、自らと周囲の人たちを幸せにしてくれることと確信しております。

  

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<月刊「祭」 2012.6月 第3号> 神輿屋根型屋台の練り歩き  写真集-北条節句祭の粋

2012-05-13 19:41:29 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

東風吹きて さつきさきしは まぼろしの 誠実の梅木 言の葉ちりたる      
(大好きな芸人の憂き目に詠める)


神輿屋根型屋台の練り歩き

 兵庫県姫路市を中心にみられるような神輿屋根型屋台が分布することが、播州の太鼓台文化の大きな特徴となっている。その神輿屋根型屋台も、四月号で掲載したように静かなところから、一気に差し上げる「チョーサ」をする網干を中心に分布するものだけではない。それとは対照的に、二台以上の屋台が激しく脇棒をすり合わせて担ぐ練り合わせ式の神輿屋根型屋台が広く分布しており、よく知られる灘のけんか祭の屋台もこれに分類される。

 このような練り合わせ式の屋台が見せ場になるのは、境内などで見られる練り合わせであるし、そこに注目するのは決して間違いではない。だけど、そこだけ見て神輿屋根型屋台の魅力とするのは少しもったいないかも・・・・・・
 やっぱり、神輿屋根型屋台も太鼓台です。宮入をしたり、練りあわせをしたりするためだけのものではありません。担い式太鼓台であるからには、担いで歩くものなので、ただ、担いで家や村の中を歩くだけでも絵になります。 また、下の福泊屋台の動画リンクの中の3のように、見事な台車さばきもひとつの見所になっているようです。



松原八幡神社 木場屋台     
 お旅山をのぼる             

国恩祭の福泊屋台 国恩祭の福泊屋台 国恩祭福泊屋台見事な台車さばき (いずれも町練り、2012.5.4)

 びっくりしたのは、浜の宮天満宮の宮屋台の町練り。隙間何センチの間を見事に担いでとおりぬけます。動画がないのが残念++; でも画像を見るだけでもその姿は伝わると思います。

 
浜の宮天満宮 
狭い狭い街道を行く宮屋台

加西市北条節句祭の粋
 初代絹常製の水引幕(東高室屋台-浦島太郎 現存はこれのみか。)などに見られる超一級の屋台装飾品。加東市の重要無形民俗文化財である神事舞にも通じる龍王舞。笛の音とともに優雅に練り歩く祇園囃子練。そして、恒久の平和を祈る鳥合わせ。加西市北条町住吉神社の北条節句祭は、有形無形文化財の宝庫。

CIMG2163
 写真集
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<月刊「祭」 2012.4月 創刊号> 丁 ‐「別格」の代名詞‐  兵庫県姫路市魚吹八幡神社秋祭  

2012-04-14 20:07:17 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

 月刊「祭」 創刊しました。
 つき一回、播州を中心に、いろんな祭の見どころを紹介します。

  兵庫県の姫路市や高砂市といえば、知る人ぞ知る祭りどころ。まず有名なのは、灘のけんかまつり。他にも大塩、飾磨の各祭りなど様々な祭があり、様々な屋台(担い式太鼓台)が練られ(かつがれ)る。

 網干区の魚吹八幡宮の秋祭りにも、播州最多と言われるたくさんの屋台が各町から練り出され、絢爛豪華な歴史絵巻を作り出している。ただ、その練りは、灘のけんか祭りなどに見られる威勢のよいヨーイヤサーとは程遠く、静かに立っているだけに見えるが、天に放りあげんばかりに差し上げる「チョーサ」は一見の価値あり。
 そんな魚吹八幡宮の中にその屋台はある。その屋台は魚吹八幡宮の中では、「どちらかといえば」、伝統を残した形をしている。傾斜が急になりがちな屋根の屋台が殆どになる中、糸井や和久屋台のように、断固として浅い傾斜を保っている、、、、、わけではない。「それなりに」、いい彫刻などの装飾品をつけているが、名品ぞろいの魚吹八幡宮の屋台の中では特段目立っている、、、わけでない。衣装もそろいのマワシに白いシャツという地味そのもの。結局、その屋台が見た目で目立つことは全くと言っていいほどない。
 だけど、姫路、いや播州の祭人は、憧れや嫉妬や畏敬の眼差しでその屋台の周りに集まる。

 「丁(よろ)」。

 「よ」と「ろ」の二文字を続けて呼ぶだけで、その言葉は「別格」を意味することになる。
 やりまわしは、曳いて走るだんじりがするもので、担ぐ屋台がするものではない。担ぐ屋台では、走るだけでも無茶なことである。
 にもかかわらず、やりまわしのように、担いで走って、急カーブ!!
 「丁(よろ)」は別格!!

*この記事を書いたあとに、姫路市内で祭りをしている人から話を聞くと、他にもすごいところがあるとのことです(糸井、和久など)。ここでは、自分が感じたことをそのままの文章としてあえて訂正せずに残しておきます。

■魚吹八幡神社秋季例大祭 毎年10月21、22日(雨天による順延あり)
  兵庫県姫路市 魚吹八幡神社     最寄り駅: JR、山陽電車 ともに 網干駅
 2011年秋祭の直角チョーサ  丁(3分あたりから)

 

 

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