●戦国末期から江戸時代草創期の建築と庭
戦国末期から江戸時代草創期に作られた名建築や名庭。桂離宮、修学院離宮、二条城、日光東照宮などなど。小堀遠州や左甚五郎らが腕を振るい、世界遺産級の作品を次々と作り出した時代と言えます。
日光東照宮などの徳川家関係の神社や寺院は徳川幕府の宗教的都市計画のブレーンとされた南光坊天海により、北極星や鬼門の方角を意識して作られたと言います。
今回、取り上げるのは天台宗・南光坊天海に並び立つが幕府のブレーン、真言宗・以心崇伝の本拠地であった金地院です。
●不死の繁栄を祈る庭
金地院は京都市東山の蹴上駅近く南禅寺そばにある寺院です。
本堂は1627年、東照宮は1628年に建立されています。また、お茶室の八窓席も1628年までには建立されていたようです。
・東照宮
寺院内の神社だけあり、今も本殿中央に掛け佛が掛けられています。薬瓶をもった薬師如来とおもわれます。
●宮元健次氏の同時代の建築研究
戦国末期から江戸初期の作品を研究する中で、新たなしてんを提供した方が建築士であり、日本建築や庭の研究者である宮元健次先生です。等比数列で奥に行くほどせまくなる柱間や、先しぼみの空間による奥行きの演出、ビスタの手法、カラフルな内装など西洋的手法の発見もその大きな功績の一つです。
では、金地院内部に見られた西洋的手法や、キリシタン的だと思われるものを見ていきましょう。
・鶴と亀、そして常緑
上の写真が金地院の方丈です。右側が鶴、左側が亀を表す岩だそうです。「鶴千年、亀万年」のとおり、徳川家が永遠に繁栄することを願ってのモチーフだそうです。そして、その意図に沿って四季を反映する枯れたり咲いたりする植物ではなく、常に緑色のものを選んで植えられています。「常に栄えるもの」を選ぶところは、西洋的とも言えそうに思います。
・織部灯篭
この時代によく見られる灯篭で下部が十字架になっており、マリア像などが下部に彫られているのもあり、別名キリシタン灯篭ともいわれています。桂離宮などにも見られる灯篭で、茶人古田織部が考案し、幕府お抱え庭師の小堀遠州が好んでいだとも言われています。この灯篭にはマリア像は見えませんが、ほんのり十字形をしています。
・障子の取手と、柱の十字架
ここからは、眉唾物の話をします。八窓茶室を擁する書院についてです。
上の写真は長谷川等伯「老松図」の絵葉書です。取手が十字架に見えます。 長谷川等伯筆「猿猴捉月図」や「老松図」が描かれた障子の取手は十字架ともいえる文様をしています。
絵葉書の写真の中心の柱は上にも伸びており、さながら十字架のようでした。この十字架が部屋の出入り口を二分していましたが、どちらの戸から向こう側に行っても同じ部屋に行きます。部屋を十字架で半分に割る作り方はあまり日本では見られない。。。はずです。
●金地院の西洋的、キリスト教的手法
いくつか見られましたが、だからといって「崇伝がキリシタンだった!」とは言う気はありません。ですが、幕府による禁教後はすでに、その手法は先駆的な文化としてこれまた幕府に近いものほど浸透していたことを金地院は教えてくれているのかもしれません。
●編集後記
金地院や江戸時代草創期の建築については管理人か学生の頃に学んだ思い出深い題材です。久しぶりにこの時代の建築に触れるとその美しさに惚れ惚れしました。
タレントのローラさんが、辺野古基地移設反対の署名で干される危機にあるそう。メディアによっては「政治的活動」がマイナスになると言っていますが、それは事実と異なります。現政権に反対する活動がマイナスになるだけです。
「正しくても為政者と反対の者はしょっ引かれ干される。人殺しでも為政者に追随する者は優遇され、無罪放免される。」歴史・社会とやらを学ぶのであれば、押さえておきたい原理原則です。この原理を無視する人は、歴史家ではなく、映画監督や小説家に向いている人といえ、その代表格が石原慎太郎氏や百田氏となります。
戦国末期から江戸時代草創期に作られた名建築や名庭。桂離宮、修学院離宮、二条城、日光東照宮などなど。小堀遠州や左甚五郎らが腕を振るい、世界遺産級の作品を次々と作り出した時代と言えます。
日光東照宮などの徳川家関係の神社や寺院は徳川幕府の宗教的都市計画のブレーンとされた南光坊天海により、北極星や鬼門の方角を意識して作られたと言います。
今回、取り上げるのは天台宗・南光坊天海に並び立つが幕府のブレーン、真言宗・以心崇伝の本拠地であった金地院です。
●不死の繁栄を祈る庭
金地院は京都市東山の蹴上駅近く南禅寺そばにある寺院です。
本堂は1627年、東照宮は1628年に建立されています。また、お茶室の八窓席も1628年までには建立されていたようです。
・東照宮
寺院内の神社だけあり、今も本殿中央に掛け佛が掛けられています。薬瓶をもった薬師如来とおもわれます。
●宮元健次氏の同時代の建築研究
戦国末期から江戸初期の作品を研究する中で、新たなしてんを提供した方が建築士であり、日本建築や庭の研究者である宮元健次先生です。等比数列で奥に行くほどせまくなる柱間や、先しぼみの空間による奥行きの演出、ビスタの手法、カラフルな内装など西洋的手法の発見もその大きな功績の一つです。
では、金地院内部に見られた西洋的手法や、キリシタン的だと思われるものを見ていきましょう。
・鶴と亀、そして常緑
上の写真が金地院の方丈です。右側が鶴、左側が亀を表す岩だそうです。「鶴千年、亀万年」のとおり、徳川家が永遠に繁栄することを願ってのモチーフだそうです。そして、その意図に沿って四季を反映する枯れたり咲いたりする植物ではなく、常に緑色のものを選んで植えられています。「常に栄えるもの」を選ぶところは、西洋的とも言えそうに思います。
・織部灯篭
この時代によく見られる灯篭で下部が十字架になっており、マリア像などが下部に彫られているのもあり、別名キリシタン灯篭ともいわれています。桂離宮などにも見られる灯篭で、茶人古田織部が考案し、幕府お抱え庭師の小堀遠州が好んでいだとも言われています。この灯篭にはマリア像は見えませんが、ほんのり十字形をしています。
・障子の取手と、柱の十字架
ここからは、眉唾物の話をします。八窓茶室を擁する書院についてです。
上の写真は長谷川等伯「老松図」の絵葉書です。取手が十字架に見えます。 長谷川等伯筆「猿猴捉月図」や「老松図」が描かれた障子の取手は十字架ともいえる文様をしています。
絵葉書の写真の中心の柱は上にも伸びており、さながら十字架のようでした。この十字架が部屋の出入り口を二分していましたが、どちらの戸から向こう側に行っても同じ部屋に行きます。部屋を十字架で半分に割る作り方はあまり日本では見られない。。。はずです。
●金地院の西洋的、キリスト教的手法
いくつか見られましたが、だからといって「崇伝がキリシタンだった!」とは言う気はありません。ですが、幕府による禁教後はすでに、その手法は先駆的な文化としてこれまた幕府に近いものほど浸透していたことを金地院は教えてくれているのかもしれません。
●編集後記
金地院や江戸時代草創期の建築については管理人か学生の頃に学んだ思い出深い題材です。久しぶりにこの時代の建築に触れるとその美しさに惚れ惚れしました。
タレントのローラさんが、辺野古基地移設反対の署名で干される危機にあるそう。メディアによっては「政治的活動」がマイナスになると言っていますが、それは事実と異なります。現政権に反対する活動がマイナスになるだけです。
「正しくても為政者と反対の者はしょっ引かれ干される。人殺しでも為政者に追随する者は優遇され、無罪放免される。」歴史・社会とやらを学ぶのであれば、押さえておきたい原理原則です。この原理を無視する人は、歴史家ではなく、映画監督や小説家に向いている人といえ、その代表格が石原慎太郎氏や百田氏となります。