月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

314.東這田の昭和12年の写真から見る三木の屋台スタンダード-令和3年秋月会カレンダーより-(月刊「祭」2020.12月2号)

2020-12-03 17:10:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

昔の写真が使われる令和三年祭カレンダー

 今年の新型コロナ流行に伴い、屋台やだんじりの運行は軒並み中止や自粛となりました。そうなると毎年のように発行される祭カレンダーも、祭がなければ従来のように作れません。しかし、多くの地域では昔の写真を使って例年にはない祭カレンダーが仕上がっています。

 三木の祭も例外ではなく、渡辺写真店は大宮八幡宮、岩壺神社の卓上カレンダーを、そして、今回取り扱う秋月会製作の三木市内屋台カレンダーも好評をはくしています。そして、昔の写真を眺めると、様々なことに気づかされます。今回は秋月会カレンダーから見えてきた昔の「三木屋台スタンダード」を見ていきます。

 

現在の三木スタンダード

他地域のたくし上げられる水引幕と子どもの太鼓打ち

 他地域のものを見ると、幕をたくし上げ、姫路などに分布する灘型の神輿屋根屋台などを除いては、太鼓を子どもが打っているのが分かります(写真①②③)。

 

↑①三田市三田天満宮の太鼓台 

 

↑②大阪市杭全神社のふとん太鼓

↑③神戸市北区淡河八幡宮の稽古屋台。本番の屋台でもたくし上げた水引幕、子どもが太鼓を打つのはかわらない。

 

淡路・四国・三木・明石の下ろされた水引幕

 一方で現在の三木市の屋台は水引幕を下ろし、太鼓打は外から見えません。これは、淡路島、四国、明石と同様で、水引幕の刺繍が厚くなったことにより、その披露が優先されたためだと思われます。

 


↑淡路島由良神社中町だんじり

 

 これは、秋月会や渡辺写真店のカレンダーの昔の写真をみてもほとんど変わっていません。しかし、例外が一枚だけありました。

 


↑現在の三木市禰御門神社大村屋台(写真は大宮八幡宮に宮入した時のもの)

 

 

東這田屋台の太鼓打ちらしき子どもの姿

 その例外が、秋月会カレンダーの昭和十二年の東這田屋台です。

 
しょう。

 

 

 

↑秋月会カレンダー。赤い四角が昭和十二年の東這田屋台。

 

 下ろされた水引幕の屋台とともに写っているのは、イラストのような子どもです。おそらくこれは、他地域の太鼓打の子どもと共通しており、戦前の東這田ではこのような装いの子供たちが太鼓を打っていたと思われます。


↑カレンダーにはこのような太鼓打ちと思われる子どもが、6人うつっている。

 

 東這田は昭和三年に大改修を経ているので、それ以前はこの太鼓打の子たちが見えるように、水引幕もたくし上げていた可能性があります。また、昭和三年に新調された水引幕も新調当初はたくし上げていた可能性が高いと思われます。

 というのは、下の写真の青矢印の部分は龍などの刺繍が途切れており、そこをたくし上げることができるように作られていたと思われます。



 

 さて、東這田屋台はかつては大宮八幡宮の祭礼にも明治期は参加していたようです(「明治初年の三木町」『三木市談(何号か分かりません、調べてまた書きます)』)。全ての屋根が平屋根屋台で東這田だけ幕をたくし上げていたとは考えにくく、やはり、もとは三木の屋台も水引幕をたくし上げ、子どもが太鼓を打ってい打可能性が高いと言えるでしょう。
 
編集後記
 屋台研究の萌芽はプロの研究者ではなく、地域の祭好きたちによってなされてきました。三木市内では、幸祭会、横山氏、ナメラコゾウ氏、そして、今回あげる秋月会が大きな成果をあげてきました。
 近年、ようやく学者たちの注目を集めるようになってきていますが、その礎は間違いなく、地域の祭好きたちの研究によって築かれたものです。
 
 
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313.担ぎ棒悲喜交交(ひきこもごも)(月刊「祭」2020.12月1号)

2020-12-03 08:42:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●祭を左右する棒
 屋台を愛でるだけならば、棒は関係ありません。しかし、我々は屋台を担いだり押したり引いたりすることで屋台を動かします。民俗学的には些末な問題だとのことですが、祭関係者にとっては死活問題なのが、担ぎ棒です。今回は担ぎ棒に関するエピソードを紹介したいとおもいます。
 
●三木スタイルの担ぎ棒
 
 明石市の屋台は、三木市のものより担ぎ棒が短いものが多く、上の映像のように落としやすいものになっています。逆に迫力ある激しい揺れが魅力とも言えるでしょう。
 一方、三木の屋台は大宮八幡宮を中心にアヨイヤサーのリズムで長い距離を担ぎます。しかもマイナーチェンジで屋台自体が大型化しているので、棒は長くなってきました。さらに、かつては斜めに持たれるように担いでいたのが、ここ20年で真っ直ぐに立つように意識づけられてきており、それに伴って前後先端の背の高い人も担げるような「しなり」のある棒が求められるようになってきました。
 
 
三木市大宮八幡宮の屋台の差し上下の様子。
棒が先端に行くほど細く削られている。
 
 
 
●明石町
明石町檜(ひのき)棒の時代
 2005年頃、屋台倉の改修にあわせて明石町屋台は担ぎ棒も替えることになりました。素材は高級木材の檜。太さは従来のものより2センチほど太いものでした。屋台倉を改修、そして棒も取り替えて新しい明石町は再出発!
 と思ったのですが、硬い檜では棒がしなりません。しかも、+2センチの太さがそれに拍車をかけます。そうなると背の高い人が背筋を伸ばして担ぐことができず、一度傾いたら再び上がることは困難になってしまいました。
 そこで2009年に担ぎ棒を削りました。先端部分が1センチか2センチほど直径が小さくなりました。それだけで、「しなり」が出て来て随分と担ぎやすくなったことを覚えています。
 
大改修に伴い棒も杉に
 結局2011年、刺繍、金具、欄干の大改修に伴って棒も杉製に戻しました。また、太さも2005年の失敗を繰り返さないよう、削ったあとの太さくらいにしました。改修の勢いと、物理的な担ぎやすさが相まって、近年は元気な明石町屋台になってきています。
 
 
 
 
下町
三木に生まれた播州最大級
 播州でも最大級の屋台として知られているのが、ゴンタ太鼓としても知られている下町屋台です。モンスターとも言える巨大な姿になったのは、2007年くらいだったでしょうか。石段ではげしく落とす姿が、大宮八幡宮の祭の名物となってきました。
 
た。
 
洗練された最大級
 とはいうものの、宮入や宮出に30分かかるので、様々な改善がなされます。その中で最も見事だったのが指揮系統。荒くれたちを的確かつわかりやすく堂々と指示する様子は目を見張るものがあります。教育関係者必見です。
 そして、今回の主題である棒。当初は横棒を一本増やして押し上げるという方法をとっていましたが、なかなかうまくいっていなかったようです。
 しかし、近年驚異的な速さで下町が宮の上に姿を表すようになりました。下町より先に宮入りする明石町屋台に着いている管理人は、ここ近年、「シモもう上がってきたんや」という声を毎年聞いています。聞くところによると、棒を細く削って随分担ぎやすくなったとのことです。
 

↑早く宮入するようになった下町(左端)は、明石町(右端)と一緒に担ぐことも多くなった。

 
●担ぎやすい屋台の秘密
 よく聞くのが、岩壺神社の滑原屋台の担ぎやすさです。棒がよくしなり、見た目の割には担ぎやすくなっています。
 さぞかし高級の杉を使っているのかと思いきや。。。
 間伐材を譲り受けたもの(お礼としてあくらかはお渡ししたそうです)を使っているそうです。この棒がよくしなり、担ぎ手に評判のいい棒になっています。「高ければいい」ということではないのが、担ぎ棒の奥深さになっています。


 
 
 
 
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