月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

琵琶湖 -文明開化がもたらした正負の遺産-

2019-01-14 10:04:31 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり



 琵琶湖。
 かつて天智天皇は湖が見える大津に都を気づきました。
 淡水の海ということで、淡海(あわうみ→おうみ)と呼ばれ、琵琶湖周辺の地方を都に近い水辺ということで、近江と書かれるようになりました。

 日本史でたびたび登場した比叡山延暦寺もこの湖を望み、比叡山の麓・日吉大社の祭礼では御神輿が琵琶湖を渡ります。その都の傍の湖は、様々な物資の運搬、交通の要所として注目されました。また、ムカデのところでも述べたように、近畿の水がめとしての役割もにないました。そして、鮒やシジミ、鮎、モロコ等、その豊富な水産資源が日本の食文化の形成に一役買ったことも否めないでしょう。 

 このように大きな影響を日本史に及ぼし続けた琵琶湖も、幕末から明治にかけての文明開化に始まる西洋文化の導入の影響を受けることになりました。
 滋賀県人なら誰もが知っている「琵琶湖就航の歌」。第三高等学校(後の京都大学)在学中の小口太郎が作詞、吉田千秋が作曲をしました。琵琶湖の名所を巡る情緒あふれる小口の詩につけた、吉田の曲はどういったものだったのでしょうか? 
  この曲は、もともと英国の「ひつじ草」という詩に吉田が曲をつけたものがはじめだったそうです。この「ひつじ草」、ハイカラな第三高等学校生の間で流行りました。英国の詩からインスピレーションを受けてつくられた吉田の曲で、歴史豊かな琵琶湖を情緒的に巡る小口の詩が歌われ、「琵琶湖就航の歌」は完成しました。「琵琶湖周航の歌」は、歴史豊かな琵琶湖とハイカラさんとの出会いがもたらした、歌ということができるでしょう。
 この歌は、文明開化が琵琶湖にもたらした正の遺産ということになります。

 では、文明開化が琵琶湖にもたらした負の遺産とは何になるのでしょうか?
 それは、1925年、赤星鉄馬が箱根の芦ノ湖に持ち込んだブラックバスです。魚食性かつ天敵のいない琵琶湖において、ブラックバスは爆発的にふえ、固有種を駆逐していってしまったのです。
 美しく歴史豊かな琵琶湖をハイカラなセンスで歌った時代、実は、それらの破壊もまた始まっていたのかもしれません。

2006年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。

                   
                                                   


人とナメクジは同じ仲間?

2019-01-14 10:02:51 | 祭と民俗の旅復刻版 町のつくり

理科で習いましたね?
 ヒトことホモ・サピエンスは何類だったでしょうか?
 えー、体温はほぼ一定であり、胎生、母乳で子供を育てる、体毛があるので、哺乳類となります。他には、犬、猫、豚、馬、像、イルカから蝙蝠、ライオン、鹿etc... これは生物学上の分類となります。
 しかし、日本や中国が使い続けてきた東洋の科学・陰陽五行道においては、ヒトは少し違う位置におかれていました。
 陰陽五行道とは、万物・事柄を陰陽と五行に当てはめていくものの考え方です。
 丁寧に説明するといつまでたっても終わらないので、陰陽についてはここでは省略します。

 「五行」とは世界を構成する「木」「火」「土」「金」「水」の五元素のことです。その五行にはそれぞれ、下のように方角、色、などが割り当てられました。この原理は、平安京の選地にも用いられました。東・木・蒼龍(賀茂川)、南・火・朱雀(小椋池)、西・金・白虎(山陽道)、北・玄武(北山)とこんなかんじです。そうなると、中心の町にいる人間は「土」の象徴となります。

 さて、五行思想には、蒼龍、朱雀、白虎、玄武の四聖獣だけでなく、その他の生物も、四聖獣をその一族の筆頭としてその特徴ごとに分類されていました。
 蒼龍を筆頭とする鱗蟲とよばれる動物は、鱗を持つ動物で各種魚、蛇などがこれに属します。朱雀を筆頭とする羽蟲は、羽を持つ動物で、各種鳥類・蝙蝠などがこれにふくまれます。玄武を筆頭とする甲蟲は、甲羅を持つ動物で、エビなどの甲殻類、カタツムリなどが属します。そして、白虎を筆頭とする毛蟲は、毛をもつ動物で犬や猫など哺乳類の多くと、毛虫が含まれます。

 ところが、毛蟲にはヒトは含まれないのです。それは、ヒトが、玄武・朱雀・白虎・蒼龍に囲まれた「都」という中心に住む裸蟲の長であるからです。
 裸蟲とはその名のごとく、裸の動物であり、毛も羽も鱗も甲羅もない動物のことです。その長が体毛の退化した人間なのです。そして、それにふくまれるのは、、、、ナメクジ、ヒトデ、ミミズ、、、、、。

 人間なんてララーラーララララーラー♪ こんなものなんですね(--;

 

l            

五行

 金 

方角

西

聖獣

蒼龍

朱雀(鳳凰)

白虎

玄武(亀)

鱗蟲

羽蟲

裸蟲

毛蟲

甲蟲

          
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京都版・信長コード-信長コードの奥にある日本-

2019-01-14 09:55:43 | 祭と民俗の旅復刻版 社寺考

 

 

何日か前に、TBS系の番組で「信長コード」という名の番組が放映された。
 番組の主な内容は、
 1 信長暗殺の首謀者は室町幕府と朝廷の権威復活を望む公家さんだったこと
 2 秀吉は、光秀の信長暗殺後、光秀を裏切り討ち取ったこと
 3 信長は、安土城において神道、キリスト教、佛教あらゆる神の中心に自らをおいたこと。
 4 信長は、御所前を牙体で駆け巡ることで、朝廷を威嚇したこと。
 5 安土城の絵が、バチカンのどこかにあるらしいこと。
 である。

 この中で目を引くのが信長の神に対する考えである。
 3,4から、信長は、天皇・神をも恐れぬ態度をとっていたことが分かる。
 そして、その断片は、京の都における信長の信仰にも現れているのである。

 都が都たるゆえんは、現人神たる天皇がそこに住むからである。
 その住居は内裏と呼ばれ、都の碁盤の目の一番北側の東西を二分するところに置かれた。その配置は天皇が天皇大帝、つまり、不動の天体である北極星を意味することに由来する。
 平安京の造営は、その内裏にふさわしい位置を決めることから始まった。北極星の神を地上におろさんがために、形の整った神備山を内裏の背にしたい。そこで、その神備山としての役目を果たすことになったのが、船岡山である。
 現在船岡山に位置するのは、織田信長を祭る健勲(たけいさお)神社である。これは、明治天皇によって創建されたのでその歴史は古くない。その船岡山は、かつては今宮神社の御霊会の会場であったのである。では、その御霊会において祀られる神、天皇を見下ろす位置、臣民が天皇に拝礼した際に仰ぎ見るより、大きな存在となるのは誰なのだろうか。
 その神こそが、天皇家に国家の主権を譲り渡した一族である、祇園社にも祀られる牛頭天王・須佐之鳴尊であり、大国主命である。そして、明治より前までは、テンノウといえば、天皇家ではなく、牛頭天王・須佐之鳴尊を意味することの方が一般的であった。牛頭天王・須佐之鳴尊や大国主命は、天皇家に国をのっとられたかつての首長の象徴であり、それは怨霊となり、度々、朝廷の頭を悩ませることになった。さらに、貴族同士の権力争いや各地での叛乱の鎮圧により、菅原道真や平将門などの新たなる怨霊が加わっていった。
 天皇は北極星の地位を付与されたとはいえ、真の意味では北極星になれなかったのかもしれない。結局は、北斗や北極星に真の意味でなりえたのは、彼らまつろわぬ神だったといえるだろう。
 
 この祇園牛頭天王こそが、信長が最も信仰する神だった。祇園社・八坂神社の神紋にも織田家の家紋である五つ木瓜が加えられた。これは、何を意味しているのだろうか。信長は、皇室の天照大神の血ではなく、真の意味での北極星である牛頭天王・須佐之鳴尊の血を欲したのではないだろうか。
 だからこそ、自らの家紋を祇園社の神紋に付け加えたのだろう。
2001-2007年頃ジオシティーズウェブページ「町のつくり」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
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琵琶湖・沖島の神社と白鬚神社の研究

2019-01-14 09:52:21 | 祭と民俗の旅復刻版 社寺考

 

 

 はじめに

 このページは、管理人・山田貴生の滋賀県近江八幡市のラジオ局・B-WAVEでのゲスト出演に際してつくったものです。内容は、かねてから研究していた沖島と白鬚神社の関係についての中間報告となっていますが、時間がない中での突貫工事的なレポート作成により、誤字脱字・事実誤認など、多々の不備があるかと思いますが何卒ご容赦くださいますようよろしくお願い申し上げます。ただ、大筋の内容に関しましては、琵琶湖、及び日本を巡る宗教文化の研究に一石を投じるかもしれない(?)と、期待しています。

 その真偽はともあれ、内容的には、そこそこ面白いものになっているかと思いますので、最後までお付き合いしていただくと幸いです。

 後々、写真などをアップしていくので、末永くよろしくお願いしますね。

 この文章より後は、「である調」に変わります。

 ほぼ文章の書き終わりに際して・白鬚神社から島町の奥津島神社にかけての直線は、他にも考えている人がいることが分かりました。(TT;

 

沖島の神 

1 信仰の島・沖島

 日本最大の湖である琵琶湖。この湖は古来より、平安、奈良、大津の都と東国を結ぶ交通の要所として重視されてきた。その琵琶湖には多景島や竹生島等の景勝の地として名高い湖島を擁する。そして、本論の主題の一つとなる日本で唯一つの人が住む湖島・沖島もまた琵琶湖に浮かんでいる。

 沖島はもともと無人の島であり、その当時から神の宿る島として人々の信仰の対象ともなっており、歌人たちがその威容を称えてきた。かつては、奥島、おいつ島などと呼ばれていたようである。

 また、「神の島」の名残は、奥津嶋神社の社殿がその存在を伝えている。

社殿にいわく、奥津嶋神社は延喜式神名帳に記載された、いわゆる式内社であり、福岡県の宗像大社に鎮座する、多紀理姫神を祀っているという*1。

では、式内社でもある奥津嶋神社とは、いかなる伝承をもつ神社なのだろうか。

 

*1 奥津嶋神社案内板、『大嶋神鎮座記』、『近江国與地志略』

 

2 大嶋神鎮座記に残る伝承と、陸の奥津嶋神社

  奥津嶋神社の鎮座伝承として残っているのが、『大嶋神鎮座記』である。残念ながら、この記録は途中までしか残存していないという。少し長くなるが、非常に興味深い記述であるので、奥島に鎮座するまでの部分を揚げておく。

 

 大嶋神□<□内はおそらく「社」の字が入ると思われる。>

 あわうみのくに①津田の庄にいつきまつ□(る)御神ハ②大國主の御神、多□比米の御神、③奥□(津)島姫の御神、事代主の御神たちなり、このく□(に)津田の庄にとしふるくすみ<歳古く住み>、①しらひけ(白鬚)の御□(神)の御すへなりとて、いのちもなかさ(「き」か)おきな(翁)ありて、川わ得のつちいしといへる②いは(巌)のうへにて、つり(釣)りてあそふ事をすきたりしか、ある夜はるか□④(き)たのか□(た)をくしま(奥島)の杉のはやしにひかりかゝ□(や)けるを見たり、おうな(嫗)<「おきな(翁)」が「おうな(嫗)」に変わっているが、文脈上判断すると、「おきな」が正しいと思われる。>あやしと思ひ、あし原を□(か)きわけてひかりをたすねさくるに、けたかきい□(く)たりもの神、杉の木末にいまして、⑤われハむなかたの主なり、このミつうみ(湖)のけしきよく□をりく<同音附。「をり」を繰り返して「をりをり」と読む>遊ひたりしに、いまはか□るましとのたまい(宣)しゆへ、おうなをほいによろこ(喜)ひ、かなたこなたとよきところをもとめ、いつきたりしにのちに□□<「をく」の字が入ると思われる。>しまの宮の神とはなれり

 

 注()は、『大嶋神鎮座記』を所収している『神道大系 近江国編』につけられていたもの。<>、○数字、色付けは、管理人。

 

ここでは、赤字の○数字の箇所について考察していく。

①津田の庄というのは琵琶湖上の沖島ではなく、琵琶湖沿岸・近江八幡市の島町(津田のすぐ隣)に位置する神社も奥津嶋神社とよばれており、これを指すものと考えられる。そこに挙げられている②大国主の神は、奥島に鎮座しているとされる多紀理姫神を妻にする。この多紀理姫神は、後に④きたのかたをくしま(島町の奥津島神社の北方にある沖島のこと)鎮座するとされる⑤むなかたのあるじ・三女神の中、宗像・沖の島に鎮座する長女の神である。『嶋神鎮座記』という名称を考えると、もしかしたら、むなかたのあるじは、後述する宗像・大島に鎮座する湍津姫神なのかもしれない。

島町の奥津島神社は大嶋神社ともよばれているが*2、大嶋は宗像三女神の中の次女の湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋を現すと考えられ、神名帳に記載されている奥津島神社と大嶋神社は異名同体的な性質を持っていると考えてられよう。となると、②大国主の神と並んで記載されている③奥津島姫神というのは宗像・沖の島に鎮座する多紀理姫ととらえることもできよう。

むなかたのあるじが、果たして長女の多紀理姫神をあらわすのか湍津姫神の神をあらわすのかは分からない。ただ、島町の大嶋神社・奥津島神社と沖島の奥津島神社という、宗像系の神が琵琶湖にも鎮座した伝承が残っているということが伺える。また、宗像の女神は航海の安全を司る神でもあり、同じく航海の安全が渇望された琵琶湖に勧請されたのも意味があることといえるだろう。

 

3 宗像・三女神の描く直線

 前述した宗像の姫神は、記紀神話に記されている三姉妹の神である。この宗像三女神は、素戔鳴尊の剣を噛み砕き、天照大神が息を吹きかけたことにより生まれた女神である。その中の長女・多紀理姫神は沖の島に、湍津姫神は大島に、市杵島姫神は九州本土の辺津宮に鎮座した。

 朝鮮半島に面した海に位置する港と島に位置した、三女神の使命は、皇孫を鎮護することという。また、航海の安全を司る道主の貫の神であったことも伺える。

 この宗像三女神が位置する沖の島、大島、辺津宮は一直線に並んでいる。また、辺津宮はまっすぐと北西の大島とその向こうの沖の島の方向を向いているのである。このことを考えると、三女神の神社により、まっすぐのラインをつくる作業が古代の人によって行われていたことが伺える。


大島に位置する宗像大社の湍津宮 湍津姫神を祀る。

 
 宗像大社辺津宮 市杵島姫神を祀る。

  

4 琵琶湖にも描かれる直線

 前述の通り、宗像三女神は、その本拠地・宗像の地において、北西から南東にかけて一直線に並んでいる。では、その「むなかたのあるじ」を勧請した沖島の奥津島神社と、島町の奥津島神社・大島神社の位置関係はどのようになっているのだろうか。

 地図のように、二つの神社は宗像の例と同様に、真北より少し西の方角から、真南より少し東の方角にかけての直線を形成している。その直線が意図的なものであることを示すかのように、沖島の奥津島神社は、真南より少し東の方角に位置する島町の奥津島神社を向いているのである。

 この位置関係からも、琵琶湖の安全を司る神としての性質をもつ宗像の神が、琵琶湖沿岸にも鎮座しているということが伺える。

 そして、この直線はさらに奥まで続いていたのである。

 

白鬚の神

これより『大嶋神鎮座記』につけた○数字は、特に指定がない限り青文字をさすものとする。

1 奥津嶋神社ライン延長線上の神・白鬚 –釣りの後の鎮座-

 二つの奥津島神社が成す直線を沖島からさらに延ばすと、高島郡の白鬚神社に突き当たる。

 白鬚神と同体とされる猿田彦神も、道中安全の神とされることから、ここも宗像の神と共通する。

 この白鬚神社は、近江の厳島と呼ばれるように水中鳥居が名物となっている。この白鬚神社の社殿と水中鳥居もまた、沖島の方向を向いており、二つの奥津島神社及び、大嶋神社の直線を意識したものと考えることができよう。二つの奥津島神社・大嶋神社の鎮座に関わったのが、「①しらひけ(白鬚)の御□(神)の御すへ」であるということからもわかる。

ところで、「①しらひけ(白鬚)の御□(神)の御すへ」が、宗像の神が奥島に鎮座する際にしていたことは、「②いは(巌)のうへにて、つり(釣)りてあそふ事」である。そして、白鬚明神自身が現在の地に鎮座する際にしていたことも、『白鬚神社縁起』によれば、「釣りをたれあそひたまふ」ことである。何れも鎮座の予兆としての釣りが行われるところが興味深い。

ただ、宗像神の沖島への鎮座は、白鬚神の子孫が釣り糸をたれた後におきたことであるから、白鬚神の鎮座より後のことになる。宗像神は巫女的な性質も持つ神であることを併せて考えると、宗像神の沖島への鎮座は、白鬚神の末裔が祖先神である白鬚神を祭るために行われたものであると考えることができる。

  

2 白鬚と水尾

 島町の奥津島神社から白鬚神社までの直線をさらに延ばすと、今度は水尾神社にいきつく。

 水尾神社の祭神は、一説に猿田彦神*3といわれており、猿田彦神と同体とされる白鬚神と共通する。また白鬚神社近くの長谷寺の「長谷寺縁起絵巻」において、本尊である観音像を刻む依木を運ぶ際にそれを守護するのは、白鬚の老翁(三尾明神)である*4。さらにその依木は、水尾神社を擁する三尾山の木であるという。三尾山から水尾神社の境内を通り琵琶湖にかけて、水尾川という川が流れていたという。この川を隔てて、水尾神社は河南の社と河北の社に分かれていた*5。このように、水尾神社は、長谷寺を介しても白鬚神社との結びつきが非常に強くなってくることがわかる。


宗像湍津宮の織女社。


 宗像湍津宮横の牽牛社。

*3 『近江国與地志略』による。社伝では磐衝別命となっている。

*4 大和巌雄「志呂志神社・白鬚神社 –白神信仰と秦氏-」『秦氏の研究』(大和書房)1993

*5 『近江国與地志略』

 

3 福岡県宗像大島の七夕を髣髴とさせる水尾神社

水尾神社の祭神は猿田彦神とされているということを前述したが、これは、水尾川を隔てた河南の社に鎮座していた。一方、河北の社には猿田彦神の妻である天細女神が鎮座していたという*6。

川を隔てた夫妻で連想するのが、天の川で隔てられた牽牛と織女の七夕信仰である。

水尾・白鬚を奉祭していると考えられる沖島と島町の宗像神の本場・宗像大島の地において、七夕の信仰が見られる。宗像の大島に鎮座する宗像大社湍津宮内に織女宮が位置し、境内を流れる小川を挟んで川の向こうに牽牛宮が位置するのである。

水尾神社における川を隔てた夫婦の位置関係は、宗像の七夕信仰を髣髴とさせる。

そして、島町において奥津島神社だけでなく、大島神社の名ももつのは、宗像において川を隔てた夫婦の位置関係がつくられた七夕信仰が大島においても、水尾神社同様に行われていたからなのだろう。

 

*6 *5に同じ。

結論

 島町の大島神社・奥津島神社から、沖島の奥津島神社、そして白鬚神社、水尾神社と一直線に並んでいた。また、島町の大島神社・奥津島神社、沖島の奥津島神社は、白鬚神の末裔が釣り糸をたれたことに鎮座していることから、白鬚神を祭る巫女としての役割を宗像の神に託して両神社に鎮座していると考えられる。さらに、それを示すかのように、宗像の大島と同様に、七夕を模した河を隔てた夫婦の神殿の配置を髣髴とさせる配置が水尾神社で行われていた。 

 

番外1:白鬚と新羅

 大和巌雄氏によると、白鬚はシラキに通じる名前という。つまりは、白鬚神は渡来系の神であると考えられている。詳細は半月城氏のサイトにて。

 

番外2:福岡県宗像神が崇める神 

 滋賀の宗像神の直線は白鬚にいきついた。では、沖の島はどうなるのだろうか。

 『日本書紀』の一書において素戔鳴尊が天下ったとされるソシモリの山の候補地・伽耶山(古くは牛頭山)に行き着く。

琵琶湖の例にしろ、宗像の例にしろ、皇孫をいつき祭るはずの宗像神が半島系の神を祀るかのように位置しているのは興味深い。また、上で挙げた『大嶋神鎮座記』において、奥島の神は帝を遠慮なく病に伏せさせる。

 参考文献・金道允「伽耶から出雲まで」(島根県日韓親善協会連)1995 

 

番外3:京の都・内裏の上の紫野の山、出雲・上のスサノオと下のアマテラス

 京の都において北極星たる天皇は、都の東西の中心・北側に自らを北極星にみたてて内裏を構えていた。そして、その裏に位置するのが、紫野の山。ここに祀られていたのが、牛頭天王、あるいは大国主の命といわれている。北極星たる天皇の地に何故、皇統からはずれたものが祀られたのかに疑問が残る。

また、ソシモリ山候補の伽耶山と関係が深い出雲の地においても、多くの神社が上宮に素戔鳴尊、下宮に天照大神を祀っている。記紀神話の皇祖神天照大神と皇統から外れた素戔鳴尊の序列が逆さまになる現象は、何ゆえなのだろうか?

 
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-リンク-

  本ページ管理人は、気に入らない人間を「テロリスト」として逮捕できる共謀罪に断固反対します。
 巷で「世紀の悪法」と呼ばれる法律について。
  
 B-WAVE 79.1FM
  
管理人が出演した滋賀県近江八幡市のFMラジオ局。月曜日5時からの<僕らの町暮らし>というコーナーに出演。

 半月城通信
  半月城さんのサイト。日韓史の膨大な歴史コラム。

 
宮澤賢治 「やまなし」 の研究  
  本ページの兄弟ページ。アイヌ語による、クラムボン、イサド、かぷかぷ、「私の青い幻燈」の考察。
                             
                         
                     
      
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牛頭馬頭

2019-01-13 17:37:18 | 祭と民俗の旅復刻版 伝説をめぐる

牛頭馬頭

  牛の頭に人間の体をもつ変化の者。馬の頭に人間の体を持つ変化の者。この二人?二匹?いったい何者なのでしょうか?

 この方達は「体は名を表す(本当は「名は体を表す」)」ということで、牛の頭の方が牛頭(ごず)、馬の頭の方が馬頭(めず)です。
 この方たちは一体何をする人なのでしょうか?
 この方達、実は地獄の住人です。例えば、「十王経」という地獄に落ちた者を断罪する十人の王(五番目は閻魔様!)について書かれたお経の、二番目の王、初江王の段にはこうあります。

 「牛頭は肩に棒を挟み、馬頭は叉(武器の一種)を擎(ささ)げる。(現世で)牛を苦しめ、牛を食べていたならば牛頭が多くやって来るし、馬に乗って、馬を苦しめていたならば馬頭が多くやってくる。」

 また、10世紀半ばに比叡山延暦寺の僧・源信が書いた「往生要集」には、

 「牛頭馬頭等の獄卒は、手に責め道具を持ち、地獄に落ちたものを山の間に追いやる。そうすると双方の山の距離がどんどん縮まり、やがて合わさる。間に入っていた者たちの体は砕け、血は流れて地を満たす。」

 恐ろしいですね。。。。そうです。この方達は地獄の鬼の一種と考えていいでしょう。
 
 さて、では何故地獄に、こういった牛頭馬頭がいると考えられるようになったのでしょうか?
 それは、上の十王経にヒントが隠されています。動物、特に牛や馬は人にコキ使われて一生を終える宿命にありました。その中で道教等の古代信仰では、人間の生活になくてはならない牛や馬に神性を認めていました。しかし、それは、生贄という形であらわれていました。牛に敬意を抱くのはいいのですが、殺してしまうのです。
 そうした習慣に疑問を投げかけていたのが、インドから流入した仏教でした。「日本霊異記」という仏教説話集にはこんな話があります。

 聖武太政天皇のころ、摂津の東成郡に住む金持ちの男が、神を祭るため毎年牛一頭を殺した。そのうちに重い病となった。殺生の罪が元だと悟り、その後は放生(捕らわれた動物を自由にしてやること)に勤める。いよいよ死に望んだとき、遺体を九日間は焼くなと妻に言う。
 その男、死んで閻魔庁にやって来た。そこに牛頭人身の者たちが、やって来る。「こいつは俺たちを殺しやがったんだ。今度は俺たちがこいつを切り刻んで刺身にして食ってやる!」
 そうして、切り刻まれようとしたとき、千万人の人間が、「このお方を助けてやってください!」と声を上げた。この声を聞き、閻魔様は、その男に無罪を言い渡す。千万人の人間の正体は、放生した動物達だった。その男はよみがえり、九十余歳まで生きた。その間男は、それまでの漢神信仰(道教)をやめ、仏に仕えて暮らしたという。

 地獄に牛頭馬頭がいるという考え方の背後には、動物達に死を強いる人間の罪悪感があったのです。このような罪悪感が、祇園会の祭神となる牛頭天王となり、祇園会で重要な役割を果たす「馬の頭部」の彫刻を胸にかける久世駒形稚児の元にもなったのではないでしょうか。
 「往生要集」を記した源信の活躍した時代と、祇園会の定例化の時代は共に10世紀末から11世紀初頭になることを考えると、荒唐無稽な説ではないと思います。

 

 

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牛若と鬼若-寺院の位置から考える-

2019-01-13 17:26:49 | 祭と民俗の旅復刻版 伝説をめぐる

 

「鬼」を考える。
 
鬼というとどのようなものを思い浮かべるでしょうか?
 まずは、角が生えている。
 そして、トラ柄のパンツを履いている。
  牙の生えた大きな口などなど。。。。。。
 角の生えた鼻と口の大きな顔は、牛を連想させます。
 となると、鬼は、牛と虎を掛け合わせたものであると考えられるでしょう。
 古来より、東北の方角つまり、丑寅の方角は鬼門とされ、災いのやってくる方角とされました。
 丑寅の方角が鬼門であるから、鬼の姿は牛と虎を掛け合わせたものになったと考えられます。
 
 ところで、京の都の鬼門を護るのが比叡山延暦寺となっています。
 この延暦寺の本尊は薬師如来です。
 その梵語名は、オンコロコロセンダリマトウギソワカ。「センダリ」は最下級とかを意味し、不可触の仏になっています。薬師如来は祇園社の祭神である牛頭天王・スサノオノミコトと習合されていました。皇統からはずれてしまった牛頭天王・スサノオノミコトは御霊信仰の祭神であり、ことあるごとに疫病などをもたらし祟る神とみなされていました。そして、それを鎮めるのに期待されたのが、不可触的身分に陥れられた人たちの加持・祈祷です。
 古代日本における不可触は、差別される身分である一方で、敬い恐れられる存在でもありました。
 しかし、江戸時代・明治を通してその役割は軽視されるようになり、蔑視だけがのこりました。

 このような信仰を背景として行われた「鬼ごっこ」は、タッチする際に差別等を意味する言葉を発しながらタッチする地域もあったそうです。子どものころ何気なく行っていた「鬼ごっこ」。その意味をふりかえる時間もほしいものです。


 

 

義経と弁慶
 
これは、何の絵でしょうか?

 巨大な鯉にまたがったお侍さんが短刀を向けています。この図柄は、日本全国に分布する山車の装飾品や凧の絵によく使われています。これは、「鬼若丸(一説によると坂田金時・金太郎)の鯉退治」の場面です。
 鬼若丸とは武蔵坊弁慶の幼名だそうです。一見大人にも見えるこの男は、実は大きな子供だったのです。

 この鬼若丸、後の弁慶は、子供の頃から比叡山(一説によると兵庫県姫路市の書写山)に預けられてお坊さんになるべくして育てられていたのですが、腕白この上なかったそうです。ある日、川で身の丈八尺(約2.5m)ほどもある鯉が暴れていると聞き短刀で退治したそうです。

 さて、ここからは私の推測の話になります。「鬼・若丸」はやがて弁慶となり、ご存知「牛・若丸」後の源義経の家来になります。この二人は名コンビとして名高いのは周知の通りですが、この二人が「若丸」つながりなのです。
 しかも、「牛」は「丑」で十二支でいう東北の方角に当たります。東北の方角とは、「鬼」門であり、鬼が入ってくる方角とされていました。しかも、平安の都の鬼門を「鬼若丸」の住んでいた比叡山延暦寺が守護していたのです。牛若丸が幼少期をすごした鞍馬寺は都の「丑の方角」に位置します。
 義経の女性のパートナーは静御前ですが、男性のパートナー
弁慶とは都の東北の寺・若丸つながりで結ばれていたのでした。

 


 弁慶と義経の幼名を足した「牛鬼」は、愛媛県の南部一帯では「悪魔祓い」の練り物として祭礼で練り歩いています。
 「牛鬼」の「鬼」である弁慶が化け物を倒すということは、英雄による悪魔祓いを意味しているのでしょう。


     

    ■素人がアイヌ語から見た「クラムボン」■

2001-2007年頃ジオシティーズウェブページ「伝説をめぐる」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に「鬼にまつわる エトセトラ」という題名で掲載。2021年に改題。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


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京都・今宮神社の二つの祭

2019-01-13 17:23:23 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台

 

  

 
今まで見たくても見ることができなかった京都・今宮神社の祭を、今年はようやく見ることができました。この今宮神社は、かつての内裏の真裏に位置する神社です。そのことを考えると、この祭を見ることは日本の祭とか信仰とかを考える上で非常に大きな意味を持つのかもしれません。が、自分の能力ではその一端を垣間見るようなことはできなかったのですが、、、、、、やはり、祭オタクとしては、見る意味の大きなお祭りでした。
 というわけで、その様子を簡単なレポートにまとめます。写真は後日アップします。

■今宮神社の祭りの概要 -二つの大きな祭り-
 今宮神社の祭はおもに二つの大きな祭りに分けられます。一つが、4月に行われる花傘が練りだされる「やすらい祭り」。そして、もう一つが五月に行われる剣鉾が巡行し、神輿の渡御がある「今宮祭」。それぞれの祭についての概略は、
今宮神社ウェブページ(「やすらい」は「行事」→「やすらい祭」、「今宮祭」は独立項目)、もしくは、ウィキペディアの該当ページへ。 
 祭りを見物していらっしゃるご老婦とお話しているとこの二つのお祭りについて、興味深いことをおっしゃっていました。「やすらい祭り」は「都会の祭り」、「今宮祭り」は「田舎の祭り」だそうです。いずれも氏子地域内が担い手となって奉仕されますが、それぞれの祭に奉仕する地区が分けられているようです。
CIMG6000a.JPG CIMG5982a.JPG

 

剣鉾、花傘
■宮入する花傘、宮入しない剣鉾
 播州三木に生まれ、担い式太鼓台の祭に育てられた僕にとって、山車やだんじり、太鼓台などの練り物は「宮入」するものでした。で、おそらくこのウェブページを見ている約10人の皆様も近い感覚をもっているのではないでしょうか。その感覚と同じく、やすらい祭の花傘は宮入し、神前に舞を奉納しました。
 が、今宮祭の剣鉾は宮入りすることはありませんでした。そして、神輿渡御の時は、すべて、神輿の先導をしていました。多くの太鼓台の祭礼にかかわる者、少なくとも三木の大宮八幡宮の祭に参加するものにとっては、特殊な太鼓台以外は、宮入で神輿を「お迎え」した後は、神輿の後ろを「お付き」するという感覚です。この点でも、いくらか特殊なものを感じる祭りでした。
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神輿
■魂の神輿練り
 大正時代以降、今宮神社の神輿は宮やお旅所から出される時以外は、肩に担がれることなく、大きな台車に載せられて曳き回されていました。しかし、その間も、棒端を肩に担いでシャンシャンと神輿をゆらします。

 そして、道中の一部ですが、今年から肩に担がれて見事な神輿練が繰り広げられるようになりました。ホイットーホイットの掛け声に合わせ、シャンシャンと歓喜の音を鳴らす神輿に、沿道の観客の歓声が一際大きくなります。やはり、「神輿は肩で担がれてナンボ」。人手不足に悩みながらも神輿の道中練を敢行する今宮神社の氏子の心意気に感服しました。
 神輿を肩に担がれる姿を見るからこそ、中学生? 高校生? の神輿を担ぐ練習にも身が入るのでしょう。

CIMG6004.JPG

■掛け声
 担ぐ時の掛け声は、ホイットーホイットと他の京都のお祭りでの掛け声と似たものでした。
 しかし、台車に載せられた神輿を子ども達が曳く時は、「ワッショイ」という掛け声でした。
 ところどころでなされる祝い締めは、「打ちましょシャンシャン、もひとっせーのシャンシャン、祝って三度シャンシャン」の系統のものでしたが、はっきりしたことは覚えていません。録音したものがあるかどうか、後日確認してみます。

■漆の神輿
 神輿は、お還りの巡行が終わりお宮に戻ると、鈴などの飾り金具がはずされます。それが全てはずされた後に見えたのは、見事な漆塗りの本体でした。京都の神輿は、「キンキラキン」のイメージだったので驚きでしたが、金色と黒色のコントラストが見事で、ため息がでました。
 


■文化祭と祭の違い!?■

 このような祭を見ていて、いつも感じることがあります。それは、学校や地方自治体、NGO、NPOなどが主催する伝統文化「サークル」と、地元青年団などの地域の神社などに奉仕する「まつりびと(このような名前が適切かは分かりません。)」の違いです。それが何なのかはうまくいえません。ですが、後者のほうがすごく「かっこよく」感じてしまいます。前者はあたりまえですが、立場上、「健全」を旨としなければなりません。しかし、後者は超一級ともいえる有形無形の文化財を披露する一方で、下品な冗談も飛び交います。その「ギャップ」に祭の良さがあり、前者が後者を決して超えられない何かの一つではないかと感じています。
 今宮祭でいうと、「よさこい」と「きれいなお姉さんの行列(名前は知りません)」が前者で、「剣鉾」や「お神輿」が後者といえるでしょう。前者は文化祭(フェスティバル)、後者は祭という分け方を僕は便宜的にしています。フェスティバルと祭が混在する祭という意味でも今宮祭は興味深いものがありました。


■最後に
 
このお祭りを見ているときに、京都の剣鉾の調査隊のみなさまにパンフレットのコピーをわけてくださったり、いろいろなことを教えてくださったりと、本当にお世話になりました。そして、お神輿にずっと随行されていた方から、ご自作の巡行経路地図のコピーを頂きました。本当にありがとうございました。そしてそして、見事なお祭を見ることができたのは、今宮社の氏子の方々のご尽力のたまものだということは言う間でもありません。ですが、「ありがとうございました」というのは、別に「お前のためにやったんちゃう」という声が聞こえてきそうなので、控えさせていただきます。

       uchimashomo1tsu@yahoo.co.jp
2011年頃ジオシティーズウェブページ「祭・太鼓台」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


播州三木(兵庫県三木市)美坂神社東這田屋台  -篠山、淡路、姫路、富山の融合。太鼓台としての屋台-

2019-01-13 17:21:42 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台

 

■東這田の屋台工芸■
 ここで紹介するのは、兵庫県三木市東這田の屋台。平成十四年に新調されたが、それ以前の急屋台にスポットをあてていくことにする。
 まずは、工芸面から見ていく。
 といっても、画像はあまりないので分かりにくいのは、堪忍してください。
 まず、現役の屋台にも使われているのが富山井波の名彫師・川原啓秀によるものである。江戸時代のものと比べて非常に彫が細かいようである。
 そして、本体は、淡路の大工柏木福平によって組み立てられたという。さらに、水引幕や高欄掛などの縫い物もまた、淡路の梶内製となっている。また、その刺繍の内容も、海の国淡路に違わぬのか、高欄掛は壇ノ浦の合戦となっている。その中で、目をひくのが、写真にあげた一場面。平知盛が、
壇ノ浦の合戦において、もはやこれまでと碇を持って自ら海に沈む場面である。やがて、怨霊となるのか、甲羅に人面を負う平家蟹がすでに現れている。めでたい祭りの場面においてこの場面はいかがなものかと思う人もいるかもしれない。だが、この東這田は、かつての三木城の主である別所長治公の堂塚を要する土地柄である。この長治公、秀吉の城攻めに際し、自らの命と引き換えに三木の民を救った英雄として語り継がれている。そして、この東這田では、その堂塚を今日まで大切に守り抜いてきているのである。このような敗者である長治公に対する心配りを考えると、東這田の高欄掛の場面に敗れ去る知盛を選ぶのも、東這田の人々の優しさのひとつと取れるのかもしれない。
 とにもかくにも、東這田屋台の工芸面においては、淡路の色が強く出ていると見ることができるだろう。

 
水引幕を鳳凰船に乗った神功皇后の三韓征伐としていましたが、誤りでした。東這田屋台関係者の皆さま、読者の方々に、間違えた情報の掲載のお詫び申し上げます。


 新調前の東這田屋台。淡路の柏木福平により組み立てられた。彫刻は川原啓秀。水引幕、高欄掛は淡路の梶内製。

 東這田の先代の高欄掛。壇ノ浦の合戦で碇を持って自ら海に沈む平知盛。やがて、怨霊となるのか、甲羅に人面を負う平家蟹がすでに現れている。

 

■東這田屋台の祭りのときの役割■
 
さて、東這田屋台が注目に値するのは、その工芸面だけではない。
 東這田屋台の道中を担ぎ歩くときの掛け声と、東這田屋台が美坂神社の春祭りではたす役割は同じ三木市内においても大きな特徴を示している。
 掛け声は、通常時は大宮八幡宮や岩壷神社の屋台の掛け声と共通した、「打ってくれー あーもひとっせ」による担ぎ上げと「よいやさ」、「伊勢音頭」を採用している。だが、時々、近隣の大宮八幡宮や岩壷神社の祭りで慣らした若者がこの祭りに参加したときに必ずと言っていいほど戸惑うことがある。今まで普通にあっていたはずの歌が合わない、聞いたことの無い歌詞が歌われているという経験を多くのものがしているだろう。
 それは、「デカンショ節」が担ぎながら歌われているときである。デカンショ節は丹波の国篠山で、毎年8月16日に行われているデカンショ祭りで盆踊りの歌として歌われているものである。丹波の国ののんびりとした文化を、勇壮な屋台練にみごとに取り入れているこの練りに魅了される人も多い。

 そして、もうひとつ珍しいのは、屋台がただ練りまわされるためのものとしてではなく、実用的な役割を担うということである。美坂神社の春祭の本当の意味でのメインは、神に対する獅子舞の奉納であるとされる。その獅子舞奉納の際、写真のように小さな太鼓と笛だけでお囃子が演奏されるわけではない。舞のボルテージが上がってくると、ヨーイヨ-イの掛け声とともに、屋台の大太鼓が打たれるのである。これは、淡路都筑で行われるようなのだんじり歌奉納のための移動式太鼓演奏台と同様の役割を東這田屋台が持っているといえる。それは、丹後半島に伝わる太鼓台(曳きだんじり型練り物)の役割とも共通する。
 一方、この獅子舞はどうやら姫路方面から伝わったものであるという。
 つまり、淡路都筑地方の移動式太鼓演奏台としての役割を、屋台に与えつつ姫路の獅子舞を奉納するという、よくよく見れば独特の屋台文化をこの美坂神社では形成しているということができるであろう。

 工芸面では、富山井波、淡路を融合し、祭りにおいては、丹波篠山、姫路、淡路を融合している東這田屋台。この独自性が後世に伝わることを願わずにはいられない。 


獅子舞奉納の際、ヨーイヨ-イの掛け声とともに、屋台の大太鼓が打たれる。

2001-2007年頃ジオシティーズウェブページ「祭・太鼓台」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
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京都府与謝郡伊根町(丹後半島)宇良神社太鼓台(大阪付近ではだんじりと呼ばれる形態の練り物) -「太鼓台」と「だんじり」のルーツ考-

2019-01-13 17:17:31 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台

 四国地方の瀬戸内沿岸に住む人や、播州から泉州に住む祭りマニアの方の多くは、「太鼓台」ときけば、写真のような、愛媛県と香川県の瀬戸内沿岸に分布する多重布団屋根型の担ぎ式太鼓台を思い浮かべるだろう。少なくとも、岸和田にあるような曳きだんじりを思い浮かべる人はごくまれであろう。

 ここのテーマになる与謝郡伊根町より、車で20分ほど西に行った同じく丹後半島の北部、与謝郡袖志町に「太鼓台」があるということは知っていた。さすがに布団屋根型の太鼓台を思い浮かべることはなかったが、出石にあるような家屋根型の「太鼓みこし」のようなものが「太鼓台」と呼ばれているのだと漠然と考えていた。

  そんな中、僕は、浦島伝説に興味があり、浦嶋子(浦島太郎)を祭神とする宇良神社に車で向かっていた。
 筒川をわたると八柱大神の幟がそちこちに立てられている。本庄上(ほんじょうあげ)の町会所に差し掛かると、一階のガレージが開かれており、和太鼓をつんだ小さなお囃子だんじりのようなものがあるのがわかる。それを見て、その日が祭の日であると分かった。太鼓は練り物の進行方向と垂直にすえられているので、曳行のときは、太鼓の打ち手はあるきながら打つものだと考えていた。


 浦嶋伝説の舞台となる筒川。



太鼓が設置されている、「太鼓台」と呼ばれる練り物。

 そのお囃子だんじりのようなものを写真に撮らせてもらえるように、町会所の玄関前で酒を酌み交わす町の方々にたのんでみると、快く承諾してくださるばかりか、町会所の中の様子の撮影も許可していただいた。町会所と山車の収蔵庫が合体しており、収蔵庫が一階、会所が二階という形式などは、祇園祭の山鉾町の町会所に似ているかもしれない。ただ、祇園祭の山鉾町の町会所が縦長なのに対して、本庄上の会所は横長であることは相対する。
 二階に上がると、剣鉾の鉾頭、長刀(大太刀と呼ぶらしい)十本、棒ふりの棒、御幣が七本さしこまれたされた木箱が上座に飾られていた。このことから、本庄上の練り物は、祇園祭の綾傘鉾のように棒ふりなどの踊りとともに、練り歩く類のものであると予測していた。


長刀型の大太刀

   

御幣が差し込まれた木箱、小太刀、棒ふりの棒、剣鉾の頭。太鼓のばち。

 さて、次の日の朝になると、収蔵庫から練り物は外に出されており、町の人は鉢巻に袴姿で粋に着飾っている。その様子を見て、袴をはいたものが棒ふりなどをしながら練り歩く京都祇園祭の綾傘鉾のようなものを思い浮かべた。だが、外に出されたその練り物の印象は昨日と全く違うものだった。それは、太鼓が進行方向に沿ってすえられており、打ち手用の座り台も備え付けられている。そして、後ろ梃子!それは、あの岸和田のだんじり祭において、やりまわしのときに大きな役目を担う後ろ梃子が、この練り物にもつけられているのだ。よくよく見ると、練り物本体の大きさのわりに、足回りはかなり頑丈そうなものとなっており、かつては、かなり激しく曳き回していたのかもしれない。しかも、その練り物の後ろに、猩々緋と呼ばれる大きな幟、剣鉾、傘鉾と後部に棒状のものを立てる様子も、岸和田のだんじりと共通する。



太鼓が進行方向と同じ向きにすえられ、のった状態で太鼓をうつことができる。



岸和田のだんじりを髣髴とさせる、三本の棒状祭具を練り物の後ろに立てかけた様子。左から剣鉾、傘鉾(傘御幣ともいえる。)、(猩々緋)

 
 これも岸和田のだんじりを思い出させる後ろ梃子(てこ)。



足回りは、小型な練り物にもかかわらず、頑丈なものになっている。


 さて、その練り物の曳行前になると、後ろに立てられた猩々緋、剣鉾、傘鉾ははずされた。太鼓と笛が鳴り、太刀舞いの指揮役ともなるダイフリの合図で、宇良神社への道中が始まる。真夏の日差しに照らされた道中はやはり、きつそうだと感じつつその一行について歩いていると、やがて、お宮さんに近づいてくる。
 



宇良神社までの道中。様相は小型のだんじりといえる。


 そして、そのだんじり型の練り物は、宮入のときにその本領を発揮する。ダイフリの一際大きな掛け声で、だんじり型の練り物は疾走して宮入りしたのである。
 その練り物は宮入後も役目を終えることはない。今度は、太鼓を、前日みたように練り物の進行方向と垂直にすえなおし、横から立った状態で太鼓を打てるように形態を変化させた。そして、その太鼓は、宇良神社名物の見事な太刀振舞の基幹のリズムを形成する重要な役割をはたす。そんな太鼓を運び、その時々によって姿を変えるその練り物が、太鼓を支えるという意味の「太鼓台」と呼ばれていることにもうなづける*。
 その太鼓台から、宇良神社名物の見事な太刀振の奉納がはじまるのである。
 



宮入後は、太鼓が練り物の進行方向と垂直にすえられ、練り物の下から立った状態で太鼓を打つ。



 もしかしたら、日本を代表する名物とも言える、かつては芸能とも関連していたと言われる岸和田のだんじりのルーツとも言える姿が、ここにあるのかもしれない。
 

*兵庫県の淡路島に分布する五段布団屋根型担い式太鼓台は、都筑地方などでは「だんじり唄」の奉納の際の演奏用にその「太鼓」が使われる。そして、その「担い式太鼓台」は「だんじり」と呼ばれている。そうなると、「太鼓台」「だんじり」とは、演奏用の太鼓を移動させる道具を意味するものだったと考えられるのかもしれない。

 

■全くのよそ者の私を、快く受け入れてくださった、宇良神社氏子地区・本庄上区の区長様、青年団長様、祭礼関係者の皆様方に深く感謝申し上げます。

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小野市 天満宮屋台

2019-01-13 17:13:23 | 祭と民俗の旅復刻版祭・太鼓台




 小野市天神町に天満宮は位置する。毎年7月24日に祭礼が行われる。昔は屋台が町内を練り歩いていたらしいが、今はお宮に据えているだけだそうだ。

  

   この屋台はそうとう古いらしい。土地の人に話を聞くと、屋根裏に墨書きが残ってるらしいが、年代はわからないとのこと。だが、ここにはかけないが、江戸期までさかのぼる可能性をしめすものは屋台蔵にもあるという。
 屋根を見ると布団屋根にもかかわらず、垂木がついており、軒下が若干斜め下を向いており、布団屋根型と建築屋根型太鼓台の特徴を兼ね備えているのが興味深い。

 
 布団屋根型の屋台にもかかわらず垂木があり、軒下が若干斜め下を向いている。


 従来の播州の三段布団屋根型屋台は雲板を要するが、垂木はもたないまた、雲板も斜めに垂れ下がることはなく平行である。(三木市大宮八幡宮 明石町屋台 *祭本番は屋根に赤色の布がかぶせられ、従来の赤布団屋根となる。)

  また、高欄の組み合わせに四角い釘を使っており(後からつけたのか金具には丸釘が使われている)、明治以降に普及した丸釘でないことからも江戸までさかのぼれるかも知れない。
 さらに、泥台を見てみると木組みは釘をつかっておらず、指し物細工となっていることが分かる。このような指し物による泥台の組み方が、いつまで続けられていたのかは分からないが、古屋台の製作時期を考えるときのポイントとなるのかもしれない。 



釘を使わず、加工した材料を組み合わせていく指し物の技法で、泥台が組まれている。 


 

 中央の欄干の骨組みには角釘が使われており、江戸期の製作の可能性を示している。両端の金具を留める丸釘は明治以後につけられたものか。 
 



 水引幕は明治時代3年のものだという。二対の龍虎の幕。この水引幕は、幕をたらす井桁から欄干までの高さに満たない。二対の龍虎の刺繍にはところどころ空間があり、姫路や曽根の水引幕のように、各面の中央をたくし上げて太鼓の打ち手が見えるようにする形式のものだったことが伺える。


 明治三年製作の水引幕。二対の龍虎にはたくし上げるための空間が設けられている。

 いずれにせよ、形式的には三段布団屋根型担い式太鼓台と言える屋台であり、隣接する三木市に広く分布するものと共通する。だが一方で、たくし上げ式の水引幕や、斜めに下がってきている軒下に垂木の存在など、現在ではなかなか見られないというか、播州でも多分唯一の珍しい形の屋台と言えるだろう。
  これだけ珍しい一品、せめて市指定の文化財くらいにはなってほしいものである。

 小野市は、播州が日本にほこる名刺繍業者・絹常の初代当主・常蔵が修行した故郷とも言える土地である。しかしながら、現在では古い素晴しい屋台がたくさんのこっているにもかかわらず、屋台が活躍する祭りは衰退の一途を辿っているといわざるを得ない。 
  市内各所に大々的に貼られた小野祭りのポスターと対照的に、物静かに佇む天神屋台。物言わぬながら、そのひめたる文化的価値に市民が再び目を向けてくれる日を心待ちにしているのだろうか。


提灯は絹常製。故郷の屋台祭礼の衰退に何を思うか。

 *祭礼の当日のお忙しい最中、丁寧にご説明くださった天神町の方に深くお礼申し上げます。

 


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