月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

203.一台練り地域の祭一日目の朝(月刊「祭」2019.10月4号)

2019-10-08 10:03:00 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●胸が高鳴る一日目
 三木市内や播州、大阪、四国などの多くの屋台やだんじりが出される祭は、多くが二日間の祭りになっています。夜宮・昼宮と呼んだり、宵宮・本宮と呼んだらしています。この日を楽しみに一年を過ごし、祭を迎える日の朝は、わくわく胸が高鳴ったり、眠れなかったりして朝を迎えます。
 朝六時から太鼓が鳴るというのが、管理人在住の三木市大宮八幡宮明石町の祭の音風景となっています。ですが、祭の風景も、同じ三木市内でもかなり違うものになっています。特に、一つの神社に一つの屋台が宮入りする地域では、人数などの制限などによる苦労が見られました。
 今回は三木市別所町八雲神社と、同じく別所町熊野神社の朝の様子を見ました。
 
●八雲神社
(アクセス、祭礼日10月第1土曜とその翌日)
 
朝八時頃、自転車で訪れた時は花尻屋台の蔵は空いていませんでした。
 

↑十時頃台車運行がスタートしていました。

↑宮への坂を上ります。

↑100件に満たない戸数で若い人も減っていると聞きました。その中での若い人たちの頑張り。

↑令和改元にあわせての「御大典奉祝」

↑八岐大蛇の龍の刺繍。下からのアングルは、屋台刺繍ではあまり見られません。
 中の文化九年(1812)の鳴り太鼓は、管理人が知る限り三木市内では現役最古です。

↑全体の風景
 
●熊野神社
(アクセス、祭礼日10月第1土曜と翌日)
11時頃伺った時はご多忙の中、撮影の便宜を図ってくださったり、飲み物をいただいたりと、本当にお世話になりました。

↑かつての下町屋台を購入したものです。

↑見事な龍の水引幕

↑水引幕と同系統の作者でしょうか。


↑午前九時ころは、祭会場となる神社の草刈りをしていました。
 

次の10月27日は石野の御酒神社(アクセス)で「令和奉祝の集い」が行われます。
 
人口減少の中の祭
 人口が減る中で、担ぎ手を確保するために
大宮八幡宮や岩壺神社の祭礼日と日をずらしたり、担ぎ手のための飲み物などの準備や祭会場の準備をしていらっしゃいました。より楽しい祭りにしようと奮闘努力する姿に頭が下がります。
 
 
 
 
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202.池や川にドボン(月刊「祭」2019.10月3号)

2019-10-03 12:28:02 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●加古郡稲美町天満神社の神輿投げ入れ
 (アクセス、祭礼日体育の日前日の土日)
  いくつかの屋台が担がれますが、神輿の行事もまた人々の目をひく特徴となっています。
 管理人の祭礼日が同じなので、自前の写真はありません(ToT) このまつりのユーチューブ映像の一覧をリンクしました。
 
 地下足袋(左側が天満神社の神輿行幸で使われるもの。右側は管理人のもの)を見ると、色は同じですが、左側は農業用のものになっています。池の中で担ぐことをみこして、田んぼではくものを使っているのかもしれません。



●神輿を投げ入れる習俗

 実は神輿を投げ入れる習俗は播州においても、他地域で存在したそうです。それが小野市久保木町住吉神社(祭礼日10月最後の土日、小野市久保木町978)です。
 最近は屋台や神輿を修復するなど、歴史などを学びつつ祭文化を残そうとする動きが活発になってきています。


↑修復前の屋台。絹常製の見事な刺繍が目を引きます。



↑かつて投げ入れられていたという神輿
 
 そこで聞いた話だと、雨乞いのために池(川だったかもしれません、のちに確認します。)に投げ入れてたということもあったそうです。雨乞いのために神輿を投げ入れること、住吉神が水の神であることもイベントとしての祭という意味だけではなく、信仰的な意味合いがあったのかもしれません。その風習が「何故残らなかったのか」は、今年の住吉神社の祭礼より後に寄稿したいと思います。

●雨乞いで投げ入れるもの
 小野市久保木の住吉神社は東条川ぞいにいりますが、その川をさらに上に登るとかつてはもっと別なものが投げ入れられていました。加東市吉井の住吉大明神(アクセス)前にその歴史を記した岩が安置されていました。
 

↑住吉大明神
↑雨乞いの儀式の記念碑

 記念碑は昭和六十二年(1987)に建てられています。
 それによると嶽の麓の岩に赤牛の首を備えたところ、干ばつがおさまり恵みの雨が降ったということです。日本や朝鮮半島、中国においては、このような習俗が広がっていたようです。
 日本の場合、仏教の流入によりその風習はおこなわれることは少なくなりました。例えば景戒『日本霊異記』弘仁13年 (822)?「漢神(からかみ)の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修して、以って現に善悪の報を得し縁(えにし)」では、漢神(からかみ)という中国の神を祀るための風習として殺牛があったことを書いています。
 雨乞いで太鼓を叩くのも牛の皮を叩くということになり、かつての殺牛の風習の代替策ということもできるかもしれません。

●妄説・何故牛の首を備えたのか。
 きくところによると、牛の血を放り込んで川を汚して神さまを怒らせて雷を鳴らして雨を降らせるということを聞きました。それでも、何故牛なのかの説明はつきません。
 ここからは、妄説です。何故牛の首を備えたのか? 管理人妄説は龍という水神をつくるためだと考え(妄想)しました。以下その妄言にお付き合いください。
 龍には九似というものがあったそうです(九似の参考:笠間良彦『日本未確認生物事典』(柏書房)1994)。
 にているのは
魚の鱗、大蛇の腹、虎の掌、鷹の爪、蛇の頂き(おでこ?)、ラクダの頭、鹿の角、鬼の目、そして、牛の耳だそうです。
 牛は農耕の大切なパートナーとして殺されることはありませんでした。
 しかも、それでは水の神・龍が完成しません。ここまでの干ばつは、龍の首が足りてないからだろう。といっても駱駝、鬼、は手に入らないし、蛇、鹿ではありがたみが足りないとい。そこで泣く泣く牛を神の世界に送り返すといったことがあったのかもしれません。
 
 

↑浦島神社拝殿の龍




 
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201.雨の中の紙手-便利になる祭-(月刊「祭」2019.10月2号)

2019-10-03 12:20:00 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-

●祭の足音
 令和初めての秋祭りの季節が播州にもやってきました。その到来を感じさせてくれるのが、浜手の紙手です。
 
 
●村内のかざり
紙手は祭当日だけ活躍するわけではありません。提灯とともに、村内に紙手が飾られます。
 

↑高砂市曽根天満宮北之町
 
 しかし、祭前から祭までに雨が降る日もあります。その対策はどのようなものでしょうか。
 
●紙手の雨対策
 

姫路市広畑区 ビニール袋をかぶせています。
 
 



↑加古川市宗佐
なんとビニール製になっていました。
 
●祭用品の便利化
打ちはらい
紙手に限らず、祭に使われるものはより扱いやすいものに変化しています。
 例えば「はたき」と呼ばれていた、三木市でよく使われている打ちはらいは、管理人(2019.10.01時点で41歳)が子どものころは、レーヨンの布製でしたが、現在はビニール製になっています。

↑三木市大宮八幡宮明石町屋台。打ち払いで盛り上げています。
 
奉納馬
かつては生きたものを捧げていました。
 それが馬の彫刻や像となり、
 

↑姫路市英賀神社
 
板に馬の絵を描いた「絵馬」となり、
 

↑京都府宮津市知恩寺 絵の馬=絵馬
 
さらに簡略化され板から馬の絵も消えました。

↑京都府宮津市知恩寺 奉納された絵馬。馬は消えました。
 
 
さらにさらに、その板も個人が手軽に書けるように小型化簡略化しました。


↑京都市粟田神社の絵馬。各自がそれぞれの願い事を込めやすく手軽にかけるようになりました。
 
より手軽によ
全体として、より手軽に扱えるようになってきているようです。


 
 
 
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199.撥(ばち)に見る大きい祭の影響(月刊「祭」2019.9月26号)

2019-10-01 07:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●祭の必需品
太鼓を打つために必要なのが、撥(ばち)です。姫路などの神輿屋根屋台分布地域ではブイと呼んでいるそうです。バイと呼んだりするところもあると聞きました。この記事では太鼓を打つための木の棒を原則「ばち」と書きます。
 
●ブイ・バイ
 姫路市を中心にブイ・バイと呼ばれるばちが好んで使われています。形は屋台によって少しずつ違いますが、①先端がかなり広がっている ②先端は角ばっているという2つの点は共通します。
 
 
 これは、リンク先の映像のように持ち場を4人全員で最初から最後まで打てるように、ばちを落とすように太鼓を打ちます。先端が重く、力を入れずに打ちますが、水引幕がたくし上げられており、ばちの先端に重心があり、角ばっているために太鼓の鏡面に接する面積が小さくなることが重なって、鏡面にかかる力が最大限に大きくなります。
 

姫路市松原八幡宮七ケ村ブイ、バイ型のばち
 
 
 
 
●三木にも広まるブイ、バチ型
と広まらない明石町
三木にもブイ、バチ型は広まってきています。知る限りでは、大宮八幡宮の末広屋台、下町屋台、岩壺神社の滑原屋台などです。
 しかし、 大宮八幡宮明石町ではバット型とも言える形のものが今も好まれています。ブイ、バイ型のものが初めて購入されましたが、現役の青年団員含め、比較的新しいものを受け入れやすい子どもたちも、ブイ、バイ型のものを使いたがりません。
依然として好んで使われるのは野球のバットを思わせるバチが好まれて使われています。
 同じ三木市内で同じ小学校区内、そのうち二台は同じ神社で「ほとんど」同じリズムを打つのに、なぜ、バチの好みは異なるのでしょうか。
 
●こだわりの違い
  末広、下町、滑原とも、比較的緩やかに打つブイ、バイ型のばちに変わっていますが、力強く太鼓を打ちます。それは、水引幕で太鼓打が全て隠されていることによるものと考えられます。一人づつ交代で打ち、水引幕で音が中にこもらないように、力強く打たなければなりません。より力強く打つことを重視するのであれば、ブイ、バイ型のばちを使うのも一つの手段として有効です。
 つまり、末広、下町、滑原は灘のけんか祭で使われているから盲目的にブイ、バイ型のばちを取り入れたわけではなく、合理的な選択として取り入れたのです。
 

↑水引幕の中で太鼓を一人ずつ打ちます。


 
 
 しかし、角のある少し重いブイ、バイ型のバチだと跳ね返る力も強く、音の調整が難しくなります。明石町の場合、ドンドン ドンデドン(右左右)のタイミングや強さの調整を細かいところまでこだわります。その微妙な調整は、太鼓を打った後に、バチをグッと握りバチがはね放題にならないようにして行います。そのために、太鼓を平面に近い状態で打て、反動が強くなりすぎないバット型のものが好まれていると思われます。
 

つまり、明石町のように微妙な音にこだわる場合の選択肢として、ブイ、バイ型がふさわしくなかったということで、盲目的に伝統にこだわったわけではありません。
 
●盲目的に大きい祭りの影響を受けているわけではありません。
  民俗学などの研究誌に屋台やだんじりがあつかわれるようになったのは、ここ最近の話です。その中でよく見られるのが、大きい祭の影響を受けて祭がかわっていっていると言う内容です。
 三木市内のバチがブイ、バイ型に変わっているのも灘のけんか祭という「大きい祭」の影響とも言えます。しかし、その変化を受け入れるのか受け入れないのかは、単に伝統か革新かの議論で行われるわけではありません。それまで培ってきた技術と照らし合わせて、変えることが有効なのかそうでないのかの検証がなされた上できまるのです。
 それを理解するには、今回の場合は太鼓の打ち方にたいする基本的な経験が必要になります。それらをすっ飛ばして屋台や、だんじりをあれやこれや言うと、何処か説得力に欠けたものになってしまいます。
 
編集後記
 太鼓の練習に熱を帯びてくる昨今です。自町の太鼓打の技術の高さに改めて感嘆しました。
 
 
 
 
 
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