月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

326.하나(ハナ)(月刊「祭」2021.2月3号)

2021-02-14 17:26:51 | コリア、外国

●韓国語と日本語の共通点
 朝鮮半島と日本はかなり近い位置にあり、祭をふくめた文化に共通点が見られます。
 言語にもその類似性が見られます。それは、文法の類似や感謝をカンシャ、カムサと日韓それぞれで読む漢字語レベルだけでなく、それぞれの固有語レベルでも類似が見られます。

 今回はそのような固有語の類似の例をあげ、特に「ハナ」という言葉を少しだけ詳しめに見ていきます。

・マブシイ
 目+ブシ+イで出来た言葉である可能性があります。これに対応する韓国語は눈 부시다(ヌンブシダ)。눈(ヌン)は目、다(ダ)は語尾で、부시(ブシ)が目などをくらますなどの意味を両国の言葉で持っているノかも知れません。

・ナラ
 かつての都だった奈良。その語源は奈落とも言われていますが、韓国語で国を意味する나라(ナラ)が語源とも言われています。


・ヘビと뱀(ペム)

 こちらに詳しく書きました。どちらもらヘビ🐍を意味する言葉です。

●하나(ハナ)
 さて、祭関係者なら切っても切れない「ハナ」も韓国語由来の言葉であると思われます。
 韓国語では하나(ハナ)は、ひとつ、一を意味します。
 日本では、花、鼻、端、はな(はじめ)などの意味を持ちますが、大元の意味ははじめとか物事の先端を意味します。「はなから」と言えば最初から、一からという意味になるので、하나(ハナ)に近い意味があると言えるでしょう。

 

 

 

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325,姫路城下の屋台ならぬ花台!?(月刊「祭」2021.2月2号)

2021-02-14 02:02:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-
●三ツ山祭で有名な射楯兵主神社
 播州の国宝にして世界遺産の姫路城。そのお膝元の神社が射楯兵主神社です。平成二十五年(2013)には二十年に一回の三ツ山祭が行われました。現在は置山の祭として知られていますが、もともとは播州の要所であり、いち早く盛大な◯◯車の祭が行われていたようです。
 そこには、「◯◯車」や屋台ならぬ「花台」なるものも出されていたようです。
 


●もともとは車だった三ツ山
※ドヤ顔で下の内容を書いていましたが、これより詳細かつわかりやすい文章が、小栗栖健治「三ツ山祭の成立と展開 第一節 天神地祇祭と臨時祭」姫路市教育委員会文化財課『播磨国三ツ山大祭調査報告書』2015所収に出ています。
 
 天正九年九月九日(1581)の記述とさられる『惣社(射楯兵主神社のこと)集日記』には、その当時伝わっている神社や祭礼の歴史が記されています。
 その中の大永元年(1521)、二年(1522)の記事を見ていきましょう。
 大永元年六月卯日 装山并花台 -中略- 三村ゟ車出 九院ゟ台捧
 
 装山は飾り山、現在の三ツ山を連想させます。花台は、神仏に備える花の作り物かと考えていますが、これだけでは分かりません。さて、装山と花台のうち、花台は「九院ゟ台捧」とあることから九つの寺院から出されていたと思われます。となると、「三村」から出されていたのは「装山」のはずですが、「三村車出」と三村から出されるのは車となっています。山=車の可能性、山を出しさらに車を出していた可能性の両方がこの記述から考えられそうです。しかし、上で挙げた「報告書」では『播磨国飾東郡国衙庄惣社略記』の
 
 同(大永元)年六月卯日、神部ノ社三山ノ形チ装山之造車并ニ宝前装花台捧上ス
 
という引用文を挙げ、三ツ山が車であったことを指摘しました。
 さらに大永二年の記述を見ていきましょう。
 
 大永二年五月三日大祭祀 装山を改、国府村、宿村、福中村三司ゟ広前三ヶ所ニ作ル、高サ三間二尺と云、木竹にて造り、色絹にて巻之
 この年から装山を改めて、今のような置き山になったことが見て取れます。
 
 下の絵が成立した時は、すでに置き山になっている時代です。しかし、作者がそれを意図したのかどうかは分かりませんが、置き山前の車時代の山を想像する手掛かりになるのかも??

寛永十年(1633)頃 「播磨国総社三ツ山祭礼図」
 
 
●大祭祀、九カ寺院が出す屋台ならぬ「花台」
 ドヤ顔で上の内容を書こうとしたのですが、残念ながらオリジナリティはありませんでした。ここからは、オリジナリティがあるはずですが、この記述の紹介、あるいは類似記事の紹介は兵庫県立博物館がすでに展示していました。が、少しばかり初だしな内容もあるので、最後までお付き合いください。
 まずは『惣社集日記』の大永元年の記事をもう一度あげてみます。
大永元年六月卯日 装山并花台 -中略- 三村ゟ車出 九院ゟ台捧
 大永元年に花台、台を捧げていたのは九院でした。三村の山が神仏の依代であるとするならば、花台は「捧」の文字からわかるように、神仏に捧げる性質のものであったことがわかります。
 この九院の内容が大永二年の大祭祀の記事にも見られます。そこには、「花台」の姿が少しばかり想像できる記述が残っていました。
 九ケ寺院造花を出す、当年造花車を改メ
広前ニ装山す
 
 大永二年の記事では九カ寺院造花を出すとあることから、花台は造花であることが分かります。さらに、当年「造花車を改め、装山す」ということからこの年から置き山になったと思われます。逆に言えばそれまでは、花台造花車でした。
 
●寺院が出す造花車
 寺院が出す造花車がどのようなものかは、なかなか知る由もありません。しかし、寺院が造花の車を出していた事例は河内にありました。
 それが『河内名所図会』に載っている、誉田八幡の車楽です。といっても、車楽はここでは音楽を意味しており、この車自体は「藤花車」と呼ばれていたそうです。絵を見ると、車の上には造り花が見られます。この車楽は誉田八幡の東西二箇寺から出ていました*。この二点は大きな共通点と言えるでしょう。
 

「河内名所図会」享和元年(1801)
 
 屋台・だんじりが隆盛する前の祭りでは、花車を寺院が出して神仏に捧げるいう形態が一つの祭の型としてあったのかもしれません。
 
 
*大阪市立博物館「第121回特別展 南河内の文化財 平成5年3月1日〜4月11日」(大阪市立博物館)1993
 
 
 
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