嵐山の語る時「秦氏」のことを話さないのは「もぐり」である、と
いわれる古代にこの地を治めていた「秦氏」
渡月橋の上流に堰止めをつくり、今の嵐山の原風景をつくった一族です。
秦氏は応神天皇(おうじん)の時代に、朝鮮の百済から秦皇帝の末裔と称して
渡来してきた一族で、功満王一族とか、百済127県の民を率いて渡来した
弓月君(ゆみづきのきみ)一族の末裔ともいわれています。
彼らは現在の右京~西京区、伏見区深草にかけて居住し、大陸から伝承したきた
養蚕や機械、醺酒、治水技術に優れ、豊かな経済力を背景に平安京遷都を
桓武天皇に提案した一族ともいわれ、嵐山の原風景にとどまらず、今の京都自体が
形成される基礎をつくった、京都の歴史にかかすことができない重要な役割を
果たした一族といえるでしょう。
嵐山の堰は、下流地域一帯の農地を発展させるための灌漑用水を川の水で
確保するため設置したもので、当時では画期的な最先端土木技術だったのです。

信仰文化の面でも大きな影響を与えており、山林開発の神を松尾山に祀り(松尾大社)、
農耕守護の神を稲荷に祀るなど、賀茂氏とならんで山城北部の開発につとめたり、
飛鳥時代には聖徳太子に仕えて仏法を興隆し、京都に広隆寺を建立した秦河勝は
一族の末裔だといわれています。
しかしながら、豊富な財力にものをいわせ、平安遷都を成し遂げた秦氏ですが、
平安時代以降はなぜかその勢力は衰退し、歴史の表舞台に登場することは
なく、勢力を誇った証として‘太秦’という地名が残っているだけです。
日本発展の先端技術を有し、国つくりに多大な影響を及ぼした秦氏。
また、南部仏教勢力との確執に苦しむ朝廷に、奈良から京都への遷都
を提案し、現実に長岡京から平安京造営に寄与したキーマン的一族・秦氏は
なぜ、自らが作り出したといっても過言ではない平安時代に入ると
その勢力を衰退させるに至ったのか?
ここに歴史のロマンを感じずにはいられません。
いわれる古代にこの地を治めていた「秦氏」
渡月橋の上流に堰止めをつくり、今の嵐山の原風景をつくった一族です。
秦氏は応神天皇(おうじん)の時代に、朝鮮の百済から秦皇帝の末裔と称して
渡来してきた一族で、功満王一族とか、百済127県の民を率いて渡来した
弓月君(ゆみづきのきみ)一族の末裔ともいわれています。
彼らは現在の右京~西京区、伏見区深草にかけて居住し、大陸から伝承したきた
養蚕や機械、醺酒、治水技術に優れ、豊かな経済力を背景に平安京遷都を
桓武天皇に提案した一族ともいわれ、嵐山の原風景にとどまらず、今の京都自体が
形成される基礎をつくった、京都の歴史にかかすことができない重要な役割を
果たした一族といえるでしょう。
嵐山の堰は、下流地域一帯の農地を発展させるための灌漑用水を川の水で
確保するため設置したもので、当時では画期的な最先端土木技術だったのです。

信仰文化の面でも大きな影響を与えており、山林開発の神を松尾山に祀り(松尾大社)、
農耕守護の神を稲荷に祀るなど、賀茂氏とならんで山城北部の開発につとめたり、
飛鳥時代には聖徳太子に仕えて仏法を興隆し、京都に広隆寺を建立した秦河勝は
一族の末裔だといわれています。
しかしながら、豊富な財力にものをいわせ、平安遷都を成し遂げた秦氏ですが、
平安時代以降はなぜかその勢力は衰退し、歴史の表舞台に登場することは
なく、勢力を誇った証として‘太秦’という地名が残っているだけです。
日本発展の先端技術を有し、国つくりに多大な影響を及ぼした秦氏。
また、南部仏教勢力との確執に苦しむ朝廷に、奈良から京都への遷都
を提案し、現実に長岡京から平安京造営に寄与したキーマン的一族・秦氏は
なぜ、自らが作り出したといっても過言ではない平安時代に入ると
その勢力を衰退させるに至ったのか?
ここに歴史のロマンを感じずにはいられません。