今日から12月。でも保津峡の紅葉は今が盛りです!
葉の染まり具合も深みが帯び、目に沁みる赤さと
心もまで温かくさせる朱色へと進んできました。
なかでも鮮やかさで観光客の目をくぎ付けにするのが、
トロッコ列車・嵯峨野観光鉄道沿いの紅葉です。
まだ背丈も2mそこそこの小さく若いモミジたちですが、
若々しくイキイキとしたまぶしい赤さを出す木々たちです。
この若いモミジたちこそ、トロッコ列車創業に賭けた男たちの
熱い思いの結晶ともいえるモミジたちなのです。
今から20年前の1990年の春、JR(当時は国鉄)山陰本線の
複線電化バイパス化計画に伴い廃線となっていた保津峡区間の鉄道を、
観光用鉄道として復活させ活用する為に創業された嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車。
今でこそ年間1千万人を超える観光客が訪れる日本一の観光列車であり
京都嵯峨野観光屈指の人気施設として知られるトロッコ列車ですが、
開業した時は、線路には雑草が生い茂り、ゴミも散乱、沿線は
雑木でうずもれ、線路下を流れる保津川など見えないほどの荒廃ぶり。
しかも、駅舎もなく切符売り場の小屋と一本のホームがあるだけ。
JRから与えて貰ったのは古いディーゼル列車のみという、最悪の
条件、まったく期待されないところからのスタートでした。
それどころか、無茶な観光列車計画に「赤字確実、もっと3年・・・」という
見通しを示す会社幹部もいたほどでした。
そこへ社長として派遣されたのが、当時40歳前半で1000名を超す
部下のトップとしてエリートコースをばく進していた
現・嵯峨野観光鉄道社長長谷川一彦氏でした。
移った新規会社嵯峨野観光鉄道の社員は僅か8名・・・
荒廃しきった線路・・・
まったく見通しのたたない事業で「もって3年」と揶揄される・・・
まさに屈辱的な絶望感からのスタートだったのです。
そんな中、悔やんでばかりいても何が変わる訳でもないと、発想を変え、
「どうせ、3年しかない命なら、何かを残して死んでやろう!」
と社長は沿線に「木」を植えることを思い付かれたのです。
「鉄道は姿を消しても『木』はこれからも残っていくやろ~」
それはアーバンネットワークが進む当時のJRの中で、人気もない
深い渓谷の荒れた廃線に取り残された鉄道マンたちの意地でもあったのです。
社長以下社員一同が手にスコップとバケツを持ち、背丈以上もある
雑木や雑草を一つひとつ取り除き、嵯峨野から保津峡、そして亀岡までの
沿線間を歩きながら、モミジやサクラの苗を一本一本手作業で植えていかれたのです。
それから20年、沿線には4千本を超える木々が植樹され、3年もたない、と
いわれた観光列車は、現在年間100万人以上が訪れるJR西日本最強の子会社
といわれ、今の隆盛を得たのでした。
たった9人の鉄道マンの意地とプライドが生み出したモミジたちは、
川沿いの傾斜に自生している自然生えのモミジたちと一緒に
保津峡の秋を鮮やかに彩っているのです。
厳しい環境を耐え抜いてきた自然生えのモミジと逆境から始まった
トロッコ列車の方々が植えられたモミジは、どちらも京都の寺院などで
丁寧に育てられたそれとは異なり’どこか逞しさを備え、
凛とした野趣にとんだ美しさを感じるのです。
逆境に耐えて克服してきたものだけが醸し出すことができる美しさです!
まだまだ紅葉は見頃ど真ん中です。
これから保津峡の紅葉をご覧になられる方々は、是非、自然と人が
織りなす「保津峡の‘紅葉’物語」を思い浮かべながらご覧ください。
きっと、強さと温かさをこみ上げ、紅葉がより赤く見えることでしょう。
葉の染まり具合も深みが帯び、目に沁みる赤さと
心もまで温かくさせる朱色へと進んできました。
なかでも鮮やかさで観光客の目をくぎ付けにするのが、
トロッコ列車・嵯峨野観光鉄道沿いの紅葉です。
まだ背丈も2mそこそこの小さく若いモミジたちですが、
若々しくイキイキとしたまぶしい赤さを出す木々たちです。
この若いモミジたちこそ、トロッコ列車創業に賭けた男たちの
熱い思いの結晶ともいえるモミジたちなのです。
今から20年前の1990年の春、JR(当時は国鉄)山陰本線の
複線電化バイパス化計画に伴い廃線となっていた保津峡区間の鉄道を、
観光用鉄道として復活させ活用する為に創業された嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車。
今でこそ年間1千万人を超える観光客が訪れる日本一の観光列車であり
京都嵯峨野観光屈指の人気施設として知られるトロッコ列車ですが、
開業した時は、線路には雑草が生い茂り、ゴミも散乱、沿線は
雑木でうずもれ、線路下を流れる保津川など見えないほどの荒廃ぶり。
しかも、駅舎もなく切符売り場の小屋と一本のホームがあるだけ。
JRから与えて貰ったのは古いディーゼル列車のみという、最悪の
条件、まったく期待されないところからのスタートでした。
それどころか、無茶な観光列車計画に「赤字確実、もっと3年・・・」という
見通しを示す会社幹部もいたほどでした。
そこへ社長として派遣されたのが、当時40歳前半で1000名を超す
部下のトップとしてエリートコースをばく進していた
現・嵯峨野観光鉄道社長長谷川一彦氏でした。
移った新規会社嵯峨野観光鉄道の社員は僅か8名・・・
荒廃しきった線路・・・
まったく見通しのたたない事業で「もって3年」と揶揄される・・・
まさに屈辱的な絶望感からのスタートだったのです。
そんな中、悔やんでばかりいても何が変わる訳でもないと、発想を変え、
「どうせ、3年しかない命なら、何かを残して死んでやろう!」
と社長は沿線に「木」を植えることを思い付かれたのです。
「鉄道は姿を消しても『木』はこれからも残っていくやろ~」
それはアーバンネットワークが進む当時のJRの中で、人気もない
深い渓谷の荒れた廃線に取り残された鉄道マンたちの意地でもあったのです。
社長以下社員一同が手にスコップとバケツを持ち、背丈以上もある
雑木や雑草を一つひとつ取り除き、嵯峨野から保津峡、そして亀岡までの
沿線間を歩きながら、モミジやサクラの苗を一本一本手作業で植えていかれたのです。
それから20年、沿線には4千本を超える木々が植樹され、3年もたない、と
いわれた観光列車は、現在年間100万人以上が訪れるJR西日本最強の子会社
といわれ、今の隆盛を得たのでした。
たった9人の鉄道マンの意地とプライドが生み出したモミジたちは、
川沿いの傾斜に自生している自然生えのモミジたちと一緒に
保津峡の秋を鮮やかに彩っているのです。
厳しい環境を耐え抜いてきた自然生えのモミジと逆境から始まった
トロッコ列車の方々が植えられたモミジは、どちらも京都の寺院などで
丁寧に育てられたそれとは異なり’どこか逞しさを備え、
凛とした野趣にとんだ美しさを感じるのです。
逆境に耐えて克服してきたものだけが醸し出すことができる美しさです!
まだまだ紅葉は見頃ど真ん中です。
これから保津峡の紅葉をご覧になられる方々は、是非、自然と人が
織りなす「保津峡の‘紅葉’物語」を思い浮かべながらご覧ください。
きっと、強さと温かさをこみ上げ、紅葉がより赤く見えることでしょう。