<船、陸を走る!>
保津川流域にあった舟下り会社を合併し「保津川下り」を設立した川本直水氏は、
江戸時代から350年間、続けてきた嵐山からの「曳上げ舟」作業を非効率だとし、
木炭トラック車による回送を思いつく。
一代で起業した川本氏ならでは斬新な発想と行動力により、
昭和23年から保津川下りの高瀬舟を載せたトラックが、
嵐山から亀岡間を行き来することになる。
それまでは嵐山でお客様や荷物を降ろすと、舟の舳先を上流へ向け、
船頭が細い綱で舟をくくり、亀岡目指して川を上って帰っていた。
距離にして16㎞、上流の亀岡までは約50mの高低差がある。
しかも保津峡の中は急流部が多くて、舟を曳き上げる作業を強靭な体力を必要とした。
足もとの草鞋も破れててくるため、2足以上の準備をして作業にあたった。
いずれにしても曳上げる4人の船頭にとっては「行は極楽、帰りは地獄」の
ようなキツイ仕事だった。
川でしか見たことのない舟が、トラックに載せられ、国道を走るという奇妙で不思議な光景は、
京都の人々の話題となり「船、陸を走る!」と大々的に伝えられた。
このトラック輸送により、舟の回送時間が大幅に短縮化され、回転率があがり、
その後、増加していく団体ツアーを主流としたマス・ツーリズム時代への対応を可能にした。
陸に舟を走らせたことで、保津川下りは大勢の観光客を送客することできるようになり、
「観光舟下り」として安定した事業基盤を築いていくのである。
保津川流域にあった舟下り会社を合併し「保津川下り」を設立した川本直水氏は、
江戸時代から350年間、続けてきた嵐山からの「曳上げ舟」作業を非効率だとし、
木炭トラック車による回送を思いつく。
一代で起業した川本氏ならでは斬新な発想と行動力により、
昭和23年から保津川下りの高瀬舟を載せたトラックが、
嵐山から亀岡間を行き来することになる。
それまでは嵐山でお客様や荷物を降ろすと、舟の舳先を上流へ向け、
船頭が細い綱で舟をくくり、亀岡目指して川を上って帰っていた。
距離にして16㎞、上流の亀岡までは約50mの高低差がある。
しかも保津峡の中は急流部が多くて、舟を曳き上げる作業を強靭な体力を必要とした。
足もとの草鞋も破れててくるため、2足以上の準備をして作業にあたった。
いずれにしても曳上げる4人の船頭にとっては「行は極楽、帰りは地獄」の
ようなキツイ仕事だった。
川でしか見たことのない舟が、トラックに載せられ、国道を走るという奇妙で不思議な光景は、
京都の人々の話題となり「船、陸を走る!」と大々的に伝えられた。
このトラック輸送により、舟の回送時間が大幅に短縮化され、回転率があがり、
その後、増加していく団体ツアーを主流としたマス・ツーリズム時代への対応を可能にした。
陸に舟を走らせたことで、保津川下りは大勢の観光客を送客することできるようになり、
「観光舟下り」として安定した事業基盤を築いていくのである。