保津川下りの醍醐味はなんといっても、渓谷部に
入ってからの急流です。
その保津峡の入口にあたるのが「宮下の瀬(みやのした)です。
左岸側に保津川の氏神さまを祀る請田神社があり、そのすぐ
下を流れる瀬なのでこの様に呼ばれています。
保津川で最初の急流になるこの宮下の瀬は、船頭や筏師の
腕を試す場であり、またその日の川の流れや水量などの
状態を図る最初の瀬であるので、昔の船頭や筏師は
計りヶ瀬や試しの瀬、一の瀬などと呼ばれることもあった
操船者にとっては重要な瀬です。
保津川下りのお客さんにとっても、今では保津川下りの
醍醐味を予感させる初めての場所になり、歓声をあげられる
場所なのです。
この瀬のすぐ下流の左岸側には「ろくろ坂」と呼ばれる
坂道が残っており、開削当時ここから「ろくろ」と
呼ばれる開削用の工具を川へ降ろした場所と云われています。
宮下の瀬から続く急流からは、川は一面広く、周囲には
切り立った岩もない、見渡しのいい場所になってまいますが、
江戸時代末期までは、ぼたもち岩や屏風岩とよばれる巨岩が
あり、操船の難所と呼ばれていたところなのです。
これらの岩は洪水時に川の水を抱え、逆流し川のはん濫原因に
なり、上流の民家や田畑に甚大な被害を及ぼしていたことから
人工的に削砕し、崩すことでスムーズで穏やかな流れを
確保し、水害の減少に活かされました。
岩幅が約4m近くあったいわれる巨岩・屏風岩の跡は、
今も残っており、川のど真ん中にあり、川を二分して
いたといわれる屏風岩の巨大さを感じることができます。
屏風岩を粉砕しているところは、江戸時代天保年間に
亀山藩士・矢部朴斎が絵に書いて残しています。
その絵には屏風岩の上で猛火を焚き、岩がもろくなった
ところをたがねやげんので打ち込み崩していく場面が
描かれています。
今は正面に愛宕山まで見渡せる、爽快感溢れる箇所
である宮下の瀬から下流部は、船頭など川を操船する
者のその日の腕試し、調子を図る場所でもあり
亀岡の長い水害との因縁ある場所でもあったのです。
入ってからの急流です。
その保津峡の入口にあたるのが「宮下の瀬(みやのした)です。
左岸側に保津川の氏神さまを祀る請田神社があり、そのすぐ
下を流れる瀬なのでこの様に呼ばれています。
保津川で最初の急流になるこの宮下の瀬は、船頭や筏師の
腕を試す場であり、またその日の川の流れや水量などの
状態を図る最初の瀬であるので、昔の船頭や筏師は
計りヶ瀬や試しの瀬、一の瀬などと呼ばれることもあった
操船者にとっては重要な瀬です。
保津川下りのお客さんにとっても、今では保津川下りの
醍醐味を予感させる初めての場所になり、歓声をあげられる
場所なのです。
この瀬のすぐ下流の左岸側には「ろくろ坂」と呼ばれる
坂道が残っており、開削当時ここから「ろくろ」と
呼ばれる開削用の工具を川へ降ろした場所と云われています。
宮下の瀬から続く急流からは、川は一面広く、周囲には
切り立った岩もない、見渡しのいい場所になってまいますが、
江戸時代末期までは、ぼたもち岩や屏風岩とよばれる巨岩が
あり、操船の難所と呼ばれていたところなのです。
これらの岩は洪水時に川の水を抱え、逆流し川のはん濫原因に
なり、上流の民家や田畑に甚大な被害を及ぼしていたことから
人工的に削砕し、崩すことでスムーズで穏やかな流れを
確保し、水害の減少に活かされました。
岩幅が約4m近くあったいわれる巨岩・屏風岩の跡は、
今も残っており、川のど真ん中にあり、川を二分して
いたといわれる屏風岩の巨大さを感じることができます。
屏風岩を粉砕しているところは、江戸時代天保年間に
亀山藩士・矢部朴斎が絵に書いて残しています。
その絵には屏風岩の上で猛火を焚き、岩がもろくなった
ところをたがねやげんので打ち込み崩していく場面が
描かれています。
今は正面に愛宕山まで見渡せる、爽快感溢れる箇所
である宮下の瀬から下流部は、船頭など川を操船する
者のその日の腕試し、調子を図る場所でもあり
亀岡の長い水害との因縁ある場所でもあったのです。
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