京都市右京区にそびえる京都一高い山・愛宕山山麓に
ひっそりと佇む渓谷の山里が‘清滝’です。
‘ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
水の清滝 夜の明けやすき’
と文豪・与謝野晶子の「みだれ髪」にも詠われ,
かの文人たちが愛した里・清滝は、江戸初期より
愛宕参りの宿場として栄えたところです。
今でも毎年7月31日には「愛宕千日詣り(まいり)」
といって31日の夜から1日の早朝に山頂の愛宕神社に
参れば「一日で千日分の利益ある」といわれる
祭事に多くの参拝者で賑わいをみせます。
実はこの渓谷の山里・清滝こそ、我がはっちんのルーツを
知る大切な場所でもあるのです。
我がはっちん家は江戸時代元禄年間に大阪の和泉州からこの清滝
に移り住み、愛宕参りで旅館に宿泊される方の寝具等をレンタルする
家業を始め、父が子供の頃までこの清滝に本家を置いていたのです。
写真の左側の民家がはっちん家の先祖の家です。
屋号も「和泉屋」」といい第二次大戦前までは
愛宕名物「しんこ」の茶店としても繁盛したそうです。
しかし、戦後、鉄道の廃止などで交通の便が悪くなり、
愛宕参りは衰退、宿場まちとしての清滝も寂れていく
運命となりました。
我が祖父も戦前~戦後までの一時期、清滝集落眼下を流れる
清滝川(保津川の支流)で、材木を嵐山まで流す筏師として
生活を支えていました。
祖父が清滝川から保津川を筏で流した、同じ保津川を
孫の私が船頭として仕事をしているのも、何か深い因縁
めいたものを感じずにはいられません。
さて、清滝ですが、この地域が最も賑わっていたのは
清滝のシンボル「赤橋」といわれる「渡猿橋」ができた
昭和初期といわれています。
この橋ができたのが昭和13年のこと。
橋が付いた当日、神官の先導により、大勢の人で
「渡り初め」の儀式が賑やかに執り行われたそうです。
当時、嵯峨から開通した愛宕鉄道の拠点駅が清滝にでき、
清滝からはケーブルカーで愛宕山山頂まで登れたのです。
今の清滝川左岸の水力発電所がある所には遊園地があり、
高雄や保津峡へのハイキングコースとして、休日には大変な人出で、
愛宕鉄道はケーブルカーとともにピストン運転をしていたほどの
賑わいをみせていたのです。
また、冬には愛宕山スキー場がオープンし、スキーヤーで
ケーブルカーの駅には長蛇の列ができていたそうです。
そんな人気スポットであった清滝を戦争という暗い雲が覆いました。
戦火が激しくなった昭和19年から20年、愛宕鉄道は全線廃止となり、
線路など一部資材は軍備資材として転用され、鉄道のトンネルは
軍事工場として使用されることで封鎖されたのです。
その後、鉄道は復旧されることなく、それまでの隆盛が
ウソの様な鄙びた里として今の姿を残しています。
この清滝の衰退とともに、はっちん家も京都市内へ
移り住むことになり、今に至っています。
今、こうして我がルーツ清滝に来て、この赤橋の上から
見える清滝の集落を眺めていると、当時の隆盛が幻のごとく
よみがえってくるように感じるから不思議です。
さて、明日は「愛宕千日詣り」です。
しばし、清滝に当時の隆盛がよみがえります。
「華やかなりし清滝」の姿、我が先祖の営みを想像しながら
明日の「千日詣り」眺めてみたいと思うはっちんなのです。
☆「愛宕千日詣り」
大宝年間(701~704年)に僧泰澄と役小角により神廟が建てられ
建祀された愛宕山頂に立つ愛宕神社。7月31日の夜半から8月1日に
かけてこの愛宕神社に参拝をすると、千日分の功徳があると云われて
います。これは、昔は遠い山上にある「愛宕神社」まで詣ることが
なかなか自由にできなかったためにつくられた習慣とも云われ、
祭神は「火伏せ・防火鎮火の神様」として信仰を集めています。
三歳までの子供が詣るとその子一代火難から免れるという言い伝え
もあり、お子様連れで登山される方も多いのです。
山頂までの参道を「おのぼりやす~」「おくだりやす~」
と言ってすれ違う人同士が声を掛けあうのがお約束です。
☆交通はJR嵯峨嵐山駅から京都バス10分、バス停:清滝下車
登山口から山頂まで徒歩約120分 。
車では新丸太町通りを嵯峨清滝道へ一路清滝へ
駐車場あり(有料80台) でも狭い谷あいの地域なので
かなりの混雑が予想されます。
ひっそりと佇む渓谷の山里が‘清滝’です。
‘ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里
水の清滝 夜の明けやすき’
と文豪・与謝野晶子の「みだれ髪」にも詠われ,
かの文人たちが愛した里・清滝は、江戸初期より
愛宕参りの宿場として栄えたところです。
今でも毎年7月31日には「愛宕千日詣り(まいり)」
といって31日の夜から1日の早朝に山頂の愛宕神社に
参れば「一日で千日分の利益ある」といわれる
祭事に多くの参拝者で賑わいをみせます。
実はこの渓谷の山里・清滝こそ、我がはっちんのルーツを
知る大切な場所でもあるのです。
我がはっちん家は江戸時代元禄年間に大阪の和泉州からこの清滝
に移り住み、愛宕参りで旅館に宿泊される方の寝具等をレンタルする
家業を始め、父が子供の頃までこの清滝に本家を置いていたのです。
写真の左側の民家がはっちん家の先祖の家です。
屋号も「和泉屋」」といい第二次大戦前までは
愛宕名物「しんこ」の茶店としても繁盛したそうです。
しかし、戦後、鉄道の廃止などで交通の便が悪くなり、
愛宕参りは衰退、宿場まちとしての清滝も寂れていく
運命となりました。
我が祖父も戦前~戦後までの一時期、清滝集落眼下を流れる
清滝川(保津川の支流)で、材木を嵐山まで流す筏師として
生活を支えていました。
祖父が清滝川から保津川を筏で流した、同じ保津川を
孫の私が船頭として仕事をしているのも、何か深い因縁
めいたものを感じずにはいられません。
さて、清滝ですが、この地域が最も賑わっていたのは
清滝のシンボル「赤橋」といわれる「渡猿橋」ができた
昭和初期といわれています。
この橋ができたのが昭和13年のこと。
橋が付いた当日、神官の先導により、大勢の人で
「渡り初め」の儀式が賑やかに執り行われたそうです。
当時、嵯峨から開通した愛宕鉄道の拠点駅が清滝にでき、
清滝からはケーブルカーで愛宕山山頂まで登れたのです。
今の清滝川左岸の水力発電所がある所には遊園地があり、
高雄や保津峡へのハイキングコースとして、休日には大変な人出で、
愛宕鉄道はケーブルカーとともにピストン運転をしていたほどの
賑わいをみせていたのです。
また、冬には愛宕山スキー場がオープンし、スキーヤーで
ケーブルカーの駅には長蛇の列ができていたそうです。
そんな人気スポットであった清滝を戦争という暗い雲が覆いました。
戦火が激しくなった昭和19年から20年、愛宕鉄道は全線廃止となり、
線路など一部資材は軍備資材として転用され、鉄道のトンネルは
軍事工場として使用されることで封鎖されたのです。
その後、鉄道は復旧されることなく、それまでの隆盛が
ウソの様な鄙びた里として今の姿を残しています。
この清滝の衰退とともに、はっちん家も京都市内へ
移り住むことになり、今に至っています。
今、こうして我がルーツ清滝に来て、この赤橋の上から
見える清滝の集落を眺めていると、当時の隆盛が幻のごとく
よみがえってくるように感じるから不思議です。
さて、明日は「愛宕千日詣り」です。
しばし、清滝に当時の隆盛がよみがえります。
「華やかなりし清滝」の姿、我が先祖の営みを想像しながら
明日の「千日詣り」眺めてみたいと思うはっちんなのです。
☆「愛宕千日詣り」
大宝年間(701~704年)に僧泰澄と役小角により神廟が建てられ
建祀された愛宕山頂に立つ愛宕神社。7月31日の夜半から8月1日に
かけてこの愛宕神社に参拝をすると、千日分の功徳があると云われて
います。これは、昔は遠い山上にある「愛宕神社」まで詣ることが
なかなか自由にできなかったためにつくられた習慣とも云われ、
祭神は「火伏せ・防火鎮火の神様」として信仰を集めています。
三歳までの子供が詣るとその子一代火難から免れるという言い伝え
もあり、お子様連れで登山される方も多いのです。
山頂までの参道を「おのぼりやす~」「おくだりやす~」
と言ってすれ違う人同士が声を掛けあうのがお約束です。
☆交通はJR嵯峨嵐山駅から京都バス10分、バス停:清滝下車
登山口から山頂まで徒歩約120分 。
車では新丸太町通りを嵯峨清滝道へ一路清滝へ
駐車場あり(有料80台) でも狭い谷あいの地域なので
かなりの混雑が予想されます。
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