保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

平家物語・那須与一堂を訪ねて。

2005-09-03 21:28:51 | シリーズ・京都を歩く
時代劇大好きなはっちんが
今一番楽しみにしている番組が
NHKテレビの大河ドラマ‘義経’です。

その中に四国・屋島での平家の合戦の
シーンに義経役のタッキーの相方
今井翼君が出演するシーンがありました。
この翼君の役が弓矢の名手で誉れ高い
那須与一(なすのよいち)です。

この那須与一が屋島の合戦以前の
源平存亡を掛けた戦い、一の谷の合戦に
参加するする為、この丹波(亀岡)を
進んでいた時、急に病をわずらい養生
したのが亀岡市・法楽寺にある
「那須与一堂」です。

与一は一の谷攻めの為、義経の軍に参加し、
この口丹波に差し掛かった時、突然病に
かかり動けなくなったそうです。

そこで陰陽師・安部晴明が建立した
法楽寺の阿弥陀如来に祈願したところ
たちどころに平癒して義経一行の
後を追い合戦に参加できたのです。

平家物語によると、その後、元暦2年
(1185)2月、四国屋島に合戦に
おいて那須与一は‘扇の的射り’により
その名を天下に轟かすことになるのです。

屋島でのお話・・・
平家は美しい女人を小船に乗せ、
「この扇を射落としてみよ!」との挑発を
します。
与一は目を閉じて
「源氏の名誉の為、南無八幡大菩薩、願わく
はあの扇の真ん中を射させてくれ給え。」と
念じて目を見開いて射抜いたという
名シーンは余りにも有名です。



亀岡の下矢田町の法楽時に建つ
「那須与一堂」は国道9号線から
大阪高槻市に抜ける府道沿いの
田んぼの中にあります。

車なら注意をして見ていないと、
見逃してしまいそうな看板と石碑が
立っているだけの質素な入り口です。



その入り口から田んぼのあぜ道を通って
法楽山という小高い山裾に与一堂はあります。
小さな手すりのついた細い道を幾度か
折れながら上がるとそう広くない平地があります。


その平地に「那須与一堂」だけが建っています。
このお堂には与一が病の癒し祈願する200年前に、
平安時代の有名な陰陽師・安部晴明が恵心僧都に作らせた
阿弥陀如来像が奉られておりました。
この阿弥陀様に与一が祈願し平癒したことから
今では与一堂の本尊になっています。

この霊験あらたかな阿弥陀様には、延命長寿を
請け合い老病や尿の悩みを軽くするご利益や、
武術や学問の上達にもご利益があると
云われ、今も訪れる人が絶えません。

余り京都では有名ではなく、規模は大きくは
ないお堂ですが、物語があり古く由緒もある
隠れた名所といえるでしょう。

車で来られる方は駐車場がないので注意して下さい。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
与一堂 (はっちん)
2005-09-05 20:29:04
tomoさん、はじめまして。

わが町・亀岡は源氏ゆかりの史跡が

たくさんある地域です。



与一堂は地元の人でも気がつかない

ほど、目立たない所にありますが、

与一は、間違いなく屋島の合戦の

立役者の一人だと思います。



弓矢の名手といわれ、義経軍に参加して

いたのですが、後年は兄・頼朝に仕え、

那須氏の総領(後継ぎ)の地位と

領地として五カ国内の荘園を

与えられたと伝えられています。





この丹波に地で不思議なご守護を

頂いた恩から、与一は後年、武士を

捨て阿弥陀如来の信仰に余生を送った

と伝えられています。

この与一堂は享保元年(1716)に焼失してしまい、

地元の人の手によって見晴らしのいい

今の位置に建て変えられものです。



燃え落ちたお堂の跡のは金色の本尊が

たっていたとも伝えられています。



ホントに素朴なお堂ですが、すがすがしい気持ちに

なれるところですよ。

是非、機会があれば行ってみて下さい。

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勉強になりました! (tomo)
2005-09-04 22:33:21
はじめまして。

今井翼くんのファンなので、ブログ巡りをしていて保津川下りの船頭さんのブログにたどり着きました



与一堂なんてあるんですね

翼くんが演じることで簡単にどのような人物だったのか調べたのですが

船頭さんの与一堂訪問が一番分かりやすく

もっと調べたい気持ちになりました。

機会があったら行ってみたいです
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