上内膳堤を越えて行くと、川が一気に広くなります。
すると前方に低い橋が見えてきます。
この橋の名前を「保津小橋」といいます。
上流に掛かる大きな橋が「保津大橋」と呼ばれるのに対して
こちらは小橋。しかし対岸の保津の村の人たちにとっては
どちらも重要な生活橋には変わりはありませんでした。
この保津小橋については以前書いた事があるのでご覧になられた方も
おられるでしょうが、このシリーズが上流から順番に下ることになっているので
再度の登場で重複する事をご了承ください。
車が一台しか通れない小さな橋ですが、鉄筋コンクリートで出来ています。
そしてこの橋、保津川が洪水になると川の中に沈んでしまう橋なのです。
その為に欄干が造られてないのです。
保津の人はこの小橋のことを‘高(たか)橋’と呼んでいます。
水没するほど、川の堤防よりも低い位置に架っているのに
高橋?と呼ぶのは何故なのでしょう。
その理由は、昔、架かっていた流れ橋に云われがあるのです。
昔、農家の人々にとって、保津川のような大きな川を渡り
対岸の農地へ行くということは、大変な苦労がありました。
しかし、当時の日本では、今のように、一農村のために
行政が橋を架けるなどということは、財政上考えられない時代でした。
その為、地元の人々は、丸太で橋を組み、その上に板を2枚敷くという
簡単な橋を架けて対岸の農地へ行っていたそうです。
丸太橋は橋幅も狭く、二人が橋の上で出会えば、お互いが横になり
向かい合って渡らねばならなく、背中に荷物を背負っている人と
すれ違う場合などは、橋の外にはみ出して渡っていたそうです。
この橋を渡る時の恐怖から「とても橋が高く感じる橋」‘高橋’と呼ばれました。
また、地元では「高橋を渡れない者は保津の嫁にはなれない」とか、
橋を渡る心得として「絶対下を向かず前だけを向いて渡れ」などのアドバイスを
年長者がするなど、保津村人の象徴と考えられていた向きもあるようです。
そんな丸太橋も昭和25年には今の鉄筋コンクリート型の橋の生まれ代わり、
洪水の度に流れて不便を感じる事もなく安全に渡れる橋が架けられたのです。
ではなぜ?今の保津小橋、高さが堤防より低いんでしょう。
これは長年、水害に悩ませられた経験から来ています。
保津川は有史以来の暴れ川で、谷間近郊流域の保津も幾たびかの大水害の見舞われました。
豪雨が降れば、堤防を超えることなど簡単の事で、小規模の橋などは高くする方が流されやすいのです。
洪水になれば周辺から、木かぶや巨大な倒木、大型ゴミが
勢いよく流れてきて、橋に当たり破壊されます。
水害を多く経験している保津の人たちは、増水の高さによって
どのような物が流れてくるかを知っていました。
その時、橋を川深く沈めておけば、これらの流物が橋に当たらず、
水位が下がればもとの姿のまま浮かび上がってくると考えたのです。
欄干がないのも流れの抵抗を受けなくするためのものです。
この読みは見事にあたり、半世紀すぎた今でもその姿は変わることがありません。
まさに水害と共に生きてきた人間の知恵からできた橋、それが保津小橋なのです。
この沈下橋スタイルが残っているのは、京都では木津川とここだけです。
日本でも数ヶ所しかないのではないでしょうか?
保津川下りをされることがあれば、一番最初に潜る橋、保津小橋は
こんな橋なんだな~と思い出して下って頂くと、また一つ楽しみが増えるのではないでしょうか?
時代は変わり、車が渡る時代になった今でも
小橋は変わることなく、昔の流れ橋の匂いを残してくれている橋なのです。
今年は台風が10回も近畿を通過していく異常な年でした。
保津小橋も増水した川の中に3回も沈んでしまいました。
しかし橋の姿は磐石として動じてませんでした。
すると前方に低い橋が見えてきます。
この橋の名前を「保津小橋」といいます。
上流に掛かる大きな橋が「保津大橋」と呼ばれるのに対して
こちらは小橋。しかし対岸の保津の村の人たちにとっては
どちらも重要な生活橋には変わりはありませんでした。
この保津小橋については以前書いた事があるのでご覧になられた方も
おられるでしょうが、このシリーズが上流から順番に下ることになっているので
再度の登場で重複する事をご了承ください。
車が一台しか通れない小さな橋ですが、鉄筋コンクリートで出来ています。
そしてこの橋、保津川が洪水になると川の中に沈んでしまう橋なのです。
その為に欄干が造られてないのです。
保津の人はこの小橋のことを‘高(たか)橋’と呼んでいます。
水没するほど、川の堤防よりも低い位置に架っているのに
高橋?と呼ぶのは何故なのでしょう。
その理由は、昔、架かっていた流れ橋に云われがあるのです。
昔、農家の人々にとって、保津川のような大きな川を渡り
対岸の農地へ行くということは、大変な苦労がありました。
しかし、当時の日本では、今のように、一農村のために
行政が橋を架けるなどということは、財政上考えられない時代でした。
その為、地元の人々は、丸太で橋を組み、その上に板を2枚敷くという
簡単な橋を架けて対岸の農地へ行っていたそうです。
丸太橋は橋幅も狭く、二人が橋の上で出会えば、お互いが横になり
向かい合って渡らねばならなく、背中に荷物を背負っている人と
すれ違う場合などは、橋の外にはみ出して渡っていたそうです。
この橋を渡る時の恐怖から「とても橋が高く感じる橋」‘高橋’と呼ばれました。
また、地元では「高橋を渡れない者は保津の嫁にはなれない」とか、
橋を渡る心得として「絶対下を向かず前だけを向いて渡れ」などのアドバイスを
年長者がするなど、保津村人の象徴と考えられていた向きもあるようです。
そんな丸太橋も昭和25年には今の鉄筋コンクリート型の橋の生まれ代わり、
洪水の度に流れて不便を感じる事もなく安全に渡れる橋が架けられたのです。
ではなぜ?今の保津小橋、高さが堤防より低いんでしょう。
これは長年、水害に悩ませられた経験から来ています。
保津川は有史以来の暴れ川で、谷間近郊流域の保津も幾たびかの大水害の見舞われました。
豪雨が降れば、堤防を超えることなど簡単の事で、小規模の橋などは高くする方が流されやすいのです。
洪水になれば周辺から、木かぶや巨大な倒木、大型ゴミが
勢いよく流れてきて、橋に当たり破壊されます。
水害を多く経験している保津の人たちは、増水の高さによって
どのような物が流れてくるかを知っていました。
その時、橋を川深く沈めておけば、これらの流物が橋に当たらず、
水位が下がればもとの姿のまま浮かび上がってくると考えたのです。
欄干がないのも流れの抵抗を受けなくするためのものです。
この読みは見事にあたり、半世紀すぎた今でもその姿は変わることがありません。
まさに水害と共に生きてきた人間の知恵からできた橋、それが保津小橋なのです。
この沈下橋スタイルが残っているのは、京都では木津川とここだけです。
日本でも数ヶ所しかないのではないでしょうか?
保津川下りをされることがあれば、一番最初に潜る橋、保津小橋は
こんな橋なんだな~と思い出して下って頂くと、また一つ楽しみが増えるのではないでしょうか?
時代は変わり、車が渡る時代になった今でも
小橋は変わることなく、昔の流れ橋の匂いを残してくれている橋なのです。
今年は台風が10回も近畿を通過していく異常な年でした。
保津小橋も増水した川の中に3回も沈んでしまいました。
しかし橋の姿は磐石として動じてませんでした。
はっちんさんのブログ、素敵ですね。
いつも楽しみ見ています。
私のお気に入りは「シリーズ保津川・・・」です。今年の春に保津川下りに寄せていただいたので名所が懐かしいです。
この前の台風で運休されていたので、この企画はどうなるの?と心配していましたが
復活されてうれしいです
このブログで勉強して、今度行く時はしっかり保津川通になってやる~
でも心配しないでね。ツッコミはいれませんから。
はっちんさんにも会ってみたいな~
これからもお体に気をつけて頑張って下さい。
そして素敵なブログを発信し続けてくださいね
このブログも企画も気に入ってもらえたご様子。
嬉しいかぎりです。
運休中はシリーズが書けなくてご心配お掛けしました。あの時期はホントに苦しいかったです。
これからはどんどん書き込んでいきますので、楽しみにお待ちください。でも嵐山までのネタが多すぎて到着するのはいつの事やら?気長に待っててください。
今度船に乗られるときはご一報をお忘れなく!