保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

愛宕山の麓を流れる神秘な美しさ漂う川・「清滝川‘ものがたり’」序章

2011-12-11 21:43:29 | 京都大学
保津川の支流に[清滝川]という山峡を流れる美しい川があるのをご存知でしょうか?

清滝川は京都市の北西部を南流する川で、京都市右京区京北町の飯森山を水源とし、
愛宕山東麓を南に縫いながら保津川へ合流する延長21kmの川で、
源流近くの集落・大森付近を除いては、盆地らしいところを流れることがなく、
まさに山の中の川です。

清滝川の谷幅は、保津川よりひとまわり狭く、V字に切り立った渓谷でありながら
断崖がなく、どこか山の優しさを感じさせる川風景で、京都でも最も‘美しい川’
ともいわれています。

上流部には川端康成の小説「古都」の舞台になった北山杉の産地・中川があり
中流域からは高雄・槇尾、栂尾の三尾の峰を縫い、川沿いの山地には
日本最古のお茶の栽培地にして世界文化遺産でもある高山寺や
空海ゆかりの寺・神護寺などもある仏教修行の谷川でもあります。
川は下流域である愛宕山参詣登山口の集落・清滝を抜けると、
民家のない峡谷へ入り、約2キロほどで本流・保津川へ注ぐ。

仏教修行の谷川は、平安時代から修験道の修業場・愛宕山への入口では
「俗から聖」へと身を清める結界水垢離場としての性格も兼ねていたので
どこか神秘的なムードを感じさせます。

その清らかな流れと風情が、日本初の自然派作家である徳富蘆花や与謝野鉄幹・晶子夫妻を
はじめ梶井基次郎、織田作之助などの文人墨客に愛され、作品の中でも紹介されています。


これら文豪が常宿とした「ますや旅館」(上の写真左側の建物)は、今も清滝集落に
唯一現存する旅館として営業されており、数多くの人間ドラマの記憶をとどめています。

また、流域を山に囲まれている清滝川は、保津川と同様に筏流しが盛んに行なわれました。

平安時代の歌人・俊恵法師や鎌倉時代の天皇・後嵯峨院の歌に、
清滝川を流す筏のことや筏士のことが詠われています。

上流の小野郷や中川から相当量の材木が清滝川を小筏や「丸太一本流し」で移出され、
高雄~清滝集落付近から筏に組まれ、保津川を経て下嵯峨の材木屋へ搬入されていました。


初夏のゲンジホタルの乱舞と秋の紅葉の美しさは「関西一」との定評があり、
春にはアマゴ、夏に鮎つりで賑わう京都有数の景勝地を象徴する川なのです。

私は現在、この清滝川と清滝集落を、京都大学・生存基盤ユニットの実践研究地として
自然・歴史・文化の潜在力再生への強い関心を持って取り組んでいます。

京都で最も美しい山峡の川・清滝川と京都最強のスピリチュアルスポット
である清滝集落にまつわる自然や人々の‘ものがたり’を
このブログでも紹介していきたいと思っています。

保津川下り‘船頭物語’~厳しく寒い冬の船頭生活から~

2011-12-08 16:53:17 | 船頭の目・・・雑感・雑記
この時期になると、保津川下りの船頭たちの話題は「冬の仕事のこと」です。

川下りが閑散期になる冬は、船頭にとっても寒い季節。
冬期の間、若い船頭を中心に約3分2の船頭が他の仕事へ移っていきます。
世情厳しい昨今です。みんな、今年はいい仕事がみつかるかな??毎年不安があります。

とにかくこれから、遊船事務所もすっかり寂しくなります・・・

私は大学から新聞社記者を経て、結婚を期に京都の伝統的な観光業である
「保津川下りの船頭」へと転職し‘川’と‘渓谷’という自然の中で
生きる人生を選択しました。

今だ江戸時代のままの「手漕ぎ」にこだわる、伝統の操船技術を習得する為に
約3年間、二人の師匠に付き、連日、厳しい修業と伝統的な風習や習慣が色濃く残る
人間関係の中で‘人間力’を磨く日々でした。

観光都市・京都の一翼を担う観光業・保津川下りも、川という自然環境が「冬」の
イメージとつながりにくいこともあり、冬期は訪れる人もめっきり少なくなります。

出来高給料制の所得形態である我々船頭には、冬の収入は皆無等しい額になります。
しかし、各自が独立して事業にあたる企業組合という性格上、会社はなんの保障制度
もなく、冬期は自力で仕事を探してきて、飯の種を手に入れないといけません。

私も、保津川下りに入社以来、冬の3ヶ月間は様々な仕事をしてきました。

地元亀岡の農家で聖護院かぶらの収穫手伝いや農業用のビニールハウスの設営作業。
また、市公共工事の日雇い土木作業員から、砂防ダムや橋梁の型枠大工見習い。
京都の中央市場で老舗蒲鉾屋の冷蔵庫作業員や配達人や地元にある大手乳製品工場
専門の深夜のトラック運転手などなど・・・一体、この17年間で
どれだけの仕事をしたことだろう。

いつも唇をかみ締めるような忍耐の必要な仕事が多く、偉そうな元新聞記者などという
プライドなど木っ端微塵に砕かれるような、立場の弱い内容の仕事も多く経験しました。

あらためて振り返ってみると、自らの歩んできた人生ながら「こんな人生があるのか?」
と思えるほど、波乱万丈であり、ある意味一種、奇跡的な人生を歩んでいるとさえ感じます。

経験のない新たな仕事では、すべて先輩に頭を下げて教えて貰う事ばかりです。
先輩といっても私より若い社員さんも多く、屈辱的な言葉を投げかけられたこともしばしばです。

「所詮、冬の間だけのアルバイト」いやなら辞めればいいだけのこと。
でも、何か負けた気がして絶対にいやだったです。それは、指導される上司ということでは
なく、自分自身の「心の弱さ」に負けるのがいやだったからです。

「本職は船頭だが、ここでバイトしている時は、その仕事のプロにならないと!」
そう思って意地をみせながら取り組んできました。

今、振り返るとこの経験と克服しようとする精神力を涵養できたことこそ、
私の人生の上での大きな財産になっているとさえ思えます。

様々な現場で仕事をして、そこで生きる人たちの思いを実体験で知り、体感した私。

記者時代、様々な仕事や職種の問題や課題などとそこに生きる人を取材してきた私。
でも、聞くのと自分がするのでは雲泥の差があることを知りました。
聞いてわかった気になっていた自分の甘さを思い知らせれました。

でも、誰もが経験したことのないであろう、こんな稀有な‘人生’だからこそ、
自分で歩んでいくこと事体「私が生きる意味」でもあると感じています。

人生はかくも面白いのだ。

こんなご時世です。
多くの人が、職場現場で絶望的だと思えるような辛く厳しい時も多々あると思います。
しかし、一度や二度の挫折、厳しい今の立場や状況に折れることなく、いつも心は陽気に
前を向いて仕事に工夫と改善を加えて行く姿勢で、一生懸命‘自分磨き’をしていれば
‘チャンス’は必ず訪れるものと信します。

これからの厳しい社会へ飛び込んでいく若者こそ、そう思ってほしいと思います。

船頭の厳しい冬・・・多くの社会経験を学び、自分を磨く良い機会になると
思えば、それも無駄ではないと思えるのです。

もちろん、遊船事業が冬期に今のような現状であることを改善することが
最も大切な企業的課題であることはいうまでもないですけどね・・・

保津峡‘紅葉物語’~渓谷の自然が教えてくれること~

2011-12-05 20:39:08 | 船頭の目・・・雑感・雑記
保津峡・・・四季折々の美しい情景が息づく渓谷という名の
大自然が生み出した巨大な空間。

悠久の時が刻んだ渓谷が見せてくれる「自然の摂理」には、
人が生きていく上での貴重なヒントをいくつも教えてくれていると
感じることがあります。

今年も渓谷を錦絵のように彩った紅葉の秋が去ろうとしており、
もうすぐ山は静寂の冬へと向かいます。
秋から冬にかけて渓谷の風景はまた、著しい変化をみせるのです。

晩秋の保津峡は、それまで緑一色だった木々の葉にさまざまな色が付き始め、
華やかな彩に包まれます。紅葉はカエデの葉ばかりではなく、
イチョウやケヤキ、サクラ、フジなどもあり、それらは黄葉へと染まり、
スギなどの針葉樹の緑と相まって美しいコントラストを現します。
保津川沿いのカエデは、秋の風光に照らされ、艶やかに赤色を浮かび上がらせ、
保津峡の紅葉美を一気に際立たせます。

川岸という厳しい自然条件のもとで育った保津峡の紅葉には、
社寺仏閣のような手入れされ大事に育てられた上品な美の演出はないものの、
自然に鍛えられた荒々しい力強さと逞しさを持ち、野趣に富んだ美しさを醸しだします。
度々襲う洪水の激流や焼けつく様な日照りに晒されるという、
まさに‘逆境’に耐え抜いたものが醸し出す赤色です。
岩盤の地面にしっかり根を張り、川への延びる幹、赤く染まる葉の姿は、
どの様な苦難にも耐え抜いたものだけが到達できる誇り高き‘美’であり、
見る者に困難に負けず、生き抜くことの大切さと勇気を与えてくれるのです。

そして、紅葉の散りゆく姿は‘いのち’の終焉という深いメッセージが潜んでいます。

秋の到来とともに、紅葉は葉先から緑、黄緑、黄、朱という色順序で色づき
、葉全体を赤く染めていきます。
しかしそれは、葉が落ち、終焉へと向かう姿でもあります。
終焉が近いことを悟った木々は、糖分を葉に残し、自らの水分や養分を絶つことで
葉緑素を壊して‘紅葉’と呼ばれる赤色へ変わっていきます。

それはまるで‘いのちの炎’を燃やしきるかのような赤さです。
やがて葉は雨露の重みや強い秋風に吹かれ散り、落葉となり、いのち尽きます。
だが、落葉に残した糖分は土壌へと浸み込み、木々の根へと栄養を運び、
次の‘生’をつなげる大事な役割があるのです。

木の根は‘冬’という眠りの間に土壌の養分を吸い上げ、
春に芽吹く新しい‘いのち’を育てていく。
「死」が、新たな「生」を支え‘永遠’となり‘いのち’は繋がっていきます。

一年という時間に凝縮された‘自然のサイクル’は
「あらゆる命あるものの死が、終局を意味しない」ということを
私たち人間に語り掛けてきます。

死したものは生まれ変わり、出変わりして、
滔々と尽きることなく‘いのちの大河’は流れていきます。

私はここを仕事場に選び、17年の月日が流れました。

そして今日も舟を操り、自然が語りかけてくる‘声’を
体と心で感じながら、清流を下っていくのです。




保津峡‘紅葉物語’。トロッコ沿線のモミジと自然生えのモミジから~

2011-12-01 16:20:34 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今日から12月。でも保津峡の紅葉は今が盛りです!

葉の染まり具合も深みが帯び、目に沁みる赤さと
心もまで温かくさせる朱色へと進んできました。

なかでも鮮やかさで観光客の目をくぎ付けにするのが、
トロッコ列車・嵯峨野観光鉄道沿いの紅葉です。
まだ背丈も2mそこそこの小さく若いモミジたちですが、
若々しくイキイキとしたまぶしい赤さを出す木々たちです。

この若いモミジたちこそ、トロッコ列車創業に賭けた男たちの
熱い思いの結晶ともいえるモミジたちなのです。

今から20年前の1990年の春、JR(当時は国鉄)山陰本線の
複線電化バイパス化計画に伴い廃線となっていた保津峡区間の鉄道を、
観光用鉄道として復活させ活用する為に創業された嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車。

今でこそ年間1千万人を超える観光客が訪れる日本一の観光列車であり
京都嵯峨野観光屈指の人気施設として知られるトロッコ列車ですが、
開業した時は、線路には雑草が生い茂り、ゴミも散乱、沿線は
雑木でうずもれ、線路下を流れる保津川など見えないほどの荒廃ぶり。
しかも、駅舎もなく切符売り場の小屋と一本のホームがあるだけ。
JRから与えて貰ったのは古いディーゼル列車のみという、最悪の
条件、まったく期待されないところからのスタートでした。

それどころか、無茶な観光列車計画に「赤字確実、もっと3年・・・」という
見通しを示す会社幹部もいたほどでした。

そこへ社長として派遣されたのが、当時40歳前半で1000名を超す
部下のトップとしてエリートコースをばく進していた
現・嵯峨野観光鉄道社長長谷川一彦氏でした。
移った新規会社嵯峨野観光鉄道の社員は僅か8名・・・
荒廃しきった線路・・・
まったく見通しのたたない事業で「もって3年」と揶揄される・・・
まさに屈辱的な絶望感からのスタートだったのです。

そんな中、悔やんでばかりいても何が変わる訳でもないと、発想を変え、
「どうせ、3年しかない命なら、何かを残して死んでやろう!」
と社長は沿線に「木」を植えることを思い付かれたのです。
「鉄道は姿を消しても『木』はこれからも残っていくやろ~」
それはアーバンネットワークが進む当時のJRの中で、人気もない
深い渓谷の荒れた廃線に取り残された鉄道マンたちの意地でもあったのです。

社長以下社員一同が手にスコップとバケツを持ち、背丈以上もある
雑木や雑草を一つひとつ取り除き、嵯峨野から保津峡、そして亀岡までの
沿線間を歩きながら、モミジやサクラの苗を一本一本手作業で植えていかれたのです。
それから20年、沿線には4千本を超える木々が植樹され、3年もたない、と
いわれた観光列車は、現在年間100万人以上が訪れるJR西日本最強の子会社
といわれ、今の隆盛を得たのでした。

たった9人の鉄道マンの意地とプライドが生み出したモミジたちは、
川沿いの傾斜に自生している自然生えのモミジたちと一緒に
保津峡の秋を鮮やかに彩っているのです。

厳しい環境を耐え抜いてきた自然生えのモミジと逆境から始まった
トロッコ列車の方々が植えられたモミジは、どちらも京都の寺院などで
丁寧に育てられたそれとは異なり’どこか逞しさを備え、
凛とした野趣にとんだ美しさを感じるのです。

逆境に耐えて克服してきたものだけが醸し出すことができる美しさです!

まだまだ紅葉は見頃ど真ん中です。

これから保津峡の紅葉をご覧になられる方々は、是非、自然と人が
織りなす「保津峡の‘紅葉’物語」を思い浮かべながらご覧ください。

きっと、強さと温かさをこみ上げ、紅葉がより赤く見えることでしょう。