ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2018-16 そんなやわじゃない、とある若者

2018年01月23日 | 日記
新年早々の箱根駅伝に続いて全国都道府県対抗男子駅伝。

昨年25位ぐらいの岩手が今年は42位とふるわなかった。

本県、アクシデント続き消沈と新聞には書いてあった。

インフルエンザにかかった一関学院と
残りの高校生も調子が悪かったこととアンカーの山梨学院の永戸が
やはりインフルエンザで出場できず交代したためと監督。

応援にいった知人である母親によれば
なんでも箱根駅伝1区を走った時高速レースで
団子状態。15位に終わったが
いつ飛び出そうかと迷っていて、飛び出す勇気がなかった
と本人の弁だったようだ。
それでもトップと①分いないなのだ。
走ったその日往路のメンバー、を交えて
監督、OB、父母など100人で反省会及び慰労会。

結果があまりよくなくて、気を使って触れないようにしたらしいが
「大丈夫。おれはそんなにやはじゃないから。
あと1つの勇気がでなかった」と、あの走りを悔いていたそうだ。

今度の大会は心に期するものがあっただろう。それなのに
インフルエンザとは。
残念である。来年は今年のくやしさをバネに一層、奮起することだろう。





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2018-15 小さな農村の女性リーダの死去

2018年01月22日 | 日記

先日、地域貢献につくし、食の匠2号の
農協の婦人部の会長をしていたケイさんが亡くなった。
80歳であった。

若いころから食に関心をもち、聡明でで農業を独学で学び
ソバ打ち、や漬物漬けなどがうまく、
雑誌「家の光」に投稿したり、
全国の食の郷土料理では何度も入賞。

昆布とひき肉を混ぜ、蒸して作った昆布巻きが優秀賞に選ばれたそうだ。

平成8年に発足し今でも続いている岩手の郷土料理を推進する
「食の匠」に選出されたキャリアの持ち主。

農協の今でいう女性部の地域の会長を何期か努めている。

リーダーを育てバトンタッチするまでが仕事とよくいっていたと現会長。

働き者で半年前に入院する前まで働いていたという。

産直では、まっすぐなきれいなキュウリを大量に出荷。
なにが違うのかと聞くと肥料だよ。と

一度自分の家に来て教育書のたくさん並んでいる書斎をみて
本を借りて読みたいといっておられたことを思い出す。読書好きな方だった。

地域に貢献した方で亡くなったことが惜しまれる。

合掌。

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2018-14 様変わりの19昼デモ

2018年01月19日 | 日記
毎月19日、正確には19日前後
130団体が加盟の全国市民アクションの会が主催の市民による昼デモが行われている。
岩教組の旗もなびいていた。
コースは
県庁前の公園から大通りを通り中央通りを歩いて県庁前までの約20分間である。

なぜ19日なのか。

それは2015年9月19日未明安保法案が強行可決
成立した日にちなんでの抗議デモなのである。

デモには数年ぶりの参加である。
今日は午前中原発から自然エネルギーの転換の会議の後だった。



かつては半世紀ぶりの教育基本法の改悪への抗議が中心だった。
日比谷公園から国会前までのデモに全国の教職員が結集した。
その当時は呼びかける内容が多くて
長々しく声がバラバラになってしまう感がしたものだった。

しかし変わらないものが「教え子を再び戦場に送るなという」普遍のスローガンだった。

さて今は言葉が短く、言いやすくなったという感じだ。まるでラップ調である。

また政党色が弱い市民デモといった様子だ。参加者は60人前後。

大通りでは「沿道の皆さんも一緒に参加しませんか」といった呼びかけ。
誰でも気軽に参加できる雰囲気が漂う。

今年は国民の大半が反対している憲法9条改悪も予定されている。

市民の一人として目を離せない憲法問題である。


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2018-13 身内が車イス生活になった時、かける言葉は?

2018年01月18日 | 日記
山あり谷ありの人生・・末盛千枝子氏の人生である。(本人が述べておられる)

彫刻家、舟越保武の長女として1941年に東京で生まれ絵本の編集者を経て
1988年すえもりブックスを設立。皇后美智子さまの講演集など出版。

夫はNHKのTV音楽番組担当。難病の長男、2歳離れて次男誕生。
長男が8歳の時、夫が突然死。
長男は難病とは別にスポーツの時の怪我で下半身不随に。26歳の青年だった。
15年前のことであった。
父の死後、会社をたたんで八幡平に父の舟越氏がたてた家に
2010年5月長男と共に転居。2011,3,11の震災では絵本プロジェクトを立ちあげ
被災地の沿岸部に絵本等を届ける。

物静かであるがしんがしっかりして前を向いている印象だ。

今日は息子が下半身不随になった時の親の苦悩と愛情に満ちた話をされた。

医者にもう自力で歩けなくなると宣告された時。
息子は涙を浮かべながらも「わかりました」と受け止めたと。

母として息子になんといって励まそうか。
絵本編集者らしく自作で著名な方の言葉を選び並べた手作り本を贈ったというのだ。

遠藤周作かげぼうし、美智子さまからのメッセージなど

そして神の話を紹介してくれた。

ある一人の男が神様にお祈りしたあと夢をみたそうな。砂浜に自分と神様が並んで歩いていて2つの足跡が見えた。
しかし最も苦しい時、足跡が1つしかないのに気付いた。と
神様はいつも一緒に歩いてくれるといったのに自分が苦しい時見放されてしまったのか。と男は嘆き悲しんだ。
神は「お前にはそんなふうにみえたのか。それはお前を下で支え背負っていたのだよ」とお答えになったという。

希望の数だけ道がある。ーガンジー

このような言葉を集めて編集した手作りの絵本をリハビリしていた息子に渡した時
息子は「よくやるな。」と一言。

昨年末、末盛氏の息子さんが病状がすぐれず病院に緊急入院したという話から息子さんの話題になった。

身内があるいは将来万が一車イス生活になった時
それをどう受け止めるか、考えさせられたお話であった。




















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2018-12 忘れないあの日、阪神大震災

2018年01月17日 | 日記
平成は震災が多かったといわれている。

あの7年前の3,11東日本大震災はまだ記憶に新しいが
23年前の1.17の阪神大震災も忘れられない出来事だ。
なにしろ、当地で震災を経験したからである。

京都から神戸に観光旅行中だった。
前の日、神戸のホテルオークラの20数階に宿泊。
早朝だった。まだ6時前、縦揺れ、横揺れと大きな揺れにおそわれ
たっていることができずベッドにしがみついた。

何事かと揺れがおさまって
窓の外をみると、目の前の高速道路の橋桁が横倒しになっていた。
茫然とした。信じられない光景が目の前にあった。
遠くの方から煙が見えた。
ヘリコプターの音が聞こえた。
サイレンの音がした。

何があったのかテレビをつけても何も映らない。停電であった。

急いで非常口の電気のつかない中の暗い階段を
降りてフロントまで降りて行った。

外に出ると地面が水で濡れていた。
液状化現象である。

とりあえず街の中を歩いて行くと民家がビルが押しつぶされていた。

ガスのにおいがした。
危険を察してホテルに戻った。朝食にケーキがでたことを覚えている。

今日のテレビでは震災にあった若い女性が

生き残った分、頑張らないとと気負った生活から
少し楽な生活をしたい。ということを言われていた。

23年過ぎても精神的な痛手をひきずっているのだ。

普通の生活をしてほしいものだ。







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