創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

宇治拾遺物語(74)その1

2016-11-29 16:56:06 | 創作日記
宇治拾遺物語(74)その1
これも今は昔。
堀河天皇の御時、陪従に家綱と行綱という兄弟がいた。
『*陪従というやからはそんなもんだといいながら、家綱・行綱兄弟の金玉の話は世に比べるものがないほどの**猿楽そのものだった。何のことやら分からない。まあ、先を焦らずに話を聞け。』
横柄な言い草だ。まあ、御簾の中にいるのが大納言とは思わないだろう。
それに、こちらが引っ張り込んだのだからそれも仕方があるまい。
『あれは恐ろしいほどの寒い夜だったが、家綱・行綱兄弟には一生に一度の晴れ舞台だった。』
ぼろぼろの単衣を羽織っただけの、殆ど裸同然の坊主が菓子の代わりに酒を乞い、ちびりちびりと飲みながら話し始めた。
なんだか奇妙な気配がした。松脂の匂いがする。体がうっすらと燃えている。
このくそ暑いのに……。こいつは人間ではない。俺は初めて気づいた。
俺の目の前を通り過ぎていくのは人間だけではないのだ。
『***内侍所の御神楽の夜、天皇から「今夜は珍しい猿楽をせよ」との仰せがあった。
「どんなことをしたら良いだろう」
と、家綱は思案して、弟、行綱を部屋の片隅によんで、
「珍しい猿楽をせよと承ったのだが、私が考えたことはあるのだが、どんなもんだろう」
と言ったので、
「どんなことをなさるつもりです」
と訊くので、
「かがり火が煌々と燃えているところに袴を高く引き上げて細脛(ほそはぎ)を出して、
「よりによりに夜の更けて さりにさりに寒きと ふりちうふぐりを ありちうあぶらん」
と言ってかがり火の周りを三遍ほど走り回ろうと思う。どうだろう言うので、
行綱が答えて、
「そうですね。ただし、天皇の御前で細脛かき出だして 、金玉を炙らんなど仰るのはまずいんじゃないですか」
と言えば、家綱、
「たしかにおっしゃるとおり。さればちがうことをしよう。相談してよかった」
と言った。』
「お顔が真っ赤」と下女が耳元で言うので、燃えているのじゃなくて単に酔っているだけかも知れない。
ろれつも少し怪しくなった。
『殿上人など天皇の仰せを聞いていたので、
「今宵はどんなことをするのだろう」と注目して待っていると、舞人の長が家綱を召す。
家綱がでてきて、たいしたことのない内容で引っこんでしまったので、天皇以下が期待外れだとがっかりしているところに、
舞人の長が再び出て来て行綱を召す。
行綱は実に寒そうな様子で膝を股までかき上げて細脛(ほそはぎ)を出して、
がたがた震えて寒そうな声で、
「よりによりに夜の更けて さりにさりに寒きと ふりちうふぐりをありちう あぶらん」
と言ってかがり火の周りを十遍ほど走り廻ったので身分の高い人から低い者まで一斉にどよめいた。』
俺は思わず噴き出した。
坊主もキャキャと笑った。
だが一番笑ったのは下女だった。小便をちびるほど笑った。

*陪従(べいじゅう):賀茂・石清水・春日の祭りのときなどに,舞人とともに参向し管弦や歌の演奏を行う地下 (じげ)の楽人。→大辞林
**猿楽(さるがく)→平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉芸が中心で、相撲の節会や内侍所御神楽の夜などに演じた。→広辞苑
***宮中の賢所(かしこどころ)の別名。神鏡を安置し、内侍がこれを守護したからいう。平安時代には温明殿(うんめいでん)にあり、毎年12月、吉日を選んで、その庭上で神楽(かぐら)が催された。→広辞苑


以下次回。
To be continued 

ある日の宇治拾遺物語~夏は川風に吹かれるのに限る。~

2016-11-28 08:52:29 | 創作日記
夏は川風に吹かれるのに限る。
夏の三ヶ月は休暇を願い出て宇治で過ごすことにしている。
夏は仕事にはならない。
もともと仕事らしい仕事をしていないということもある。
歌を詠むのも恋をするのも夏はふさわしくない季節だ。
俺は板敷に筵を敷いて飾りばかりの御簾を下ろし一日寝っ転がっている。
川風が心地よい。下女に団扇で風をもらうのもまたよい。
だが、あまりにも退屈なのも確かだ。
家の前をいろんな者が通り過ぎていく。
二つに分ければ男と女だろう。
もう二つに分ければ大人と子供、もう二つに分ければ……。
そして、最後に一人になる。一人は一人である。
一つの命をもち、一つの頭を持ち、一人で死んでいく。
はかないと言えばはかないが、面白いと言えば面白い。
下女の尻を蹴飛ばせば、素っ頓狂な声を出して笑い、決まって流し目を俺に送ってくる。
こんな不細工な女でも、また、希有なる者だ。
そんなことをしても退屈は相変わらず居座っている。
下女に、「何か面白い話はないか」と聞いてみた。つ
まらない話が返ってくるかと思いきや、意外に面白かった。
鬼にこぶを取られた爺さんのことで、その爺さんを下女はよく知っているという。
そんなおもしろい話を聞かずに一生を終えたらなんともったいないことだった。
退屈も少しは紛れるかも知れない
そんなわけで、目の前を通り過ぎるやからからも、面白い話が聞けるかも知れないと思ったのだ。
『面白い話を聞かせてくれた者には菓子をやろう』とでも張り紙をさせようかと思ったが、字の読めぬ者もいる。
人を仕事や身分で選びたくない。面白い話は下の下の人間でも知っているかも知れない。
俺は面白い話を聞きたいだけだ。
そこで気のきく小舎人童に、
「通りがかりのやからから面白い話を知っている奴を連れてこいと」と命じた。
小舎人童がどんな手を使ったのかとんと分からないが、
女、子供、坊主、侍、盗人、多種多様な人間がこれまた多種多様な面白い話を語った。
そんなおもしろい話を聞かずに一生を終えたらなんともったいないことだったろう。
それに、俺だけが楽しむのはもったいない。後世の人間も楽しませたい。俺もやがて死ぬから書き残しておこう。
誰も読まないなら、それまでだ。
その中で一番笑ったのは、「金玉」の話だ。
お下劣な話というなかれ。
この話を思い出すと、また、笑ってしまう。
笑っている時、人間は幸せなのだ。
さて、その話とは……。
以下次回。
To be continued 





言葉のない村

2016-11-09 14:30:19 | 創作日記
 むかしむかし、おおむかし、言葉のない村がありました。
 だから、とても静かでした。耳を澄ませば、様々な音が聞こえてきます。村人は風の音を聞いたり、川の音を聞いたり、虫の声に耳を澄ましたりして暮らしていました。
 鳥の羽ばたく音、蝶の羽音さえ聞こえました。
 村では人が一人死ぬと、花を供えて、種を一つ植えました。その種から一人生まれます。だから、人数は変わらないのです。
 村人には男女の区別がなく、とても静かな人たちでした。彼等は森の命を呼吸して生きていました。
 一人一人が小さな穴で生活していました。 言葉に代わるのは身振りと瞳です。互いに瞳を覗き込んで言葉のないお話をします。分かると、いつもは白い瞳が青に変わります。瞳には青と白しかありません。
 森に清流があります。彼等は裸で向かい合って、青と白の瞳で交流します。
「よい天気だね」
 と、心に思います。
 相手の心が分かると、白い瞳が青に変わります。
「君は元気?」
 と、返します。
「大丈夫。今日一日一緒に生きましょう」
と、返します。

 村には見えない動物がいます。動物も声を失っています。村人の手が動物を撫でてかわいがります。時々、風のように通りぬけていきます。誰も動物の姿を見た者はいません。
 [ヒカリ]と[カゼ]の二人がありました。二人は幼なじみでした。ものごころついた時から二人で遊んでいました。
 [ヒカリ]が太陽を指さし、次に自分をさしました。[カゼ]の瞳が青に変わりました。[カゼ]が風に揺れる木の葉を指さし、次に自分をさしました。[ヒカリ]の瞳が青に変わりました。
 [ヒカリ]が撫でている動物の背に真っ赤な[アカイハナビラ]を一枚置きました。[アカイハナビラ]は萌えるような夕焼けの色でした。小さな夕焼けは、空中に静止しました。[カゼ]の瞳が青に変わりました。 [カゼ]が撫でている動物の背に白い花びらを置きました。[シロイハナビラ]は蝶のように空中に静止しました。[ヒカリ]の瞳が青に変わりました。
 村には季節がありません。いつも十分な光と風に満ちていました。裸で過ごしても暑くも寒くもありません。
 ある日、村に旅人がやってきました。初めて見る村人以外の人です。旅人が鳥のようにさえずるのが不思議でした。言葉が通じないことを旅人は知りました。彼は一生旅をする人でした。訪れた土地の絵を描き、描き終わるとその地を去るのを繰り返していました。
 [ヒカリ]と[カゼ]は絵に魅せられました。二人の興味を特に引いたのは海の絵でした。
「これは海。みんな海から生まれたんだよ」
 旅人は言いました。でも、村人には、鳥のさえずりのようにしか聞こえませんでした。言葉を知らなかったからです。
 打ち寄せる波。海に沈む夕日。見たこともない水の姿に[ヒカリ]と[カゼ]は興奮しました。旅人は盛んにさえずっていました。意味は分からないが、違う世界があるのだと訴えているように二人は思いました。
 二,三日すると旅人は村を出ました。二人は「海」について何時間も交流しました。この村には何かが欠けていると思いました。欠けているものは村の外にあると思いました。二人は長老の家に行きました。
 村を出る仕草をしました。村を出たいと訴えたのです。
 長老は目を閉じてしばらく考えていました。長い沈黙の後、長老は種を植える仕草をしました。二人は村では死者として扱われ、もう、村に戻ることは出来ません。二人の瞳が青になりました。
 村を一歩出ると、二頭の鹿が二人を見送っていました。鹿は黄金(こがね)色に輝いていました。二人は[アカイハナビラ]と[シロイハナビラ]の姿を初めて見ました。

 二人は旅を進めるに従って、二人だけに通じる言葉を少しずつ持つようになりました。最初にヒカリとカゼという言葉。言葉を一つ持てば、今まで心の中にあった意味を一つ失いました。ヒカリとカゼという言葉を持てば[ヒカリ]と[カゼ]を失いました。
 いつの間にかヒカリは男になり、カゼは女になりました。
 村の外には、森の命はありません。だから、命を奪わなくてはなりません。植物を引き抜き、動物を殺しました。季節の試練も受けました。冬は容赦なく体温を奪いました。動物の皮や草で体を覆いました。二人は旅人の言ったことは嘘だと思いました。「どこにも海はない」ヒカリとカゼは言いました。その時お互いが愛おしいと思いました。自分にはカゼしかいないと思いました。「海」なんてなくてもいい。カゼもそう思いました。自分にはヒカリしかいないと思いました。「海」なんてなくてもいい。
 その時、二人の目の前に海が現れたのです。とてつもなく広い水の世界が。
 ヒカリとカゼは海の見える場所に家を建てました。近くに川があり、水も豊富でした。カゼのお腹がふくれてきました。ヒカリとカゼの子供たちは、二人の言葉を引きつぎました。子供は増え続け、村には言葉が満ちていました。火を使い、道具を作りました。言葉は人と人との交流を容易にしましたが、人をだましもしました。村と村との争いも起こりました。
 ヒカリとカゼは時々言葉のない村を思い出しました。帰りたいとも思いました。あの村にはこの村にないものがあった。
 彼等のずーと、ずーと後の子孫が、言葉のない村を滅ぼすことをヒカリとカゼは想像さえしませんでした。

   了



虚構と真実の間

2016-10-25 15:38:44 | 創作日記
「失われた言葉の断片」の事件はモデルがある。
殆どの登場人物にもモデルがある。モデルとモデルの間は無数の虚構に埋め尽くされている。
アメーバーみたいに。
推敲しながら、K君の自殺の真実がまた霧の中に遠のいた様な気がした。もっと深い霧に。

失われた言葉の断片 最終回

2016-10-25 07:17:02 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 最終回  

 十一月三、四、五の三連休に私は大分市に行くことにした。飛行機で一時間の距離だ。飛行機に乗るのは何年ぶりだろう。もっとも嫌いな乗り物だった。事故も怖いけれど、巨大な鉄の固まりが飛ぶこと自体が怖い。帰りは電車にしようと飛行機に乗った後、考えた。Kさんも飛行機に乗った。帰らない旅の始まりだった。
 私は何でここまで来たのだろう。自分の行動に理屈を考え出したらきりがない。私達は理屈のために生きているのではない。飛行機がぐんぐん高度を上げる。私の住んでいる街が段々小さくなる。毎日同じ回路を私はぐるぐる回っていた。その回路から抜け出す。それが旅の目的であっても良いのではないか。私はそう考えることにした。
 三連休なのに空席が目立つ。いつの間にか窓の下は雲だけになっていた。ビールを一本もらって、目を閉じた。シートベルトを促すアナウンスで目が覚めた。

 海がどんどん迫ってくる。突然滑走路が現れる。ガリガリと派手な音を立てて、滑走し、突然止まった。

 地方都市の空港は小さく、淋しい佇まいだった。空港ビルも人はあまり多くない。二人は空港で初めて出会った。地方紙を取り寄せた同僚が言っていた。サインは何だったのだろう。帽子ではない。Kさんの頭に合う帽子はない。阪神のユニホーム。それもない。Kさんは意外と照れ屋なのだ。有賀に会ったら聞いてみよう。

 昨日ネットで辿った道を行く。大分空港から大分駅まで、バスで一時間かかる。
 まず中心街にあるコンパルホールを目指す。ネットで調べた。九州は温かいイメージなのに少し寒い。
 中庭は吹き抜けになっていて空が望める。
 エントランスに入ると、私は広い空間に迷い込んだ小さな虫のようだ。
 大分市民図書館はコンパルホールの一階にある。図書館なんて何年ぶりだろう。親と一緒に行った記憶しかない。カウンターで新聞閲覧について聞く。今年の十月四日の地方紙を見たいと言った。
「大分合同新聞でいいですね。書庫にありますから、少しお待ち下さい」
 係の女性は笑みを浮かべながら言った。十分ほどすると、新聞を持って帰ってきた。
「バインダーから外すのに時間がかかって」
 自分のドジを可愛く笑った。私は恐縮した。知らない土地で受ける好意は素直に嬉しい。
 かなり大きく取り上げられていた。二面コピーして、新聞を返した。
「ありがとう、助かったわ」
 係の女性は、微笑んで小さく頭を下げた。
 コンパルホールを出て喫茶店に入った。私は一人で喫茶店に入ることはない。人ともあまり入らない。小ぎれいな店内には、静かな音楽が流れていた。人もまばらだ。窓際の席に腰を下ろした。
 記事は概ね全国版と同じだが、一面と、三面に渡っている。自殺幇助の男、有賀の住所も載っている。お腹が空いたので、サンドイッチとコーヒーを頼んだ。署名入りで自殺サイトへの警鐘もある。この地方ではかなり大きな事件だ。食事を済ませたら、新聞社に行ってみよう。携帯電話で新聞社の場所を聞く。ここからあまり離れていない。歩いても行けるが面倒だし多分迷う。タクシーにしよう。友人は軽いから、恋人にしよう。「恋人……」。なぜかおかしかった。私は今まで恋人はいない。Kさんも多分そうだろう。いない者同士が恋人。Kさんがあの日私に会いに来なかったら、この旅はなかっただろう。そして、もう、忘れ去っていただろう。だが、本当にそうだろうか。分からない。
 窓から大分市の空を眺めた。快晴の空には雲一つなかった。私は今、異境にいるような気になった。誰も私を知らない土地にいる。私も誰も知らない土地にいる。急に不安になった。

 大通りで空車を見つけた。
 乗り込むと年配の運転手が言った。
「どこへいくのかぇ」
「大分合同新聞社」
「あんいたほうがはやいや」
 歩いた方が速いということだろう。黙っていると走り出した。不意打ちの方言に私は急に不安になった。誰も知人のいない世界に私はいるのだ。帰ろうかと思った。今なら、引き返せる。「大分駅と言えばいいのだ」。その瞬間、タクシーが止まった。
「つきたで」
 七十才位のの運転手が言った。大分合同新聞社のビルは想像していたよりも新しく巨大だった。エントランスに入り、受付に向かう。
「社会部のNさんにお会いしたいのですが」
「アポイントメントはお取りですか」
「いいえ」
「ご用件は」
「十月二日の自殺幇助事件についてお伺いしたいことがあります。大阪から来ました」
「しばらくお待ち下さい」
 受付嬢は電話を取った。声を潜めたので私はカウンターから離れて電話が終わるのを待った。広いロビーに記者と思われる人がせかせかと歩いている。面会は断らないだろう。時間がなければ待つつもりだ。まだ休みは二日ある。
 受付嬢が電話を置いた。
「お会いするそうです。会議がありますので、短い時間ならと言っていました」
 場所の説明を聞いて、立ち入り許可書をもらった。
「終わりましたら、お返し下さい」
 エレベーターで九階に上がる。長い廊下を歩く。社会部の矢印を見てほっとした。エレベーターまで戻れるか心配になる。私は方向音痴でもある。
 社会部と書かれたドアを押す。一気に騒がしい部屋に立っていた。机の上は雑然としていて、喧嘩腰で喋っている男もいる。
 一番奥のデスクの男が私を見た。あの人がNさんだろう。五十過ぎの白髪だった。立ち上がり私に近づいてきた。
「村瀬さんですか」
 私は頷いた。
「ここは喧しいでしょう。会議室に行きましょう」
 また、廊下を行く。帰りは絶対に迷う。パンくずを落としていく童話があったと思う。ティッシューを小さく丸めて落とそうかと思っているうちに着いた。Nさんは「空き」という札をひっくり返して、会議中にした。テーブルに向かい合って腰掛けた。
「遠いところをどうも。Kさんとは?」
「同僚です」
 恋人という言葉は出なかった。だが、Nさんは多分そう感じていたと思う。
「あの日のKさんを辿ってみたくて来ました」
「それじゃ、有賀にも会いますか」
「お会いしたいと思います」
「トラブルになってもねえ」
「話を聞くだけです。約束します」
Nさんは少し考えていた。
「まあ、いいでしょう。小さな町だから、どっちみちあなたは有賀に辿り着くでしょう。それに彼は危険ではないと思います」
「今はどうしていますか?」
「家にいますよ。保釈中だから、自由に動けない。裁判は来年になるでしょう」
「保釈?」
「あのあたりの名士ですよ。それも一人息子。収監もされなかった。てんかんの持病があるという理由でね。診断書が出たそうですが、医者の知り合いもありますしねえ。よく分からんですよ」
 Nさんは人差し指でテーブルを叩いた。コツ、コツ。小気味のよい音を立てたコツ、コツ、コツ。
「人が死ぬのを見て喜ぶ。異常ですよね。それも二度目です。また、やりますよ。死ぬまでやる」
 Nさんは小型の冷蔵庫から、お茶のボトルを取り出して、紙コップについだ。
「お構いなく」
「自分も飲みますから」
 Nさんは背を向けたまま言った。
「自殺サイトがあるからダメなんです。規制しなけりゃ。一人で死ぬのが怖いから仲間を求める。心中はある意味で分かったけれど。死ぬのを一緒にと言うのは分からんですよ。それも見知らぬものどうしが。人と人は実際に出会ってから関係が始まるんですよ。ネットで何がわかるんですか」
 Nさんは九州男児なのだ。声が大きい。
「九月の半ば、東京でオフ会があったそうです」
「オフ会?」
「ネット仲間が実際に会うのですよ。それにKさんは参加していた」
神宮球場に行くと言っていた。ヤクルト・広島戦を見に行った。その時オフ会があったのだ。
「有賀さんも参加していたのですか」
「有賀は参加していません。そんなところに出て行く男ではない。年もいってますしね」
 Nさんは音を立てて、お茶を啜った。
「自殺サイトのオフ会って……」
「普通みたいですよ。自己紹介して。結構楽しそうです」
「同じ趣味の人が集まるんですか?」
「まあ、そうですね。あの死に方より、こっちの方がいいとか。全然暗くないそうですよ。仲間内ですから」
「みんなKさんみたいに普通の人なんだ」
「普通じゃない人なんていないですよ。だけど間違っている。生きててなんぼですよ人間は」
 Nさんは力をこめて言った。少しの沈黙があった。話が横道に逸れた。Nさんは修正した。
「逮捕の理由は、ロープを用意した。細いロープと太いロープ。どっちにすると聞いたら、K君は太いロープを選んだ。有賀はどうしても生きているうちにやらなければならない事がある。三十分ほど待ってくれと言った。それから、三時間、有賀は物陰に隠れて、K君が死ぬのを待っていた。K君はベンチに腰を下ろして有賀を待っていた。だが、有賀は帰ってこなかった。K君は木にロープをかけて、ベンチからぶら下がった」
「有賀さんは止めなかった」
「人が死ぬのを見る。それが彼の目的だから。当然止めませんよ。何を考えているんでしょうね。そんなものを見ても何も楽しくない。私らの世代にはさっぱり分からない」
 私にも分からない。自殺なら分かる。考えたことがないでもない。人が死ぬのを見て何が嬉しいのだろう。Kさんは三時間待った。三時間。Kさんは何を考えていたのだろう。例のおっとりとした感じでベンチに腰掛けていたのだろうか。夕闇は深くなる。その時、私のメールが入った。
「有賀に会って一番驚いたのは、彼が全く普通の青年だったということです。きっちりと敬語も喋れる。こちらの気持ちも分かる。理想的な青年だった。私の前ではという条件付きですが。一応父親の会社の役員と言うことになっていますが、大学を卒業後は家でぶらぶらしています。結婚歴はなし。A型。前回の相手は二十九才の男性です。今回と同じで、ネットで知り合った。懲役二年執行猶予三年です」
「何年前ですか」
「三年ちょっと経っているんですよ。上手い具合に。これが私が知っている全てです」
 Nさんは静かに言った。そして、Nさんは私の前に名刺を置いた。
「タクシーの運転手です。彼が二人を空港から、有賀の家まで送った。私も取材しましたから」
 Nさんの携帯が鳴った。
「分かっているよ。先に始めておいて」
 語気が激しかった。
「もう少し有賀を追いたかったんですが。学生時代とか、家族関係とかね。上から止めろと言われた。止めろと言われたら仕方がないですよ。サラリーマンですからね。でも、何でそんなことをするんですかねえ。自殺なんて。生きててなんぼじゃないですか」
 また、同じことを言った。
「私はKさんは人生を楽しく生きている人だと思っていました。趣味も色々あったし。私の人生の中でもっとも意外なことだった」
「そうですか」
「ここに来た理由は、自殺する前の日に私に会いに来てくれたからです。誰にでもない、私にです。恋人じゃない私にです」
「好きだったんですよ、あなたが」
 Nさんは簡単に言い切った。
「私は、人を好きになったことがありません。有賀と同じですよ、多分。好きという感情が分からない」
「だけど、今、ここにいるじゃないですか」
 また、携帯電話が鳴った。
「そろそろ、行かないと。二階だから、一緒に行きましょう」
 かくして、私は迷路から脱出した。



 ホームセンターで護身用に小さなナイフを買った。有賀はやはり怖い。菊の花も買った。何か混ぜようと思ったが、結局菊の花だけにした。一色が好きだ。
 タクシー会社に連絡をする。近くにいるから、直ぐに行くという返事だ。また、年配の運転手だった。
「どげんしちわいを」
 分からないふりをした。
「前に乗ってもらったかなあ」
「いいえ初めてです」
「どこへ」
「有賀さんの家へ」
「有賀? ああ、有賀さんねぇ」
「一月ほど前、自殺をした人を乗せたでしょう」
「乗せたよ」
「その人の友人です」
 運転手は黙った。長い間黙っていた。
「二人とも上機嫌だったなあ。野球の話で盛り上がっていた。ピクニックに行くような感じだったなあ。死にに行くとは思いもしなかった」
 車はいつの間にか郊外を走っていた。刈り取られた田んぼが続く。すすき。コスモス。すっかり秋だ。運転はかなり荒い。Kさんはこの空間で、野球の話をしていた。有賀は相槌をうつこともなく黙って聞いていた。
「着いたよ」
運転手が言った。

 大きな門構の家だった。飛石が奥へと続いている。ドアホンを押した。
「どなた様ですか」
 年配の女性の声が返ってきた。
「村瀬と申します。亡くなったKさんの事でお伺いしたいことがありまして」
 マイクの向こうで躊躇する様子が伝わってきた。
「大阪から来ました。有賀(ありが)満(みつる)さんにお会いしたいのですが」
「裁判前ですのでちょっと」
「ご迷惑はおかけしません。満さんに聞いてもらえないでしょうか」
「Kさんとは?」
「友人です」
「しばらくお待ち下さい」

 飛石の向こうに長身の男が姿を見せた。ゆっくりとこちらに向かってくる。背は高い。痩せている。金縁の眼鏡をかけている。近づいてくると、目がすずしい。美男子だ。向こうも私を見て驚いている。彼は軽く頭を下げた。
「有賀です。どうも」
「村瀬です。お忙しいところをすみません」
「忙しくないですよ」
 明るく笑った。
「僕の部屋でお話しましょう」
 部屋というより家だった。
「日差しもよいし。ここがよいですね」
 縁側に並んで腰掛けた。女がお茶を運んできた。
「Kキャンプ場にあなたと一緒に行きたいのです」
 彼は黙ってお茶を飲んだ。前には池がある。まだ早いが、紅葉(もみじ)の木が植わっている。手入れの行き届いた落ち着いた庭だ。
「いいですよ。その前に少し話していいですか」
 彼は言った。私は頷いた。
「僕はロープを用意した。彼が死ぬのを見ていた。それが罪ですか?」
「一緒に死ぬと嘘をついた」
「死ぬのが怖くなって逃げたんですよ」
「助けなかった」
「助けなかったって」
 彼は小さく笑った。
「彼が望んでいたことですよ。でも、あなたみたいな人がいるのにどうして死んだのでしょうね。一生片思いでもよかったのに」
 また、長い指を曲げてお茶を飲んだ。とても優雅に。
「自殺サイトに一緒に死んでくれる人、手を挙げてって書いたんですよ。足も挙げるよって言う人がいた。チンボコも挙げるよって言うのもいた。こんな人は多分嘘つきだ。彼は手を挙げますだったから」
「前にも一度同じ事を」
「うん。全く同じ」
「なぜ」
「僕には人を殺せない。そんな勇気はない」
「模擬的に殺すのですか」
「いいや、彼らは自分で死んだ。同時に生きることも出来た。僕は傍観者。何もしない。彼らの行動を見ていただけ」
「性的に興奮するのですか」
「そんなレベルじゃないですよ。人間が自分で死ぬのはそんなのじゃない。自分で自分を殺す。自分の世界を消す。絶対にそんなレベルじゃない。それに彼は僕が死ぬのを望んでいたかどうか分からない」
 少しの沈黙があった。気持ちの細波を収めるように彼は言った。
「僕は不能ですよ。肉体的にも、精神的にも」
 彼は楽しそうに笑った。
「変態!」
 私は叫んだ。彼の目に一瞬殺意が浮かんだ。私はナイフを握りしめた。冷静をよそおうように彼は上唇をなめた。
「女は醜い。きれいなんて思ったことがない。肉のかたまり。でも、君は違うなあ。少し」
 不意に家にいる猫のミミを思い出した。彼の膝の上にミミがいたらすべてが変わっていたような気がした。
「目の前で生と死が交叉している。僕は傍観者であり続ける。そんな状態に興奮する。それが悪いのですか。僕の個人的な趣味だ」
「趣味……。あなたこそ死ぬべきだった」
 彼がN記者の前でつけていた正常という皮膚を一枚、私は剥いだ。私は有賀を知りたいために来たのではなかった。興味もなかった。Kさんの失われた言葉を求めてやってきたのだ。だが、ここにいる男は何者なのだろう。理解出来ない人間がここにいた。
「分からない。もういいから事実だけを話して下さい」
 私は言った。
「私はあなたに会いに来たのではない」
 ふっと有賀に嫌悪の表情が浮かんだがすぐに元に戻った。
「煙草、いいですか」
 私は頷いた。
「大分空港で初めて会った」
「サインは」
「当然サインはV。僕の提案です。男一人で、キョロキョロしている。そんな人は多くない。僕は彼にVサインを送った。一人目で当たりだった」
 年配の女の人が不意に姿を見せた。
「満君、お友達」
「こっちにくるな」
 女の人の足が止まった。
「どげんしちそげなにおこっちょんの」
「だいじなはなしをしちょんから」
 女の人はたじろいて、私に軽く会釈をしてきびすを返した。
「お母さんですか」
 彼はそれには答えなかった。
「まじめな人だと思った。お土産に粟おこしをもらいましたよ。野球の話をしていたなあ。ヤフードームにもよく行くって言ってた。それ以外何を言っていたんだろう。覚えていない。喋らなかったかも知れない。でも、楽しそうだった。一緒に死ぬのがそんなに楽しいのだろうか。終始ニコニコしていた」
 彼は目を軽く閉じ、一月前を思い出しているようだった。
「仕事の話も世間話もしなかった。彼は野球の話を楽しそうにぼそぼそと話し、僕はそれを聞いていた。お互い名前も知らなかった。僕は童貞ですと言ってましたよ。どうでもいいことだけど」
 猫が塀の上を歩いている。烏が鳴いている。静謐な午後の時間。
「タクシーに乗って、一緒にここに来て、遺書を書いた。こんなのでいいですかって僕に見せましたよ。僕は見なかった。僕のを見ますかといったら、いいですって。それで遺書を置いてKキャンプ場に行った」
 そこで言葉を切った。暫く何かを考えていた。澄んだ目で池の方を眺めていた。
「いや、その前にごはんを食べた。何か食べますかと聞いたら、カレーライスが食べたいって。どれがいいですかと聞いたら、ボンカレーを指さした。サトウのごはんをレンジして、ボンカレーをかけて作ってあげた。料理と言うほどのものではなかったけれど。氷水も作ってあげた。カレーライスを美味しそうに食べて、氷水を一気に飲んだ。おかわりしますかと言ったら、ごちそうさまでしたと手を合わせた。それから、トイレを貸してくれと言ったなあ。長い時間だったから、大の方だと思う。それで」
「遺書に」
 私は言葉を挟んだ。有賀は言葉を止めて私を見た。少し不思議そうな顔をした。
「遺書……。持ってきましょうか、コピーを取ったから」
「いいえ、いいです。妹さんのことを書いてありましたか」
「なかった。あなたのこともなかった。彼は一番書きたかったことを書かなかった。一番残したかったことを残さなかった。仕事とか、会社とか、つまらないことばかりが書いてあった」
 短い沈黙があった。
「あなたの遺書が見たい」
 有賀は初めて顔色を変えた。
「何のために」
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
 私ははっきりと言った。私は繰り返した。
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
 有賀は新しい煙草に火をつけた。まずそうに煙を吐き出した。随分長い間二人は黙っていた。深い闇のような沈黙だった。
「捨てましたよ。とっくに」
 彼は立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
 と彼は言った。その後に脈絡のないことを言った。
「僕はかすかに車には興味がある」

 私はトヨタセンチュリーの後部座席に乗り込んだ。
「九州は初めてですか」
「修学旅行に来たことがあります」
「高校のですか」
「ええ」
「僕は九州以外に出たことがありません。仕事をしたこともない」
 トヨタセンチュリーは静かに動き出した。
 母親らしい人が、不安そうに車を見送っていた。

「Kキャンプ場は七月と八月しかキャンプを受け付けないから、それ以外は人も少なく静かです。下の公園はウォーキングの人や散歩の人が多いけれど、展望台まで行けば、滅多に人はいない。でも、キャンプっていやだなあ。あんなの何が楽しいんだろう」
 彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。自動車に自分を同化させるような、車が自分の意志で動いているような安全運転だった。

 まだ、日は落ちていない。駐車場に車を止めて、歩いた。何もないところだと思った。淋しい場所だった。荒野だ。
「冬は雪が積もります。九州は暑いなんてとんでもない」
 山道を歩いた。やがて、頂上に着いた。薄闇の中に、町が広がっていた。町が一望できた。こんな所に場違いなブランコがあった。それと、石のベンチ。その後ろに、名前の知らない木があった。Kさんは木に紐をかけ、ベンチから飛んだ。常夜灯が一本。小さな展望台。
「彼はこのベンチに腰掛けていた」
 私はベンチに腰掛けた。
「今はあの時より日の入りが三十分ほど早いから、まだ、日が暮れてなかった」
 辺りは暗くなり、常夜灯に明かりが入った。
「何も話さなかった。話す事もなかった。僕は煙草も吸わなかった」
「隠れていても、匂いはする」
「そう。煙草は持っていなかった」
 有賀は笑った。冷たい笑いだった。
「大切な事を一つ忘れていた。三十分ほど待ってくれますかと聞いた。彼はいいですよどうぞと気持ちよく言った。大切な事の内容も聞かなかった。僕も言わなかった」
 少し寒い。つるべ落としに日が暮れる。
「三十分ほどして、日が暮れるのを待って僕は戻った。彼は同じ場所に同じ姿勢で腰掛けていた」
 彼は植え込みの方に歩いた。
「僕はここから見ていた」
 声のする方向を見たが、彼の姿はなかった。
「彼は一時間ほどじいっとしていた。時々虫除けスプレーを噴霧しながら、僕は彼にもらった粟おこしを食べていた。音をたてないように気をつけながら。お腹が空いていたんでね。秋の虫が喧しいほどに鳴いていた。今はみんな死んじまったけど」
 Kさんは何を考えていたのだろう。
「ブランコに乗って暫く揺れていた。ルビーの指輪を口ずさんでいたなあ。上手い。誰にでも一つぐらい取り柄があるもんだ」
 目をこらすと、常夜灯の加減で有賀の姿が薄い影のように見えた。有賀は正面の芝生に腰を下ろしている。Kさんは知っていた。
「僕は隠れていない。彼が見なかったのだ僕を。僕が見えなかった」
「私にはあなたが見える」
 有賀は私の言葉に反応しなかった。だから、もう一度言った。
「私にはあなたが見えるわ」
「見えていたのかも知れない」
 十メートル程隔てて二人は対面していた。
「だけど、あいつは見えていないんだよ他人が」
「見ていた、あなたを」
 私は叫んだ。私はナイフを握りしめた。自分を守るためか、有賀を刺すためか分からなかった。
 彼は笑った。
「そうかも知れない。でも、確かめようがない」
「人殺し!」
 私は叫んだ。
 有賀に人の血が流れた。私に走り寄った。私のナイフが、腕をかすった。彼はひるまずに、私の首に手をかけた。彼と私が人間として繋がった。はっと気づいたように、有賀は私から離れた。
「わいの胸を刺せ」
 有賀が左胸を叩いた。
「わいの胸を刺せ。今なら死ねる。死なせてくれ。頼む」
 私はナイフを捨てた。恐怖心はなくなっていた。 有賀から人間の血が引いていった。無機質な男がそこに立っていた。彼は生きながら死んでいる。そんな気がした。有賀の腕から血がにじんでいた。彼は気にならないようだ。痛覚もないのか。私はこの男を助けたいと思った。
「人殺し!」
 私はもう一度言った。だが、有賀に人間の血は戻ってこなかった。
「かわいそうな人」
 私は言った。有賀はさびしそうに笑った。
 彼はまっすぐに私を見つめた。
「三時間たって、携帯電話を操作し始めた。操作はすごく速い。君のメールだけ残して全て消した。彼は動いた。ベンチに乗って、ロープを木にかけた。僕が見ていたのはそこまでですよ。醜い物は見たくない。結局、後で聞くまでは名前も、職業も、年令も知らなかった」
 彼は静かに言った。
「人が死ぬのにそんなに理由がないんですよ。ちょっと旅に出るみたいに人は死ぬ。そして二度と帰ってこない。残されたものが伝説を作る。でも、旅にでられない人間もいる」
 言いようのない怒りがこみ上げてきた。やがてそれは虚無と絶望に変わった。
 菊の花を木の根っこに置いた。太い幹を見上げた。彼は頷いた。二人は暫く黙っていた。そして、手を合わせる私に有賀は言った。
「花は美しい。人間は嫌だ」
「また同じ事をしますか」と、私は聞いた。彼は答えなかった。とても深い沈黙だった。
 
 トヨタセンチュリーは静かに動き出した。

 大分駅まで送ってくれた。教科書通りの安全運転だった。一言も言葉を交わさなかった。 車を降りた時も、涼しい目でじっと前を見ていた。彼は自分に正直なのかも知れない。そんなことをと思った。憎まなければならないのに。不思議に憎悪はなかった。体についた塵を払うように私は自分の狂気を振り払った。
 小倉で新幹線に乗り換えた。ぎりぎり間に合った。アパートに着くのは明日になるだろう。自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んだ。水は一瞬に吸収された。メールを打った。
『今から帰ります』
 宛名は空欄のまま、携帯電話をたたんだ。長い間、車窓に浮かんだ私の顔を眺めていた。電車は広島を通った。六十一年前、原爆が落ちた町が夜のしじまの中に沈んでいた。
 広島の人々も次の瞬間に自分が死ぬとは思っていなかった。

                                    了 
お読みいただきありがとうございました。

失われた言葉の断片 5

2016-10-24 09:19:50 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 5  

 急に家に帰りたくなった。私には二才離れた妹がいる。奈良で教員をしている。私は土日は帰るという約束でアパートを借りたが、いつの間にかなんのかのと理由をつけて帰らなくなった。姉にひとり暮らしを許せば、妹を許さないわけにはいかない。
 結婚して家を出るように母は希望したが、その気がなさそうな娘達に母は諦めた。
『今週の金曜日家に帰る。お主も帰らぬか』とメールを送った。
『相変わらず暇そうやね。帰ってもええよ』
 随分経ってから返事が来た。
 難波から近鉄特急に乗った。五百円プラスだ。たまに帰るからいいだろう。ホームはサラリーマンで溢れていた。すし詰めの電車に乗る気がしない。父は定年までこの距離を三十七年間通った。往復三時間の通勤時間。私が通う会社よりも遠い。尊敬する。携帯電話で計算してみた。私が経済的に不自由なく大人になれたのは、二万六千六百四十時間の通勤時間、つまり三年近く車内にいた父のおかげだ。定年後は持病の糖尿病に取り組み、インシュリンを打ちながらも、正常値を維持している。そのうち高血圧になり、三種類のクスリを飲んでいる。血糖測定器と血圧計が友達になった。現役中は、苛ちだったけれど、この頃は随分穏やかになった。
「昼ご飯はわしが作ってんねん」と、帰る度に言う。
「メニューも増えたで。焼きそば、お好み焼き、焼きめし、ラーメン、うどん、冷やしうどん、ソーメン、そば、おにぎり、オムライス、親子どんぶり、スパゲティー、サンドイッチ、チキンバーガー、これは買(こ)うてくるんやけど」
 塩分を控えている。甘いものは全く口にしなくなった。ごはんの重さを量り、きっちりと炭水化物の量を計算してやっているから立派だ。
 母は元気だ。一年に一、二度海外旅行に飛び回っている。父は閉所恐怖症で、飛行機嫌い。だから、ついて行かない。
 いいことばかりではなかった家が無性に懐かしい。Kさんの死を話せるのは家しかなかった。私はそれほど強くない。
 ドアホンを押す前に母が出てくる気配がした。
「ただいま」
「お帰り」
 居間に入ると、妹はもう来ていた。
「お姉ちゃんお帰り」
 父は、新聞から目を離し、「おう」とだけ言った。ご馳走が準備されていた。

 団らんの中でKさんの話をした。
「考えたこともないし。人生が楽しいちゅうタイプや思てたのに」
「自殺サイトか」と父。
「分からへんね、若いのに」と母。
「いい人やったんよ」と私。
「変なもんがはやるなあ、小学校でも問題になってるし」
 妹がリンゴを囓りながら言った。
「贅沢やな」
 父がぽつりと言った。父の言葉は食卓の上で行き場を失い、静止した。父にも自殺を考えたことがあったのかなあと思った。父がいなければ、私もいない。少なくとも、今の私はいない。

 Kさんの話はそれで終わった。話せば、心が少し軽くなった。

「正社員にはなれへんのか」
 いつものように父が言った。
「今のままやったら、絶対になれへん。そんな人おらへんもん」
「そうか」と言って、父は糖質ゼロのビールを飲んだ。
 ミミが膝にのぼってきた。ミミの背中をなでながら、―ここにはまだ私の居場所がある―と思った。
 妹は風呂に入り、私は母と並んで食器を洗った。

 久しぶりに二階で、妹と枕を並べた。この場所でいろんな事があった。諍いも、嫉みも。取っ組み合いも。世界中で妹が一番嫌いだと思ったことも。
「ええ人はいてへんの」
「いてへん」
「姉ちゃんに気い遣わんと、さっさと行ったらええさかい」
「残念ながらいてへん。教師はださいわ。ええ男は売れてるし」
「ほんまやなあ。せやけど、うちは結婚願望はないし」
「うちはある。そのKさんちゅう人は」
「そんな人とちゃう」
 簡単に言った。
「うちが死んだらどうする」
 私は突然言った。
「そんなこと考えたことないわ」
 妹はそう言って寝返りを打った。私は電気スタンドの明かりを消した。

 次の日、朝食後、
「久しぶりに文殊さんへ行こか」
 と、私が妹を誘った。
「ええなあ。何年ぶりやろ」
「ほん近くやのにね」
「それだけ、あんたらが家に帰ってこうへんちゅうことや」
 台所から、母が言った。
「お母さんも行こ」
 妹が言った。
「ええわ、毎日ウオーキングで通ってるさかい」
 家の近くに、安倍文殊院がある。子供の頃は、境内でよく遊んだ。今は、コスモスが咲き乱れているだろう。姉妹は肩を並べて歩いた。不思議なもんだ。似ているところと、真(ま)逆(ぎやく)の所がある。ある時は敵で、ある時は理解者。二人姉妹は特にそうだ。
 山門をくぐる。春は山門から見る桜が美しい。穏やかな秋の日、燈籠が並んだ細い石畳を歩く。木漏れ日がきらきら光る。
 人が多い。コスモスの迷路で子供達が歓声を上げている。ここには入るまい、きっと出られない。妹が行ってくるわと言って直ぐ出てきた。いつもは閉まっている浮御堂が今日はあいている。拝観料がいるからやめた。

「本堂で文殊さん見て泣いたん覚えてる?」
「覚えてへん」
「せやろなあ、うちも六つぐらいやったし」
 本堂には、快慶作高さ七メートルの文殊菩薩像がある。昔、家族で行った。台座が獅子で、妹は獅子の顔を見て怖がって泣き出したのだ。
 家に寄らずに文殊さんに来たことがある。理由は忘れた。でもたいした理由はなかったと思う。その時は休みを取った。誰もいない境内をぶらつき、白山堂への石段をあがり、視界の広がった展望台で大和三山(はっきりとは分からなかった)や二上山を眺め、賽銭箱に十円ずつ入れて手を合わせた。
 拝観料を払い、本堂で、お茶とお菓子をいただき、袴姿の多分十代の若い女性から「説明をお聞きになりますか」と言われて、「はい」と返事をしてしまい、文殊院の説明を聞いた。歌うような調子だった。その後は気のすむまで文殊菩薩像を見ていた。童子像が合掌し、菩薩の方を斜め右に振り返っている。とても、かわいい。一二二〇年、快慶という人がいた。仏像は永遠の時を刻んでいる。私自身が時の中に溶けていく。父母がセックスをして私が生まれた。父母もそうして生まれてきた。時をさかるのぼると、どこかに私はいる。一二二〇年にも私はいた。私はいつから始まったのだろう。もし結婚をし、子供を生むことになったら、私はどこまで続いていくのだろう。

「本堂に入ってみよか」
「ええけど」
「今度は泣かへんな」
「今泣いたらアホやん」
 二才の年の差は微妙だ。私はよく父に叩かれたが、妹は滅多に叩かれなかった。後で、それだけ大事にされなかったと妹は言った。 真剣にお父さんは私を叱らなかったと。妹は私より頭がよかった。私は短大だけど、妹は、国立の教育大学に受かった。「よかったね」と喜んだけれど内心はそうじゃなかった。お祝いの食卓を途中でたった。
「明日、ゼミで発表するねん」
 嘘をついて二階に上がった。
 二階で、私は、泣いた。妹の不幸を願っていた自分が悲しかった。
「頭は私の方がいいかもしれないけど、その分お姉さんは美人だよ」
 いつのことだったか忘れたけれど、妹は言った。
 団体客の後ろを歩いた。仏像もゆっくり見られなかった。突然、Kさんの声が聞こえた気がした。
「四万人の観衆の中でも僕は一人だった」
 振り返ったが誰もいなかった。
To be continued 

失われた言葉の断片 4

2016-10-23 09:16:00 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 4 

 ロッカー・ルームは異様な雰囲気だった。泣いている子もいる。阪神ファンで、仕事が終わると、応援グッズに身を固め、球場に直行するような子だった。Kさんと気があった。一緒に行ったこともあった。Kさんは通勤服のまま、静かに応援していたという。その子を慰めているのは一番古株の山下さんだ。他の人は黙々と着替えていた。後から入ってきた人は異様な雰囲気に声を潜める。
「どないしたん? Kさんが見つかったん?」
 聞かれた子が首を振る。
「見つかったけど、死んではった」
「うそ」
「自殺やて」

 机の前に腰掛け。いつものようにコンピューターのスィッチを押した。肩に人の手を感じた。振り向くとお局の顔があった。
「昨日はごめんね。せや、もう、今日やってん」
 お局の目尻に涙が一筋流れた。きれいな涙だった。結局私は泣かなかった。社員と派遣の間にはこんな差異もあるのだろうか。泣けなかった自分が悲しかった。

 部長から事の経緯が説明された。昨日はS主任とお局に任せきりだった。プライドの高い男だ。そんな仕事は自分がするものではないと思っている。でも、最後の仕切は自分がする。
「九州大分県大分市Kキャンプ場でK君が自殺しました。昨日の午後八時頃です。首つり自殺です。自殺サイトで知り合った男が自殺幇助罪で逮捕されました。過去に同じ事をしています。二度目だそうです。その男の通報で分かりました。ご遺体は大分市で荼毘にふされ、広島の実家で密葬するとのことです。その前に大分大学で司法解剖されます」
 事実を並べれば、こういう事なのだ。一昨日、「これサーティワンで買(こ)うてきてん」と言った人が解剖。口の中にアイスクリームの味がよみがえってきた。全員が悲痛な思いで聞いた。重苦しい空気に部屋が包まれた。
「誰かお葬式に」
 お局が言った。
「密葬だと言っているでしょ」
 部長の声が高くなった。
「でも」
「かえって迷惑ですよ。日時も聞いていないんですよ」
「広島まで旅費も大変ですが」
「お金の問題ちゃう」
 けちな男がついに切れた。

 十月四日(水)
 夜。ネット検索をした。検索を繰り返していると、ヒットした。全国紙の地方欄に載っていた。自殺幇助がニュースなのだろう。集団自殺も自殺サイトもニュースにはならないありふれた出来事になったのだろう。このニュースも全国版では載らなかった。事実だけを伝える素っ気ない文章だった。

 三日、大分市、無職、有賀満容疑者(四十四)を自殺ほう助容疑で逮捕。十月二日午後五時ごろ、インターネットの自殺サイトで知り合った大阪市内の男性会社員(三十)が自殺するのを知った上で、ひも様のものを渡し、大分市KのK山キャンプ場で自殺させた疑い。有賀容疑者はキャンプ場まで行ったが自殺を思いとどまった。(大分東署調べ)
      M新聞 二〇〇六年十月四日

 Kさんの自殺から二週間余が過ぎた。職場は落ち着きを取り戻した。というより、表面上、Kさんはきれいさっぱり忘れ去られた。 Kさんの机、ロッカーは父親と妹が整理した。父親は噂通りに快活だった。製薬会社のMR(医薬情報担当者)だから、職業柄からだろうか。でも、一番大声で喋っているのは不自然だった。大きな会社だとか、すごいコンピューターの数だとか、北朝鮮の核実験だとかいわば雑談だった。離れている私の席からもよく聞こえた。紙袋に必要な物を入れた。いらない物の方がはるかに多かった。
「いらない物はこちらで処分しますから。なあ、S君」
 部長が言った。S主任は返事をしなかった。小さな抵抗。父親は恐縮し、皆さんにと言って、もみじ饅頭を一箱置いていった。賞味期限の前日にお局が掃除のおばさんにあげた。
 Kさんの机には花が飾られたが、それも枯れ、昨日誰かが捨てた。今日、M君がKさんのコンピューターのキーボードをたたいていた。
 最後まで残っていたロッカーの名札を外したのはお局だった。Kさんのことをかけらも知らない派遣が一人やって来た。
 かくして社員が一人減り、派遣が一人増えた。

 空はすっかり秋らしくなった。昼は屋上で、一人でパンを食べた。ここから、エイと飛び降りたら死ねるのだ。入ってくる電車にエイと飛び込んでも死ねる。死ぬ場所はいたる所にあるのだ。私は時々落ちる夢を見る。落ちる危険のある場所にいる。不安定な場所にいる。落ちたら大変だと思っている。結果、きまって落ちる。落ちていく。その時目を覚ます。夢でよかったと思う。だけど、落ちる私はとても気持ちがよい。すーっと何もかもがなくなる。私が存在しているために私と一緒に存在していたものがみんななくなる。会社も通勤電車も、アパートも、奈良の家も、奈良の家で飼っている猫のミミも。みんななくなる。
 また、Kさんのことを思い出した。出来事ではない。彼がいた空間というか、彼が占めていた場所というか。それはパソコンであったり、甲子園の一塁側であったり、休憩室であったり、椅子であったり、芦屋川のバーベキューであったりした。どこにもKさんは永遠に失われている。モノクロのテレビを見るようだった。
「なぜあなたは死んだのですか」
 さまざまな場所にそっと問いかけてみた。楽しいことがいっぱいあるように見えても、実際は何もなかったのかも知れない。反対かも知れない。楽しいことの究極に死があったのかもしれない。秋の空をぼーと眺めながら思った。
 たくさんの憶測が飛んだが、苦悩を自殺の原因とするものが殆どだった。「うつ病」という憶測もあった。変人。「変わっていたからなあ」。自殺幇助の男を糾弾する同僚もいた。Kさんはふらふらとついて行ったのだ。あれは殺人だ。どれもがもっともらしいが、やはり推測にすぎないと思う。
 社員の精神衛生についての通達も回ってきた。「悩み相談室」が出来るらしい。専門のカウンセラーが一人常駐するという。そこでの秘密は守られる。



「Kさんに借りていたCDがあるのです」
 昼休みに用意しておいた嘘をS主任に言った。S主任は意味が分からないというような顔をした。この人は本当にタレントのそのまんま東によく似ている。そのまんまだ。クスリと笑った。
「何がおかしいねん」
「いいや、べつに」
 手を顔の前で振った。
「CDを妹さんに返そうと思うので」
「ああ、そういうこと。ちょっと待ってね。あった、あった。これが妹さんの名刺」
「コピーしてもええですか」
「個人情報に気いつけてな」
 気の小さい主任はつけ加えた。

 妹の名前は「久実(くみ)」。会社は梅田にあった。四時に早引きをした。時給だから遠慮しない。地下鉄で梅田に出かけた。この時間なら座れた。時差出勤、そんな言葉もあった。群れて通勤することもないのに。
 会社は直ぐに分かった。でかいビルだ。何をしている会社だろう。アポなしで入った。
「Kさんに面会したいのですが。S社の」
「庶務のKでございますね。S社の方」
 さすが世界のS社。名前も言わないのに取り次いでくれた。単なるアホな受付かも知れない。化粧の濃い女だ。つけまつげがめっちゃ長い。目を閉じるごとにパタパタと音をたてそうだ。まつげが電話をかける。
「直ぐに降りてくるとのことでございます。あちらでお待ち下さい」
 長椅子を手で示した。拍子抜けするほど簡単だった。十分ほど待つと声をかけられた。彼女は私服に着替えていた。
「お待たせしました」
 颯爽としている。ピンクのスーツもよく似合っていた。化粧気は殆どない。素敵だと思った。
「外に出ましょう。ちょっと飲みたいなあ」
 何年来の友達のように彼女は言った。並ぶと私より少し背が高かった。スタイルがとても良い。
 二人は黙って歩いた。
「私の行きつけのところでいいですか?」
「ええ」
 私は頷いた。

 梅田のショットバーに入った。
 店内に静かなジャズが流れていた。扉を開くと、三階まで吹抜けとなった開放的な空間が現れた。
「簡単な食事も出来るのよ」
 席に着くと、彼女が言った。
「パスタが美味しいの。村瀬玲さん」
「どうして私の名前を知っているの」
「直感。それとS社の方って聞いて、兄が消さなかったメールの人だと思った。それ以外考えられなかった。あなたのメール以外を消した後も、メールや電話が入ったけれど、お兄ちゃんには何にも出来なかった。死んでいたんだもん」
 ボーイが注文を取りに来た。メニューを私に渡そうとする彼女に言った。
「お任せするわ」
「それじゃカニのパスタ。カニは大丈夫?」
「大丈夫というより好物」
「お酒も大丈夫というより好物?」
「そのとおり」
 顔を合わせて笑った。一番安いシングルモルトウイスキーを選んだ、それでも七百円。昼食二日分。彼女も同じのと言った。
「ストレートで」
「かしこまりました」
 ボーイは慇懃な礼をした。私は少し疲れる場所だと思った。
「お仕事は忙しそうですね」
 久実は言った。
「適当にやってます。派遣だから、いつでも辞められる。すると私と同じのが送られてくる」
「そうね。私も派遣よ。いいかしら」
 私が頷くと、彼女は煙草に火をつけた。
「母は会社に迷惑をかけたのじゃないかと心配しています。私は聞かなくても分かりますが」
「それは大丈夫です。仕事は確かで、ミスがなかった。信頼されてました」
「ありがとう。母に伝えます。社員の代わりもいますよね」
「誰にでも代わりはあります。でも自分にかわりはありません」
「そうね」
 彼女は言った。
「Kさんはみんなに好かれていたから、悪く言う人はいません」
 私の言葉に彼女は無反応だった。そんなことは分かっていますという風に。ウイスキーが運ばれてきた。氷を入れて溶けるのを待った。氷の山が崩れる。軽くグラスを振るとカラン、カランと気持ちの良い音を立てた。ここは別世界だと思った。
「私と兄が兄妹だと言ったら、みんなびっくりする。でもこのあたり似てるんですよ」
 髪の毛を掻き上げて額を出した。
「ね、ね」
 私は笑いながら、ウィスキーを飲んだ。普段シングルモルトなんて飲めない。だから、出来るだけゆっくり飲んだ。
「父の仕事関係で、随分いろんなところで住んだ。北海道から、沖縄まで。兄は随分いじめられたわ。あんな感じだから、いじめやすいのね。特に中学はひどかった」
 私は子供の頃のKさんを想像する。
「母も知らない土地で淋しかったんだと思う。その頃母はブランドに凝っていた。子供達はつぎはぎの服を着ていてもね」
 久実は私より速いピッチで飲んだ。飲み干すと、タイミング良くボーイが現れる。
「同じの」
「かしこまりました」
「あなたちっとも酔わないね」
「酔ったことがない」
「お酒がかわいそう」
 ちょっと首をかしげた。もてるだろうなあ、いや、案外もてないかも知れない。男にとって少し怖いと、思う。
「父はひどいことを言ってた。二人の顔が入れ替わっていたら大変だったなんて。兄は、そうや、そら大変やって。アホや。私の顔を心配してやんの」
 少しろれつが回らない。それがとても可愛い。彼女はグラスを回した。ウイスキーの琥珀色がグラスに美しく流れた。
「私と兄はいつも一緒だった。遊ぶのも喧嘩するのもいつも兄とだった。短期間しかいない土地では友達はできなかった。「新しいお友達です」と、担任の先生に紹介されて、転校するときは、空席が一つ増えるだけだった。きっと私がいなくなったのを誰も気づかなかったと思う。兄は私がいじめられた時、本当に怒った。あんなに怒った兄を見たのはそれが最初で最後だった。私は兄を嫌だと思ったことが一回もない。本当よ。大阪に来てから一度も会わなかったけれど、いつも私の中にいた」
 久実は窓の外に目をやった。夜景の中に彼女の横顔が浮かんでいた。
「兄が死んだ時、私の体の半分がなくなったような気がした」
 彼女が、小さく言った。
「私はお兄ちゃんのことなら何でも知っている。一人でしていたのも知っている。ぶっというんこをして流し忘れたのも知っている」
 窓の中の自分に語りかけるように言った。そして、笑った。とてもチャーミングな、しかし、今まで出会ったことのない淋しい笑みだった。
「私は時々私って何(なん)だろうと考えることがあるの。村瀬さんはない? 私が生きているのはとても不思議。私はアメーバーみたい」
 少し考えて、「あるよ」と小さくこたえた。屋上で考えていた。私って何(なん)だろう。ほかのところでも考えたことがある。それは私を不安にさせた。他人のことのようにわかっているようでわからない説明できないものを含んでいる。私が生きているということはとても不思議なことなんだ。アメーバーみたいに。ただ日常の雑事にまぎれると跡形もなく消えてしまう。久実の唐突な言葉はしっかりと私に届いた。
 
 ピアノの演奏が始まった。小さな音を紡ぎ出し、少しずつ、少しずつ大きくなった。軽やかなメロディーになり、音は高く、早くなった。ピアノ演奏を見ていた視線を戻すと、久実は眠っていた。あどけない顔が悲しい旅のささやかな休息のようだった。私はボーイに視線で合図をした。

「ごちそうさま。でも、もう会わないね私たち」
 彼女が言った。私は頷いた。
「ありがとう」
 私は言った。
「ありがとう。さようなら」
 久実は足もとをふらつかせながら、後ろ向きに大きく手を振りネオンの中に消えていった。
To be continued 

失われた言葉の断片 3

2016-10-22 07:35:02 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 3

 仕事場の雰囲気がどこか違う。社員が真剣な表情で話し合っている。いつもなら仕事が順調に動き出す、午前十時前。私はKさんが出社していないのに気づいていた。
「どないしたん」
 側を通りがかった新入社員に聞いた。
「Kさんが来たはらしませんねん」
「また、寝過ごしてんのちやうの」
 以前にもそんなことがあったから、私は言った。
「携帯にも出はらへんし」

 断片的に情報が入ってくる。

 昼頃同期の社員さんがアパートに行った。鍵はかかっていて、呼び鈴を押しても応答がなかった。管理会社に鍵を開けてもらうようにかけ合うが、断られた。アパートの借り主が、父親になっていて、その立ち会いでしか開けられないとのことだ。警察に行ったが事件性がないと開けられないということでダメだった。
「そんなん、中で死んでるかもしれへんやん」
 日頃から、思ったことを直ぐに口に出す女が言った。とにかく父親が来るまで待つしかないらしい。Kさんはどこへ行ったのだろう。昨日は何も変わったことがなかった。いつものように喋り、笑っていた。でも、なぜ私に会いに来たのだろう。何か用事があったのか。用事……。彼はそれを私に告げなかった。いや言っていたかも知れない。私は頭の中で昨日のビデオテープを回した。時々スローにした。でも、何も見つからなかった。全て世間話だった。

 外線電話が鳴った。同期の社員さんからだろう。お局が電話を取った。
「お父さんの電話番号が分かるの? 多分会社だろうから、そっちにかけるわ。携帯もお願い」
「お父さんって何処」
「広島やて」
 ひそひそ話が聞こえる。
 横で部長がうろついている。誰も相手にしない。孤独なオランウータン。

 そのうち昼になった。私は昨日のことを言わなかった。急に会社が嫌になったのだろう。そんなことは誰にでもあることだ。昼ご飯はみんなのテーブルで食べた。なぜか群れたかった。
「メールを送ってるんやけどね」
「お父さんは昼過ぎの新幹線で来はるらしい」
 事件なんて滅多に起こらない職場で事件が起こった。みんな興奮している。
「私も携帯にかけてみようかなあ」
 私は何気なく言った。意外だという感じで、みんなが私に注目した。
「私au。Kさんの番号を送って」
「私もau」派遣の子が言って、赤外線通信でKさんの携帯の番号をもらった。
 早速かけてみる。出て欲しいと願った。すぐに、乾いたメッセージになった。電源が切られているらしい。
「あかんわ」
 箸を止めて待っていた同僚は、機械的に箸を動かし始めた。ネットで検索してる人もいるらしいが、琵琶湖でメダカを探すようなもんだろう。

 帰社の時間になっても、行方は分からなかった。午後六時に、メールを送った。『心配しています。連絡を下さい。村瀬』。ちょっと、考えたが名前も書いた。村瀬玲(れい)。

 Kさんの部屋は空っぽだった。空き巣に入られたのかと思うほど乱雑だった。その疑いは直ぐに消えた。男の一人住まいって、そんなもんだよと誰かが言った。分厚い野球の入場の半券がゴムバンドで縛ってあった。父親が、「異常だ」と言った。父親はとても快活だった。とても。
 妹も一緒だという。

 帰りの廊下ですれ違った。S主任とお局、年配の男と若い女性。父親と妹なんだろう。妹を私はちらっと見た。美人だ。スタイルもいい。とてもKさんと兄妹とは思えなかった。

 何処にも寄らずにマンションに帰った。寄り道をする気にもなれなかった。買い置きの日清のどん兵衛を食べた。三分間待つ間、何回も携帯を見たが、誰からも入っていなかった。今日は早く寝よう。とにかく明日だ。全てを時間が解決する。だが何でこんなに気になるのだろう。他人に無関心なはずの私が。明日照れ笑いを浮かべながら、出社してくるKさんを想像した。多分、部長は欠勤だと怒るだろう。だが、こうも考えた。どこか違う場所で生きている。だが、Kさんは私の想像が及ばないことをしていた。私が考えることを避けていたとも言える。

 携帯電話が鳴った。メールだった。午前二時。こんな時間に。
『大分東署の森田と申します。こんな時間にすみません。お知らせしたいことがあります。次まで電話をして下さい (097)533-××××』
 大分東署に電話した。太い声の男が出て私が森田さんの名を言うと、電話口に森田さんが直ぐに出た。この声も大きい。
「村瀬です」
「村瀬玲さんですね」
「はい」
「あなたが午後六時にメールを送った人についてお伺いしたいんですが」
「Kさんです」
「フルネームは?」
「……」
 思い出せなかった。
「会社の同僚です。Kさんがどうかしたのですか」
 一瞬の間があった。
「亡くなられました」
「亡くなった……」
「多分自殺だと思いますが、調査中です。携帯にあなたのメールがありました。それまでのメールは消去されています。だから、一番親しかった方かと」
 一瞬思考が停止した。悪い夢かと思った。夢ではない。私のワンルームは、殆ど物がないし、室生寺のカレンダーには何の予定も書いていない。実家の猫の写真が一枚。なんと殺伐とした部屋だろう。
「もし、もし」
 相手が言った。やっと、思考が動き始めた。お局が、家に帰って電話をしてみると言っていた。あいつ、名前なんだっけ。
「電話が入ってませんか?」
「Tさん、Sさん、色々入ってますね」
「TさんはKさんの上司です。そちらで家族の方と連絡が取れると思います」
「今頃電話しても大丈夫でしょうか」
 意外と頼りない奴だ。
「心配されてましたから」
 暫く間があって、「ありがとうございました」と相手が言って電話が切れた。

 電話を置いて、水を一杯飲んだ。トイレに行った。物音一つしない。テレビをつけた。音を小さくした。何が映っているのか、何を喋っているのか分からなかった。でも、何かに繋がっていたかった。
 ウィスキーをストレートで飲んだ。でも、眠れなかった。膝小僧を抱いてじっとしていた。新聞配達のバイクが停まった。ひかりが一筋、畳に洩れた。何の音かは分からないけれど、生活の音が聞こえてくる。人が動き出す。一日が始まる。死ぬのは怖い。でも、生きているのも怖い。
To be continued 

失われた言葉の断片 2

2016-10-21 08:24:51 | 創作日記
 連載小説 失われた言葉の断片 2

 お誘いがあった。Aの送別会。女の派遣社員だ。こいつとは二ヶ月程組んだけれど、迷惑だった。期限が迫っているのに、定時にさっさと帰ってしまう。突然休みを取る。送別会を何とか断る理由を考えたが、それも面倒になった。いつも断っていれば、はじき出される。
 送別会は最悪だった。まず会場にカラオケがあった。音痴の私には歌えない。昔、歌うと、般若心経かと言われた。それから絶対歌わない。歌うもんか。誰も聞きたくないと思うけど。みんな上手いよ本当に。紋切り型の部長の乾杯で始まり、宴会は盛り上がってきた。私は酎ハイを結構飲んだ。他にすることがない。酒に酔ったことがない。S主任がいつものように酔っていく。「座布団、座布団」の声が飛ぶ。目がすわるから、座布団。あっ、お局の胸をガバッとつかんだ。つまらない駄洒落を飛ばすI主任は完全にまわっている。多分このあたりの記憶はないだろう。その点若い子は適量を心得ているから上手に飲む。この職場はみんな仲がよい。あまり利害関係がないからだ。出世争いなんて、ほんとうに二、三の人のことだ。派遣なんて、ひっくり返っても出世なんて関係がない。
「村瀬さん1曲」
 きた。とんでもないというふうに手を振る。でもしつこい。だが、嵐はいつか過ぎる。お調子もんが歌い始める。一次会が終わりに近づくと、私は社員のUさんにそっと言う。「ごめん、今日は帰る」。彼は自分が選ばれたのが嬉しい。「そう、また」。分かった、分かったという顔をする。そっと、集団から離れる。「村瀬さん帰ったの」。質問に彼は答えてくれる。「用事があるんだって」
 私は美人だ。だが、好かれる美人ではない。とことん嫌われる美人だ。多分ブスでもこんな美人になりたくないだろう。
 帰り道にKさんが歌った「ルビーの指輪」を口ずさむ。Kさんは本当に上手い。顔を頭に浮かべない方がいい。目を閉じて聞いたけど。
 私もあんなに歌えたら、人生変わっていたかも知れない。今頃はAの舌足らずな挨拶が始まっているだろう。
「短い期間でしたけれど、みんなに迷惑ばかりで、ありがとうございました」
 多分そこで嘘泣きをする。そして、気のあったもの同士が二次会に流れていく。きっと、明日は二日酔いの顔が並ぶ。
 夏が去っていく。残暑は厳しいけれど、夜になると秋の風がまじる。思い切り背伸びをする。
 一人は寂しいけれど自由だよ。



 二〇〇六年十月一日(日)。私はこの日を多分一生忘れないだろう。

 ひと月に一回か、ふた月に一回ぐらいの割合で休日出勤がある。締め切りが迫った時だ。もちろんない時もある。水曜日に「ごめんやけど、土日どっちか出てくれへんか」と、S主任から言われた。組んでいる子は多分断ったのだろう。「いいですよ。日曜日に出ます」と言った。Kさんと打ち合わせをしている時だった。たくさん引き受けると、日曜日なのに暇なんだなあと思われる。

 守衛さんに「おはようございます」と挨拶をして、鍵をもらい、カードを通して、ビルに入る。人気のない廊下を歩く。足音が響く。静かだ。違う会社に入ったようだ。
 朝から雨が降って、やっと秋めいてきた。昨日までは暑かった。「暑いざんしょ」と、アホなI主任が言っていた。でも、この部屋には残暑はない。一年中が同じ季節だ。誰もいない仕事場は奇異な気がする。何かが抜け落ちているような感じだ。人の影だけが、行き交っている。明日になれば、実体が動き出す。一日一日が同じ日を刻む日めくりのように過ぎていく。

 お昼はコンビニで買ってきた缶コーヒーとパンを食べた。意識していないのにいつもの休み時間に合わせている。そんな自分が嫌だ。
 コン、コンと部屋をノックする音が聞こえた。とても控えめな音だ。私は慌てて、食事を済ませた。食べている姿を人に見られるのが嫌いだった。だから、いつも職員食堂では一人で食べている。また、コン、コンと部屋をノックする音が聞こえた。パンの袋と、空き缶をバックに入れて立ち上がった。
「Kです」
 私はドアを開けた。照れくさそうにKさんが立っていた。
「近くに来たもんやから」
「雨、止んでた」
「まだ降ってる」
 窓からは雨が見えない。時々下を通る人の傘が開いている。
「仕事進んだ?」
「うん、もうちょっとやね」
「じゃまかあ」
「ううん、全然。私も休んでたし」
 缶コーヒーをKさんは差し出した。二本も飲んだら、おしっこが近くなるなあ、と頭の隅で考えた。
 Kさんは私の前にちょこんと腰掛けた。この人に男だという怖さはない。突然狼になる危険性はゼロ。安心なのだ。
 二人だけで話をしたのは初めてだった。トリック・劇場版2が話題になった。仲間由紀恵と阿部寛のコンビ。貧乳と巨根。超常現象とトリック。テレビの深夜枠から始まり、人気になった。私はビデオで見た。面白い。常識の枠を上手く外している。無意味なものの面白さ。それが、段々つまらなくなり、トリック・劇場版2で息絶えた。でも、Kさんはそうではなかったらしい。ガッツ石松虫についてのうんちくを喋っていた。トリック・劇場版2で出ていたかしら。とにかく私は一人で映画館で見たのだ。面白かったと私もKさんに合わせた。本当は途中から眠ってしまった。こちらが決めセリフを言う番だ。「全部お見通しだ!」
 話が途絶えると、部屋の静けさが増した。
「九月に神宮球場にヤクルト・広島を見にいってん」
「どっちが勝ったん」
「ヤクルト、8対5」
 また、話が途切れた。そういえば一日有休を取っていた。連休の前だから、旅行にでも行くのかと思った。
 実家は広島らしいから、カープ・ファンかも知れない。パリーグもよく見に行くから、特定の球団が好きだというのではないのかも知れない。話の内容からも、そんな感じがする。野球のファンなんだ。
「中日で決まりやね」
 私が言った。
「そうや。今日は雨で中止。チケットもってんのに。もう終わりやなあ。払い戻して帰りますわ」
 大きく伸びをして、言った。白いカッターシャツにブレザー、ノーネクタイ、いつもの服装だった。
「まだ、プレーオフや日本シリーズがあるやん」
「プレーオフはええわ。仕事もようけあるし」
 Kさんはいつものようにニコニコして言った。
「これサーティワンで買(こ)うてきてん」
「おおきに」
 私は、Kさんが帰った後、アイスクリームを一人で食べた。Kさんと一緒に食べてもよかったのに。Kさんは自分の分を多分持って帰った。どこで食べたのだろう。無神経な自分が嫌になった。
 Kさんが置いていったスポーツ新聞を足を組んで読んだ。まるっきりおっさんだ。
 仕事は午後三時頃一段落した。雨の御堂筋を梅田まで歩いた。なぜかその日は沢山歩きたかった。Kさんに対する無神経な自分を忘れたかった。結局、Kさんの気持ちを遊んでいたのだ。
 阪急百貨店で少し贅沢な総菜を買った。休日は、繁華街も少しゆったりとしている。いつの間にか雨は止んでいた。
To be continued 

失われた言葉の断片 1

2016-10-20 08:41:42 | 創作日記
昔書いた小説を推敲しながら連載します。

失われた言葉の断片
 
 僕はずっと何かを思い出しかけていた。捉えがたい韻律、失われた言葉の断片。(中略)。思い出しかけていた物は意味のつてを失い、そのままどこかに消えてしまった。永遠に。 
 「グレート・ギャッビー」スコット・フィッツジェラルド・村上春樹訳
 
 1
 
 会社は朝の九時から始まる。八時四十五分に会社に入る。門の守衛室の前を通り、ビルの入り口でカードを通す。女子ロッカーで制服に着替える。いくつかの部屋を通って、商品開発部2に入る。「おはようございます」が飛び交う。席についてコンピューターの端末に電源を入れる。「カチリ」。小さく端末に「おはよう」と言う。端末が立ち上がるまでに、机の上を濡れティシュで拭く。終わるとティシュはゴミ箱に捨てる。IDとパスワードの入力画面になっている。素早く入力する。朝一番の決まり切った手順。
 商品開発部2は辞書課と関数電卓課に分かれている。部屋の区切りはない。机が固まっているだけだ。それぞれの課に主任がいる。関数電卓課にはS主任。辞書課にはお局(つぼね)。ただ一人の女性の主任だ。商品開発部1にも二人の主任がいる。四人の主任の上に部長がいる。たった一人の管理職だ。
 商品開発部2の仕事はバグ取り。すなわち、プログラムのチェックだ。プログラムそのものをチェックするのではない。そんな技能も私達にはない。関数電卓課はマニュアルに従って、関数電卓に実際の数式を入力し、答合わせをする。不正解を見つけたら、商品開発部1で修正する。辞書課の仕事は知らない。ただ、分厚い辞書を引いたりしている。以外とアナログなのだ。
 商品開発部1も2も社員は数名だ。商品開発部1のプログラマーも商品開発部2の私達(プログラミングは出来ない)もほとんどが派遣社員だ。
 私は関数電卓科に五年いる。古株だ。人の出入りが激しい。ほとんど二、三年で辞めていく。仕事を覚えるには時間がかかるから派遣先が変わる人は希だ。ここの会社でしか通用しない仕事だ。だからいくら仕事が出来ても、会社を変われない。一番古いのは山下さん。子供が二人いると聞いた。
 私は誰ともプライベートでは付き合わない。まあ、仕事場以外でも友達はいないけれど。仕事の愚痴。誰と誰とがつきあっているとか。人事の噂。芸能ゴシップ。ニュース。つまらない事ばかりだ。ニュースはNHKの夜の九時でまとめてみる。新聞はとっていない。安倍晋三内閣発足。私には関係がない。只、あの高い声が嫌いだ。孤独な管理職、部長とよく似ている。激すると、トーンが高くなる。声がうわずってくると、「ああ、こらあかんわ」だ。誰も引き時だと知っている。理由をつけて逃げ出す。
 処女も何年か前に、ゆきずりの男にあげてしまった。邪魔だったから。何にも感じなかった。避妊には細心の注意をした。ゆきずりの子供なんてしゃれにもならない。動物的な行為に、愛とか恋とか言うのが嫌だった。身体の上を男が過ぎ去っていった。ああ、こんなものかと思った。一種の儀式だった。男とは二度と会わない。顔も忘れた。
 仕事は嫌いでも好きでもない。一人でやることが多い仕事だから、私に向いていると思う。「やり甲斐」の面から見れば全くない。スパッと真空だ。時間を切り売りしている。昇級も出世も無縁だ。五年間で時給が五円上がった。不安定な仕事だ。明日から来なくてもいいよと言われれば、明日から失業する。京大出の人もいる。いや、いた。
 一つ仕事をあげれば一つ関数電卓が世の中に出る。誰が使っているのか全く分からない。それでもバグは出る。最悪、回収。それが重なれば首が飛ぶ。幸い私は頭がよいからそんな事態にはならない。本当かと自分で突っ込みを入れる。つまらない仕事でも食べるために働かなければならない。資格も才能もない私に仕事があることを感謝しなければならない。自分の結婚なんて他人事みたいだ。だけど、結婚はすごいことだと思う。特に子供ができるということがすごい。死は不思議ではないけれど、誕生は不思議だ。父母が寝て、私が生まれた。どこからが私なのだろう。元を辿れば精子と卵子だ。私は私の卵子をせっせと一月(ひとつき)に一回流している。男はいらないが子供は欲しいと言っていた社員がいたけど、分かる気がする。でも、今の私はどちらもいらない。

 Kさんと挨拶する。
「おはよう」
「おはよう。村瀬さん、三丁目の夕日見た」
「見てへん」
「絶対見た方がええ。ほんま泣いた」
「そう」と私。
 Kさんは社員さんだ。身長は百六十㎝ぐらい。私よりも低い。だけど部分、部分は大きい。頭も、手も、多分足も。体重は七十㎏はあると思う。身体が規格外なのだ。液晶生産工場の見学に行った時、どの手袋も入らなかったらしい。だから、硝子越しに外から見学した。宇宙服みたいな服を着て、外から見ていたって。宇宙遊泳でもやりそうだった。外からなら、普段着で見られたのにと、S主任が笑っていた。
 黒い縁の眼鏡をかけている。
 私はKさんの二年先輩だ。入社してきた頃、Kさんは社内いじめにあった。鈍くさいと男子社員は言い、女の派遣は体臭がすると言った。体臭を言ってきたのが口臭のきつい女だったので笑ってしまった。私には、鈍くさいと言うより、一つ一つを確実に重ねていく人のように思えた。気転とかは後についてくるタイプなのだ。その印象は当たっていた。
 四人の主任と部長が集まって一週間に一回会議を開く。残業はつかない。私達は「馬鹿ちょん」と呼んでいた。
「馬鹿ちょんでKさんの体臭が問題になったんやて」
 広報係が言ってきた。体臭を議題にする会議なんてなんだろう。残業がつかないのは当然だ。
「部長がS主任にKさんに話せと命令したんやて」
 部長の切り札は問答無用の命令だ。団塊はこれだから嫌われる。
 S主任は気の小さい人だし、部長は嫌なことを彼に押しつける。私は部長が嫌いだ。部長を好きなのは、お局(つぼね)だけだ。最年長の女性社員で、美人だ。部長のスパイでもある。彼女にはスパイだという意識がない。キャリアウーマンという意識しかない。アホな女が頭の切れるOLを演じているのだ。
 課の全員が部長を嫌っている。だが管理職がこの部署では彼一人というのも現実だ。特に派遣は彼の意向でやめさせられることもある。でも、ゴマをする派遣はいない。ゴマをすれば社員や、派遣から自分がはじき出される。そちらの方が辛い。
 S主任は、いつもの歯切れの悪い話し方で、「言いにくいことやけど、君のためでもあるし、裏でこそこそ言われるのも嫌やろ」と、長い沈黙の後、話し始める。
 Kさんは背の高いS主任の前に、上品に手を膝の上に置いてぽっんと腰掛けていたのだろう。
 次の日から、ロッカーで上半身裸になって、身体を拭き始めたという。当然私は見たことがないけれど。酒を飲むと、財布からなにから持っているものを手当たり次第なくしてしまうらしい。通勤のために買った高額な自転車も、鍵を失ってしまった。そんなことは仕事がうまくいくようになってから聞かないから、多分いじめが原因だったのだろう。私の知っているKさんは静かに、ニコニコしながらお酒を飲む人だ。
 Kさんは喜怒哀楽を表に出すことがほとんどない。でも無表情ではない。人と話す時はニコニコしている。あわてる時はあわてる。それ以外はボーとしている。とにかく寡黙な人だ。
 Kさんは多趣味だ。映画鑑賞。スーパー銭湯。うんちく。
「近鉄の南大阪線と他の近鉄線は線路の幅が違うんですよ。なぜなら、最初の目的が関西本線と提携して……。だから他の線に乗り入れが出来ない」
 なるほどと感心する。阿倍野橋から出る電車は吉野駅で行き止まりだ。大阪線や京都線から来る電車は八木駅や橿原神宮駅で乗り換える。「それがどうしたん」と突っ込みを入れない。「へぇ、ほんま」と感心する。Kさんの笑顔がとびっきりだからだ。
 中でも一番の趣味は野球観戦だ。甲子園のチケットを何枚も私に見せた。ちょっと得意げでもあった。甲子園に女の同僚と一緒に行くこともある。
 一人で福岡ドームに出かけたり、神宮球場に行くこともあるそうだ。
 今ではKさんは誰にでも好かれている。悪口を言う人はいない。

 今年の四月、芦屋川の堤防で偶然Kさんを見かけた。ふとその気になって、満開の桜を見に来たのだ。西宮の夙川は混むから、こちらに来た。桜が好きだ。この時期は出来るだけ沢山の桜を見て歩く。桜宮、大阪城、神戸、京都。同じ場所は行かない。桜の期間は短い。あっという間に過ぎる。
 その日も、ゆっくりと桜を見上げながら歩いた。もう少しすると散るだろう。だから、次の休みには桜はない。満開の桜が好きな私には、今年、最後の桜だった。
 Kさんは五、六人の男の人と河原でバーベキューを囲んでいた。私の知っている人は誰もいない。その人達は野卑な感じがした。笑い方も嫌だった。酔い方も下品だ。Kさんだけが上品で浮いているような気がした。いつものようにニコニコ笑っている。大声で「六甲おろし」を歌っている。Kさんは歌わない。野球観戦仲間なのだろう。なぜか、見てはいけないものを見てしまった気がした。声もかけずにそっとその場を離れた。しばらく肉のにおいが体から離れなかった。
 この日のことは誰にも言わなかった。Kさんにも言わなかった。忘れようと思った。だが、いつまでも心の隅に残っている小さな棘のように忘れることはなかった。
 Kさんは大勢の人に囲まれながら、親しそうに肩を叩かれながら、散っていく桜みたいにとても孤独なように思えた。
To be continued