創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

ヴィヨンの妻ー桜桃とタンポポー

2010-04-30 10:02:32 | 映画・舞台
佳作だと思います。松たか子が素晴らしい。映画を観ながら言葉をつづりました。
タンポポの花一輪の誠実をわたしは信じたい。タンポポの花一輪の誠実……。あの人もっているのかしらとさらりと言う。
けなげ、ユーモア、男の弱さ、女の強さ、母性本能。ゆれる。嫉妬。純粋。小心。苦悩。そのふり。酒乱。不倫。見られていた。つかの間の幸せ(子供と風呂に入る)。心中。そして未遂。愛の不在。死にそこなって、生きていけそうな気がするんだ。女の確執(心中相手と廊下ですれ違う)。娼婦から口紅を買う。からだを売る覚悟。お酒飲みたいんでしょ。心がわかること。勝手。それが愛。世間体。死ぬのも怖い。生きているのも怖い。人に言えないこと。人でも傷つくんです。身勝手。桜桃。人でもいいじゃないですか。生きてさえいれば。

男の料理

2010-04-26 19:26:09 | 男の料理
うどんは安くて簡単です。でもだしに一工夫をしています。水400mlを沸騰寸前までわかします。弱火にして沸騰させません。ヒガシマルのうどんスープを1袋を投入。茶こしにかつお節を入れてだしに深みを与えます。そこにとろろ昆布、深みのあるだしになります。あげいちなんか入れたらきつねうどんの出来上がり。高くても1食100円いない。もう一つ。湯豆腐にシマヤの昆布だしスティックタイプを少し入れます。それととろろ昆布。最後の一滴までおいしいですよ。 でも、もう春だなあ。

二つの遠野物語

2010-04-26 18:40:43 | 読書
柳田國男先生の「遠野物語」を「水木しげるの遠野物語」に助けられながらやっと読み終えました。民間伝承と一言で片づけられない何かがあります。それは庶民の生活と密接に関係していると思います。警鐘であったり、信仰であったり、娯楽であったりします。また、それらの複合体であったと思います。「遠野物語」は深くて楽しい。こんなのがいたら楽しいだろう。こんなのがいたら怖い。人間も怖い。口承で伝えられた話は飾りもなく素朴で夢のような味わいがあります。

人間の建設 4 岡潔・小林秀雄対談

2010-04-23 15:52:40 | 読書
○破壊だけの自然科学
岡 たとえば人類の生命を細菌から守るというようなことでしょう。しかし実際には破壊によって病原菌を死滅させるのであって、建設しているのではない。
45年前の自然科学からかけ離れて発達したのは分子生物学だと思います。それ以外はたいした発達はないように思います。高血圧(わたし)さえ上手に治療できないのです。やはり、現在も破壊し続けているのです。
岡 つまり今の科学文明などというものは、ほとんどが借り物ですね。人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によってはじめて人の心というものを科学しなければいけなかった。それはおもしろいことだろうと思います。

○アインシュタインという人間
小林 アインシュタインの言葉として、「わたしが世の中で一番わからないことは、世の中がわかることである。その意味はね、ぼくはこうだと思うのです。欠陥のない幾何学的現象を書いたわけですね。これはわかるということです。どうしてわかるのだろうということが、彼には一番わからぬことだという意味ですよ。ベルグソンの議論に対して、どうしてああ冷淡だったか、俺には哲学者の時間はわからぬ、彼がこたえているのはそれだけですよ。アインシュタインがボルンに宛てた手紙でこういうことをいっている。波動力学が流行したときに、おれはいやだ、いやだけれども、おれにはこれに対抗する理論は一つもない、あるのはおれの指だけだ、皮膚の中に深く食い込んでいる意見を証言している弱い指しかない。
岡 アインシュタインのいうとおり、刃向かおうとしても、指しかないから黙っている。
小林 指を守るか、指を捨てて新しいことを発明するか、ということになっておるわけですね。
難解ですね。でも、ぼんやりとわかるような気がします。
小林 わたしは哲学者の全集を読んだのはベルグソンだけです。後は何とかかんとか言っておりますが、拾い読みみたいなものです。
謙虚ですね。
小林 わたしは発明者本人の書いた文章ばかり読むことにしました。
岡 どうして解説書という妙なものが書けるか不思議なくらいです。
今も解説書が全盛ですね。
岡 釈尊は諸法無我と言いました。科学は無我である。我をもっているものではないということを教え込まないといかんわけです。
これはよくわかります。すかたんにわかっているのかもしれませんが。
小林 ベルグソンが若い頃にこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。問題をうまく出せばすなわちそれが答だと。
岡 問題を出さないで答だけを出そうというは不可能ですね。
今の教育の問題点がここにあるのではないでしょうか。余談ですが言葉を書き写すのはとても勉強になります。たとえば「言う」と「いう」の使い分け。「事」と「こと」の使い分け。「殆ど」よりひらがなの「ほとんど」のほうが美しいですね。ワープロだから漢字をつかいすぎ。


人間の建設 3

2010-04-22 14:01:20 | 読書
人間と人生への無知
岡 今の人類文化というものは、一口に言えば内容は生存競争だと思います。
○45年経っても全く変わっていないと思います。いや、もっとひどくなった。
岡 時には未来というものがある。その未来には、希望をもつこともできる。しかし不安も感じざるをえない。まことに不思議なものである。そういう未来が、これも不思議ですが、突如として現在に変わる。現在に変わり、さらに記憶に変わって過去になる。これが時ですね。時あるがゆえに生きているというだけでなく、時というものがあるから、生きるという言葉の内容を説明することができるのですが、時というものがなかったら、生きているとはどういうことか、説明できません。時というものがなぜあるのか、どこから来るのか、ということは、まことに不思議で強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。
読み落としがなければ、はじめて情緒という言葉が現れます。
岡 デカルトの「考えるゆえにわれあり」というのも、本当に自分が不思議な存在だと感じたのだろうと思います。
小林 私の読んだ限り、それはそう思われます。
岡 その実感を忘れて、現在ではその言葉だけをいっている。
私も自分の存在がとても不思議だと思います。なにゆえ自分なのか? どれが自分なのか? 確かに小林先生のいっておられるようにアウグスチヌスの引用のように、「時というものを説明しろといったら俺は知らないという、説明しなくてもいいというなら、俺は知っている」岡先生はそれを受けて「そうですか、かなり深く自分というものを掘り下げておりますね。時というものは、生きるという言葉の内容のほとんどを説明しているのですね」と返しています。


人間の建設 岡潔・小林秀雄対談

2010-04-21 09:41:14 | 読書
○数学も個性を失う
岡 世界の知力が低下すると暗黒時代になる。物のほんとうのよさが分からなくなる。

難解です。でも、キーワードはわかります。個性と言葉でしょう。小林秀雄の言葉についての思索がこの後語られます。
友人と岡先生を訪れた時、数学は考える時間さえあれば他に何もなくてもできると言っておられました。数学も芸術も一人一人の人間と深く関わっているということだと思います。二人は初対面でお互いを知りました。だから何も隠すものもなく、10年の知己のように自由に話せるのだと思います。もともとそういう人だったのかもしれませんが。いや、何か垣根を超えればそうなるのかもしれません。この対談はとてつもないものです。百回読む価値のあるものです。二人が言っていることは端々は難解でも、中心は一つです。人間だと思います。

○科学的知性の限界
小林 私が音楽について書くときには、それを言葉にしましょう。バッハの世界はこうであろうとか、言葉でそれをあらわしますね。最後には言葉するわけです。
岡 言葉に直すのに、いかに苦心を払っていられるかというがわかります。その苦心を私は情熱といっているのです。
小林 けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間です。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。
岡 感情ぬきでは、学問はといえども成立しない。
小林 あなたのおっしゃる感情という言葉は、普通いう感情とは違いますね。
岡 だいぶ広いです。心というようなものです。知でなく意ではない。
小林 ぼくらがもっている心はそれなんですよ。
岡 その感情の満足、不満足を直感といっているのでしょう。それなしに情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。
小林 そうすると、つまり心というものは私らがこうやってしゃべっている言葉のもとですな。

言葉、情熱、時間、感情、直感。確かに難しいが人一人が生きるとは何かを語っているように私は思います。一言一言に含蓄があります。これは一回ではとうていわからない。わかったとき、自分はどう生きるべきがみえてくると思います。余談ですが、二人の対話を写していると、日本語の書き方の勉強になります。対談を日本語に直した人のひらがなの美しさが難解な対談をほっとさせています。

NHK学園通信講座「俳句入門」

2010-04-20 09:07:31 | 創作日記
NHK学園通信講座「俳句入門」の二回目の添削が届きました。一回目の添削者と人が変わっていました。
評価は五段階です。
中宮寺 菩薩の笑みに 春宿る 評価4
宿るは言い過ぎということで添削は。
中宮寺 半跏菩薩(はんかぼさつ)に 春の笑み 

二句目 静かなり  しだれ桜に 光り舞う 評価3
「光り舞う」という光景が? 形容動詞(しだれ、光り、舞う)がいくつもあり焦点が定まらないという指摘があり添削は
ひらひらと 桜しだれて 静かなり

三句目 春の川 弥勒磨崖に 手を合わす 評価3
作品の背景が感じられないとして添削は
五十年(いそとせ)の 今昔春の 磨崖仏(まがいぶつ) 

総評として、しっかり写生写実して、一つのことに焦点を定めて詠むようにしましょうということでした。今回の添削はすれ違うこともなく納得できました。添削句も素晴らしいと思いました。はやく評価5をとりたいなあ。そのためには推敲あるのみ。

人間の建設 岡潔 小林秀雄 対談

2010-04-19 14:01:38 | 読書
○ 学問を楽しむ
岡 学問を好むという意味が、いまの小中高等学校の先生にはわからないのですね。好きになるように教えなくてはいけないといっても、どうゆうことかわからないのですね。
小林 つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということがだれにでもあります。
ノーベル賞の先生方の顔を思い浮かべました。みんな学問が面白くて仕方がないというお顔ですね。点を取るために勉強し、点を取るために教える。これを改めるのは今の教育に急務だと思います。
○無明ということ
小林 ピカソという人は、仏教のほうでいう無明を描く達人であるということをお書きになっていましたね。
岡 その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。
小林 今の絵かきは自分を主張して、ものをかくことをしないから、それが不愉快なんだなあ。
岡 そうなんですよ。芸術はくたびれをなおすもので、くたびれさすものではないのです。
坂本繁二郎の絵についての話もあります。芸術と芸術家の心について語っていると思います。確かにピカソの絵は長時間眺めていたらくたびれますね。
対談は相手を言いくるめるのではなく淡々と進みます。相手のことを知りたいという気持ちが強いのだと思います。
○ 酒
岡 ものを生かすということを忘れて、自分がつくりだそうというほうだけをやりだしたのですね。
私は昔の酒はからかったように思います。

二つの遠野物語

2010-04-18 18:58:26 | 読書
「水木しげるの遠野物語」を読み終えました。とても楽しかった。次に柳田國男先生の「遠野物語」をおもむろに広げ読み始めました。なんとよく分かるのです。一回目に投げ出したのとえらい違いです。コミックの絵が文章から立ち上がってくるのです。できたら水木先生遠野物語拾遺のほうも。三倍くらいありますけれど……。