連載小説 失われた言葉の断片 最終回
十一月三、四、五の三連休に私は大分市に行くことにした。飛行機で一時間の距離だ。飛行機に乗るのは何年ぶりだろう。もっとも嫌いな乗り物だった。事故も怖いけれど、巨大な鉄の固まりが飛ぶこと自体が怖い。帰りは電車にしようと飛行機に乗った後、考えた。Kさんも飛行機に乗った。帰らない旅の始まりだった。
私は何でここまで来たのだろう。自分の行動に理屈を考え出したらきりがない。私達は理屈のために生きているのではない。飛行機がぐんぐん高度を上げる。私の住んでいる街が段々小さくなる。毎日同じ回路を私はぐるぐる回っていた。その回路から抜け出す。それが旅の目的であっても良いのではないか。私はそう考えることにした。
三連休なのに空席が目立つ。いつの間にか窓の下は雲だけになっていた。ビールを一本もらって、目を閉じた。シートベルトを促すアナウンスで目が覚めた。
海がどんどん迫ってくる。突然滑走路が現れる。ガリガリと派手な音を立てて、滑走し、突然止まった。
地方都市の空港は小さく、淋しい佇まいだった。空港ビルも人はあまり多くない。二人は空港で初めて出会った。地方紙を取り寄せた同僚が言っていた。サインは何だったのだろう。帽子ではない。Kさんの頭に合う帽子はない。阪神のユニホーム。それもない。Kさんは意外と照れ屋なのだ。有賀に会ったら聞いてみよう。
昨日ネットで辿った道を行く。大分空港から大分駅まで、バスで一時間かかる。
まず中心街にあるコンパルホールを目指す。ネットで調べた。九州は温かいイメージなのに少し寒い。
中庭は吹き抜けになっていて空が望める。
エントランスに入ると、私は広い空間に迷い込んだ小さな虫のようだ。
大分市民図書館はコンパルホールの一階にある。図書館なんて何年ぶりだろう。親と一緒に行った記憶しかない。カウンターで新聞閲覧について聞く。今年の十月四日の地方紙を見たいと言った。
「大分合同新聞でいいですね。書庫にありますから、少しお待ち下さい」
係の女性は笑みを浮かべながら言った。十分ほどすると、新聞を持って帰ってきた。
「バインダーから外すのに時間がかかって」
自分のドジを可愛く笑った。私は恐縮した。知らない土地で受ける好意は素直に嬉しい。
かなり大きく取り上げられていた。二面コピーして、新聞を返した。
「ありがとう、助かったわ」
係の女性は、微笑んで小さく頭を下げた。
コンパルホールを出て喫茶店に入った。私は一人で喫茶店に入ることはない。人ともあまり入らない。小ぎれいな店内には、静かな音楽が流れていた。人もまばらだ。窓際の席に腰を下ろした。
記事は概ね全国版と同じだが、一面と、三面に渡っている。自殺幇助の男、有賀の住所も載っている。お腹が空いたので、サンドイッチとコーヒーを頼んだ。署名入りで自殺サイトへの警鐘もある。この地方ではかなり大きな事件だ。食事を済ませたら、新聞社に行ってみよう。携帯電話で新聞社の場所を聞く。ここからあまり離れていない。歩いても行けるが面倒だし多分迷う。タクシーにしよう。友人は軽いから、恋人にしよう。「恋人……」。なぜかおかしかった。私は今まで恋人はいない。Kさんも多分そうだろう。いない者同士が恋人。Kさんがあの日私に会いに来なかったら、この旅はなかっただろう。そして、もう、忘れ去っていただろう。だが、本当にそうだろうか。分からない。
窓から大分市の空を眺めた。快晴の空には雲一つなかった。私は今、異境にいるような気になった。誰も私を知らない土地にいる。私も誰も知らない土地にいる。急に不安になった。
大通りで空車を見つけた。
乗り込むと年配の運転手が言った。
「どこへいくのかぇ」
「大分合同新聞社」
「あんいたほうがはやいや」
歩いた方が速いということだろう。黙っていると走り出した。不意打ちの方言に私は急に不安になった。誰も知人のいない世界に私はいるのだ。帰ろうかと思った。今なら、引き返せる。「大分駅と言えばいいのだ」。その瞬間、タクシーが止まった。
「つきたで」
七十才位のの運転手が言った。大分合同新聞社のビルは想像していたよりも新しく巨大だった。エントランスに入り、受付に向かう。
「社会部のNさんにお会いしたいのですが」
「アポイントメントはお取りですか」
「いいえ」
「ご用件は」
「十月二日の自殺幇助事件についてお伺いしたいことがあります。大阪から来ました」
「しばらくお待ち下さい」
受付嬢は電話を取った。声を潜めたので私はカウンターから離れて電話が終わるのを待った。広いロビーに記者と思われる人がせかせかと歩いている。面会は断らないだろう。時間がなければ待つつもりだ。まだ休みは二日ある。
受付嬢が電話を置いた。
「お会いするそうです。会議がありますので、短い時間ならと言っていました」
場所の説明を聞いて、立ち入り許可書をもらった。
「終わりましたら、お返し下さい」
エレベーターで九階に上がる。長い廊下を歩く。社会部の矢印を見てほっとした。エレベーターまで戻れるか心配になる。私は方向音痴でもある。
社会部と書かれたドアを押す。一気に騒がしい部屋に立っていた。机の上は雑然としていて、喧嘩腰で喋っている男もいる。
一番奥のデスクの男が私を見た。あの人がNさんだろう。五十過ぎの白髪だった。立ち上がり私に近づいてきた。
「村瀬さんですか」
私は頷いた。
「ここは喧しいでしょう。会議室に行きましょう」
また、廊下を行く。帰りは絶対に迷う。パンくずを落としていく童話があったと思う。ティッシューを小さく丸めて落とそうかと思っているうちに着いた。Nさんは「空き」という札をひっくり返して、会議中にした。テーブルに向かい合って腰掛けた。
「遠いところをどうも。Kさんとは?」
「同僚です」
恋人という言葉は出なかった。だが、Nさんは多分そう感じていたと思う。
「あの日のKさんを辿ってみたくて来ました」
「それじゃ、有賀にも会いますか」
「お会いしたいと思います」
「トラブルになってもねえ」
「話を聞くだけです。約束します」
Nさんは少し考えていた。
「まあ、いいでしょう。小さな町だから、どっちみちあなたは有賀に辿り着くでしょう。それに彼は危険ではないと思います」
「今はどうしていますか?」
「家にいますよ。保釈中だから、自由に動けない。裁判は来年になるでしょう」
「保釈?」
「あのあたりの名士ですよ。それも一人息子。収監もされなかった。てんかんの持病があるという理由でね。診断書が出たそうですが、医者の知り合いもありますしねえ。よく分からんですよ」
Nさんは人差し指でテーブルを叩いた。コツ、コツ。小気味のよい音を立てたコツ、コツ、コツ。
「人が死ぬのを見て喜ぶ。異常ですよね。それも二度目です。また、やりますよ。死ぬまでやる」
Nさんは小型の冷蔵庫から、お茶のボトルを取り出して、紙コップについだ。
「お構いなく」
「自分も飲みますから」
Nさんは背を向けたまま言った。
「自殺サイトがあるからダメなんです。規制しなけりゃ。一人で死ぬのが怖いから仲間を求める。心中はある意味で分かったけれど。死ぬのを一緒にと言うのは分からんですよ。それも見知らぬものどうしが。人と人は実際に出会ってから関係が始まるんですよ。ネットで何がわかるんですか」
Nさんは九州男児なのだ。声が大きい。
「九月の半ば、東京でオフ会があったそうです」
「オフ会?」
「ネット仲間が実際に会うのですよ。それにKさんは参加していた」
神宮球場に行くと言っていた。ヤクルト・広島戦を見に行った。その時オフ会があったのだ。
「有賀さんも参加していたのですか」
「有賀は参加していません。そんなところに出て行く男ではない。年もいってますしね」
Nさんは音を立てて、お茶を啜った。
「自殺サイトのオフ会って……」
「普通みたいですよ。自己紹介して。結構楽しそうです」
「同じ趣味の人が集まるんですか?」
「まあ、そうですね。あの死に方より、こっちの方がいいとか。全然暗くないそうですよ。仲間内ですから」
「みんなKさんみたいに普通の人なんだ」
「普通じゃない人なんていないですよ。だけど間違っている。生きててなんぼですよ人間は」
Nさんは力をこめて言った。少しの沈黙があった。話が横道に逸れた。Nさんは修正した。
「逮捕の理由は、ロープを用意した。細いロープと太いロープ。どっちにすると聞いたら、K君は太いロープを選んだ。有賀はどうしても生きているうちにやらなければならない事がある。三十分ほど待ってくれと言った。それから、三時間、有賀は物陰に隠れて、K君が死ぬのを待っていた。K君はベンチに腰を下ろして有賀を待っていた。だが、有賀は帰ってこなかった。K君は木にロープをかけて、ベンチからぶら下がった」
「有賀さんは止めなかった」
「人が死ぬのを見る。それが彼の目的だから。当然止めませんよ。何を考えているんでしょうね。そんなものを見ても何も楽しくない。私らの世代にはさっぱり分からない」
私にも分からない。自殺なら分かる。考えたことがないでもない。人が死ぬのを見て何が嬉しいのだろう。Kさんは三時間待った。三時間。Kさんは何を考えていたのだろう。例のおっとりとした感じでベンチに腰掛けていたのだろうか。夕闇は深くなる。その時、私のメールが入った。
「有賀に会って一番驚いたのは、彼が全く普通の青年だったということです。きっちりと敬語も喋れる。こちらの気持ちも分かる。理想的な青年だった。私の前ではという条件付きですが。一応父親の会社の役員と言うことになっていますが、大学を卒業後は家でぶらぶらしています。結婚歴はなし。A型。前回の相手は二十九才の男性です。今回と同じで、ネットで知り合った。懲役二年執行猶予三年です」
「何年前ですか」
「三年ちょっと経っているんですよ。上手い具合に。これが私が知っている全てです」
Nさんは静かに言った。そして、Nさんは私の前に名刺を置いた。
「タクシーの運転手です。彼が二人を空港から、有賀の家まで送った。私も取材しましたから」
Nさんの携帯が鳴った。
「分かっているよ。先に始めておいて」
語気が激しかった。
「もう少し有賀を追いたかったんですが。学生時代とか、家族関係とかね。上から止めろと言われた。止めろと言われたら仕方がないですよ。サラリーマンですからね。でも、何でそんなことをするんですかねえ。自殺なんて。生きててなんぼじゃないですか」
また、同じことを言った。
「私はKさんは人生を楽しく生きている人だと思っていました。趣味も色々あったし。私の人生の中でもっとも意外なことだった」
「そうですか」
「ここに来た理由は、自殺する前の日に私に会いに来てくれたからです。誰にでもない、私にです。恋人じゃない私にです」
「好きだったんですよ、あなたが」
Nさんは簡単に言い切った。
「私は、人を好きになったことがありません。有賀と同じですよ、多分。好きという感情が分からない」
「だけど、今、ここにいるじゃないですか」
また、携帯電話が鳴った。
「そろそろ、行かないと。二階だから、一緒に行きましょう」
かくして、私は迷路から脱出した。
*
ホームセンターで護身用に小さなナイフを買った。有賀はやはり怖い。菊の花も買った。何か混ぜようと思ったが、結局菊の花だけにした。一色が好きだ。
タクシー会社に連絡をする。近くにいるから、直ぐに行くという返事だ。また、年配の運転手だった。
「どげんしちわいを」
分からないふりをした。
「前に乗ってもらったかなあ」
「いいえ初めてです」
「どこへ」
「有賀さんの家へ」
「有賀? ああ、有賀さんねぇ」
「一月ほど前、自殺をした人を乗せたでしょう」
「乗せたよ」
「その人の友人です」
運転手は黙った。長い間黙っていた。
「二人とも上機嫌だったなあ。野球の話で盛り上がっていた。ピクニックに行くような感じだったなあ。死にに行くとは思いもしなかった」
車はいつの間にか郊外を走っていた。刈り取られた田んぼが続く。すすき。コスモス。すっかり秋だ。運転はかなり荒い。Kさんはこの空間で、野球の話をしていた。有賀は相槌をうつこともなく黙って聞いていた。
「着いたよ」
運転手が言った。
大きな門構の家だった。飛石が奥へと続いている。ドアホンを押した。
「どなた様ですか」
年配の女性の声が返ってきた。
「村瀬と申します。亡くなったKさんの事でお伺いしたいことがありまして」
マイクの向こうで躊躇する様子が伝わってきた。
「大阪から来ました。有賀(ありが)満(みつる)さんにお会いしたいのですが」
「裁判前ですのでちょっと」
「ご迷惑はおかけしません。満さんに聞いてもらえないでしょうか」
「Kさんとは?」
「友人です」
「しばらくお待ち下さい」
飛石の向こうに長身の男が姿を見せた。ゆっくりとこちらに向かってくる。背は高い。痩せている。金縁の眼鏡をかけている。近づいてくると、目がすずしい。美男子だ。向こうも私を見て驚いている。彼は軽く頭を下げた。
「有賀です。どうも」
「村瀬です。お忙しいところをすみません」
「忙しくないですよ」
明るく笑った。
「僕の部屋でお話しましょう」
部屋というより家だった。
「日差しもよいし。ここがよいですね」
縁側に並んで腰掛けた。女がお茶を運んできた。
「Kキャンプ場にあなたと一緒に行きたいのです」
彼は黙ってお茶を飲んだ。前には池がある。まだ早いが、紅葉(もみじ)の木が植わっている。手入れの行き届いた落ち着いた庭だ。
「いいですよ。その前に少し話していいですか」
彼は言った。私は頷いた。
「僕はロープを用意した。彼が死ぬのを見ていた。それが罪ですか?」
「一緒に死ぬと嘘をついた」
「死ぬのが怖くなって逃げたんですよ」
「助けなかった」
「助けなかったって」
彼は小さく笑った。
「彼が望んでいたことですよ。でも、あなたみたいな人がいるのにどうして死んだのでしょうね。一生片思いでもよかったのに」
また、長い指を曲げてお茶を飲んだ。とても優雅に。
「自殺サイトに一緒に死んでくれる人、手を挙げてって書いたんですよ。足も挙げるよって言う人がいた。チンボコも挙げるよって言うのもいた。こんな人は多分嘘つきだ。彼は手を挙げますだったから」
「前にも一度同じ事を」
「うん。全く同じ」
「なぜ」
「僕には人を殺せない。そんな勇気はない」
「模擬的に殺すのですか」
「いいや、彼らは自分で死んだ。同時に生きることも出来た。僕は傍観者。何もしない。彼らの行動を見ていただけ」
「性的に興奮するのですか」
「そんなレベルじゃないですよ。人間が自分で死ぬのはそんなのじゃない。自分で自分を殺す。自分の世界を消す。絶対にそんなレベルじゃない。それに彼は僕が死ぬのを望んでいたかどうか分からない」
少しの沈黙があった。気持ちの細波を収めるように彼は言った。
「僕は不能ですよ。肉体的にも、精神的にも」
彼は楽しそうに笑った。
「変態!」
私は叫んだ。彼の目に一瞬殺意が浮かんだ。私はナイフを握りしめた。冷静をよそおうように彼は上唇をなめた。
「女は醜い。きれいなんて思ったことがない。肉のかたまり。でも、君は違うなあ。少し」
不意に家にいる猫のミミを思い出した。彼の膝の上にミミがいたらすべてが変わっていたような気がした。
「目の前で生と死が交叉している。僕は傍観者であり続ける。そんな状態に興奮する。それが悪いのですか。僕の個人的な趣味だ」
「趣味……。あなたこそ死ぬべきだった」
彼がN記者の前でつけていた正常という皮膚を一枚、私は剥いだ。私は有賀を知りたいために来たのではなかった。興味もなかった。Kさんの失われた言葉を求めてやってきたのだ。だが、ここにいる男は何者なのだろう。理解出来ない人間がここにいた。
「分からない。もういいから事実だけを話して下さい」
私は言った。
「私はあなたに会いに来たのではない」
ふっと有賀に嫌悪の表情が浮かんだがすぐに元に戻った。
「煙草、いいですか」
私は頷いた。
「大分空港で初めて会った」
「サインは」
「当然サインはV。僕の提案です。男一人で、キョロキョロしている。そんな人は多くない。僕は彼にVサインを送った。一人目で当たりだった」
年配の女の人が不意に姿を見せた。
「満君、お友達」
「こっちにくるな」
女の人の足が止まった。
「どげんしちそげなにおこっちょんの」
「だいじなはなしをしちょんから」
女の人はたじろいて、私に軽く会釈をしてきびすを返した。
「お母さんですか」
彼はそれには答えなかった。
「まじめな人だと思った。お土産に粟おこしをもらいましたよ。野球の話をしていたなあ。ヤフードームにもよく行くって言ってた。それ以外何を言っていたんだろう。覚えていない。喋らなかったかも知れない。でも、楽しそうだった。一緒に死ぬのがそんなに楽しいのだろうか。終始ニコニコしていた」
彼は目を軽く閉じ、一月前を思い出しているようだった。
「仕事の話も世間話もしなかった。彼は野球の話を楽しそうにぼそぼそと話し、僕はそれを聞いていた。お互い名前も知らなかった。僕は童貞ですと言ってましたよ。どうでもいいことだけど」
猫が塀の上を歩いている。烏が鳴いている。静謐な午後の時間。
「タクシーに乗って、一緒にここに来て、遺書を書いた。こんなのでいいですかって僕に見せましたよ。僕は見なかった。僕のを見ますかといったら、いいですって。それで遺書を置いてKキャンプ場に行った」
そこで言葉を切った。暫く何かを考えていた。澄んだ目で池の方を眺めていた。
「いや、その前にごはんを食べた。何か食べますかと聞いたら、カレーライスが食べたいって。どれがいいですかと聞いたら、ボンカレーを指さした。サトウのごはんをレンジして、ボンカレーをかけて作ってあげた。料理と言うほどのものではなかったけれど。氷水も作ってあげた。カレーライスを美味しそうに食べて、氷水を一気に飲んだ。おかわりしますかと言ったら、ごちそうさまでしたと手を合わせた。それから、トイレを貸してくれと言ったなあ。長い時間だったから、大の方だと思う。それで」
「遺書に」
私は言葉を挟んだ。有賀は言葉を止めて私を見た。少し不思議そうな顔をした。
「遺書……。持ってきましょうか、コピーを取ったから」
「いいえ、いいです。妹さんのことを書いてありましたか」
「なかった。あなたのこともなかった。彼は一番書きたかったことを書かなかった。一番残したかったことを残さなかった。仕事とか、会社とか、つまらないことばかりが書いてあった」
短い沈黙があった。
「あなたの遺書が見たい」
有賀は初めて顔色を変えた。
「何のために」
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
私ははっきりと言った。私は繰り返した。
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
有賀は新しい煙草に火をつけた。まずそうに煙を吐き出した。随分長い間二人は黙っていた。深い闇のような沈黙だった。
「捨てましたよ。とっくに」
彼は立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
と彼は言った。その後に脈絡のないことを言った。
「僕はかすかに車には興味がある」
私はトヨタセンチュリーの後部座席に乗り込んだ。
「九州は初めてですか」
「修学旅行に来たことがあります」
「高校のですか」
「ええ」
「僕は九州以外に出たことがありません。仕事をしたこともない」
トヨタセンチュリーは静かに動き出した。
母親らしい人が、不安そうに車を見送っていた。
「Kキャンプ場は七月と八月しかキャンプを受け付けないから、それ以外は人も少なく静かです。下の公園はウォーキングの人や散歩の人が多いけれど、展望台まで行けば、滅多に人はいない。でも、キャンプっていやだなあ。あんなの何が楽しいんだろう」
彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。自動車に自分を同化させるような、車が自分の意志で動いているような安全運転だった。
まだ、日は落ちていない。駐車場に車を止めて、歩いた。何もないところだと思った。淋しい場所だった。荒野だ。
「冬は雪が積もります。九州は暑いなんてとんでもない」
山道を歩いた。やがて、頂上に着いた。薄闇の中に、町が広がっていた。町が一望できた。こんな所に場違いなブランコがあった。それと、石のベンチ。その後ろに、名前の知らない木があった。Kさんは木に紐をかけ、ベンチから飛んだ。常夜灯が一本。小さな展望台。
「彼はこのベンチに腰掛けていた」
私はベンチに腰掛けた。
「今はあの時より日の入りが三十分ほど早いから、まだ、日が暮れてなかった」
辺りは暗くなり、常夜灯に明かりが入った。
「何も話さなかった。話す事もなかった。僕は煙草も吸わなかった」
「隠れていても、匂いはする」
「そう。煙草は持っていなかった」
有賀は笑った。冷たい笑いだった。
「大切な事を一つ忘れていた。三十分ほど待ってくれますかと聞いた。彼はいいですよどうぞと気持ちよく言った。大切な事の内容も聞かなかった。僕も言わなかった」
少し寒い。つるべ落としに日が暮れる。
「三十分ほどして、日が暮れるのを待って僕は戻った。彼は同じ場所に同じ姿勢で腰掛けていた」
彼は植え込みの方に歩いた。
「僕はここから見ていた」
声のする方向を見たが、彼の姿はなかった。
「彼は一時間ほどじいっとしていた。時々虫除けスプレーを噴霧しながら、僕は彼にもらった粟おこしを食べていた。音をたてないように気をつけながら。お腹が空いていたんでね。秋の虫が喧しいほどに鳴いていた。今はみんな死んじまったけど」
Kさんは何を考えていたのだろう。
「ブランコに乗って暫く揺れていた。ルビーの指輪を口ずさんでいたなあ。上手い。誰にでも一つぐらい取り柄があるもんだ」
目をこらすと、常夜灯の加減で有賀の姿が薄い影のように見えた。有賀は正面の芝生に腰を下ろしている。Kさんは知っていた。
「僕は隠れていない。彼が見なかったのだ僕を。僕が見えなかった」
「私にはあなたが見える」
有賀は私の言葉に反応しなかった。だから、もう一度言った。
「私にはあなたが見えるわ」
「見えていたのかも知れない」
十メートル程隔てて二人は対面していた。
「だけど、あいつは見えていないんだよ他人が」
「見ていた、あなたを」
私は叫んだ。私はナイフを握りしめた。自分を守るためか、有賀を刺すためか分からなかった。
彼は笑った。
「そうかも知れない。でも、確かめようがない」
「人殺し!」
私は叫んだ。
有賀に人の血が流れた。私に走り寄った。私のナイフが、腕をかすった。彼はひるまずに、私の首に手をかけた。彼と私が人間として繋がった。はっと気づいたように、有賀は私から離れた。
「わいの胸を刺せ」
有賀が左胸を叩いた。
「わいの胸を刺せ。今なら死ねる。死なせてくれ。頼む」
私はナイフを捨てた。恐怖心はなくなっていた。 有賀から人間の血が引いていった。無機質な男がそこに立っていた。彼は生きながら死んでいる。そんな気がした。有賀の腕から血がにじんでいた。彼は気にならないようだ。痛覚もないのか。私はこの男を助けたいと思った。
「人殺し!」
私はもう一度言った。だが、有賀に人間の血は戻ってこなかった。
「かわいそうな人」
私は言った。有賀はさびしそうに笑った。
彼はまっすぐに私を見つめた。
「三時間たって、携帯電話を操作し始めた。操作はすごく速い。君のメールだけ残して全て消した。彼は動いた。ベンチに乗って、ロープを木にかけた。僕が見ていたのはそこまでですよ。醜い物は見たくない。結局、後で聞くまでは名前も、職業も、年令も知らなかった」
彼は静かに言った。
「人が死ぬのにそんなに理由がないんですよ。ちょっと旅に出るみたいに人は死ぬ。そして二度と帰ってこない。残されたものが伝説を作る。でも、旅にでられない人間もいる」
言いようのない怒りがこみ上げてきた。やがてそれは虚無と絶望に変わった。
菊の花を木の根っこに置いた。太い幹を見上げた。彼は頷いた。二人は暫く黙っていた。そして、手を合わせる私に有賀は言った。
「花は美しい。人間は嫌だ」
「また同じ事をしますか」と、私は聞いた。彼は答えなかった。とても深い沈黙だった。
トヨタセンチュリーは静かに動き出した。
大分駅まで送ってくれた。教科書通りの安全運転だった。一言も言葉を交わさなかった。 車を降りた時も、涼しい目でじっと前を見ていた。彼は自分に正直なのかも知れない。そんなことをと思った。憎まなければならないのに。不思議に憎悪はなかった。体についた塵を払うように私は自分の狂気を振り払った。
小倉で新幹線に乗り換えた。ぎりぎり間に合った。アパートに着くのは明日になるだろう。自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んだ。水は一瞬に吸収された。メールを打った。
『今から帰ります』
宛名は空欄のまま、携帯電話をたたんだ。長い間、車窓に浮かんだ私の顔を眺めていた。電車は広島を通った。六十一年前、原爆が落ちた町が夜のしじまの中に沈んでいた。
広島の人々も次の瞬間に自分が死ぬとは思っていなかった。
了
お読みいただきありがとうございました。