創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

母の俳句

2016-10-31 10:25:11 | エッセイ
俳句とは何だろうと、ここひと月ほど考えている。
俳句人口は500万人とも1000万人ともいわれているらしい。
毎日何十万という俳句が詠まれ、消えていく。
5,7,5というデジカメで写しまくれば、写生という俳句になる。プロが添削すれば一句完成する。
そして、驚くべき事に一句たりとも同じ俳句はできない。
そんなことをあれこれ考えているうちに母を思い出した。
「どうや?」
母は小首を傾げて眩しそうに僕を見ている。
小首を傾げるのも眩しそうに人の顔を見るのも母の癖だが、その時は決まって不安そうな表情がプラスされている。
母の差し出した日記には下手な字で俳句が書いてある。
「褒めなくては」、「間違っても貶してはいけない」。僕も少し緊張する。
「ええんちやう」
僕の一言で一瞬にして緊張がほどける。
それから堰を切ったように自句自解が始まる。
僕は時々頷きながら半ば義務のように聞いていた。
それは母が亡くなる2008年まで続いた。
今思えば、俳句が母と子をつないでいた幸せな時間だった。
俳句とは人と人をつなぐものではないかと思った。凡句であっても名句であっても関係がない。
一瞬に消える凡句であっても、後世に残る名句であっても俳句の『5,7,5』は人と人をつなぐ。
久しぶりに母の俳句を読んでみた。
山小屋も孫達の聲夏休み
母の声が聞こえる。川の音が聞こえる。そこに集う孫たちの声も。
寺山修司は「「短歌は音楽だけど俳句は呼吸だと思う」と言っていた。
まさしくこの俳句は母の呼吸である。


虚構と真実の間

2016-10-25 15:38:44 | 創作日記
「失われた言葉の断片」の事件はモデルがある。
殆どの登場人物にもモデルがある。モデルとモデルの間は無数の虚構に埋め尽くされている。
アメーバーみたいに。
推敲しながら、K君の自殺の真実がまた霧の中に遠のいた様な気がした。もっと深い霧に。

失われた言葉の断片 最終回

2016-10-25 07:17:02 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 最終回  

 十一月三、四、五の三連休に私は大分市に行くことにした。飛行機で一時間の距離だ。飛行機に乗るのは何年ぶりだろう。もっとも嫌いな乗り物だった。事故も怖いけれど、巨大な鉄の固まりが飛ぶこと自体が怖い。帰りは電車にしようと飛行機に乗った後、考えた。Kさんも飛行機に乗った。帰らない旅の始まりだった。
 私は何でここまで来たのだろう。自分の行動に理屈を考え出したらきりがない。私達は理屈のために生きているのではない。飛行機がぐんぐん高度を上げる。私の住んでいる街が段々小さくなる。毎日同じ回路を私はぐるぐる回っていた。その回路から抜け出す。それが旅の目的であっても良いのではないか。私はそう考えることにした。
 三連休なのに空席が目立つ。いつの間にか窓の下は雲だけになっていた。ビールを一本もらって、目を閉じた。シートベルトを促すアナウンスで目が覚めた。

 海がどんどん迫ってくる。突然滑走路が現れる。ガリガリと派手な音を立てて、滑走し、突然止まった。

 地方都市の空港は小さく、淋しい佇まいだった。空港ビルも人はあまり多くない。二人は空港で初めて出会った。地方紙を取り寄せた同僚が言っていた。サインは何だったのだろう。帽子ではない。Kさんの頭に合う帽子はない。阪神のユニホーム。それもない。Kさんは意外と照れ屋なのだ。有賀に会ったら聞いてみよう。

 昨日ネットで辿った道を行く。大分空港から大分駅まで、バスで一時間かかる。
 まず中心街にあるコンパルホールを目指す。ネットで調べた。九州は温かいイメージなのに少し寒い。
 中庭は吹き抜けになっていて空が望める。
 エントランスに入ると、私は広い空間に迷い込んだ小さな虫のようだ。
 大分市民図書館はコンパルホールの一階にある。図書館なんて何年ぶりだろう。親と一緒に行った記憶しかない。カウンターで新聞閲覧について聞く。今年の十月四日の地方紙を見たいと言った。
「大分合同新聞でいいですね。書庫にありますから、少しお待ち下さい」
 係の女性は笑みを浮かべながら言った。十分ほどすると、新聞を持って帰ってきた。
「バインダーから外すのに時間がかかって」
 自分のドジを可愛く笑った。私は恐縮した。知らない土地で受ける好意は素直に嬉しい。
 かなり大きく取り上げられていた。二面コピーして、新聞を返した。
「ありがとう、助かったわ」
 係の女性は、微笑んで小さく頭を下げた。
 コンパルホールを出て喫茶店に入った。私は一人で喫茶店に入ることはない。人ともあまり入らない。小ぎれいな店内には、静かな音楽が流れていた。人もまばらだ。窓際の席に腰を下ろした。
 記事は概ね全国版と同じだが、一面と、三面に渡っている。自殺幇助の男、有賀の住所も載っている。お腹が空いたので、サンドイッチとコーヒーを頼んだ。署名入りで自殺サイトへの警鐘もある。この地方ではかなり大きな事件だ。食事を済ませたら、新聞社に行ってみよう。携帯電話で新聞社の場所を聞く。ここからあまり離れていない。歩いても行けるが面倒だし多分迷う。タクシーにしよう。友人は軽いから、恋人にしよう。「恋人……」。なぜかおかしかった。私は今まで恋人はいない。Kさんも多分そうだろう。いない者同士が恋人。Kさんがあの日私に会いに来なかったら、この旅はなかっただろう。そして、もう、忘れ去っていただろう。だが、本当にそうだろうか。分からない。
 窓から大分市の空を眺めた。快晴の空には雲一つなかった。私は今、異境にいるような気になった。誰も私を知らない土地にいる。私も誰も知らない土地にいる。急に不安になった。

 大通りで空車を見つけた。
 乗り込むと年配の運転手が言った。
「どこへいくのかぇ」
「大分合同新聞社」
「あんいたほうがはやいや」
 歩いた方が速いということだろう。黙っていると走り出した。不意打ちの方言に私は急に不安になった。誰も知人のいない世界に私はいるのだ。帰ろうかと思った。今なら、引き返せる。「大分駅と言えばいいのだ」。その瞬間、タクシーが止まった。
「つきたで」
 七十才位のの運転手が言った。大分合同新聞社のビルは想像していたよりも新しく巨大だった。エントランスに入り、受付に向かう。
「社会部のNさんにお会いしたいのですが」
「アポイントメントはお取りですか」
「いいえ」
「ご用件は」
「十月二日の自殺幇助事件についてお伺いしたいことがあります。大阪から来ました」
「しばらくお待ち下さい」
 受付嬢は電話を取った。声を潜めたので私はカウンターから離れて電話が終わるのを待った。広いロビーに記者と思われる人がせかせかと歩いている。面会は断らないだろう。時間がなければ待つつもりだ。まだ休みは二日ある。
 受付嬢が電話を置いた。
「お会いするそうです。会議がありますので、短い時間ならと言っていました」
 場所の説明を聞いて、立ち入り許可書をもらった。
「終わりましたら、お返し下さい」
 エレベーターで九階に上がる。長い廊下を歩く。社会部の矢印を見てほっとした。エレベーターまで戻れるか心配になる。私は方向音痴でもある。
 社会部と書かれたドアを押す。一気に騒がしい部屋に立っていた。机の上は雑然としていて、喧嘩腰で喋っている男もいる。
 一番奥のデスクの男が私を見た。あの人がNさんだろう。五十過ぎの白髪だった。立ち上がり私に近づいてきた。
「村瀬さんですか」
 私は頷いた。
「ここは喧しいでしょう。会議室に行きましょう」
 また、廊下を行く。帰りは絶対に迷う。パンくずを落としていく童話があったと思う。ティッシューを小さく丸めて落とそうかと思っているうちに着いた。Nさんは「空き」という札をひっくり返して、会議中にした。テーブルに向かい合って腰掛けた。
「遠いところをどうも。Kさんとは?」
「同僚です」
 恋人という言葉は出なかった。だが、Nさんは多分そう感じていたと思う。
「あの日のKさんを辿ってみたくて来ました」
「それじゃ、有賀にも会いますか」
「お会いしたいと思います」
「トラブルになってもねえ」
「話を聞くだけです。約束します」
Nさんは少し考えていた。
「まあ、いいでしょう。小さな町だから、どっちみちあなたは有賀に辿り着くでしょう。それに彼は危険ではないと思います」
「今はどうしていますか?」
「家にいますよ。保釈中だから、自由に動けない。裁判は来年になるでしょう」
「保釈?」
「あのあたりの名士ですよ。それも一人息子。収監もされなかった。てんかんの持病があるという理由でね。診断書が出たそうですが、医者の知り合いもありますしねえ。よく分からんですよ」
 Nさんは人差し指でテーブルを叩いた。コツ、コツ。小気味のよい音を立てたコツ、コツ、コツ。
「人が死ぬのを見て喜ぶ。異常ですよね。それも二度目です。また、やりますよ。死ぬまでやる」
 Nさんは小型の冷蔵庫から、お茶のボトルを取り出して、紙コップについだ。
「お構いなく」
「自分も飲みますから」
 Nさんは背を向けたまま言った。
「自殺サイトがあるからダメなんです。規制しなけりゃ。一人で死ぬのが怖いから仲間を求める。心中はある意味で分かったけれど。死ぬのを一緒にと言うのは分からんですよ。それも見知らぬものどうしが。人と人は実際に出会ってから関係が始まるんですよ。ネットで何がわかるんですか」
 Nさんは九州男児なのだ。声が大きい。
「九月の半ば、東京でオフ会があったそうです」
「オフ会?」
「ネット仲間が実際に会うのですよ。それにKさんは参加していた」
神宮球場に行くと言っていた。ヤクルト・広島戦を見に行った。その時オフ会があったのだ。
「有賀さんも参加していたのですか」
「有賀は参加していません。そんなところに出て行く男ではない。年もいってますしね」
 Nさんは音を立てて、お茶を啜った。
「自殺サイトのオフ会って……」
「普通みたいですよ。自己紹介して。結構楽しそうです」
「同じ趣味の人が集まるんですか?」
「まあ、そうですね。あの死に方より、こっちの方がいいとか。全然暗くないそうですよ。仲間内ですから」
「みんなKさんみたいに普通の人なんだ」
「普通じゃない人なんていないですよ。だけど間違っている。生きててなんぼですよ人間は」
 Nさんは力をこめて言った。少しの沈黙があった。話が横道に逸れた。Nさんは修正した。
「逮捕の理由は、ロープを用意した。細いロープと太いロープ。どっちにすると聞いたら、K君は太いロープを選んだ。有賀はどうしても生きているうちにやらなければならない事がある。三十分ほど待ってくれと言った。それから、三時間、有賀は物陰に隠れて、K君が死ぬのを待っていた。K君はベンチに腰を下ろして有賀を待っていた。だが、有賀は帰ってこなかった。K君は木にロープをかけて、ベンチからぶら下がった」
「有賀さんは止めなかった」
「人が死ぬのを見る。それが彼の目的だから。当然止めませんよ。何を考えているんでしょうね。そんなものを見ても何も楽しくない。私らの世代にはさっぱり分からない」
 私にも分からない。自殺なら分かる。考えたことがないでもない。人が死ぬのを見て何が嬉しいのだろう。Kさんは三時間待った。三時間。Kさんは何を考えていたのだろう。例のおっとりとした感じでベンチに腰掛けていたのだろうか。夕闇は深くなる。その時、私のメールが入った。
「有賀に会って一番驚いたのは、彼が全く普通の青年だったということです。きっちりと敬語も喋れる。こちらの気持ちも分かる。理想的な青年だった。私の前ではという条件付きですが。一応父親の会社の役員と言うことになっていますが、大学を卒業後は家でぶらぶらしています。結婚歴はなし。A型。前回の相手は二十九才の男性です。今回と同じで、ネットで知り合った。懲役二年執行猶予三年です」
「何年前ですか」
「三年ちょっと経っているんですよ。上手い具合に。これが私が知っている全てです」
 Nさんは静かに言った。そして、Nさんは私の前に名刺を置いた。
「タクシーの運転手です。彼が二人を空港から、有賀の家まで送った。私も取材しましたから」
 Nさんの携帯が鳴った。
「分かっているよ。先に始めておいて」
 語気が激しかった。
「もう少し有賀を追いたかったんですが。学生時代とか、家族関係とかね。上から止めろと言われた。止めろと言われたら仕方がないですよ。サラリーマンですからね。でも、何でそんなことをするんですかねえ。自殺なんて。生きててなんぼじゃないですか」
 また、同じことを言った。
「私はKさんは人生を楽しく生きている人だと思っていました。趣味も色々あったし。私の人生の中でもっとも意外なことだった」
「そうですか」
「ここに来た理由は、自殺する前の日に私に会いに来てくれたからです。誰にでもない、私にです。恋人じゃない私にです」
「好きだったんですよ、あなたが」
 Nさんは簡単に言い切った。
「私は、人を好きになったことがありません。有賀と同じですよ、多分。好きという感情が分からない」
「だけど、今、ここにいるじゃないですか」
 また、携帯電話が鳴った。
「そろそろ、行かないと。二階だから、一緒に行きましょう」
 かくして、私は迷路から脱出した。



 ホームセンターで護身用に小さなナイフを買った。有賀はやはり怖い。菊の花も買った。何か混ぜようと思ったが、結局菊の花だけにした。一色が好きだ。
 タクシー会社に連絡をする。近くにいるから、直ぐに行くという返事だ。また、年配の運転手だった。
「どげんしちわいを」
 分からないふりをした。
「前に乗ってもらったかなあ」
「いいえ初めてです」
「どこへ」
「有賀さんの家へ」
「有賀? ああ、有賀さんねぇ」
「一月ほど前、自殺をした人を乗せたでしょう」
「乗せたよ」
「その人の友人です」
 運転手は黙った。長い間黙っていた。
「二人とも上機嫌だったなあ。野球の話で盛り上がっていた。ピクニックに行くような感じだったなあ。死にに行くとは思いもしなかった」
 車はいつの間にか郊外を走っていた。刈り取られた田んぼが続く。すすき。コスモス。すっかり秋だ。運転はかなり荒い。Kさんはこの空間で、野球の話をしていた。有賀は相槌をうつこともなく黙って聞いていた。
「着いたよ」
運転手が言った。

 大きな門構の家だった。飛石が奥へと続いている。ドアホンを押した。
「どなた様ですか」
 年配の女性の声が返ってきた。
「村瀬と申します。亡くなったKさんの事でお伺いしたいことがありまして」
 マイクの向こうで躊躇する様子が伝わってきた。
「大阪から来ました。有賀(ありが)満(みつる)さんにお会いしたいのですが」
「裁判前ですのでちょっと」
「ご迷惑はおかけしません。満さんに聞いてもらえないでしょうか」
「Kさんとは?」
「友人です」
「しばらくお待ち下さい」

 飛石の向こうに長身の男が姿を見せた。ゆっくりとこちらに向かってくる。背は高い。痩せている。金縁の眼鏡をかけている。近づいてくると、目がすずしい。美男子だ。向こうも私を見て驚いている。彼は軽く頭を下げた。
「有賀です。どうも」
「村瀬です。お忙しいところをすみません」
「忙しくないですよ」
 明るく笑った。
「僕の部屋でお話しましょう」
 部屋というより家だった。
「日差しもよいし。ここがよいですね」
 縁側に並んで腰掛けた。女がお茶を運んできた。
「Kキャンプ場にあなたと一緒に行きたいのです」
 彼は黙ってお茶を飲んだ。前には池がある。まだ早いが、紅葉(もみじ)の木が植わっている。手入れの行き届いた落ち着いた庭だ。
「いいですよ。その前に少し話していいですか」
 彼は言った。私は頷いた。
「僕はロープを用意した。彼が死ぬのを見ていた。それが罪ですか?」
「一緒に死ぬと嘘をついた」
「死ぬのが怖くなって逃げたんですよ」
「助けなかった」
「助けなかったって」
 彼は小さく笑った。
「彼が望んでいたことですよ。でも、あなたみたいな人がいるのにどうして死んだのでしょうね。一生片思いでもよかったのに」
 また、長い指を曲げてお茶を飲んだ。とても優雅に。
「自殺サイトに一緒に死んでくれる人、手を挙げてって書いたんですよ。足も挙げるよって言う人がいた。チンボコも挙げるよって言うのもいた。こんな人は多分嘘つきだ。彼は手を挙げますだったから」
「前にも一度同じ事を」
「うん。全く同じ」
「なぜ」
「僕には人を殺せない。そんな勇気はない」
「模擬的に殺すのですか」
「いいや、彼らは自分で死んだ。同時に生きることも出来た。僕は傍観者。何もしない。彼らの行動を見ていただけ」
「性的に興奮するのですか」
「そんなレベルじゃないですよ。人間が自分で死ぬのはそんなのじゃない。自分で自分を殺す。自分の世界を消す。絶対にそんなレベルじゃない。それに彼は僕が死ぬのを望んでいたかどうか分からない」
 少しの沈黙があった。気持ちの細波を収めるように彼は言った。
「僕は不能ですよ。肉体的にも、精神的にも」
 彼は楽しそうに笑った。
「変態!」
 私は叫んだ。彼の目に一瞬殺意が浮かんだ。私はナイフを握りしめた。冷静をよそおうように彼は上唇をなめた。
「女は醜い。きれいなんて思ったことがない。肉のかたまり。でも、君は違うなあ。少し」
 不意に家にいる猫のミミを思い出した。彼の膝の上にミミがいたらすべてが変わっていたような気がした。
「目の前で生と死が交叉している。僕は傍観者であり続ける。そんな状態に興奮する。それが悪いのですか。僕の個人的な趣味だ」
「趣味……。あなたこそ死ぬべきだった」
 彼がN記者の前でつけていた正常という皮膚を一枚、私は剥いだ。私は有賀を知りたいために来たのではなかった。興味もなかった。Kさんの失われた言葉を求めてやってきたのだ。だが、ここにいる男は何者なのだろう。理解出来ない人間がここにいた。
「分からない。もういいから事実だけを話して下さい」
 私は言った。
「私はあなたに会いに来たのではない」
 ふっと有賀に嫌悪の表情が浮かんだがすぐに元に戻った。
「煙草、いいですか」
 私は頷いた。
「大分空港で初めて会った」
「サインは」
「当然サインはV。僕の提案です。男一人で、キョロキョロしている。そんな人は多くない。僕は彼にVサインを送った。一人目で当たりだった」
 年配の女の人が不意に姿を見せた。
「満君、お友達」
「こっちにくるな」
 女の人の足が止まった。
「どげんしちそげなにおこっちょんの」
「だいじなはなしをしちょんから」
 女の人はたじろいて、私に軽く会釈をしてきびすを返した。
「お母さんですか」
 彼はそれには答えなかった。
「まじめな人だと思った。お土産に粟おこしをもらいましたよ。野球の話をしていたなあ。ヤフードームにもよく行くって言ってた。それ以外何を言っていたんだろう。覚えていない。喋らなかったかも知れない。でも、楽しそうだった。一緒に死ぬのがそんなに楽しいのだろうか。終始ニコニコしていた」
 彼は目を軽く閉じ、一月前を思い出しているようだった。
「仕事の話も世間話もしなかった。彼は野球の話を楽しそうにぼそぼそと話し、僕はそれを聞いていた。お互い名前も知らなかった。僕は童貞ですと言ってましたよ。どうでもいいことだけど」
 猫が塀の上を歩いている。烏が鳴いている。静謐な午後の時間。
「タクシーに乗って、一緒にここに来て、遺書を書いた。こんなのでいいですかって僕に見せましたよ。僕は見なかった。僕のを見ますかといったら、いいですって。それで遺書を置いてKキャンプ場に行った」
 そこで言葉を切った。暫く何かを考えていた。澄んだ目で池の方を眺めていた。
「いや、その前にごはんを食べた。何か食べますかと聞いたら、カレーライスが食べたいって。どれがいいですかと聞いたら、ボンカレーを指さした。サトウのごはんをレンジして、ボンカレーをかけて作ってあげた。料理と言うほどのものではなかったけれど。氷水も作ってあげた。カレーライスを美味しそうに食べて、氷水を一気に飲んだ。おかわりしますかと言ったら、ごちそうさまでしたと手を合わせた。それから、トイレを貸してくれと言ったなあ。長い時間だったから、大の方だと思う。それで」
「遺書に」
 私は言葉を挟んだ。有賀は言葉を止めて私を見た。少し不思議そうな顔をした。
「遺書……。持ってきましょうか、コピーを取ったから」
「いいえ、いいです。妹さんのことを書いてありましたか」
「なかった。あなたのこともなかった。彼は一番書きたかったことを書かなかった。一番残したかったことを残さなかった。仕事とか、会社とか、つまらないことばかりが書いてあった」
 短い沈黙があった。
「あなたの遺書が見たい」
 有賀は初めて顔色を変えた。
「何のために」
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
 私ははっきりと言った。私は繰り返した。
「どんな嘘が書いてあるのか知りたい」
 有賀は新しい煙草に火をつけた。まずそうに煙を吐き出した。随分長い間二人は黙っていた。深い闇のような沈黙だった。
「捨てましたよ。とっくに」
 彼は立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
 と彼は言った。その後に脈絡のないことを言った。
「僕はかすかに車には興味がある」

 私はトヨタセンチュリーの後部座席に乗り込んだ。
「九州は初めてですか」
「修学旅行に来たことがあります」
「高校のですか」
「ええ」
「僕は九州以外に出たことがありません。仕事をしたこともない」
 トヨタセンチュリーは静かに動き出した。
 母親らしい人が、不安そうに車を見送っていた。

「Kキャンプ場は七月と八月しかキャンプを受け付けないから、それ以外は人も少なく静かです。下の公園はウォーキングの人や散歩の人が多いけれど、展望台まで行けば、滅多に人はいない。でも、キャンプっていやだなあ。あんなの何が楽しいんだろう」
 彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。自動車に自分を同化させるような、車が自分の意志で動いているような安全運転だった。

 まだ、日は落ちていない。駐車場に車を止めて、歩いた。何もないところだと思った。淋しい場所だった。荒野だ。
「冬は雪が積もります。九州は暑いなんてとんでもない」
 山道を歩いた。やがて、頂上に着いた。薄闇の中に、町が広がっていた。町が一望できた。こんな所に場違いなブランコがあった。それと、石のベンチ。その後ろに、名前の知らない木があった。Kさんは木に紐をかけ、ベンチから飛んだ。常夜灯が一本。小さな展望台。
「彼はこのベンチに腰掛けていた」
 私はベンチに腰掛けた。
「今はあの時より日の入りが三十分ほど早いから、まだ、日が暮れてなかった」
 辺りは暗くなり、常夜灯に明かりが入った。
「何も話さなかった。話す事もなかった。僕は煙草も吸わなかった」
「隠れていても、匂いはする」
「そう。煙草は持っていなかった」
 有賀は笑った。冷たい笑いだった。
「大切な事を一つ忘れていた。三十分ほど待ってくれますかと聞いた。彼はいいですよどうぞと気持ちよく言った。大切な事の内容も聞かなかった。僕も言わなかった」
 少し寒い。つるべ落としに日が暮れる。
「三十分ほどして、日が暮れるのを待って僕は戻った。彼は同じ場所に同じ姿勢で腰掛けていた」
 彼は植え込みの方に歩いた。
「僕はここから見ていた」
 声のする方向を見たが、彼の姿はなかった。
「彼は一時間ほどじいっとしていた。時々虫除けスプレーを噴霧しながら、僕は彼にもらった粟おこしを食べていた。音をたてないように気をつけながら。お腹が空いていたんでね。秋の虫が喧しいほどに鳴いていた。今はみんな死んじまったけど」
 Kさんは何を考えていたのだろう。
「ブランコに乗って暫く揺れていた。ルビーの指輪を口ずさんでいたなあ。上手い。誰にでも一つぐらい取り柄があるもんだ」
 目をこらすと、常夜灯の加減で有賀の姿が薄い影のように見えた。有賀は正面の芝生に腰を下ろしている。Kさんは知っていた。
「僕は隠れていない。彼が見なかったのだ僕を。僕が見えなかった」
「私にはあなたが見える」
 有賀は私の言葉に反応しなかった。だから、もう一度言った。
「私にはあなたが見えるわ」
「見えていたのかも知れない」
 十メートル程隔てて二人は対面していた。
「だけど、あいつは見えていないんだよ他人が」
「見ていた、あなたを」
 私は叫んだ。私はナイフを握りしめた。自分を守るためか、有賀を刺すためか分からなかった。
 彼は笑った。
「そうかも知れない。でも、確かめようがない」
「人殺し!」
 私は叫んだ。
 有賀に人の血が流れた。私に走り寄った。私のナイフが、腕をかすった。彼はひるまずに、私の首に手をかけた。彼と私が人間として繋がった。はっと気づいたように、有賀は私から離れた。
「わいの胸を刺せ」
 有賀が左胸を叩いた。
「わいの胸を刺せ。今なら死ねる。死なせてくれ。頼む」
 私はナイフを捨てた。恐怖心はなくなっていた。 有賀から人間の血が引いていった。無機質な男がそこに立っていた。彼は生きながら死んでいる。そんな気がした。有賀の腕から血がにじんでいた。彼は気にならないようだ。痛覚もないのか。私はこの男を助けたいと思った。
「人殺し!」
 私はもう一度言った。だが、有賀に人間の血は戻ってこなかった。
「かわいそうな人」
 私は言った。有賀はさびしそうに笑った。
 彼はまっすぐに私を見つめた。
「三時間たって、携帯電話を操作し始めた。操作はすごく速い。君のメールだけ残して全て消した。彼は動いた。ベンチに乗って、ロープを木にかけた。僕が見ていたのはそこまでですよ。醜い物は見たくない。結局、後で聞くまでは名前も、職業も、年令も知らなかった」
 彼は静かに言った。
「人が死ぬのにそんなに理由がないんですよ。ちょっと旅に出るみたいに人は死ぬ。そして二度と帰ってこない。残されたものが伝説を作る。でも、旅にでられない人間もいる」
 言いようのない怒りがこみ上げてきた。やがてそれは虚無と絶望に変わった。
 菊の花を木の根っこに置いた。太い幹を見上げた。彼は頷いた。二人は暫く黙っていた。そして、手を合わせる私に有賀は言った。
「花は美しい。人間は嫌だ」
「また同じ事をしますか」と、私は聞いた。彼は答えなかった。とても深い沈黙だった。
 
 トヨタセンチュリーは静かに動き出した。

 大分駅まで送ってくれた。教科書通りの安全運転だった。一言も言葉を交わさなかった。 車を降りた時も、涼しい目でじっと前を見ていた。彼は自分に正直なのかも知れない。そんなことをと思った。憎まなければならないのに。不思議に憎悪はなかった。体についた塵を払うように私は自分の狂気を振り払った。
 小倉で新幹線に乗り換えた。ぎりぎり間に合った。アパートに着くのは明日になるだろう。自動販売機で買ったミネラルウォーターを飲んだ。水は一瞬に吸収された。メールを打った。
『今から帰ります』
 宛名は空欄のまま、携帯電話をたたんだ。長い間、車窓に浮かんだ私の顔を眺めていた。電車は広島を通った。六十一年前、原爆が落ちた町が夜のしじまの中に沈んでいた。
 広島の人々も次の瞬間に自分が死ぬとは思っていなかった。

                                    了 
お読みいただきありがとうございました。

失われた言葉の断片 5

2016-10-24 09:19:50 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 5  

 急に家に帰りたくなった。私には二才離れた妹がいる。奈良で教員をしている。私は土日は帰るという約束でアパートを借りたが、いつの間にかなんのかのと理由をつけて帰らなくなった。姉にひとり暮らしを許せば、妹を許さないわけにはいかない。
 結婚して家を出るように母は希望したが、その気がなさそうな娘達に母は諦めた。
『今週の金曜日家に帰る。お主も帰らぬか』とメールを送った。
『相変わらず暇そうやね。帰ってもええよ』
 随分経ってから返事が来た。
 難波から近鉄特急に乗った。五百円プラスだ。たまに帰るからいいだろう。ホームはサラリーマンで溢れていた。すし詰めの電車に乗る気がしない。父は定年までこの距離を三十七年間通った。往復三時間の通勤時間。私が通う会社よりも遠い。尊敬する。携帯電話で計算してみた。私が経済的に不自由なく大人になれたのは、二万六千六百四十時間の通勤時間、つまり三年近く車内にいた父のおかげだ。定年後は持病の糖尿病に取り組み、インシュリンを打ちながらも、正常値を維持している。そのうち高血圧になり、三種類のクスリを飲んでいる。血糖測定器と血圧計が友達になった。現役中は、苛ちだったけれど、この頃は随分穏やかになった。
「昼ご飯はわしが作ってんねん」と、帰る度に言う。
「メニューも増えたで。焼きそば、お好み焼き、焼きめし、ラーメン、うどん、冷やしうどん、ソーメン、そば、おにぎり、オムライス、親子どんぶり、スパゲティー、サンドイッチ、チキンバーガー、これは買(こ)うてくるんやけど」
 塩分を控えている。甘いものは全く口にしなくなった。ごはんの重さを量り、きっちりと炭水化物の量を計算してやっているから立派だ。
 母は元気だ。一年に一、二度海外旅行に飛び回っている。父は閉所恐怖症で、飛行機嫌い。だから、ついて行かない。
 いいことばかりではなかった家が無性に懐かしい。Kさんの死を話せるのは家しかなかった。私はそれほど強くない。
 ドアホンを押す前に母が出てくる気配がした。
「ただいま」
「お帰り」
 居間に入ると、妹はもう来ていた。
「お姉ちゃんお帰り」
 父は、新聞から目を離し、「おう」とだけ言った。ご馳走が準備されていた。

 団らんの中でKさんの話をした。
「考えたこともないし。人生が楽しいちゅうタイプや思てたのに」
「自殺サイトか」と父。
「分からへんね、若いのに」と母。
「いい人やったんよ」と私。
「変なもんがはやるなあ、小学校でも問題になってるし」
 妹がリンゴを囓りながら言った。
「贅沢やな」
 父がぽつりと言った。父の言葉は食卓の上で行き場を失い、静止した。父にも自殺を考えたことがあったのかなあと思った。父がいなければ、私もいない。少なくとも、今の私はいない。

 Kさんの話はそれで終わった。話せば、心が少し軽くなった。

「正社員にはなれへんのか」
 いつものように父が言った。
「今のままやったら、絶対になれへん。そんな人おらへんもん」
「そうか」と言って、父は糖質ゼロのビールを飲んだ。
 ミミが膝にのぼってきた。ミミの背中をなでながら、―ここにはまだ私の居場所がある―と思った。
 妹は風呂に入り、私は母と並んで食器を洗った。

 久しぶりに二階で、妹と枕を並べた。この場所でいろんな事があった。諍いも、嫉みも。取っ組み合いも。世界中で妹が一番嫌いだと思ったことも。
「ええ人はいてへんの」
「いてへん」
「姉ちゃんに気い遣わんと、さっさと行ったらええさかい」
「残念ながらいてへん。教師はださいわ。ええ男は売れてるし」
「ほんまやなあ。せやけど、うちは結婚願望はないし」
「うちはある。そのKさんちゅう人は」
「そんな人とちゃう」
 簡単に言った。
「うちが死んだらどうする」
 私は突然言った。
「そんなこと考えたことないわ」
 妹はそう言って寝返りを打った。私は電気スタンドの明かりを消した。

 次の日、朝食後、
「久しぶりに文殊さんへ行こか」
 と、私が妹を誘った。
「ええなあ。何年ぶりやろ」
「ほん近くやのにね」
「それだけ、あんたらが家に帰ってこうへんちゅうことや」
 台所から、母が言った。
「お母さんも行こ」
 妹が言った。
「ええわ、毎日ウオーキングで通ってるさかい」
 家の近くに、安倍文殊院がある。子供の頃は、境内でよく遊んだ。今は、コスモスが咲き乱れているだろう。姉妹は肩を並べて歩いた。不思議なもんだ。似ているところと、真(ま)逆(ぎやく)の所がある。ある時は敵で、ある時は理解者。二人姉妹は特にそうだ。
 山門をくぐる。春は山門から見る桜が美しい。穏やかな秋の日、燈籠が並んだ細い石畳を歩く。木漏れ日がきらきら光る。
 人が多い。コスモスの迷路で子供達が歓声を上げている。ここには入るまい、きっと出られない。妹が行ってくるわと言って直ぐ出てきた。いつもは閉まっている浮御堂が今日はあいている。拝観料がいるからやめた。

「本堂で文殊さん見て泣いたん覚えてる?」
「覚えてへん」
「せやろなあ、うちも六つぐらいやったし」
 本堂には、快慶作高さ七メートルの文殊菩薩像がある。昔、家族で行った。台座が獅子で、妹は獅子の顔を見て怖がって泣き出したのだ。
 家に寄らずに文殊さんに来たことがある。理由は忘れた。でもたいした理由はなかったと思う。その時は休みを取った。誰もいない境内をぶらつき、白山堂への石段をあがり、視界の広がった展望台で大和三山(はっきりとは分からなかった)や二上山を眺め、賽銭箱に十円ずつ入れて手を合わせた。
 拝観料を払い、本堂で、お茶とお菓子をいただき、袴姿の多分十代の若い女性から「説明をお聞きになりますか」と言われて、「はい」と返事をしてしまい、文殊院の説明を聞いた。歌うような調子だった。その後は気のすむまで文殊菩薩像を見ていた。童子像が合掌し、菩薩の方を斜め右に振り返っている。とても、かわいい。一二二〇年、快慶という人がいた。仏像は永遠の時を刻んでいる。私自身が時の中に溶けていく。父母がセックスをして私が生まれた。父母もそうして生まれてきた。時をさかるのぼると、どこかに私はいる。一二二〇年にも私はいた。私はいつから始まったのだろう。もし結婚をし、子供を生むことになったら、私はどこまで続いていくのだろう。

「本堂に入ってみよか」
「ええけど」
「今度は泣かへんな」
「今泣いたらアホやん」
 二才の年の差は微妙だ。私はよく父に叩かれたが、妹は滅多に叩かれなかった。後で、それだけ大事にされなかったと妹は言った。 真剣にお父さんは私を叱らなかったと。妹は私より頭がよかった。私は短大だけど、妹は、国立の教育大学に受かった。「よかったね」と喜んだけれど内心はそうじゃなかった。お祝いの食卓を途中でたった。
「明日、ゼミで発表するねん」
 嘘をついて二階に上がった。
 二階で、私は、泣いた。妹の不幸を願っていた自分が悲しかった。
「頭は私の方がいいかもしれないけど、その分お姉さんは美人だよ」
 いつのことだったか忘れたけれど、妹は言った。
 団体客の後ろを歩いた。仏像もゆっくり見られなかった。突然、Kさんの声が聞こえた気がした。
「四万人の観衆の中でも僕は一人だった」
 振り返ったが誰もいなかった。
To be continued 

日本語のために 日本文学全集 30池澤夏樹=個人編集

2016-10-23 10:22:17 | 読書
かなり手強い本を買ってしまった。
帯びに「祝詞、アイヌ語、琉歌、憲法など「日本語」の多様性を明示した画期的なアンソロジー」とある。
「日本語のために」という言葉も意味深である。
私は本を二種類に分けている。手元に置いておきたい本と、読めば用が済む本である。
この本は、前者であると思った。
アマゾンに頼むとすぐに来た。
開けて見て少し後悔した。
だけど、知らないことが一杯詰まっていそうだ。
それにひと月で2刷発行している。
「日本語」についての関心が高い証拠だ。
ふと、気になった。「日本語」の読みは「にほんご」それとも「にっぽんご」。そもそも「にほん」か「にっぽん」か。
どちらも正しいというのがいかにも日本語らしい。

失われた言葉の断片 4

2016-10-23 09:16:00 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 4 

 ロッカー・ルームは異様な雰囲気だった。泣いている子もいる。阪神ファンで、仕事が終わると、応援グッズに身を固め、球場に直行するような子だった。Kさんと気があった。一緒に行ったこともあった。Kさんは通勤服のまま、静かに応援していたという。その子を慰めているのは一番古株の山下さんだ。他の人は黙々と着替えていた。後から入ってきた人は異様な雰囲気に声を潜める。
「どないしたん? Kさんが見つかったん?」
 聞かれた子が首を振る。
「見つかったけど、死んではった」
「うそ」
「自殺やて」

 机の前に腰掛け。いつものようにコンピューターのスィッチを押した。肩に人の手を感じた。振り向くとお局の顔があった。
「昨日はごめんね。せや、もう、今日やってん」
 お局の目尻に涙が一筋流れた。きれいな涙だった。結局私は泣かなかった。社員と派遣の間にはこんな差異もあるのだろうか。泣けなかった自分が悲しかった。

 部長から事の経緯が説明された。昨日はS主任とお局に任せきりだった。プライドの高い男だ。そんな仕事は自分がするものではないと思っている。でも、最後の仕切は自分がする。
「九州大分県大分市Kキャンプ場でK君が自殺しました。昨日の午後八時頃です。首つり自殺です。自殺サイトで知り合った男が自殺幇助罪で逮捕されました。過去に同じ事をしています。二度目だそうです。その男の通報で分かりました。ご遺体は大分市で荼毘にふされ、広島の実家で密葬するとのことです。その前に大分大学で司法解剖されます」
 事実を並べれば、こういう事なのだ。一昨日、「これサーティワンで買(こ)うてきてん」と言った人が解剖。口の中にアイスクリームの味がよみがえってきた。全員が悲痛な思いで聞いた。重苦しい空気に部屋が包まれた。
「誰かお葬式に」
 お局が言った。
「密葬だと言っているでしょ」
 部長の声が高くなった。
「でも」
「かえって迷惑ですよ。日時も聞いていないんですよ」
「広島まで旅費も大変ですが」
「お金の問題ちゃう」
 けちな男がついに切れた。

 十月四日(水)
 夜。ネット検索をした。検索を繰り返していると、ヒットした。全国紙の地方欄に載っていた。自殺幇助がニュースなのだろう。集団自殺も自殺サイトもニュースにはならないありふれた出来事になったのだろう。このニュースも全国版では載らなかった。事実だけを伝える素っ気ない文章だった。

 三日、大分市、無職、有賀満容疑者(四十四)を自殺ほう助容疑で逮捕。十月二日午後五時ごろ、インターネットの自殺サイトで知り合った大阪市内の男性会社員(三十)が自殺するのを知った上で、ひも様のものを渡し、大分市KのK山キャンプ場で自殺させた疑い。有賀容疑者はキャンプ場まで行ったが自殺を思いとどまった。(大分東署調べ)
      M新聞 二〇〇六年十月四日

 Kさんの自殺から二週間余が過ぎた。職場は落ち着きを取り戻した。というより、表面上、Kさんはきれいさっぱり忘れ去られた。 Kさんの机、ロッカーは父親と妹が整理した。父親は噂通りに快活だった。製薬会社のMR(医薬情報担当者)だから、職業柄からだろうか。でも、一番大声で喋っているのは不自然だった。大きな会社だとか、すごいコンピューターの数だとか、北朝鮮の核実験だとかいわば雑談だった。離れている私の席からもよく聞こえた。紙袋に必要な物を入れた。いらない物の方がはるかに多かった。
「いらない物はこちらで処分しますから。なあ、S君」
 部長が言った。S主任は返事をしなかった。小さな抵抗。父親は恐縮し、皆さんにと言って、もみじ饅頭を一箱置いていった。賞味期限の前日にお局が掃除のおばさんにあげた。
 Kさんの机には花が飾られたが、それも枯れ、昨日誰かが捨てた。今日、M君がKさんのコンピューターのキーボードをたたいていた。
 最後まで残っていたロッカーの名札を外したのはお局だった。Kさんのことをかけらも知らない派遣が一人やって来た。
 かくして社員が一人減り、派遣が一人増えた。

 空はすっかり秋らしくなった。昼は屋上で、一人でパンを食べた。ここから、エイと飛び降りたら死ねるのだ。入ってくる電車にエイと飛び込んでも死ねる。死ぬ場所はいたる所にあるのだ。私は時々落ちる夢を見る。落ちる危険のある場所にいる。不安定な場所にいる。落ちたら大変だと思っている。結果、きまって落ちる。落ちていく。その時目を覚ます。夢でよかったと思う。だけど、落ちる私はとても気持ちがよい。すーっと何もかもがなくなる。私が存在しているために私と一緒に存在していたものがみんななくなる。会社も通勤電車も、アパートも、奈良の家も、奈良の家で飼っている猫のミミも。みんななくなる。
 また、Kさんのことを思い出した。出来事ではない。彼がいた空間というか、彼が占めていた場所というか。それはパソコンであったり、甲子園の一塁側であったり、休憩室であったり、椅子であったり、芦屋川のバーベキューであったりした。どこにもKさんは永遠に失われている。モノクロのテレビを見るようだった。
「なぜあなたは死んだのですか」
 さまざまな場所にそっと問いかけてみた。楽しいことがいっぱいあるように見えても、実際は何もなかったのかも知れない。反対かも知れない。楽しいことの究極に死があったのかもしれない。秋の空をぼーと眺めながら思った。
 たくさんの憶測が飛んだが、苦悩を自殺の原因とするものが殆どだった。「うつ病」という憶測もあった。変人。「変わっていたからなあ」。自殺幇助の男を糾弾する同僚もいた。Kさんはふらふらとついて行ったのだ。あれは殺人だ。どれもがもっともらしいが、やはり推測にすぎないと思う。
 社員の精神衛生についての通達も回ってきた。「悩み相談室」が出来るらしい。専門のカウンセラーが一人常駐するという。そこでの秘密は守られる。



「Kさんに借りていたCDがあるのです」
 昼休みに用意しておいた嘘をS主任に言った。S主任は意味が分からないというような顔をした。この人は本当にタレントのそのまんま東によく似ている。そのまんまだ。クスリと笑った。
「何がおかしいねん」
「いいや、べつに」
 手を顔の前で振った。
「CDを妹さんに返そうと思うので」
「ああ、そういうこと。ちょっと待ってね。あった、あった。これが妹さんの名刺」
「コピーしてもええですか」
「個人情報に気いつけてな」
 気の小さい主任はつけ加えた。

 妹の名前は「久実(くみ)」。会社は梅田にあった。四時に早引きをした。時給だから遠慮しない。地下鉄で梅田に出かけた。この時間なら座れた。時差出勤、そんな言葉もあった。群れて通勤することもないのに。
 会社は直ぐに分かった。でかいビルだ。何をしている会社だろう。アポなしで入った。
「Kさんに面会したいのですが。S社の」
「庶務のKでございますね。S社の方」
 さすが世界のS社。名前も言わないのに取り次いでくれた。単なるアホな受付かも知れない。化粧の濃い女だ。つけまつげがめっちゃ長い。目を閉じるごとにパタパタと音をたてそうだ。まつげが電話をかける。
「直ぐに降りてくるとのことでございます。あちらでお待ち下さい」
 長椅子を手で示した。拍子抜けするほど簡単だった。十分ほど待つと声をかけられた。彼女は私服に着替えていた。
「お待たせしました」
 颯爽としている。ピンクのスーツもよく似合っていた。化粧気は殆どない。素敵だと思った。
「外に出ましょう。ちょっと飲みたいなあ」
 何年来の友達のように彼女は言った。並ぶと私より少し背が高かった。スタイルがとても良い。
 二人は黙って歩いた。
「私の行きつけのところでいいですか?」
「ええ」
 私は頷いた。

 梅田のショットバーに入った。
 店内に静かなジャズが流れていた。扉を開くと、三階まで吹抜けとなった開放的な空間が現れた。
「簡単な食事も出来るのよ」
 席に着くと、彼女が言った。
「パスタが美味しいの。村瀬玲さん」
「どうして私の名前を知っているの」
「直感。それとS社の方って聞いて、兄が消さなかったメールの人だと思った。それ以外考えられなかった。あなたのメール以外を消した後も、メールや電話が入ったけれど、お兄ちゃんには何にも出来なかった。死んでいたんだもん」
 ボーイが注文を取りに来た。メニューを私に渡そうとする彼女に言った。
「お任せするわ」
「それじゃカニのパスタ。カニは大丈夫?」
「大丈夫というより好物」
「お酒も大丈夫というより好物?」
「そのとおり」
 顔を合わせて笑った。一番安いシングルモルトウイスキーを選んだ、それでも七百円。昼食二日分。彼女も同じのと言った。
「ストレートで」
「かしこまりました」
 ボーイは慇懃な礼をした。私は少し疲れる場所だと思った。
「お仕事は忙しそうですね」
 久実は言った。
「適当にやってます。派遣だから、いつでも辞められる。すると私と同じのが送られてくる」
「そうね。私も派遣よ。いいかしら」
 私が頷くと、彼女は煙草に火をつけた。
「母は会社に迷惑をかけたのじゃないかと心配しています。私は聞かなくても分かりますが」
「それは大丈夫です。仕事は確かで、ミスがなかった。信頼されてました」
「ありがとう。母に伝えます。社員の代わりもいますよね」
「誰にでも代わりはあります。でも自分にかわりはありません」
「そうね」
 彼女は言った。
「Kさんはみんなに好かれていたから、悪く言う人はいません」
 私の言葉に彼女は無反応だった。そんなことは分かっていますという風に。ウイスキーが運ばれてきた。氷を入れて溶けるのを待った。氷の山が崩れる。軽くグラスを振るとカラン、カランと気持ちの良い音を立てた。ここは別世界だと思った。
「私と兄が兄妹だと言ったら、みんなびっくりする。でもこのあたり似てるんですよ」
 髪の毛を掻き上げて額を出した。
「ね、ね」
 私は笑いながら、ウィスキーを飲んだ。普段シングルモルトなんて飲めない。だから、出来るだけゆっくり飲んだ。
「父の仕事関係で、随分いろんなところで住んだ。北海道から、沖縄まで。兄は随分いじめられたわ。あんな感じだから、いじめやすいのね。特に中学はひどかった」
 私は子供の頃のKさんを想像する。
「母も知らない土地で淋しかったんだと思う。その頃母はブランドに凝っていた。子供達はつぎはぎの服を着ていてもね」
 久実は私より速いピッチで飲んだ。飲み干すと、タイミング良くボーイが現れる。
「同じの」
「かしこまりました」
「あなたちっとも酔わないね」
「酔ったことがない」
「お酒がかわいそう」
 ちょっと首をかしげた。もてるだろうなあ、いや、案外もてないかも知れない。男にとって少し怖いと、思う。
「父はひどいことを言ってた。二人の顔が入れ替わっていたら大変だったなんて。兄は、そうや、そら大変やって。アホや。私の顔を心配してやんの」
 少しろれつが回らない。それがとても可愛い。彼女はグラスを回した。ウイスキーの琥珀色がグラスに美しく流れた。
「私と兄はいつも一緒だった。遊ぶのも喧嘩するのもいつも兄とだった。短期間しかいない土地では友達はできなかった。「新しいお友達です」と、担任の先生に紹介されて、転校するときは、空席が一つ増えるだけだった。きっと私がいなくなったのを誰も気づかなかったと思う。兄は私がいじめられた時、本当に怒った。あんなに怒った兄を見たのはそれが最初で最後だった。私は兄を嫌だと思ったことが一回もない。本当よ。大阪に来てから一度も会わなかったけれど、いつも私の中にいた」
 久実は窓の外に目をやった。夜景の中に彼女の横顔が浮かんでいた。
「兄が死んだ時、私の体の半分がなくなったような気がした」
 彼女が、小さく言った。
「私はお兄ちゃんのことなら何でも知っている。一人でしていたのも知っている。ぶっというんこをして流し忘れたのも知っている」
 窓の中の自分に語りかけるように言った。そして、笑った。とてもチャーミングな、しかし、今まで出会ったことのない淋しい笑みだった。
「私は時々私って何(なん)だろうと考えることがあるの。村瀬さんはない? 私が生きているのはとても不思議。私はアメーバーみたい」
 少し考えて、「あるよ」と小さくこたえた。屋上で考えていた。私って何(なん)だろう。ほかのところでも考えたことがある。それは私を不安にさせた。他人のことのようにわかっているようでわからない説明できないものを含んでいる。私が生きているということはとても不思議なことなんだ。アメーバーみたいに。ただ日常の雑事にまぎれると跡形もなく消えてしまう。久実の唐突な言葉はしっかりと私に届いた。
 
 ピアノの演奏が始まった。小さな音を紡ぎ出し、少しずつ、少しずつ大きくなった。軽やかなメロディーになり、音は高く、早くなった。ピアノ演奏を見ていた視線を戻すと、久実は眠っていた。あどけない顔が悲しい旅のささやかな休息のようだった。私はボーイに視線で合図をした。

「ごちそうさま。でも、もう会わないね私たち」
 彼女が言った。私は頷いた。
「ありがとう」
 私は言った。
「ありがとう。さようなら」
 久実は足もとをふらつかせながら、後ろ向きに大きく手を振りネオンの中に消えていった。
To be continued