創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

お伽草紙・太宰治 3

2014-06-27 16:28:42 | 読書
最後は舌切雀です。
思い切りコピペします。

舌切雀
「さて、この舌切雀の主人公は、日本一どころか、逆に、日本で一ばん駄目な男と言つてよいかも知れぬ。だいいち、からだが弱い。からだの弱い男といふものは、足の悪い馬よりも、もつと世間的の価値が低いやうである。いつも力無い咳をして、さうして顔色も悪く、朝起きて部屋の障子にはたきを掛け、箒で塵を掃き出すと、もう、ぐつたりして、あとは、一日一ぱい机の傍で寝たり起きたり何やら蠢動して、夕食をすますと、すぐ自分でさつさと蒲団を引いて寝てしまふ。この男は、既に十数年来こんな情無い生活を続けてゐる。未だ四十歳にもならぬのだが、しかし、よほど前から自分の事を翁と署名し、また自分の家の者にも「お爺さん」と呼べと命令してゐる。まあ、世捨人とでも言ふべきものであらうか。しかし、世捨人だつて、お金が少しでもあるから、世を捨てられるので、一文無しのその日暮しだつたら、世を捨てようと思つたつて、世の中のはうから追ひかけて来て、とても捨て切れるものでない。この「お爺さん」も、いまはこんなささやかな草の庵を結んでゐるが、もとをただせば大金持の三男坊で、父母の期待にそむいて、これといふ職業も持たず、ぼんやり晴耕雨読などといふ生活をしてゐるうちに病気になつたりして、このごろは、父母をはじめ親戚一同も、これを病弱の馬鹿の困り者と称してあきらめ、月々の暮しに困らぬ小額の金を仕送りしてゐるといふやうな状態なのである。さればこそ、こんな世捨人みたいな生活も可能なのである。いかに、草の庵とはいへ、まあ、結構な身分と申さざるを得ないであらう。さうして、そんな結構な身分の者に限つて、あまりひとの役に立たぬものである。からだが弱いのは事実のやうであるが、しかし、寝てゐるほどの病人では無いのだから、何か一つくらゐ積極的仕事の出来ぬわけはない筈である。けれども、のお爺さんは何もしない。本だけは、ずいぶんたくさん読んでゐるやうだが、読み次第わすれて行くのか、自分の読んだ事を人に語つて知らせるといふわけでもない。ただ、ぼんやりしてゐる。これだけでも、既に世間的価値がゼロに近いのに、さらにこのお爺さんには子供が無い。結婚してもう十年以上にもなるのだが、未だ世継が無いのである。これでもう完全に彼は、世間人としての義務を何一つ果してゐない、といふ事になる。こんな張合の無い亭主に、よくもまあ十何年も連添うて来た細君といふのは、どんな女か、多少の興をそそられる。しかし、その草庵の垣根越しに、そつと覗いてみた者は、なあんだ、とがつかりさせられる。実に何とも、つまらない女だ。色がまつくろで、眼はぎよろりとして、手は皺だらけで大きく、その手をだらりと前にさげて少し腰をかがめていそがしげに庭を歩いてゐるさまを見ると、「お爺さん」よりも年上ではないかと思はれるくらゐである。しかし、今年三十三の厄年だといふ。このひとは、もと「お爺さん」の生家に召使はれてゐたのであるが、病弱のお爺さんの世話を受持たされて、いつしかその生涯を受持つやうになつてしまつたのである。無学である。」

これは作者自身では? この自虐が太宰文学の特質です。だが、その裏には虚栄やプライドを忍ばせています。それが太宰文学の切ないアイロニーだと思います。

お伽草紙・太宰治 2

2014-06-27 16:26:37 | 読書
瘤取り
この話では息子が面白い。
また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飮まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ默々と野良仕事、近所近邊の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず髯を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ……。

浦島さん
乙姫さんが面白い。
客を迎へて客を忘れる。こんなおもてなしは確かに気楽だが。生活の苦労もない。でも、やがて飽きる。だから彼は帰ったのだ。

カチカチ山
兎を處女に例えて、「處女の怒りは辛辣である。殊にも醜惡な魯鈍なものに對しては容赦が無い。」と書く。確かに、狸はなぶり殺しにあうのである。それも思い切り言葉でもいたぶって。
そして、曰く「女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。」

桃太郎
桃太郎は以下の理由で書かれていない。
「桃太郎の物語一つだけは、このままの單純な形で殘して置きたい。これは、もう物語ではない。」

お伽草紙・太宰治 1

2014-06-27 16:24:01 | 読書
太宰治に「お伽草紙」という小説があるのは知っていましたが、読んだのは初めてです。
感想は「プロの小説家」だと言うことですね。とてもアマチュアの小説家(と言っていいのかどうかも? ですが)の私には敵いません。
よく知られたおとぎ話からこれだけのお話を紡ぎ出す才能には脱帽です。
五歳の女の子(娘なんでしょうがこんな言い方をしています)に話して聞かせる形を取っています。それがなんと防空壕の中とは。壕を出たがる子供をなだめるためにお伽噺を聞かせるのです。

「熊の結婚」そして「女のいない男たち」・文学界6月号 2

2014-06-17 17:20:35 | 読書
2・そして「女のいない男たち」
「女のいない男たち」・村上春樹著
四人の評論家が『女のいない男たち』を読むという論評を書いています。男性三人と女性一人です。この性差はとても重要です。性交についての感覚が男女で全く違うからです。男はある種の孤独を感じる。女はそれからとても遠い。多分。
性交によって「生」が誕生する。同時に「死」も生じるのです。性交がなければ私たちはここにいない。
清水良典氏は
「セックスとは愛の結実の行為であるばかりではなく、魂の地下の蓋を開けてしまうような、人間存在を脅かす底なしの力を秘めた領域なのである」と書いています。
斎藤環氏は端的に「性愛の不条理」と書いています。
都甲幸治氏は「妻の裏切り」と具体化しています。
岩宮恵子さんは「十四歳という人生の独立器官」のサブタイトルで分析しています。「女の性」から小説にアプローチしています。三人の男性と全く違います。女性には宿命として分からない世界なのです。それが「女はそれからとても遠い」と書いた所以です。しかし、女性にも反転した性として重要なテーマになり得るのだと思います。
男にとっても女にとっても、「女のいない男たち」は「男」としての人。「女」としての人を考えさせてくれます。そして、小説としてとても面白いですね。一読を。


「熊の結婚」そして「女のいない男たち」・文学界6月号

2014-06-15 15:29:09 | 読書
1・「熊の結婚」・諸隈元著
妻と図書館に行った。妻が本を探している間、借りる予定のない僕はガラス張りの中庭を臨む椅子に腰かけて、しばらく本を読む。梅雨の中庭はしっとりしている。緑が美しい。
ここ2回、「熊の結婚」・文学界六月号を少しずつ読んでいた。新人賞受賞作である。どんな小説が選ばれたのだろうという興味もあったが、熱心に読んでいたわけではなかった。暇つぶしだった。
その日、雑誌の棚を見ていて、「熊の結婚」をふと思い出した。雑誌を持って椅子に戻った。
「どこまで読んだっけ」。探している内に妻がやって来た。借りようかやめようか迷った。とにかく借りようと決心したのは、「村上春樹が描く男と女」という特集が目に入ったからだ。短編集「女のいない男たち」の事だろう。
「熊の結婚」は読むのが辛かった。単語みたいなセンテンスが続く。プチプチと切れる。多分シナリオにしてみたら、脈絡のない科白が並ぶだろう。
この小説はどこに行き着くのだろうという興味だけで読んでいった。男の作者か……。これも意外だった。100枚の小説って、結構長いんだなあ。新人賞がなぜこの小説なんだろう。選評を読みたかった。いつの間にか僕もプチプチと考える。
最後の一文で納得した。この小説も「女のいない男たち」である。男と女の性。端的に言えば「性交」について書かれた小説である。
主人公の夫婦に性交はない。抱擁もない。自慰をする夫を眺める妻。妻は精子が欲しいと言った。夫は自慰をして精液を「はい」と渡す。
男にとって女性は不可解であると単純な論理を書いているのではない。男にとっての女性の不在である。性交によりそれはより深まるのである。「熊の結婚」は男によって書かれた必然性を持っている。
このテーマは「女のいない男たち」・村上春樹著によって文学に昇華される。身体を貫くような男の孤独として。
次は特集ー村上春樹が描く男と女」について書こうと思う。



東京自叙伝・奥泉光著 2

2014-06-08 14:04:09 | 読書
今でも、自分は江戸時代にもいたかもしれないと思うことがあります。多分、貧乏な小作人だったとも。
大名や殿様ではないその他大勢ですね。自分は名もなき歴史の群衆の中の一人。
だが、歴史を作るのはその群衆ではないかとも思うのです。
鼠は群れの中の個という意識が希薄であり、ミミズにいたっては、群れと個のさかいもない。小説ではそんな風に書かれています。
鼠のイメージは繰り返されます。でも可。
主人公は輪廻転生するのではなく、同じ時に存在することもあります。鼠の群れであることもある。
そんなやり方で時代を渡って行きます。
確かに私もバルブの真ん中にいたことがあります。
只、バルブを動かす側でも翻弄される側でもなかった。だが、間違いなく歴史を作っていた。
それが先述した「その他大勢」や「群衆の中の一人」という意味です。
小説の主人公はそんな群衆のシンボリックな人々である。
主人公達には奇妙な共通点があります。感情が希薄なのです。(確かに歴史には感情がない)。
主人公は愛することも、恋することもない。只ひたすら時代と寝ている。そんな感じです。
そのような主人公を設定することにより、時代が俯瞰的に見えてきます。
狂信的に日の丸を振る人がある意味で先の戦争を起こした。無数の人が踊ったからバブルは来た。鼠の群れが去ったらバブルも去った。
私たちは自分が「その他大勢」や「群衆の中の一人」と言う認識を持つことにより、歴史の中の「今」が見えてくる。
この小説を読んでそんなことを感じました。
随分長い間、踊ってきたなあ。
まあ、死ぬまで踊りつつづけるでしょうけれど……。STAP細胞、2020年東京オリンピック、エクセトラ。

東京自叙伝・奥泉光著 1

2014-06-08 14:00:54 | 読書
奥泉光は発刊されたら、必ず読む数少ない作家の一人です。
昔は安部公房を初め新作待ちの作家が沢山いました。今は、村上春樹ぐらいですね。
村上春樹は多分買うけど奥泉光は図書館で借ります。なければリクエストすると、他の図書館から回してくれたり、購入してくれることもあります。
さて、「東京自叙伝」ですが、結構面白かった。この小説は東京という土地の歴史を俯瞰的に眺めた小説です。
「地霊」なんて自分の小説を思い出します。
この小説を解説するのはとても難しい。
朝日新聞の文芸時評で片山杜秀さんが取り上げているが、さっぱり分からない。
他の書評もネットで調べたが、何のことか分からない。
作者の自作解説も読んだがこれもようわからん。お手上げです。
結局、読者が考えるしか仕方のない小説と思います。
以下は読者としての私の感想です。