創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

新編日本幻想文学集成 1 図書刊行会 日影丈吉「万華鏡」

2016-08-31 14:32:12 | 読書
告白。
知り合いから万華鏡をプレゼントされたことがある。
時々覗いて楽しんでいた。
しかし、その人が亡くなり、あまり覗くこともなくなった。
そして、捨てた。捨てた! 
捨てた万華鏡は二度と覗くことが出来ない。
死ぬほどこがれたとしてもあの万華鏡の世界は戻らない。
なんて馬鹿なことをしたのだろう。
仕方がない。日影丈吉さんの「万華鏡」を覗こう。
この項 終わり。

新編日本幻想文学集成 1 図書刊行会 中井英夫「牧神とニンフ」

2016-08-31 14:10:36 | 読書
倉橋由美子さんの「子宮」というより「貝の中」からぽんと出ると、中井英夫氏の「薔薇の世界」が待っていた。
「牧神の春」が心地よい。
牧神って何だったけ。
「ギリシア神話中の、山野および牧羊をつかさどる半人半獣の神。ローマ神話ではファウヌスに当たる。牧羊神→日本国語大辞典」。
次にニンフ? 「ギリシア神話に登場する、山・川・樹木・花・洞穴などの精。若く美しい女の姿で現われ、歌と踊りを好み、予言力をもつといわれる。→日本国語大辞典」。
T**自然動物園には、新しく牧神とニンフの放し飼いになっている場所があることはあるのだが……。
To be continued  日影丈吉「万華鏡」

新編日本幻想文学集成 1 図書刊行会 倉橋由美子「子宮で語る」

2016-08-30 14:02:54 | 読書
名前は知っているが、倉橋由美子さんの作品を読むのは初めてである。
「こういうストーリーをよく思いつくなあ」と感心した。さすが作家だ。僕のような凡人にはとても無理だ。
つけ加えるなら、「僕のような男性には」となるだろう。男は女性を理解出来ない。
作品は作者の子宮と繋がっているように思う。
どの作品も面白かったが、特に「宇宙人」。主人公の姉のLが魅力的だ。
両性具有の宇宙人を挟んでの姉弟の交合はぶっ飛んでいる。
小説だから描けた世界だろう。
あなたはどんな光景を見るだろう。
男性の解説を読みたかったが、残念ながら、解説者は女性だった。
To be continued  中井英夫「牧神とニンフ」

新編日本幻想文学集成 1 図書刊行会  安部公房「実在と虚構の間」

2016-08-29 16:11:05 | 読書
久しぶりに安倍公房を読む。30年ぐらい前は、はまっていた。文庫本で全部揃えたが今はない。狭い本棚の奥にしまわれ、やがて捨てた。
読み始めて驚いたのだが、実に読みやすい。こんなに読みやすい文章だったのか。
安倍公房はテレビのインタビューで、
「小説というのは、それ以前の、意味にまだ到達しないある実態を提供する。そこで読者はそれを体験するというもんじゃないかと思う」と語っている。
彼の提供する世界に理屈をこねても無駄だ。
小説の世界をただ歩くのがいい。
デンドロカカリヤは植物への変身譚。横道に逸れるが、「植物は偉い」とラジオ放送で聴いた。植物は動物のように動く必要がない。
「京都弁の先生」甲南大学 教授・田中 修さんです。 13回のラジオ講座は楽しく面白かった。植物への変身は進化かも知れない。
「詩人の生涯」はとても懐かしい気がした。39才の老婆が踏み続ける糸車は実在と虚構の間を行き来する。ユーキッタン、ユーキッタンと。
「家」。先祖が家に住んでいる話。私事だが、去年から95才の義母と同居している。この話を読んだ時、何故か真っ先に、義母の姿が頭に浮かんだ。健在なのにね。
突然現実が捩れる。社会が捩れる「チチンデラ ヤパナ」。自分の生活の場所の一角が消失する「カーブの向こう」。意味不明の言葉に小説の世界が立ち上がる。「鉛の卵」。「ユープケッチャ」。
中間言語「クレオールの魂」。引き継がれない言葉に哀愁が漂う。
To be continued  倉橋由美子「子宮で語る」

新編日本幻想文学集成 1 図書刊行会 

2016-08-28 10:19:07 | 読書
1 リクエスト
安倍公房、倉橋由美子、中井英夫、日影丈吉の四人の幻想文学のアンソロジーで、編者はそれぞれの作家で異なる。
750頁余に細かい文字がぎっしり詰まった豪華本を手に取った瞬間、これは読破できないなあ、図書館に悪いことをしたという思いが最初によぎった。
というのは、我が町の図書館には、図書館にない本でも、リクエストすると、他の図書館から回してくれるシステムがある。
時には、新規購入してもらえる場合もある。
年金生活者には5千円は痛いので、時間はかかるがこのシステムを利用させてもらった。
待つこと一月余。受け取った本は新規購入本だった。
私は最初の危惧も忘れてどっぷりと四人の作家の世界にはまり込むことになる。
To be continued 「安部公房 実在と虚構の間」  

いとこ会

2016-08-12 14:59:32 | エッセイ
もう六十年近く前になる。「いとこ会」という集まりがあった。母方のいとこの会である。
母方の姉妹の三人が奈良県の栗野という田舎から京都に出てきたのは、長女が京都のK商店に嫁いだ縁だった。
昔の結婚の縁というのは面白い。
K商店はかなり大きな玩具問屋で、番頭、丁稚も沢山雇っていた。商売も手広く、日本各地に商品を流通させていた。それを頼って三人の妹は田舎から出て来たのである。
洋裁などの習いものもさせてもらっていたらしい。当然女中の仕事や子守なども彼女らの仕事だった。
実家は口減らしになるし、店は女手が増える。持ちつ持たれつである。
やがて、次女と三女は店の番頭と結婚する。次女と結婚した番頭(一番頭がよかった)は京都で、三女と結婚した番頭(一番働き者だった)は、大阪で独立する。
私の両親である。五女もK商店の紹介で結婚する。
何しろこの頃の子供の数は多かった。母の兄弟姉妹は何人いたのだろう。指を折っても途中で怪しくなる。
一年に一回ぐらい、四人の姉妹は京都の長女の家や次女の家に集まった。母親に連れられて子供らも集まった。大阪からが一番遠い。私は何時も気が進まなかった。話すのが苦手な気の小さい子供だった。
集まると母親たちは喋るのに夢中だった。年の離れた二人の兄は、いつの間にか年齢の近い従兄たちと消えていた。
私は何時も取り残された。取り残された私を一つ年下のさっちゃんが、
「二階で遊ぼ」
と誘った。
二階に上がると悦ちゃんがいた。
悦ちゃんは五女の叔母の一人っ子で私と同い年だった。
今まで見たどの子よりも可愛らしかった。私の初恋かも知れない。
悦ちゃんがさっちゃんの耳元で何か囁いた。
言葉は聞こえないが、二人は顔を見合わせて笑った。
そして、二人は私の方を見て、「遊ぼ」と笑顔で言った。
三人でじゃんけんをした。私だけが、「いんじゃん、ほい」と言ってまた笑われた。
楽しいような、照れくさいような時間が流れた。
そんなことで、いとこばかりが集まる「いとこ会」が出来た。
年長の従兄がリーダーになりキャンプに行ったこともある。
成人になると、保津川下り→湯豆腐というコースもあった。誰かの結婚が決まると集まることになった。
その頃悦ちゃんがいたのか記憶は定かでない。
一番若いいとこが結婚すると、「いとこ会」を開く機会が遠のいた。当然結婚はぽつぽつとあったわけだが。
後年、悦ちゃんとよく会ったのは、親戚の葬式だった。
年相応に太って、昔の面影はなかったが、笑顔は昔のままだった。
先日、「悦ちゃんが危篤だ」という電話が兄から入った。
悦ちゃんにまた葬式で会った。本人の葬式であることが悲しかった。
早々に離婚をして、女手一つで二人の子供を育てた。JRAに就職して生活も安定しているとも聞いていた。
葬式から今日まで、悦ちゃんのことを思わない日はない。何故だろうと自分でも不思議に思うくらいだ。
遠く離れていても大切な人はいる。
悦ちゃんはどんな人生を送ったのだろう。風の便り以外、私は殆ど彼女のことを知らない。
「いとこ会」がなかったら、顔も知らなかっただろう。
最後の別れで兄妹は泣きじゃくっていた。家族の涙の数ほど幸せな日々があった。そう思う。