私は昨日、『最後の20枚ほどは要らないと思う』と言った。
その考えは、今も変わらないけど、作者の一番言いたかったのが『最後の20枚』かもしれないと思うようになった。
とにかく素晴らしい小説だった。
みみずくは黄昏に飛びたった。
その考えは、今も変わらないけど、作者の一番言いたかったのが『最後の20枚』かもしれないと思うようになった。
とにかく素晴らしい小説だった。
みみずくは黄昏に飛びたった。
前編後編合わせて1000枚の小説を一週間程で読了した。
これだけ長い小説を読んだのは久しぶりである。
「読み耽る」という言葉通りだった。
次々と読ませるのは、小説の力だと思う。
大阪弁も楽しい。
リズミカルである。
ただ、最後の20枚ほどは要らないと思う。
観覧車のシーンで終わり、後は読者に委ねた方がと思う……。
『この道』古井由吉著と『夏物語』川上未映子著、良い小説を読んでいる。
これだけ長い小説を読んだのは久しぶりである。
「読み耽る」という言葉通りだった。
次々と読ませるのは、小説の力だと思う。
大阪弁も楽しい。
リズミカルである。
ただ、最後の20枚ほどは要らないと思う。
観覧車のシーンで終わり、後は読者に委ねた方がと思う……。
『この道』古井由吉著と『夏物語』川上未映子著、良い小説を読んでいる。
今日の一句
春深し5Gをゴージーと言ふ
ガラケーで通話相手は妻のみ。
5Gは遠い未来の事のような感じです。
4Kはよんけー。フォーケイとは言わない。
何故でしょうね。
3Dは さんディー、スリーディーの両方。
よう分からん。
略号には()で説明をつけて下さい。
すぐ忘れるけれど。
私は数字は日本語で読みます。
自分で統一することにしました。
春深し5Gをゴージーと言ふ
ガラケーで通話相手は妻のみ。
5Gは遠い未来の事のような感じです。
4Kはよんけー。フォーケイとは言わない。
何故でしょうね。
3Dは さんディー、スリーディーの両方。
よう分からん。
略号には()で説明をつけて下さい。
すぐ忘れるけれど。
私は数字は日本語で読みます。
自分で統一することにしました。
今日の一句
眼鏡紐つけてうろうろ春深し
取りあえず眼鏡紐と呼んでおこう。
妻が、しょっちゅう眼鏡を探している私を見かねて買ってきてくれた。
それを首からぶら下げて、家の中をうろうろしている。
確かに眼鏡を探すことはなくなった。
ただ、首輪をつけた犬のような気にもなる。
眼鏡紐をしないでいたのは、現役の時全く反りの合わなかった上司が眼鏡紐をしていたからである。
もう13年も経てばそれも「もう、いいか」と思う。
多分死ぬまで会うこともないだろうから。
でも、ちょっと会ってみたい気もする。
眼鏡紐をつけて。
眼鏡紐つけてうろうろ春深し
取りあえず眼鏡紐と呼んでおこう。
妻が、しょっちゅう眼鏡を探している私を見かねて買ってきてくれた。
それを首からぶら下げて、家の中をうろうろしている。
確かに眼鏡を探すことはなくなった。
ただ、首輪をつけた犬のような気にもなる。
眼鏡紐をしないでいたのは、現役の時全く反りの合わなかった上司が眼鏡紐をしていたからである。
もう13年も経てばそれも「もう、いいか」と思う。
多分死ぬまで会うこともないだろうから。
でも、ちょっと会ってみたい気もする。
眼鏡紐をつけて。
批評に芭蕉の俳句からとあった。
芭蕉の最晩年の句に
『この道やゆく人なしに秋の暮れ』がある。
『この道』を『俳諧の道』とするのが一般的のようである。
しかし、個人の『人の道』、『人生』と取ることも出来る。
生まれ、生きて、死ぬ。
非常に難しい。
あらすじなど語りようがない。
最初の『たなごころ』を三度読んでみた。
~三度読んで分かるかなあ~
『あの石を、とうとう拾ってこなかったな、と病人は悔やむように言った。』
から始まる。
『(病人の)掌はふっくりと、豊かな肉づきだった』
『たなごころ』のテーマが現れる。
『人は生まれてくる時には手を握りしめ、死ぬ時にはやがてひらきはなしにすると言われる』
性空上人の話に流れる。
難産に苦しむ母親が流産を願って毒を服したところ、上人は生まれる時に針を左手に握りしめていた。
上人は、その針を末期についでのように、人(源信)に呉れてやった。
この想念(心に浮かぶ思い)は「生」にも「死」にも執着しない性空上人の「無垢」を描いているのだろうか?
次に45年程前の老大家の弔辞の言葉に想念は飛ぶ
孔子の「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と老大家は切り出した。
『生と死』の想念に続く。
『死を思うと言うけれど、それは末期のことであり、生の内である』
『わたしは生きていると言うのも、わたしは死んでいると言うのに近づいて、だいぶあやしくなる。』
『記憶』についても語られる。
『人の記憶ははかない、徒労のようなものになる』
次の赤子の観察は、私の孫の記憶に繋がり、確かにそうだと膝を打つ。
『母胎の内からすっかり解放されたとに安息しているように見える』
そう言う見方もあるのかとはっとする。
春を待つ心→吉野→故地(ゆかりの地)へと想念は続き、最後に墓参りした過去に飛ぶ。
そこに石とたなごころが出てくる。
輪を閉じるように、「たなごころ」という一章は終わる。
私の一日も想念(妄想)の連続である。
愚にもつかないことを考えて、一日が終わる。
仕事のない老人になったのだとつくづく思う。
すぐに草臥れる。
また、なんでこんなつまらないことを覚えているのだろうと訝しがる。
しかし、それは何かのキーになっているのではないかと思う。
覚えているのは、それだけの理由があるのだろうか。
ただ、それを忘れてしまっただけなのだろうか。
そこには自分にとって重要なことが隠れているのだろうか。
もう一つ。何故今思い出すのだ。
それは今の自分にとって重要なことが隠れているのかもしれない。
単なる老人の妄念であるかもしれない。
「老いと死」は避けられない道である。
古井さんは、私より9歳年上だから、80歳を越えておられる。
この年代の方と、戦後生まれとの違いは、当たり前だが、戦争体験の有無である。
本作でも、「戦争体験」が色濃く語られている。
「死」がほん身の周りにある時代だった。
今は、戦争も餓えもない。平和な日本である。
でも戦中と戦後は、ほん数年の違いである。
ただ私には戦争はリアルではない。
東日本大震災はテレビの中の世界だった。
不謹慎だがそれと同じだと思う。
個人の「老いと死」は避けられない。
人間は一人で生きて一人で死んでいく。
老いも死もひたひたと忍び寄ってくる。
大富豪も貧乏人も、有名人も無名の人も
ある意味平等なのである。
『この道』とは個人の人生だと思う。
誰にも代わり得ない人生だと思う。
『死』をじっくりと語り得るのは、文学だけかもしれない。
むかし、芦原温泉で聞いた、芦原音頭を思い出す。
一人「チョイトナ」生まれて、
一人で死ぬに「チョイ、チョイ」
なぜに一人じゃ暮らされぬ
ほんと暮らされぬ」
ーあわら節 斉藤桂三作詞・作曲ー
芭蕉の最晩年の句に
『この道やゆく人なしに秋の暮れ』がある。
『この道』を『俳諧の道』とするのが一般的のようである。
しかし、個人の『人の道』、『人生』と取ることも出来る。
生まれ、生きて、死ぬ。
非常に難しい。
あらすじなど語りようがない。
最初の『たなごころ』を三度読んでみた。
~三度読んで分かるかなあ~
『あの石を、とうとう拾ってこなかったな、と病人は悔やむように言った。』
から始まる。
『(病人の)掌はふっくりと、豊かな肉づきだった』
『たなごころ』のテーマが現れる。
『人は生まれてくる時には手を握りしめ、死ぬ時にはやがてひらきはなしにすると言われる』
性空上人の話に流れる。
難産に苦しむ母親が流産を願って毒を服したところ、上人は生まれる時に針を左手に握りしめていた。
上人は、その針を末期についでのように、人(源信)に呉れてやった。
この想念(心に浮かぶ思い)は「生」にも「死」にも執着しない性空上人の「無垢」を描いているのだろうか?
次に45年程前の老大家の弔辞の言葉に想念は飛ぶ
孔子の「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と老大家は切り出した。
『生と死』の想念に続く。
『死を思うと言うけれど、それは末期のことであり、生の内である』
『わたしは生きていると言うのも、わたしは死んでいると言うのに近づいて、だいぶあやしくなる。』
『記憶』についても語られる。
『人の記憶ははかない、徒労のようなものになる』
次の赤子の観察は、私の孫の記憶に繋がり、確かにそうだと膝を打つ。
『母胎の内からすっかり解放されたとに安息しているように見える』
そう言う見方もあるのかとはっとする。
春を待つ心→吉野→故地(ゆかりの地)へと想念は続き、最後に墓参りした過去に飛ぶ。
そこに石とたなごころが出てくる。
輪を閉じるように、「たなごころ」という一章は終わる。
私の一日も想念(妄想)の連続である。
愚にもつかないことを考えて、一日が終わる。
仕事のない老人になったのだとつくづく思う。
すぐに草臥れる。
また、なんでこんなつまらないことを覚えているのだろうと訝しがる。
しかし、それは何かのキーになっているのではないかと思う。
覚えているのは、それだけの理由があるのだろうか。
ただ、それを忘れてしまっただけなのだろうか。
そこには自分にとって重要なことが隠れているのだろうか。
もう一つ。何故今思い出すのだ。
それは今の自分にとって重要なことが隠れているのかもしれない。
単なる老人の妄念であるかもしれない。
「老いと死」は避けられない道である。
古井さんは、私より9歳年上だから、80歳を越えておられる。
この年代の方と、戦後生まれとの違いは、当たり前だが、戦争体験の有無である。
本作でも、「戦争体験」が色濃く語られている。
「死」がほん身の周りにある時代だった。
今は、戦争も餓えもない。平和な日本である。
でも戦中と戦後は、ほん数年の違いである。
ただ私には戦争はリアルではない。
東日本大震災はテレビの中の世界だった。
不謹慎だがそれと同じだと思う。
個人の「老いと死」は避けられない。
人間は一人で生きて一人で死んでいく。
老いも死もひたひたと忍び寄ってくる。
大富豪も貧乏人も、有名人も無名の人も
ある意味平等なのである。
『この道』とは個人の人生だと思う。
誰にも代わり得ない人生だと思う。
『死』をじっくりと語り得るのは、文学だけかもしれない。
むかし、芦原温泉で聞いた、芦原音頭を思い出す。
一人「チョイトナ」生まれて、
一人で死ぬに「チョイ、チョイ」
なぜに一人じゃ暮らされぬ
ほんと暮らされぬ」
ーあわら節 斉藤桂三作詞・作曲ー
四月に入ってから毎日のように来てくれます。
我が家の庭の訪問者です。
少しずつ大きくなっています。
鵯の子供かなあ。
驚かさないように窓硝子越しに撮りました。
春の鳥我が家の庭の訪問者
今朝はきれいに撮れました。
写真を差し替えました。
lovelyな鳥です。
窓を開けても逃げません。
自分の庭だと思っているのでしょうか?
鳥の名前をご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
我が家の庭の訪問者です。
少しずつ大きくなっています。
鵯の子供かなあ。
驚かさないように窓硝子越しに撮りました。
春の鳥我が家の庭の訪問者
今朝はきれいに撮れました。
写真を差し替えました。
lovelyな鳥です。
窓を開けても逃げません。
自分の庭だと思っているのでしょうか?
鳥の名前をご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
池の地蔵に傘をさしかけるように桜が咲きました。
昨日は満開だったのにカメラを持っていませんでした。
強風か雷で倒れた桜。
でも、春を忘れずに今年も咲きました。
昨日は満開だったのにカメラを持っていませんでした。
強風か雷で倒れた桜。
でも、春を忘れずに今年も咲きました。